もし死が存在しなかったら 平田篤胤と「死ぬこと」の思想史 第5回

この世界はどのように誕生したのか―『霊能真柱』における篤胤神学(前編)―

石橋直樹

愛する妻・織瀬おりせの死

 文化九年(一八一二年)、正しい古史の執筆へと取り掛かりはじめて、これから国学者として名を上げんとする平田篤胤あつたねに一つの大きな不幸が襲うこととなる。激しい恋にはじまり、家格問題をともに乗り越え、晴れて成婚した愛妻の織瀬おりせが、三一歳の若さで急逝してしまうのである。

 織瀬と篤胤の一一年間の結婚生活は苦労の連続であった。結婚一年後の享和二年(一八〇二年)には長男・常太郎が生まれるが、翌年には夭折ようせつしてしまう。文化二年(一八〇五年)には長女・お長が誕生し、文化五年(一八〇八年)には次男・半兵衛を出産した。そして子供が二人いながらも、篤胤が私塾経営をしながら書籍を次々まとめていき[1]、学者としてこれから世に出ていこうとする最も困難な時期を、一番そばで支えたのは織瀬であった[2]。そのために織瀬は、生活の困難と苦労によって持病を悪化させていき、八月二十七日に病死してしまう[3]

 篤胤がこれまで学んできた医術も使って必死で妻を介抱したが、自らの妻を救うことは叶わなかった[4]。妻の突然の死は、篤胤にとって耐え難いものであった。このときの悲嘆は『気吹舎歌集』の「先妻が幼な子二人を置いて亡くなった後に」[5]という箇所に残されている。今、いくつかの和歌を挙げてみたい。

天地の神はなきかもおはすかも。など此禍を見つゝ坐らむ。
(天地の神というものは、いないのだろうか、それともおられるのだろうか。もしおられるなら、どうしてこのような禍事をただ見ておられるのだろう)

 信仰心の深かった篤胤も、自分の置かれた状況に神の存在を疑わずにはおれなかった。どうして、神は愛すべき妻の死という凶事に沈黙しているのか。妻の死は篤胤にとっては、すべてが崩れ去れるような経験だった。

 そして、最も心配なのが残された子供たちのことである。子供達はまだ幼く、母が亡くなったことを理解していない。これから成長していく子供たちを、篤胤は母なしで、ひとり育てていかなければならなかった。子供達を心配に思う気持ちが放出してくる。

うみの母がまた出来とも此母が。心くまりに豈しかめやも。
(たとえ生みの母というものがもう一度現れるとしても、この母=織瀬のような心配りには、どうして及ぶだろうか。いや、決して及びはしない。)
 
赤根さす日は陰りなく照せれど。子を思ふ闇は明らざりけり。
(太陽は曇りなく世界を照らしているけれど、わが子を思う親の心の闇だけは、決して明るく晴れることがない)


 彼は愛する妻の死と子供たちの未来を想って長い間呆然としていた。しかし、篤胤のの悲嘆は学問的探究へと戻っていく。まず取り掛かったのは、駿府で走り書きのように書き起こしておいた草稿本『霊能真柱たまのみはしら』の清書である[6]。この『霊能真柱』こそ、まさに亡くなった織瀬がどこへ行ったのかという問いに答えるものになる。

『霊能真柱』の執筆へ

 妻を看取りながら書かれた『霊能真柱』において、篤胤の「死ぬこと」の神学は一つの完成を迎え、篤胤は第一級の国学者として名を挙げたといわれている[7]。多くの門人がこの書籍によって篤胤を知り、国学へと足を踏み入れるきっかけとなった[8]。なぜ『霊能真柱』がそれだけ重要な意味を持ったのか。それは、「死ぬこと」のその先がいかなるものになっているのか、という問いに答えるものであったからである。言い換えるならば、もし死が存在しなかったならば、という一つの可能性を神道のなかに導き入れたのである。

 ではその篤胤が新たに構築する「死ぬこと」の神学とはいかなるものであったのか。具体的に『霊能真柱』を紐解いていきたい。それは次のように書き出される。

古学を学ぶ者は、まず第一に大倭心やまとごころを固めなくてはならない。この根固めが固まっていなくては、「まことの道」を知ることができないということは、わが師・本居宣長がねんごろに教え諭されていた。この教えは、不動の大岩の上に突き立てた嚴柱いかしはしらの、動くことのない教えである。このように大倭心を太く高く固めたいと欲するなら、「たま⾏⽅ゆくえ安定しづまり」を知ることが先決だろう[9]

