本居宣長の「遺言書」
前回は国学者・平田篤胤が『霊能真柱』でどのような世界像を示したかを辿ってきた。今回は、篤胤が同書で思索したもうひとつの思想を読み解いていきたい。それは「死ぬこと」の意味である。
人は死ぬとどこへ行くのか。この古くして尽きることのない問いに、篤胤が真正面から向き合うことになった背景には、二つの出来事があった。ひとつは、篤胤が医者としてなお越えることのできなかった生と死の境界であり、もうひとつは、最愛の妻・織瀬の死である。
前回も触れたとおり、愛する者を喪うという経験の前で、既存の神も学知も彼にとって沈黙してしまうものであった。しかし篤胤は、西洋天文学という新しい知識と、本居宣長によって打ち立てられた国学の思考とを手がかりに、人間の死後をめぐる問題を解き明かそうとしたのである。
だが、その歩みを理解するためには、まず篤胤が終生師と仰いだ宣長にとって、「死」とは何であったのかを確かめておかなければならない。
寛政一二年(一八〇〇年)七月、宣長は死の一年ほど前に「遺言書」を一通書き残している[1]。この遺言書は極めて奇妙なもので、宣長の葬儀、墓地、祥月に関する極めて綿密な指示であった。例えば宣長が死んだら、一度先祖からの樹敬寺へと遺体が入っていない空の棺で葬送をして、遺体は夜中秘密裏に妙楽寺へと運び、そこの墓に埋葬するということを指示していた[2]。墓地に関しては、「七尺四方ほどとし、その中央より少し後ろへ寄せて塚を築き、その上に桜の木を植えること」を述べて、「植える桜は山桜で、なるべく花のよい木をよく吟味して植えること。もちろん、後にもし枯れるようなことがあれば、植え替えること」などを綿密に記述している[3]。
宣長は、自らの死後、門人たちがどのように弔えばいいかを非常に細かく指示していた。しかし、この異様な「遺言書」は、死後の問題を問わないはずの宣長の方法論からはあまりに異なったものであったため、門人たちからは困惑して受け止められたのである。

本居宣長の二つの顔
遺言書をすでに宣長が考えていた時期に、門下生らを伴って山室山に赴いている。彼は寛政十一年(一七九九年)の秋に、「自分の墓地を見立てたいので、近々山室の妙楽寺のあたりへ行ってみようと思う、その節は門人のうち数人と一緒に行ってもよい」というように門下生たちに伝えた。そして、門下生たちとともに自らの墓の場所を見立てにいったのである。そして次のような二首の歌を詠んだ[4]。
山むろにちとせの春の宿しめて風にしられぬ花をこそ見め
(山室山に、千年の春を宿らせて、世の風にも知られずに咲く花をきっと見よう)
今よりははかなき身とはなけかしよ千代のすみかをもとめえつれば
(これからは、もう自分をはかない身だとは嘆くこともあるまい。千年の住処をついに求め得たのだから[5])
山室山への墓所を探しに行ったうえに、「千代のすみか」などと歌を詠みはじめた宣長をみて、最も困惑したのは養子の本居大平であった。彼は『古記』に忠実であれという宣長の方法論に外れたとして、服部中庸を批判していた鈴屋門の後継者になる人物である。大平は墓所を見立てるという宣長の言葉を聞いて、「これは縁起のよい話ではないから」と思って、どうしても返答ができずしばらく沈黙してしまった。そして「生きている人間が死んだ後のことに思いを巡らせるのはさかしら事で、古意に背くのではありませんか」と宣長に答えたのである[6]。
大平の不満はもっともなものであった[7]。『古事記』に書かれていないことについて「さかしら」を加えて読み取ってはいけないと強く言っていたのは、いま死後について考えている本居宣長その人であったのだ。大平にとってみたならば、師である宣長が死後に思いをめぐらし、墓地の場所や死後の安住について熟考することなど考えられなかった。それは、宣長のいつもの教えからは著しく逸脱していたからだ。
宣長の教えとは、貴賤善悪なく人は死ぬと必ず黄泉の国に行くということであり、それ以上のことを考えるべきではないということであった。
さて、世の人は、身分の高い者も低い者も、善人も悪人も、みなことごとく、死ねば必ずあの黄泉の国へ行かないことはないのであり、まことに悲しいことである。このように言うと、いかにも浅はかで、何の道理もないことのように聞こえるかもしれない。けれども、これは神代から伝わる真の伝説であり、深い道理がそうさせているのであるから、軽々しい人間の浅い知恵でもって、あれこれと思いめぐらして論じるべきことではない
(本居宣長『玉くしげ』[8])。
宣長は「あれこれと思いめぐらして論じるべきことではない」とまで言っていた。にも関わらず、晩年の彼は、『古事記伝』の方法論を逸脱するようなところがあった中庸の『三大考』を褒め、また自らの死後について考え始めていた。一方では漢意を徹底的に排除し、物事を理論的に理解することを拒絶する宣長、もう一方は死後や世界の成り立ちを肯定的に理論化しようとする宣長がいたのである[9]。
実際のところ、この二つの宣長像は、宣長という人物において分かち難く、表裏一体となって存在していたものである。漢意を排除して、何かを理論的に構築しようということは、どんな教説にも影響されないような公平な方法論としてあるということはなかった。漢意を排除して、どんな考え方を採用するかということについては、やはり一つの理論がなければならない。宣長の分裂した二つの姿は、実は宣長の方法論における表裏一体のあり方であった。この漢意の排除と、仏教や儒教の世界観に負けない新たな世界観を構築するという一見全く逆に進んでしまう方法論を、両立させるということが宣長当人にとっての難問としてあったのである。
しかし、この二つの顔はそれぞれの後継者を生んだ。漢意を排す思想を引き継いだのは宣長の方法論に忠実だった大平であり、世界の成り立ちを理論化する方向性を引き継いだのが篤胤であったということができるだろう。この二つの宣長像の分裂こそが、「三大考」論争をうみ、また新しい「死ぬこと」の思想を生み出す原動力になったのである。
宣長晩年の分裂を篤胤は次のように説明する。宣長は人の霊魂は黄泉に行くという誤伝を長年説き続けてこられたので、それを訂正することはおできにならなかった。しかし、ここが住処であるとかねてより定めていた場所に魂は鎮まるものであることを知っておられたのである。それにもかかわらず、弟子たちをはじめとした人々は自分の大倭心が中途半端であることに気づかず、師の宣長が墓地を見定めたことを古例にないことだなどと隠れて言い合っている。師が心の底に秘められたその深い御心に思いもよらぬ人が多いのは、一体どうしたことか[10]。