 篤胤にとっては、大倭心を十分に固めていくことによって「の道」を知るべきであるという宣長の教えが一つの目標としてある。しかし、そのためには、何よりも大倭心を動かないようにするための「柱」が絶対に必要であった[10]。立派な柱を一つの不動の参照点としてきっちりと立てて、それを安定させることによって、はじめて大倭心というものがわかるというように考えている。篤胤はエピグラフでは次のように述べている。

いかにしてこの心の柱を、太く高く、不動の岩の上に築き立て鎮め置いたらよいのだろうと、乱れた説に揺り動かされないようにありたいと思うまにまに、屋船神やぶねのかみの御力を賜って、築き立てたのがこの柱なのだ。これこそ、あちらやこちらやとく遊⾏うかれゆたまの行方を尋ね明めて、死んだ御霊たちを鎮め留めて、大倭心を不動のものと打ち立てた柱であるのだ[11]
真⽊柱まきばしら太き心をちはへむと。そそる心は鎮めかねつも。
(真木柱の動じない心を神の御加護によって築き立てようとしても、勇み立つ心は鎮めることができないものだ)

 篤胤が『霊能真柱』によって築こうとしているのは、「眞の道」を知るための不動の大黒柱のことである。柱がなければ、学説も大倭心も動揺して全く意味のないものになってしまう。そのために、まずは柱を立てなければならないと篤胤はいうのである。

「死ぬこと」のその先へ

 では、篤胤が築こうとしている柱とは何か。それは、「霊の行方」、すなわち死んだ霊魂がどこへいくかを明らかにすることであるというのである。死者たちがどこへいくのかを明らかにしてはじめて、死者たちを鎮め留めることができ、大倭心が固められて「眞の道」も明らかになるのである。

 「霊の行方」は、現実世界から把握するのは極めて難しい。学問としてその場所をしっかりと見定めなければならない以上、確固たる方法論が必要である。そのために篤胤がとった戦略は次のようなものであった。

 さて、その「霊の行方の安定」を知ろうとするには、まず天地泉あめつちよみの三つの成り始め、及びその有様を詳細に考証し、またその天地泉を天地泉たらしめなされた神の功徳いさおをよく知って、また私たちの日本国が万国に卓越する根本の国であり、恐れ多くも天皇命すめらみことが万国の大君であらせられることの真実のことわりをよく知って、それから後に魂の行方は知ることができるものであるのだ[12]

 篤胤の方法論においては、「霊の行方」を明らかにするためには四つのことが正確に把握されなければならなかった。①天地泉の形成過程と現状、②天地泉たらしめている神々の神徳、③日本が万国より優れている理由、④天皇が万国の大君であることの理由、の四つである。

 現在の世界から死んだ後のことが捉えられない以上、世界の始まりから逆算的に死後世界のことを理解しなければならない。そのためには、まず宇宙創生がどのようにあったのかということを明らかにしなければならない[13]。このように分化して誕生したそれぞれの世界が、どんな神々によって運営されていのかという職掌の問題を問うことによって、どこが死後世界に割り当てられるのかを考えていく。篤胤にとって重要であったのは、全体を包含するような宇宙そのものの形成が、事実としてどのようになされたかということである。ここから篤胤は当時の天文学などにも切り込んでいくことになる。

西洋天文学の輸入と服部中庸なかつね『三大考』

 実は、篤胤が「霊の行方」を明らかにするための根拠として持ち出してくる宇宙の成り立ちの問題は、西洋天文学が急速に輸入された当時の日本において、極めて喫緊の課題として存在していた。天文学の知識が出版され、書籍によって一般に広がっていくにつれ、世界認識の再構築が重要な課題として叫ばれていたのである[14]

 一八世紀から一九世紀前半、寛政から天保期にかけては蘭学知識が本格的に輸入され、それまでのパラダイムとは全く異なる世界認識へと変貌するようになっていった。清の游藝ゆうげい(生没年不詳)が一六七五年ごろにまとめた西洋天文学の書籍『天経或問てんけいわくもん』は、清ではそれほど読まれなかったものの、日本に輸入され知識人たちに爆発的に受容されていった。一七三〇年に西川正休まさよし(一六九三―一七五六)が訓点を施して和刻本が出版され、多数の註解書や関連書籍が国内で次々に刊行されるようになった[15]。画家の司馬江漢こうかん(一七四七―一八一八)は、こうした西洋天文学の知識をわかりやすい絵で一般に広げていき、大胆な色使いで地球球体説を紹介した図像は当時の人々に強烈な印象を残したのである。江漢の『和蘭天説わらんてんせつ』においては、コペルニクス(Nicolaus Copernicus,一四七三-一五四三)の地動説が紹介され、それまでの『天経或問』におけるティコ・ブラーエ(Tycho Brahe,一五四六-一六〇一)の折衷的宇宙観と対比している[16]。このような絵画による紹介は、視覚的に地球が球体であるということを示して、多くの知識人たちに世界認識の変容を促したということができるだろう[17]

 『古事記』などから世界のあり方を明らかにしていこうとした本居宣長門下の国学者たちも、急速に輸入されてくる西洋天文学の知識に対応する必要に迫られていた。しかし、古典に忠実であるということが絶対の指針である本居宣長の方法論において、彼自身は西洋天文学の知識を全面的に輸入して世界観を再構築するには至らなかった。そこで、宣長の弟子の服部中庸はっとりなかつね(一七五七―一八二四)という国学者が、この役割を担ったのである。

 中庸は、師・宣長の『古事記伝』の宇宙観を西洋天文学によって新しく肉付けしていくことを目指した。中庸の方法論は次のようなものである。後代の視点から推論を重ねるのではなく、〈神代〉から伝えられた真の説を「さかしら」なく信じることによってしか、天地のはじまりを知ることはできない。一見、中国の説の理が深淵であるようにみえ、自国の説に理がないように聞こえるが、後世になって西洋天文学などによって事物の理が明らかになっていくにつれて、自国の説が矛盾せずむしろ正しいものであったことがわかるのだ。日本国の古伝はそうした最新知識といかようにも矛盾しないものである。しかし、こうした最新鋭の天文学知識であっても、天地がどうしてこのようになったのかという原初については知りようがない。そうした際に、〈神代〉から受け継がれた正しい古伝をそのままに受け入れることで、そうした原初の時は明らかになるのだ。中庸はこのように述べていた。

 地球が球体であるという考え方、日・月・地の大きさ、さらには天動説・地動説といった宇宙構造に関する知識が受容されることによって、近世の人々の世界理解は大きく変化した。ここで中庸が試みたのは、『古事記』を新しい世界認識として編み直すことだったのである[18]。宇宙のはじまりはたった一度しかない。もし、私たちが日々見上げている太陽や月が、地球と同じくたった一つの宇宙にあるのならば、『古事記』はこの宇宙全体の由来と根拠を語りうるものでなければならない。近世に生きる人びとが直面した新たな宇宙像を前にして、『古事記』をいかに読み替えるかということが、国学者たちの前に立ちはだかっていた課題だった。

 中庸は、この成果を『三⼤考さんだいこう』という書籍として出版した。そして宣長は中庸の成果を大いに褒めて、『古事記伝』の末尾にこの書籍を付録として載せた。これは『古事記伝』に不足していた統一的な宇宙観を補完するものとして機能したのである[19]。そして、本書の主人公である篤胤は、まさにこの『古事記伝』に外付けされた宇宙生成のあり方である中庸の『三大考』の影響を強く受ける形で、『霊能真柱』の宇宙像を展開していくのである。

「三大考論争」の勃発

 中庸の『三大考』は、この世界のあり方を『古事記』における神々の世界へと結びつけることによって、現実と神話世界の二重写しにみるということを可能にした。『古事記』の神々の世界は、ただそれを明らかにしても、一般の人々にとっては現実からかけ離れてしまって理解しがたいのである。しかし、今ありありと存在するリアリティとしての宇宙像と結びつけることによって、その現実がそのまま神話世界になっていくことができるようになっていった。このことは、神々の力が今もありありと現実世界に作用し、宇宙の自然法則として展開しているという世界認識を当時の人々に啓いていくことになったのだ。

 こうした中庸の記述を可能にしたのは最新の天文学知識であったが、一方でそれはそのまま、『古事記』本文の記述からは著しい逸脱を示すことになった。つまり、太陽や地球がどのように成り立っているかという知識は、『古事記』本文からは直接読み取ることができず、最新の西洋天文学知識によって飛躍した形で導入されたのである。

 したがってこれは、宣長の忠実な門人たちから激しい批判を呼び起こした。実は『古事記』に書かれていないことを推測で読み取ってはいけないと強く言っていたのは、中庸の記述を褒めた本居宣長その人であったのだ。宣長は常日頃から、さかしらを加えず『古事記』にある神代のままを理解せよ[20]と門人たちに述べていたのである。そのために宣長に忠実な門人たちにとっては、中庸の方法論など、とてもではないが受け入れられるものではなかった。中庸の記述する宇宙像など、『古事記』のどこにも書いていなかったのだ[21]