このようにして、篤胤は晩年に分裂していた宣長像から、自らの新たな「死ぬこと」の思想を展開していくのである。
「黄泉国」神話
しかし、宣長は、決して矛盾したことを言っていたつもりはなかったのだろう。分裂というのはあくまで門人たちからの視点であり、宣長当人は、漢意排除と理論化という方法論の逆行するあり方を引き受けて、どのように思想を構築していくかを苦悶した結果であったと思われる。したがって、門人たちにとって宣長の分裂という形で捉えられたものを、いま、宣長のなかの一貫した思想として捉えてみようと思う。まずは、この問題を、「死んだ人が赴き、住まう国」[11]であると述べる「黄泉国」をどこに位置付けているか、というところから考え始めてみたい。
宣長にとって「黄泉国」とは、貴賤善悪問わず、死ぬと必ずいくことになる場所であった。それは、身体を亡骸として地上に置いて、「魂」だけが行くところである[12]。実際に観ることがかなわないのにも関わらず、なぜそのようなことがわかるか。それは、神代において記述があるからである。宣長の思想においては、神代の事績によってどんな物事も定まっているとされている[13]。だから、神代における黄泉国の記述を理解することで、人は死後どこに行くのかわかるというように考えているのである。したがって、「黄泉国」を理解するために、宣長にとってこの国での神代の最初の死、最初に黄泉国へ赴いた伊邪那美命の事績が、重要な手掛かりになるのである[14]。
ここからは宣長の『古事記伝』を紐解きながら、伊邪那美命の神話を簡単に説明しよう[15]。伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の神は、夫婦となって「国産み」を果たすが、「神産み」の際に火之迦具土神が誕生した。しかし、この神を産んだために伊邪那美命は御陰を炙れて病に臥せてしまった。病気によって起きる症状である吐、屎、尿がみられ[16]、伊邪那美命は火の神を産んだために亡くなってしまったのだ。
伊邪那岐命は、「愛しき我が妻よ。一人の子に替えて亡くなってしまったとは[17]」と言って、伊邪那美命の枕の方や足の方に這い臥して泣いて、亡くなった伊邪那美命を出雲国と伯耆国との境にある比婆山に葬送した。そして伊邪那岐命は、身につけていた「天之尾羽張」という名前のついた長い剣・十拳釼を抜いて御子の火之迦具土神の頸を斬ってしまった。
そうするうちに、伊邪那岐命は亡くなった妻神である伊邪那美命にもう一度会いたいと思って、「黄泉国」に追いかけて行った。そこで御殿の戸から伊邪那美命が出てきて出迎えをしたときに、伊邪那岐命は「愛しき我が妻よ。私と貴女で作った国はまだ作り終わっておりません。帰りましょう」といった。しかし伊邪那美命が答えるには、「残念なことにございます。早くいらっしゃらないので、私は黄泉国の竈で煮炊きしたものを食す黄泉戸喫をしてしまったのです。そうはいえども、愛しき我が夫よ。わざわざこのようにおいで下さったのだから、帰りたいと思うのです。まず黄泉神に相談をしてまいります。その間、私を決して視ないでください」というのである。伊邪那美命はその御殿のうちに戻っていったが、出てくるまでにあまりに長い時間が経ってしまった。伊邪那岐命はもはや待つことができなかったので、左の御髮に挿していた神聖な櫛である湯津々間櫛の左右の端の歯を一本取って、一つ、火を燭して中に入って見てみることにした。すると、蛆がうようよと湧いていて、ごろごろと凄い音を立てているではないか。伊邪那美命の全身に八雷神が出現していた。そこで伊邪那岐命が本当の姿を知って驚いて逃げ帰ろうとすると、妻の伊邪那美命は「私に辱を与えた!」と言って、形の恐ろしく醜い鬼の泉津醜女を使役して追わせたのであった。
ここから『古事記』の描写は、伊邪那美命から伊邪那岐命が逃走して、禊を行うところまで繋がっていく。これこそ、この国における「死」の起源ともいえる描写であると宣長は考えていた[18]。
御霊の二つの有り様
伊邪那美命の神避、この国における最初の死を手掛かりとして、宣長は「死」というものを考察していた。しかし、それには色々な問題がある。たとえば、神は死ぬのか。神の死は人間の死と同じなのか。神が死んでもこの世に霊力を働かせているのはなぜなのか。宣長は『問答録』において次のように答えている。
高天原におられる神々には、死ということがなく常である。これに対して、地上の国にいらっしゃる神々はみな死ぬ。また、天津神であっても、地上の国に降れば死を免れることはできない。したがって、天上と地上との違いによって、不死と死とを区別すべきである。さて、すでに死んだとはいっても、その御霊はとどまって存在しており、ときには現身をも現すことがある。この趣旨はすべて憶測によるものではなく、『古事記』や『日本書紀』に記されている実例にもとづいて言っているのである。ほんのわずかでも自分の推測を交え、理屈によって語れば、それは漢意に陥ることになる[19]。
宣長が線を引くのは、神が天にいるか、地にいるかということであった。地にいる神は、死を運命付けられている。例外なく、地上にいる神は死ななければならない。それは、人間と何も変わることはないのである。
では、なぜ神が死んでもこの世に霊力が働いているのだろうか。神の死を肯定してしまうと、死んだ神を祀っている神社などに神がいないことになってしまい神道教理としては多くの問題を生じてしまう。そこで、「すでに死んだとはいっても、その御霊はとどまって存在しており、ときには現身をも現すことがある」というように、神の死後の問題を考えているのである。
このことが意味するのは、神の御霊にも二つの種類があるということである。一つは、神が亡くなると神の身体から離れて「黄泉国」へ赴く御霊、もう一つは神が死んでもなお、地上に留まって地上世界に神徳をもたらし続ける御霊である。別のところで、宣長はこの二つの御霊について次のように語っていた。