 中庸の『三大考』を激しく批判したのは、本居宣長の養子で、鈴屋門の後継者であった本居大平おおひら(一七五六―一八三三)であった。大平は『三⼤考弁さんだいこうべん』を著し、鈴屋門の伊勢神宮外宮権禰宜げくうごんねぎ渡会正兌わたらいまさとき(一七八五―一八三七)が口火を切って中庸を批判した『三⼤考説弁さんだいこうせつべん』を発展させて、『三大考』を本格的に批判した。大平の立場としては、宣長の方法論を忠実に守り、古伝を言葉通り忠実に読んで、「さかしら」を加えることなくあるがままに受け取らなければならなかった。『古事記』がその残された文章からは、天地の生成について何も語ることがないために、天地がどのように生まれていったかということを『古事記』の冒頭部分から読み取ることはできなかったのである[22]

 そして、この大平の批判によって、『三大考』を肯定する服部中庸派と、『三大考』を否定する本居大平派で、宣長門下を二つに分ける「三大考論争」が本格的に勃発したのだ[23]。この論争は、『古事記』の記述を越え出てしまう①天地開闢のあり方、②月読命と須佐之男命が同一神か否か、③霊魂が赴く場所が月か否か、の三つの論点をめぐって争われることになる[24]

 しかし、すでに述べたように篤胤は、『古事記』の内容から逸脱していきながらも、最新の西洋天文学知識によって近世のリアリティと接続していく中庸の『三大考』を大いに評価していた。そして中庸の世界記述を受け継いで『霊能真柱』を著した。したがって「三大考論争」では中庸派について参戦し、大平の『三大考弁』を逐条反駁する『三⼤考弁弁さんだいこうべんべん』(文化一一年)を執筆した。この篤胤の著作に対して、今度は大平派の植松茂岳しげおか(一七九四―一八七六年)が『天説弁てんせつべん』(文化一三年)によって批判を行い、篤胤はこれに対して即座に『天説弁弁てんせつべんべん』(文化一四年)で反撃、篤胤門下の渡辺荒陽こうよう(一七五二―一八三八年)も『⼋尋⽭やひろほこ』(文化一四年)で篤胤を援護射撃した。これによって、「三大考論争」は激化し、明治に入るまで続く激しい論争へとなっていったのである[25]

この世界はどのように誕生したのか

 篤胤にとって、この世界がどのように誕生したのかということがなぜ重要だったのかというならば、それによって「霊の行方」を明らかにできると考えたからである。「霊の行方」は現世を見るだけではわからないことが多い。それならば、この世界の始まりの瞬間から、その成り立ちを追っていくことによって、「死ぬこと」のその先を明らかにできるというように考えていたのである。そうした問題意識のもと、最新の西洋天文学の知識や中庸の『三大考』から多くを学んでいった。

 それでは篤胤は、この世界の成り立ちをどのように考えていたのだろうか。これから、篤胤の『霊能真柱』で示される世界の誕生のあり方を共に見ていきたい[26]。その際には、議論が煩雑になることを避けるために、篤胤が引用する本居宣長や服部中庸の学説を適宜参照して論じる形ではなく、篤胤の中の神学の一貫性を考えるために、篤胤が結果的に構築した神学そのものを紹介していく形をとる。

 篤胤は、中庸の『三大考』に書かれた十枚の図を、自分なりに書き換えながら宇宙生成を論じていた。ここでも、そのうちのいくつかの図を引用して、図に沿って解説を加えていきたい。
 
 

図1 平田篤胤「第一図」『霊能真柱』(国会図書館デジタルコレクション[27])


 あめつちも未だ生まれていないとき、そこにはただ⼤虚空おおぞらがあるだけであった。大虚空とは、どこも全く妨げられるものがなく、広く遠くまで広がり、境界も何もないところのことである[28]。その大虚空に、天之御中主神アメノミナカヌシノカミ⾼皇産霊神タカミムスビノカミ神皇産霊神カミムスビノカミの三柱の神が出現した。


 

図2 平田篤胤「第二図」『霊能真柱』(国会図書館デジタルコレクション)



 
 すると次に、大虚空の中に「⼀物ひとつのもの」が出現した。「一物」とは、太陽・地球・月の三つに分かれていくその原基となるものであって、それぞれの性質が混ざり合っている何かである。これは、⾼皇産霊神タカミムスビノカミ神皇産霊神カミムスビノカミの不思議な力である、「産霊むすび」の力によって生まれ、徐々に成長していった。「一物」はまず、まるでひと塊になって離れて漂っている浮雲のようにして[29]、活発に動く勢いがあり、ある時は明るくある時は暗いような様子で[30]、大虚空のなかを漂いはじめた。