さて、神の御霊を和御魂・荒御魂の二つに分けて言うのは、ただその働きや徳用を表す名称にすぎない。全体の御霊そのものは一つの御霊であり、必ずこの二つに分かれているほかには存在しないというわけではない。以前、ある人がこの二つの御魂のことを尋ねてきたことがあり、そのとき私は火にたとえて答えたことがある。つまり、まず一つの火があるとして、それを取り分けて蝋燭と薪に移して火をつければ、蝋燭にも薪にも火は移って燃えるが、もとの火もまた消えることなく、減ることもなく、そのまま存在しているのと同じである。全体の御霊はこのもとの火にあたり、和御魂と荒御魂とは、蝋燭や薪に移し取った火のようなものである。しかし世の人はこの意味を理解せず、全体の御霊をこの二つに分けてしまい、その一方が荒魂であるなら、もう一方は必ず和魂であると決めつけて理解しているが、それは誤りである[20]。
神の御霊には、二つの種類が存在する。一つは「全体の御霊」、そしてもう一つはそこから分かれた「和御魂・荒御魂」である。「全体の御霊」こそが神の御霊の本体であり、「和御魂・荒御魂」は世界に作用している霊力のことと考えているのである。宣長は、このことを火の例えで考えている。一つの火を蝋燭や薪につけたとしても元の火は消えることがなく、それぞれに火が移ってもそのまま燃え続けている。全体の御霊はこのもとの火にあたり、和御魂と荒御魂とは蝋燭や薪に移し取った火であるというように喩えていた。
これによって明らかになったことは、神が亡くなると神の身体から離れて「黄泉国」へ赴く御霊とは、ここでいう「全体の御霊」のことである。そして神が死んでもなお、地上に留まって地上世界に神徳をもたらし続ける御霊とは、火のように新しく燃え移る形で残された「和御魂・荒御魂」のような側面である。
それでは、神ではなく人間の場合はどうだろう。続きをみてみよう。
さてまた神に御霊があるのと同じように、普通の人であっても、それぞれに応じた霊をもっている。その霊は人が死ぬと黄泉国へ去るとはいうものの、なおこの世にもとどまり、福や禍をもたらすことがあり、その点では神と同じである。ただし、その人の身分の尊卑や、心の賢愚、力の強弱などに応じて、この世に魂が残るあり方にも差があり、はじめからまったく存在しないかのようになってしまう者もいる。また、何百年何千年を経てもはっきりと力強く存在し、まことに神のようになっている者もある[21]。
普通の人間であっても、神の場合と同様に、それぞれに応じて「霊」をもっている。人が死ぬと、そのうちの全体の霊は「黄泉国」へと去ってしまう。しかし、その働きとしての霊は、この世界に留まり霊力を及ぼし続ける。ただし、「身分の尊卑や、心の賢愚、力の強弱」などによって霊の残り方に差があるという。強ければ何百年何千年経ってもこの世に力を及ぼし続けるが、弱ければそもそも初めから霊力が働いていない状態になってしまうのである。たとえば、名前が残っていない無数の人々の霊力は地上には残っていないが、菅原道真や平将門が御霊としてこの世に霊力を及ぼしているというのである。
では、このように黄泉国へ去った魂が、なおこの世にも残るとは、どのようなあり方なのかというと、それは次のようなものである。たとえば、もとの火をほかの場所へ持って行くと、その光はしばらくの間、もとの場所にも届いて明るさを与える。しかし火が遠ざかっていくにつれて、もとの場所に届く光は次第に弱くなり、やがて消えていく。それと同じように、多くの年月が経って長い時間が過ぎると残っていた霊もやがて消えていくのである。ところが、尊い神などの場合には、たとえ黄泉の園に去っておられても、この世に残っている魂は常に衰えることなく盛んである。これは、火が大きいほど、それを他の場所へ運んだあとでも、もとの場所に届く光がなお強く変わらないのと同じである[22]。
どのような原理で、霊力が影響を及ぼし続ける現象が起こるのか。ここでもまた宣長は、火の例を使って喩えている。重要なことは、火、すなわち全体の霊が遠ざかっていくにつれて、元の場所に残っていた霊力は消えていってしまうということであろう。
宣長が墓にこだわった理由も、ようやく見えてきたのではなかろうか。霊には二つのありようがある。霊の本体こそは必ず「黄泉国」に行かなければならない。しかし、現世にその貰い火としての霊が残り、霊力として力を発揮し続ける。山室山の奥墓とは、この世に残り続ける宣長の霊の居場所としてあったのである。
宣長神学への篤胤の応答
『霊能真柱』で篤胤が展開した神学は、まさにこの宣長の神学を発展させる形で展開したものだった。しかし、篤胤は宣長が説いた霊魂が「黄泉国」に行くという考え方を明確に拒絶するところからその思索をはじめている。なぜ、死後行く場所が「黄泉国」でないのか。篤胤は次のような理由からそのことを考えていた。
篤胤は、そもそも夜見という古い言葉に「黄泉」という漢字を充てたのが、誤解が生じる原因だと述べる[23]。このことがわかったのは、篤胤の医学研究の成果も大きかった。前述の通り、篤胤は「古方派」が重要視する『傷寒雑病論』の研究に勤み、そこから人間の魂の在処を東洋医学と西洋医学の両面から解明しようとしていた。そして、「人が死ぬと、その魂も遺骸もともに黄泉国にゆく」という考え方こそ、まさにこの『傷寒雑病論』に記されていた中国医学論の一つなのである[24]。こうした漢籍の考え方が仏教の奈落説などと混ざって形成されたのが「黄泉」という考え方なのだとする。師の宣長すらもこの事情をわきまえなかったので、死後「黄泉国」に行くという考え方を信じたのだと述べる。
それならば、伊邪那美命が神避して「黄泉国」に赴いた事績をどのように考えればよいのだろうか。古典のあり方そのままに理解するならば、伊邪那美命の黄泉行きは、まさに死ぬと黄泉に行くということの何よりもの証明であったはずである。しかし、伊邪那美命は亡くなったのではないのだと篤胤は主張する。
伊邪那美命が黄泉国へ赴いたのは、火の神をお産みになったときの、たいへん痛ましいご様子を夫神の伊邪那岐命がご覧になったことを恥ずかしく思われ、それ以後は夫神にお会いになるまいと決心して、生きたままの現御身で伊邪那岐命のもとを離れて去って行かれた、ということである。御魂だけが行ったというわけではない。そうであるのに、どうしてこの出来事を、この国土に生きる人の魂がすべて黄泉に帰るという理の例であると定めることができようか[25]。
伊邪那美命は、火を産む様子を夫に見られてしまったことを恥じて黄泉国へ逃げて、生きたままの身体で行ったのであった。魂だけが黄泉国に行ったのではないというように篤胤は述べる。そもそも伊邪那岐命・伊邪那美命の霊力によってこの国が作られたのだから、この二柱のうちどちらかでも亡くなれば、この天地は一日も続くことはないのだ。