図3 平田篤胤「第三図」『霊能真柱』(国会図書館デジタルコレクション)  

 大虚空の中に生まれ出て漂っている「一物」の中から、葦⽛あしかびよりひじのなかから生まれはじめるようにして、上空へ向かって萌騰もえあがるる物があった。萌騰るというのは、火のように明るく光りながら、立ち上がっていく様子のことをいう[31]

 その萌騰る物によって、宇⿇志葦⽛⽐古遅神ウマシアシカビヒコヂノカミ、そしてその次に天之底⽴神アメノソコタチノカミの二柱の神が誕生した。宇麻志葦牙比古遅神は、その葦牙のように萌騰がって誕生したために、そのように名付けられた。また天之底立神は、天の行き着く、いちばん果ての底[32]に誕生した神であるからそのような名前を持っている。そして、天之底立神という名前から察せられることは、萌騰った一物によって誕生した神が「天の底」と称されるのであるから、萌騰った一物が「あめ」となったということである。「天」という発音は、葦牙の如く萌騰った物を略した「アシモエ」の、さらに縮められた音であるとこの時点では考えられる[33]。そしてこの「天」こそ今みる太陽のことであり、その性質は清明で、水晶に似た特質を有しているものである[34]


 

図4 平田篤胤「第四図」『霊能真柱』(国会図書館デジタルコレクション)


 漂う一物のなかから葦牙のように萌騰ったものが次第に「天」となって、そのうち残ったものがまだ固まらずにあったときに、その底にまた芽のように飛び出してくる一物があった。これは「よみ」であって、一物のうち一層重く濁ったものが下に落ちて誕生したものである[35]。そして、残ったものが「地」となった。この「泉」こそ、今みる月であり、「地」とは今いる地球のことである。
 「泉」を夜⾒よみの国という理由は、下方にできたため「地」に遮られて太陽の光を受けず、生まれてこの方ずっと暗かったためである。この夜見という字に「黄泉」の字を当てたために多くの誤解が生じた。
 このように重く濁った一物が下に垂れ下がって「泉」を生成する過程で生じたのが豊斟渟神トヨクモヌノカミであり、国之底⽴神クニノソコタチノカミである。これは、宇麻志葦牙比古遅神と天之底立神が上方に「天」をつくる過程で誕生したのと対応している。そして、残った「地」で生まれたのが、宇⽐地邇神ウヒヂニノカミ須⽐智邇神スヒヂニノカミ⾓杙神ツヌグヒノカミ活杙神イクグヒノカミ意富⽃能地神オホトノヂノカミ⼤⽃乃弁神オホトノベノカミ淤⺟陀琉神オモダルノカミ阿夜訶志古泥神アヤカシコネノカミ伊邪那美神イザナミノカミ伊邪那岐神イザナキノカミである。
 

図5 平田篤胤「第五図」『霊能真柱』(国会図書館デジタルコレクション)


 
 「天」と「地」が切り離された後で[36]天津神あまつかみたちが伊邪那美神・伊邪那岐神の二柱の神に、「この漂える国を修理固つくりかたせ」と命じて、玉で飾った矛である天之瓊⽭あまのぬぼこを譲り渡した。この命令を受けて、伊邪那美神・伊邪那岐神の二柱の神は、大虚空を移動するための船のようなものある天之浮橋あめのうきはしに乗って[37]、まだ固まっていない「地」の⻘海原あおうなばらを天之瓊矛によってかき混ぜた。それから、その矛を引き上げるときに、矛の先から滴り落ちる潮が自然と凝り固まって島となった。この島を淤能碁呂嶋おのごろしまと呼ぶ。この島は、現在の兵庫県淡路島にある絵島であるという言い伝えが紹介される。

 伊邪那美神・伊邪那岐神の二柱の神は降りてきて、自然と凝り固まったその島に天之瓊矛を衝き立て、国土の中心の柱とした。このようにして、「天」となるべきものが萌騰り、「泉」となるべきものが垂れ下がり、その中間に残された「地」が未だふわふわとして固まっていなかったのを、この矛を衝き立てたことによってようやく締まり固まったのである。この島こそ、大地の固めである御柱となった。

 そして、伊邪那美神・伊邪那岐神はここに広大な殿舎である⼋尋殿やひろどのを建築し、結婚をして、そこで日本列島を産んでいくのである。ここからいわゆる「国産み」神話へと繋がっていく。

 『霊能真柱』での篤胤は、この世界の成り立ちをこのように考えていたのである。西洋の天文学知識を多く取り入れながら、この世界そのものがどのように成り立っているかを古典に書かれた神話において説明していった。これこそ、前章で述べた「近世神話」(斎藤英喜・山下久夫)の誕生でもある。


 そして、この世界の成り立ちから具体的な「霊の行方」を特定していくのである。世界の成り立ちを丁寧に追っていくことによって、死後人はどこへ向かうかということも明らかになると篤胤は確信していたのである。死後の世界がどこにあるかを特定していく篤胤の神学については、次回後編にてみていきたい。

(次回へつづく)


[1] 塾経営に関する篤胤夫人三人の役割については、宮地正人「三人織瀬」『歴史評論』板倉書房、六七二号、二〇〇六年、五四―六六頁を参照。
[2] 「(篤胤)夫でも學問の心はナクナラズ、トウ〳〵学者にはナツテ見タガ、其難渋艱難、貴様(銕胤)も段々相伴したることにて存じの事也、貴様計りでもなく、母(後妻)トテモ其如ク、己がやうな不仕合せなる者を父にもち夫にもたずば、今迄の様に憂き目は見まじものをと、毎々思ふ。既に先母はソレ故に早死アハレ」(渡辺金造『平田篤胤研究』六甲書房、一九四二年、二一頁)とあり、その病死を篤胤は自らの学問による苦労によるものと考えていたようである。
[3] この点に関しては、伊藤裕『大壑平田篤胤伝』錦正社、一九七三年、同『織瀬夫人伝』弥高神社平田篤胤佐藤信淵研究所、一九八六年に詳しいが、同書が参照している「霊能御柱初稿断片」の所蔵場所等が不明であり、「『霊能真柱』の場合、自筆稿本は残っていない。校正刷『霊能真柱』(岩瀬文庫)が残っているが、字句の訂正などにとどまっている」(中川和明「平田篤胤主要作品解題」『現代思想』「総特集=平田篤胤」青土社、第五十一巻第十六号、二〇二三年、七二頁)という指摘を受けて、今回伊藤説は採用していない。
[4] 朴鍾祐「『志都能石屋』考―平田国学における「幽冥」と「医道」」『国文論叢』第二〇巻、一九九三年においては、織瀬を医学的に救うことができなかったという挫折の経験から、医道から神道へと篤胤が進んでいったという説が提唱されている。
[5] 「先妻の。をさな子二人を置て。なくなりける後に」(平田篤胤「伊布伎廼屋歌集」『平田篤胤全集』名著出版、第十五巻、一九七八年、三一四―三一五頁)。
[6] 渡辺金造『平田篤胤研究』記載の「篤胤自筆履歴書項目覚」において「一スンプにて玉の真はしら著述の事」と書かれており、草稿本自体は柴崎直古宅で記述されていたが、新庄道雄宛書翰(文化九年七月十一日)においては「いまだ、霊能真柱の清書いたさず」と記述されており、版本下巻には文化九年十二月五日に成立したことが記述されており、清書はこの年の七月十一日から十二月五日のいずれかの期間で行われたことがわかっている(中川和明『平田国学の史的研究』名著刊行会、二〇一二年、一一九―一二〇頁)。その上で、『霊能真柱』本文中に織瀬の記述があることを鑑みると、清書自体は織瀬の没後に取り掛かっていることが推測される。
[7] 「版本『霊能真柱』を取り扱ったのは、当初は江戸の書肆であったが、やがて三都や名古屋に拡大していった。この変化は、平田派の勢力拡大に対応しているものと考えられる。篤胤は『霊能真柱』を刊行することで、新興の学派を旗揚げしたのであった」(中川和明『平田国学の史的研究』名著刊行会、二〇一二年、一三八頁)。
[8] 吉田麻子がまとめている「平田塾刊行書物摺立部数」において、気吹舎刊行書籍の篤胤著述書籍については刊行年から文久三年までの間で、『霊能真柱』が四〇〇〇部とトップであり、広く受容されていることがわかる(吉田麻子「表①」『知の共鳴』ぺりかん社、二〇一二年、四一〇頁参照)。
[9] 「古學する徒は。まづ主と大倭心を堅むべき。この固の堅在では。眞ノ道の知がたき由は。吾師ノ翁の。山管の根の丁寧に。敎悟しおかれつる。此は磐根の極み突立る。嚴柱の。動まじき敎へなりけり。斯てその大倭心を。太ク髙く固メまく慾するには。その靈の行方の安定を。知ることなも先なりける」(平田篤胤「霊能真柱上」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、九三頁)。なお、相良亨訳『日本の名著24 平田篤胤』中央公論社、一九八四年にある「霊能真柱」の現代語訳を参考にして引用者が訳を作成しているが、祝詞用語や特殊用語に関しては修正して載せている。以下同様。