宣長が出してきていた火の喩え、すなわち神の御霊には「全体の御霊」と「和御魂・荒御魂」の二つが存在しており、もとの火と蝋燭や薪に移した火のようであるという喩えについても、篤胤は応答している。「この国土の神霊を、あちらこちらに祀って、いずれも優劣なく霊験があるということについては、よく当てはまる喩えである。けれども、黄泉の国から招き寄せて来るという例としてはあまり当たっていない」[26]。すなわち、人が亡くなったそのタイミングではその人を祀るということがなく、魂がすでに黄泉国へ行ってしまうとなったならば、その後、この世に呼び戻して祀っているような事例は説明できなくなってしまうというのである。
また、宣長の火の光がその場に残るから、魂が去った後も霊力が残るのだという説については、非説として明確に退けている[27]。そして、この火が元の魂であり、光が霊力としてこの世に力を与え続けるという宣長の喩えを転倒させる形で、篤胤は別のモデルを提示するのである。それは、第1回でも引用した光と闇のモデルである。
冥府というものは、この顕国の他にどこか別の場所にあるわけではない。まさにこの現世の内のどこにでも存在しているのである。ただし、それは幽冥であって、現世とは隔てられて見えない。だからこそ、中国の人々もそれを「幽冥」あるいは「冥府」と呼んだのである。その冥府の側からは、人間の行いがよく見えているが、現世の側からはその幽冥を見ることはできない。これをたとえるなら、灯火の入った籠を、白い紙と黒い紙で中央から仕切って一つの部屋に置いたようなものである。暗い側からは明るい側がよく見えるが、明るい側からは暗い側は見えない。それによってこの違いを理解し、また幽冥という神秘の世界の畏るべきことを悟るべきである[28]。
火が離れていってしまっては、光は残らない。しかし、この世に亡くなった神々や人々の霊力は、魂が去ったにもかかわらず依然として力を発揮し続けている。宣長の比喩における、火がなくても光があるという不合理を、篤胤は新しいモデルによって解消していった。すなわち、火は見えないだけで、そこにあるのである。
篤胤が打ち出したモデルを第1回に続いておさらいしてみよう。窓ガラスは夜になると、外からは内が見えるが、内からは外が見えない。それは、明るいところから暗いところが見えず、暗いところかた明るいところが見えるという光学の原理によるものである。夜の窓ガラスは内側が明るくて外側が暗いので、内からは外がみえないのである。
この比喩から導き出されることは、宣長において「黄泉国」にいくと考えられていた魂は、死後もこの世界にとどまり続け、この世には霊としての力を発揮し続けているのである。すなわち、この世と並行する死後の世界「幽冥界」がここに発見された。
大國主神の統治する幽冥界
現世からみえない「幽冥界」は、古典にある神代のあり方からも把握することができるという。死後世界を把握するために篤胤が取った戦略の一つに、各世界の職掌を理解することによってどこが死後世界であるかがわかるというものがあった。篤胤が発見したその「幽冥界」は、大国主神が統治する場所であったのだという。まず篤胤が描く大国主神の「国譲り」神話をみていこう[29]。
大国主神は国土を平定し、国作りを成功させた神である。大国主神が地上世界を平定して治めていたあるとき、天照大御神が次のように述べた。「地上国の豊葦原千秋長五百秋之水穂国は、わが子である正哉吾勝勝速日天忍穂耳命が治めるべき国である」。これによって、大国主神から天照大御神の子孫へと地上の統治権が譲渡される「国譲り」神話がはじまる。
なぜ唐突にこの国を、天照大御神が我が子へと統治させよと命じたかというと、伊邪那岐命からの幽契、すなわち隠れた契約があったからだと、篤胤は述べる[30]。黄泉から帰ってきた伊邪那岐命は、黄泉の穢れを落とすために禊を行った。そして、その禊のなかで誕生した天照大御神と建速須佐之男命[31]の二柱に、それぞれ高天原と青海原淖之八百重を統治するように委任した。青海原淖之八百重とは、地上全てのことである[32]。このように地上を委任されたのが建速須佐之男命であり、これが元々の地上の統治権として機能していた。
しかし建速須佐之男命は、伊邪那美命が赴いた夜見国である母国根之堅洲国に行きたいというように大泣きしてしまう。そして、その根之堅洲国に向かうまでの間、さまざまなことを行うが、重要なのは途中、天照大御神と建速須佐之男命が行った宇気比である。宇気比とは、神意を占う古代の誓約方法のことである。その宇気比によって誕生したのが、この御子・正哉吾勝勝速日天忍穂耳命であったのだ。したがって、地上の統治権をもつ建速須佐之男命の御子として、正当な統治権の継承ができるというように天照大御神は考えたのである。
しかし、地上世界を譲ってもらうということは、なかなか簡単には進まなかった。天穂日命や天稚日子などの神々を派遣してもうまくいかず、最終的に武甕槌之神らを派遣して、ようやく大國主命は国を譲ることを承諾した。篤胤に沿ってその最後の場面をみてみよう[33]。
大国主神は、国土を平定したときに用いていた蕤矛を経津主神と武甕槌之神に授けて述べるには、「私はこの矛によって、ようやく功績を立てることができた。天孫である皇美麻命がこの矛によって国を治められたなら、必ず平安あるだろう。私が治める地上世界の顕明事は皇美麻命が治めよ。私は退いて、幽冥事を治めよう」といった。そこで、荒ぶる神たちを平定することができる岐神[34]を経津主神と武甕槌之神に薦めて、「この神は、私に代わってご同行するのがよい」と言い終えて、統治を譲る証として現世を統治する霊璽である瑞之八坂瓊を自ら取って授けて、宮殿の八百丹杵築宮に長久にお隠れになった。
このようにして「国譲り」は行われた、と篤胤は考えていた。すなわち、大国主神が「顕明事」を天孫に譲り、「幽冥事」を治めるという形で「国譲り」は行われたのである。しかし、篤胤が強調する「幽冥事」とは、どういうことを指すのだろうか。
すでに天地が成立し、いわゆる造化の道が行われ、寒暖昼夜がめぐって年月が生じ、風火金水土の働きもそれぞれ備わり、人草万物が生まれ、草木も生茂り、雨が降り風が吹き、海川野山のことに至るまで、それぞれを司る神があって、この世のあらゆる神事については、司る者がいないということはほとんどなかった。そのような中で、産巣日大神が勅命によって大国主神に「治めよ」と命じられた「神事幽事」とは、いったいどのような事柄であったのだろうかと考えてみると、それは、いわゆる造化の道に関わる神事ではないのである。国津神はもちろんのこと、天津神のうち国土におられる神も、また生きている人間の、この世から去って幽世へ帰っていく魂などを、この時までなお、主宰して治める大神がまだ定められていなかった。そこで、その幽冥事の大権を握り、すべてを統治せよという勅命が下されたのであり、それは、大きな功績を成し遂げたことに対する褒賞として与えられたものであった[35]。
ここで立ち止まって考えてみる必要がある。いったい「国譲り」とは、何を譲り、何が譲られた出来事だったのか。多くは、大国主神が国を天津神の側に譲り、天孫が地上を統治することになったと語られる。しかし篤胤は、この神話の奥に、もう一つの構造が潜んでいることを強調している。
篤胤が見抜いたのは、統治が二つの領域に分割されているという事実だった。すなわち「顕明事」と「幽冥事」である。顕明事とは、目に見える地上の政治であり、この世における生の秩序のことである。この顕明事は天孫である皇美麻命に譲られた。だからこそ、地上世界を天皇が治めるという秩序は、神代以来の約束として正統化されることになる。
一方で、国を譲った大国主神は、いったい何を譲られたのか。篤胤の解釈によれば、大国主神もまた一つの統治の場所を得たのだった。大国主神が譲ったのは、あくまで顕明事、すなわち地上の政治だけであった。その背後には、もう一つの領域、「幽冥事」が残されていた。幽冥事とは、目には見えない世界、すなわち死後世界の統治である。天孫が治めるのは、生きている者たちの世界に限られている。死者の世界は、大国主神によって統治されるようになったのだ。そして、大国主神が幽冥事を司って初めて、この世に「死」が誕生した。
こうして、篤胤にとってこの国の統治権は、二重の構造をもつことになる。此岸、すなわち生きている世界の秩序は天皇に属し、彼岸、すなわち死後の領域の秩序は大国主神に属するのである。このようにして、地上的な世界と並行的に作用する彼岸的世界が発見されたのだ。天皇のものは天皇に、大国主神のものは大国主神に、という論理において、「死」は固有の論理として発見されたのである。
人は死ぬとどこへ行くのか
私たちが考えてきた人は死ぬとどこへ行くのかという問いについて、ようやくその全貌が見えてきた。篤胤によると、人は死ぬと、大国主神が統治する「幽冥界」へ行く。そして、その世界はこちらからは見えないが、あちらからは見えるという並行世界として今もあり続ける場所であった。では実際に今、亡くなった師の宣長は、どこで何をしているのだろうか。死後の宣長について次のように述べている。
師である宣長も、ふと誤って、魂の行き先は「黄泉国」であると言われたことがあった。しかし、宣長翁の御魂も「黄泉国」へ赴かれたのではなく、そのおられる場所は、この篤胤がたしかに見定めている。そこでは静かに泰然としておられ、先に亡くなった学問の兄たちを御前に侍らせ、歌を詠み文など書いたりしつつ、前に考え漏らし説き誤ったところがあれば、それを新たに考えなおされ、「何某は道を求める心が厚いから、この点は彼に取らせてやろう」など話し合っておられるのであろうことは、まるで目の前で見ているかのように、全く疑いなく確かなことである。(中略)さて、そうであるならば、師宣長の御魂が鎮まります場所はどこかというと、それは山室山である。(中略)かの山室山は、師宣長が生前から、ここぞ自分の永遠に鎮まるべき美しい山であると定めておられた場所であるのだから、そこにおられることに何の疑いがあろうか。師の御心の清らかさは、「しき嶋の大倭心を人とはゞ朝日ににほふ山さくら花」と詠まれた通りである。そのように花のような御心を持つ師であるのに、どうしてあの穢い黄泉国へ行かれることがあろうか[36]。
師の宣長は「山室山」にいる。なぜなら、宣長がこだわった美しい場所であるからだ。篤胤はここで、死後の世界を抽象的な観念として語っているのではなく、現に存在する一つの生活世界として描き出している。幽冥界とは、死者が消え去る場所ではない。むしろそこでは、学びも、議論も、歌も、なお続いている。宣長はそこで先立った門人たちとともに思索を深め、後に続く者たちの歩みを見守っているものとしてあるということができるだろう。
そしてまた、篤胤も死すべき者として、死後自らの行くべき場所を見定めている。
さてまた、かくいう篤胤が死んだ後、わが魂がどこへ行くのかということは、つとに定めてある。どこかというと、「なきがらは何処の土になったとも魂は宣長翁のもとに往こう」である。今年、先立った妻と一緒に(このように言うのを不思議に思う人もいるだろうが、妻が私の学問を助けてくれた功は多く、その苦労から病を発して亡くなったので、このように言うのである。そのことは別に詳しく記したものがある)、すぐに師宣長のもとに飛んで参り、その御前に侍って、現世にいる間は怠ってしまうだろう歌の教えを授けていただき、春には翁が植えておかれた花を共に眺めて楽しみ、夏には青山、秋には紅葉や月を見よう。冬には雪を眺めてのどやかに、いつまでも御前に侍っていよう。そして、後の世に古学を学ぶ者たちに、師宣長が恵みを与えられるならば、篤胤は末席の教え子であるから、兄弟子たちを煩わせることなく、翁の御言葉を受けて人々に申し伝えることにしよう[37]。
死後、篤胤が赴くのは、山室山にいる師の宣長のもとである。そして、亡くなってしまった最愛の妻・織瀬を伴って山室山へといくのだ。風景の中心にあるのは、いくつもの喪失である。篤胤がこの世界を構想する契機となったのは、最愛の妻の死であった。だからこそ篤胤は言う。自分が死ぬときには、その妻を伴って師宣長のもとへ行くのだ、と。
人は死ぬとどこへ行くのか。篤胤は、その問いを、学問の言葉だけでなく、ひとりの人間としての悲しみのなかで考えた。その果てに篤胤が見出したのは、死者がなお近くに生きている世界であった。そこでは、師も、門人も、そして先立った妻も、同じ風景の下にいる。「幽冥界」とは、失われた者たちと再び出会うことのできる場所だったのである。
(次回へつづく)