[10] 宮地正人は、大倭心を固める理由として「対外危機に対決しうる主体側の国家・国土意識のあり方と主体側の魂の行方への確信を形づくるため」であったと述べ、国防意識から『霊能真柱』が執筆されたことを強調している(宮地正人『歴史のなかの「夜明け前」』吉川弘文館、二〇一五年、三五五頁)。
[11] 「いかでその心の柱を。太く髙く。磐根の極み築立てさせ。鎭めてまし。率らせじと。思ふまに〳〵。屋船神の幸ひ坐して。築立てさせし此の柱よ。はたその因に。彼處や此處へ遊行く。靈の行方も尋めおきて。鎭めに立てしこれの柱ぞも。眞木柱。太心乎。將幸登。進心者。鎭兼都母。」(平田篤胤「霊能真柱上」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、九二頁)。
[12] 「さて。その靈の行方の。安定を知まくするには。まづ天地泉の三つの成初。またその有象を。委細に考察て。また。その天地泉を。天地泉たらしめ幸贈ふ。神の功德を熟知り。また我が皇大御國は。萬國に卓越たる元因。また掛まくも畏き。我が天皇命は。萬國の大君に坐すことの。眞理を熟に知得て。後に魂の行方は知るべきものになむ有りける」(平田篤胤「霊能真柱上」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、九三頁)。
[13] 「篤胤において何よりも重要であったのは、天地泉、すなわち、トータルな世界の形成をめぐる事実であった。もちろん、この答解作業は古伝説を資料として行う以外に方法がなかったが、絶対に正確な事実をとらえなければ、霊の行方の安定がえられないという切実な現実的関心に支配され」たものであった(田原嗣郎『平田篤胤』吉川弘文館、一九六三年、一七八―一七九頁)。
[14] この問題は、石橋直樹「天球から怪物へ―国学の図像的想像力」『ゲンロンy』ゲンロン社、二〇二六年にて詳しく論じている。
[15] 吉田忠「『天経或問』の受容」『科学史研究』日本科学史学会、第二十四巻第一五六号、一九八六年、二一五―二二四頁参照。
[16] 成瀬不二雄『司馬江漢 生涯と画業』八坂書房、一九九五年、二八五頁。
[17] 川村博忠『近世日本の世界像』ぺりかん社、二〇〇三年、一六三頁参照。
[18] 「地球概念、日月地の大小、そして地動説といった、宇宙構造に関する自然科学的知識の受容は、地の世界が地球という一個の天体であるという認識、また日や月が天体という資格においてこの地球と相並ぶ存在であるという認識をもたらし、それにより、中庸に至る当時の近世人にとっての現実認識はそれ以前の人間が持っていたものから変容を遂げていたと考えられる。こうした新たな現実を説明する文字通りの「神話」として『古事記』を読むこと。それが中庸が眼前にしていた課題だったのである。現実に自分たちが日々眼にしている日や月がそれぞれに地球と同様の「世界」であるのなら、「神話」である『古事記』はそうした「世界」としての日や月を含む現実の由来、根拠を説明し得るものでなくてはならない」(金沢英之『宣長と『三大考』』笠間書院、二〇〇五年、九五頁)。
[19] 増田友哉「本居宣長の天文学知識受容をめぐって」『日本研究』国際日本文化研究センター、第六八号、二〇二四年、七―二一頁参照。
[20] たとえば、「そも〳〵天地のことはりはしも、すべて神の御所為にして、いとも〳〵妙に奇しく、霊しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智りもては、測りがたきわざなるを、いかでかよくきはめつくして知ることのあらむ」(本居宣長「直昆霊」『本居宣長全集』筑摩書房、一九六八年、第一巻、五二頁)など。
[21] この問題を、遠藤潤は〈記述〉と〈事実〉の観点から正確に述べている。大平派の植松茂岳の立場は「あることばがある箇所(=ある時点)で語られているならば、そのことばに対応する〈事実〉がその〈記述〉の段階ですでに存在しているはずと考えるのである。(中略)ここで想定されている記述主体は、観察の主体と一致しており、〈事実〉に対して同時代的に存在すると考えられている」のに対して、篤胤の立場は「字句どおりに解釈する以前に、ことばそのものが「漢風」に変形されて記されたものでないかどうか検証する必要があるというのである。(中略)すなわち、ここでの議論では〈事実〉と〈記述〉のあいだに経過した時間が想定されている」という対立で述べられる(遠藤潤『平田国学と近世社会』ぺりかん社、二〇〇八年、六五―六六頁)。