[1] 「遺言書」の位置付けについては、村岡典嗣『本居宣長2』平凡社、二〇〇六年、松本滋「本居宣長の遺言について」『宗教研究』日本宗教学会、一九六七年、第四一巻第二号、相良亨『本居宣長』講談社、二〇一一年などでもっぱら議論の的になってきた点である。特に松本と相良は、宣長の一貫性という観点から「遺言書」の問題を考えている。松本は一人の人間として悲しむべき死を、桜に仮託することで乗り越えたことが指摘され、相良においては「せむかたなし」という論理において諦念として死を受け止めたということが指摘されている。
[2] 町中の檀那寺と山中の奥墓という二重性については、近年、田尻祐一郎が「宣長が、世俗を驚かすことなく穏やかな日々を送りながら、心の底で求めたものは、雅びやかな美的共感に満ちた世界であり宣長にとってそれは、歌の世界、また「古言」の解明によって導かれる神代・上代の世界であった」として、「人情」重視の姿勢から人々に忘れられず歌会をする死後というものを願ったと説いている(田尻祐一郎『本居宣長』ミネルヴァ書房、二〇二四年、四〇四頁)。
[3] 「墓地七尺四方計眞ン中少シ後ロへ寄せて塚を築候而其上へ櫻の木を植可申候塚之前に石碑を建可申候塚髙サ三四尺計惣体芝を伏せ隨分堅く致し崩れ不申樣後々若崩レ候所あらは折々見廻し直し可申候植候櫻は山櫻之隨分花之宜き木を致吟味植可申候勿論後々もし枯候はゞ植替可申候」(本居宣長「遺言書」『本居宣長全集』筑摩書房、第二〇巻、一九七五年、二三一頁)。
[4] 「山室の山の上に墓ところをさだめてかねてしるしをたておくとて」とある二首。(本居宣長「鈴屋集八之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、第十五巻、一九六九年、一五一頁)。
[5] 安蘇谷正彦「国学者における「死」の問題」『國學院雑誌』國學院大学、第七一巻第八号、一九七〇年、一六―三二頁、および同「本居宣長の「死」の問題」『神道宗教』神道宗教学会、第一〇五巻、一九八一年、四三―六〇頁においてこの和歌が分析されている。まず、前者においてこれらの歌を「自分の思想と矛盾するような印象を与える如き歌」と判断し、宣長は「生への執着」からこういった歌を詠んだのであって、この歌に対する篤胤の解釈を正当なものと判じている。後者においては、そこから発展させて、死後人間は霊魂になりながらも「人間の生前のあり方いかんによって、死後の霊魂がこの世に留まることを宣長が信じていた」ことが分析される。
[6] 「去々(寛政十一未のとし)秋之頃、故翁私ヘ被レ語候ハ、愚老墓地を見立度候間、近日之内山室之妙楽寺の辺へ歩行致度候。其節ハ、外に社中之内一両輩被レ参候ハヾ、同道可レ申など物語られ候。其時、吉事ニもなき事なれバ、如何とも返答も不レ申、暫く黙して居申候。さて私申候ハ、うつそみ之世之人無き跡の事思ひ斗り申置候ハ、さかしら事にて、古意に背き可レ申哉など答へ居申候」(本居大平の手記、笹月清美『本居宣長の研究』岩波書店、一九四四年、二八一―二八二頁)。
[7] この問題から本居宣長という人物の不合理に対する信の読解へと導いたのが、小林秀雄である。「大平の申分は尤もな事であった。日頃、彼は、『無き跡の事思ひはかる』は『さかしら事』と教えられてきたのである。大平の『日記』は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう」(小林秀雄『本居宣長(上)』新潮文庫、一九九二年、二四頁)。なお小林秀雄の『本居宣長』解釈については、石橋直樹「「死」が人間を喰らうとき」『近代体操』近代体操、二〇二四年、第二号、八五―一〇四頁に詳しい。
[8] 「さて世の人は、貴きも賤きも善も惡も、みな悉く、死すれば、必スかの豫美國にゆかざることを得す、いと悲しき事にてぞ侍る、かやうに申せば、たゞいと淺はかにして、何の道理もなきことのやうには聞ゆれども、これぞ神代のまことの傳說にして、妙理の然らしむるところなれば、なまじひの凡智を以て、とやかくやと思議すべき事にあらず」(本居宣長「玉くしげ」『本居宣長全集』筑摩書房、一九七二年、第八巻、三一五頁)。
[9] 増田友哉「本居宣長の死後観と妙理」『倫理学年報』日本倫理学会、第七一巻、二〇二二年において、宣長が死の悪性が善性へと転換する過程を「妙理」として理論化しようとする姿が描かれ、漢意排除と相反してしまうために宣長が二面性を有してしまったことが指摘される。
[10] 「人の靈魂の。黃泉に歸てふ混說をば。いそしみ坐る事の多なりし故に。ふと正しあへたまはざりしかど。」「神靈はこゝぞ住處と。まだき定めたる處に。鎭り居るものなることを。悟らしゝ趣なるを。」「おのれ〳〵は、なほ、生倭心にて在ることばえしも悟らず、翁のまだきに、基所を見定められしを、古へに例なきことぞなど、密々もの云ひて、その八百會の潮の底の眞淸水の、汲て知られぬ、御心のそこひなさを、思ひもよらぬ、人のみ多きはいかにぞや」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一七九―一八〇頁)。
[11] 「さて豫美は、死し人の往て居國なり」(本居宣長「古事記伝五之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、第九巻、一九六八年、二三七頁)。
[12] 「貴きも賎きも善も悪も、死ぬればみな此ノ夜見ノ国に往ことぞ」、「此身はなきからとなりて、しるく顕国に留在れば、夜見国には魂の往なるべし」(本居宣長「古事記伝五之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、第九巻、一九六八年、二三八―二三九頁)。
[13] 「凡人は、此ノ世にあるほどの現身ながら、夜見ノ國に往見ことは無ければ、なべては何れの道より往還るなどは、定め言べきに非れども、何事も神代の蹟を以て、物は定むることなれば、然心得てあるべきものぞ」(本居宣長「古事記伝五之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、第九巻、一九六八年、二三八―二三九頁)。
[14] 宣長が伊邪那美命の「神避」を「死」と捉えていたことは、前述の貴賤善悪なく黄泉国に向かうという記述だけでなく、例えば「八雷神」の注釈で「甚く怒て死し人などの、後に雷になりてむくひすること、昔も今も多きは、是ノ故ぞ」(二四六―二四七頁)、もしくは「汝國」の注釈で「抑御親生成成給る國をしも、かく他げに詔ふ、生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける」(本居宣長「古事記伝六之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、第九巻、一九六八年、二五五頁)などから察せられる。
[15] 『古事記伝』に特別の注意がある箇所について、それにしたがって現代語訳している。三浦佑之『口語訳古事記』文春文庫、二〇〇六年、および國學院大学「古事記ビューアー」『國學院大学「古典文化学」事業』https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/classics/(最終閲覧2026/03/14)参照。なお敬称略。
[16] 「吐も屎も尿も、皆病臥在ほどの御態なり」(本居宣長「古事記伝五之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、第九巻、一九六八年、二二〇頁)
[17] 「愛み所思す妹命を、一人の子に替て、神避坐せつることよと、悼み惜みたまへるなり」(本居宣長「古事記伝五之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、第九巻、一九六八年、二二四頁)
[18] 以下の宣長の死後観念から篤胤の登場に至るまでは、もっぱら小林威朗「『霊能真柱』の霊魂観」『平田国学の霊魂観』弘文堂、二〇一七年、二五―四九頁を参照している。
[19] 「髙天原ニ坐ス神ハ、死ト云事ナク常へ也、國ニ坐神ハミナ死セリ、又天神トイヘドモ、國ヘ降リテハ死ヲマヌカレズ、天ト國トヲ以テ、不死ト死トヲ判ズベシ、サテ既ニ死ストイヘドモ、ソノ御靈ハ留リテアル事ニテ、時トシテハ、現身ヲモアラハス事アリ、此趣スベテ憶斷ニアラズ、古事記、書紀ニシルセル證例ニツキテ云也、ツユバカリモ、己ガ臆度ヲマジヘテ理ヲ以テ云ハ、漢意ニオツル事也、」(本居宣長「問答録」『本居宣長全集』筑摩書房、第一巻、一九六八年、五二二頁)。
[20] 「さて神の御靈を、此ノ二ツに對言は、たゞ其ノ德用を云フ名にこそあれ、全體の御靈は御靈にして、必しも此ノ二ツに分れたる外、無きには非ず、嚮に或人此ノ二御魂のことを問へりしに、己レ火に譬へて答ヘたりしことあり、其はまづ一ツの火あらむに、其を分取て、燭と薪とに着れば、燭にも薪にも移りて燃れども、本の火も亦滅ることなく、減ることもなくして、有リしまゝなるが如く、全體の御靈は、本の火にして、和御魂荒御魂は、燭と薪とに移し取リたる火の如し【然るを世ノ人此ノ義を知らず、全體の御魂を、此ノ二ツに分ケて、其ノ片つ方荒魂なれば、今片つ方をば、おして必ズ和魂と心得るは、非なり」(本居宣長「古事記伝三十之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、一九六九年、第十一巻、三八七頁)。
[21] 「さて又神に御靈ある如く、凡人といへども、ほど〳〵に靈ありて、其は死ぬれば夜見國に去るといへども、なほ此世にも留まりて、福をも、禍をもなすこと、神に同じ、但其人の位の尊卑き、心の智愚なる、强弱などに隨ひて、此世に魂ののこることもけぢめありて、始メよりひたふるに無きが如くなる者もあり、又敷百千年を經ても、いちじろく盛にて、まことに神なる者もあるなり、」(本居宣長「古事記伝三十之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、一九六九年、第十一巻、三八八頁)
[22] 「さて然夜見國に去れる魂の、此世にも殘るは、如何なるさまぞと云に、彼ノ本ノ火を他處へ將去往に、其ノ光はなほ本の蹟へも及びて、しばしは明きが加し、然れども將去る火の遠ざかるまゝに、及べる本の蹟の光リは、やうやうに微になりて消行如く、數多の年を經て、久しくなれば、殘れる靈は滅ゆくを、尊キ神などは、黃泉ノ薗に去坐るも、此ノ世に殘坐ス魂の、恆常に衰ることなく、熾なるは、火大キなるが故に、持去て他處に到着ての後も、本ノ蹟へ及ぶ光リも、なほ盛リにして、かはること無きが加し」(本居宣長「古事記伝三十之巻」『本居宣長全集』筑摩書房、一九六九年、第十一巻、三八八頁)
[23] 「そも〳〵この曲說の發れる因を。つらつら考ふれば。夜見と云ふに。黃泉の字をあてたるより。起れる說になむありける」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一六〇頁)。
[24] 「傷寒雜病論の序に、厥身已斃云々、幽潛重泉徒爲啼泣と有る重泉も黃泉のことにて、これらすべて、人の靈魂も屍とゝもに、黃泉に歸として云へるものなり」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一六一頁)。
[25] 「かの往坐しの謂は。(割注略)火を產たまへる。いみじき御有狀を。妋神の見そなはしたまへることを恥おもほし。其の後は。妋神に相見えたまはじと。おぼし決めて。その現御身ながらに。妋神の御許を離り。往坐るにこそあれその御魂のみ。往坐るに非ざるを。いかでこの故事を。この國土なる人の魂の。なべて黃泉に歸てふ理の。例とは定むべき」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一六三頁)。
[26] 「この國土なる神靈を、こゝかしこに祀りて、勝劣なく靈異あるには、よく當れる譬なれど、黃泉より招かれ來る例しには云いがたくなむ」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一六九頁)。
[27] 「理りはさもありげに聞ゆれども、非説なり」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一六九頁)。
[28] 「冥府と云ふは、此顯國をおきて別に一處あるにもあらず、直にこの顯國の内いづこにも有なれども、幽冥にして、現世とは隔り見えず、故もろこし人も、幽冥また冥府とは云へるなり。さて、其冥府よりは、人のしわざのよく見ゆめるを(此は、古今の事實の上にて、明にしか知らるゝことなければ、今例を擧げていはずとも誰も知らなむ、)顯世よりは、その幽冥を見ることあたはず、そを譬えば、燈火の籠を、白きと黑きとの紙もて、中間よりはり分ち、そを一間におきたらむが如く、その闇方よりは、明方のよく見ゆれど、明き方よりは、闇き方の見えぬを以て、此差別を曉り、はた幽冥の畏きことをも曉りねかし。」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一七〇頁)。
[29] 『霊能真柱』の記述を中心に、適宜『古史伝』『古史成文』を参照して記述した。
[30] 「此時しも葦原中國は、八千矛神の大國主と治御坐す間なるに、大御神のかく詔ふことは、幽契ある事になむ有ける」(平田篤胤「古史伝二十一」『平田篤胤全集第三巻』名著出版、一九七七年、四一頁)および、「誰も心得がてにすることなるにつけて。熟考ふるに。深き謂の有ることなりけり」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一三九頁)など参照。
[31] 篤胤においては月夜見命と同一神。「此は元大地の根底に成れる夜見國なるを、須佐之男命の知看して、後に地と斷離て、今現に、見るが如くなれりしかば、須佐之男命は、卽夜見命と申す御名を負坐るなり」(平田篤胤「古史伝六」『平田篤胤全集第一巻』名著出版、一九七七年、三四四頁)。
[32] 「大地全を云ふ古言なるを、淖之八百重と連ね云ことは、なほ廣く委く云るにて、八百重の波の重疊りて、至り極る極みを云」(平田篤胤「古史伝六」『平田篤胤全集第一巻』名著出版、一九七七年、三七三頁)。
[33] 『古史伝』第百二三段成文を参照。(平田篤胤「古史伝二十三」『平田篤胤全集第三巻』名著出版、一九七七年、一五七頁)
[34] 「岐神嚮導して御前に立給へる故に、枉神妖鬼どもの、殊に恐怖りて、速けく神功竟給へるにぞ有ける」(平田篤胤「古史伝二十四」『平田篤胤全集第三巻』名著出版、一九七七年、二〇三頁)
[35] 「旣に天地立て、謂ゆる造化の道行はれ、寒暑晝夜の來經往て年をなし、風火金水土の幸ひも、ほどほど備はり、人草萬物の生成て、草木も生茂り、雨降り風吹き、海川埜山の事までも、某々に掌る神ありて、世にある神事の限りは、掌漏せることをさをさ無に、產巢日大神の敕命以て、大國主神に治せと詔へる神事幽事と云は、如何なる事と云ならむと考ふるに、謂ゆる造化の道に係る神事には非ずて、國津神は更なり、天津神も國土に祝へる、また世に有ゆる人の、此世を過て、幽世に歸たらむ魂等を、此時まで猶いまだ、主宰治むる大神を、定賜はざりし故に、其幽冥事の大權を執て、悉く統治めよとの敕命にて、大造之績を成給へる、賞の賜物に有ける。實は書紀に、本より幽事と書れたるにて明けし」(平田篤胤「古史伝二十三」『平田篤胤全集第三巻』名著出版、一九七七年、一六〇頁)。
[36] 「師の翁󠄂も、ふと誤󠄁りてこそ、魂の往方は、彼處ぞといはれつれど、老翁󠄂の御魂も、黃泉國には往坐さず、その坐す處は、篤胤たしかにとめおきつ。しづけく泰然に坐まして、先だてる學兄たちを、御前に侍らはせ、歌を詠み文など作て、前に考へもらし、解󠄁誤󠄁れることもあるを、新に考へ出つ。こは何某が、道にこゝろの篤かれば、渠に幸ひて悟らせてむなど、神謀々まして座すること、現に見るが如く更に疑ふべくもあらぬをや。(中略)然在ば、老翁󠄂の御魂の座する處は、何處ぞと云ふに、山室山に鎭坐すなり。(中略)かの山は、老翁󠄂の世に坐しほど、此處ぞ、吾が常磐に、鎭坐るべきうまし山と、定置され給へれば、彼處に坐すこと、何か疑はむ。その御心の淸々しきことは、「師木嶋の大倭心を人とはゞ朝日ににほふ山さくら花」。その花なす、御心の翁󠄂なるを、いかでかも、かの穢き、黃泉國には往ますべき」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一七八―一七九頁)。なお、可読性のため、中略表記を略している。
[37] 「さて、此の身死りたらむ後に、わが魂の往方は、疾く定めおけり。そは何處といふに、「なきがらは何處の土になりぬとも魂は翁󠄂のもとに往かなむ、」今年先たてる妻を供ひ、(かくいふをあやしむ人の、有るべかむめれど、あはれ此の女よ、豫が道の學びを、助成せる功の、こゝらありて、その勞より病發りて死ぬれば、如此は云ふなり、そは別に委く記せるものあり)直に翔りものして、翁󠄂の御前に侍居り、世に居るほどはおこたらむ歌のをしへを承賜はり、春は翁󠄂の植おかしゝ、花をとも〳〵見たのしみ、夏は靑山、秋は黃葉も月も見む。冬は雪見て徐然に、いや常磐に侍らなむ。かくて、後の古へ學する徒に、翁󠄂の靈を幸坐さば、篤胤すゑのをしへ子なれば、兄等をばわずらはさず、翁󠄂の御言をうけて申つぎ、」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一八〇―一八一頁)

マイクロビオテックやグルテンフリー、オーガニック……現代において、健康志向とスピリチュアルは密接に結びついている。さらに、そうしたスピリチュアリズムは反動的なナショナリズム運動と結びつき、社会のなかの排外主義や差別と結びついてしまっている。こうした健康志向・スピリチュアリズム・ナショナリズムの根底には、人間が生来持っている「死」への恐れがある。 このような時代の流れをどのように捉えればいいのか?「死」の恐怖から、人間は逃げられないのか?この問いを向き合うヒントは、平田篤胤とその門下生たちが辿った足跡にあった。 本連載では国学研究をおこなう著者が、篤胤を「人間の持つ『死』への恐れを乗り越えようとした思想家」として位置づけ、日本の国学の系譜を総攬することで、恐怖から生まれる反動的な思想を乗り越えるための思想を考える。
プロフィール

いしばしなおき 宗教学・近世思想史・文学。2001年神奈川県生。論考「ザシキワラシ考」で、2020年度佐々木喜善賞奨励賞を受賞し、民俗学を中心に執筆活動をはじめる(論考はその後『現代思想』「総特集=遠野物語を読む」に掲載)。論考「〈残存〉の彼方へー折口信夫の「あたゐずむ」から」で、第29回三田文學新人賞評論部門を受賞。論考「看取され逃れ去る「神代」」(『現代思想』「総特集=平田篤胤」)の発表以降、平田篤胤を中心とした国学思想を中心に研究を進める。編著『批評の歩き方』等々に寄稿。


石橋直樹




佐田尾信作×前田啓介
高畑鍬名×伊賀大介


苫野一徳×岩内章太郎×稲垣みどり