[22] 小澤正夫によると、本居学が「非合理主義、信仰主義」である一方で、平田学が「合理主義、科学主義」であり、後者の「雑学的傾向」から前者が古典読解の純粋性を守ろうとした論争であると総括されている(小澤正夫「三大考をめぐる論争」『国語と国文学』筑摩書房、一九四三年、第二十巻第五号参照)。
[23] 「三大考論争」の経過については、主に西川順土「三大考を中心とする宇宙観の問題」『肇国文化論文集』神宮皇学館、一九四〇年、一―三六頁、および中西正幸「三大考以後」『國學院雑誌』國學院大学、一九七三年、第七十四巻第十一号、八三―九三頁を参照した。
[24] 西川順土「三大考を中心とする宇宙観の問題」『肇国文化論文集』神宮皇学館、一九四〇年、一―三六頁による分類「天地開闢」「月読命と須佐之男命」「黄泉国」を参照した。なお、西川は「天地開闢」における対立軸を、「神が天地を創造したのではなく、天地先ず成りて神が生じた事」「葦牙の如きものは天地となるものではなく神となる物である事」「三大考等の所説が外国の天文説によって構成されたのであつて、古学者の執るべき態度と云へないと云ふ事」という三項に分類している(二二―二三頁)。
[25] 落合直澄『今説弁抄』『三大考後弁』(明治初年)など。大教院の教学形成の過程で、三大考論争の論点が再び重要問題として浮上したためである。
[26] 引用方法については、わかりやすさを重視して篤胤が選んだ「成文」と「注釈」を分けて記述せず、「注釈」によって古史成文を再解釈した上で、取捨選択し、全て地の文として記述している。また、『古史傳』の記述とは齟齬があるが、今回は『霊能真柱』の記述を中心として、記紀の語をそのまま引いていて引用しても意味が通らない語義に関しては『古史伝』を適宜参照している。
[27] 平田篤胤『霊能真柱 2巻』[1],文化10 [1813]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2562762 (参照 2026-03-12)〔保護期間満了〕以下、同じ引用元。
[28] 「凡て障る物なく、広く遠く、疆界も何も無き處を虚空と云ふ」(平田篤胤「古史伝一」『平田篤胤全集第一巻』名著出版、一九七七年、九八頁)。なお、「大虚空」と「天」は別物であり(「阿米と、曾良と、與と各々異なる事には有れど」)、「天」とは「天は阿米と訓べし。阿米とは蒼々として、上方より始めて、四方に廣く遠く見遥かさるゝ疆-界」である。すなわち、「今見放るところ、斯の如く、四方に向伏し、廣く遠く壁立たる狀に見えて、(中略)此ノ頂上の處すなはち北辰にて、此より四方に下垂たるが、下の方は、大地に障りて見えざれど、大凡圓形なる事と思はる」とあるように、『古史伝』の段階では北辰にある紫微垣を中心としたドーム上の網のようなものと捉えている。しかし、この理解は『赤県太古傳』執筆段階に近い時期に着想されたものと思われ、この段階では「天」は「日」すなわち太陽のこととして記述している(「靈の眞柱を著せる頃は、未ダ委く思ヒ得ざりし故に、其說盡さず」)。
[29] 「如浮雲之無根係之處」が原文であるが、『古史伝』に「浮雲」を「一叢放れて漂へる雲」と解説があり、これを「漂へる状を譬たるのみにて」とあるので、それを含んで現代語訳した(平田篤胤「古史伝一」『平田篤胤全集第一巻』名著出版、一九七七年、一二〇頁)。
[30] 「海月成」(クラゲナス)が原文であるが、『古史伝』に「活發の氣勢ありて、或は明く或は闇く、久流々々、久羅々々、久禮々々として、有りけむ狀を云へる」とあるので、これを参照した(平田篤胤「古史伝一」『平田篤胤全集第一巻』名著出版、一九七七年、一二〇頁)。篤胤曰く、クラゲはこの時の一物の有様を喩えて名付けられたものであるという。
[31] 「萌騰ともに借字にて、此は火の如く然明りて、立チ上がれるを云なるべし」(平田篤胤「古史伝一」『平田篤胤全集第一巻』名著出版、一九七七年、一二一頁)。
[32] 「底」の定義については、「底とは、上にまれ下にまれ、横にまれ至り極まる處を、何方にても云り」とある(平田篤胤「古史伝一」『平田篤胤全集第一巻』名著出版、一九七七年、一二七頁)。
[33] 『霊能真柱』の段階では、「天」の定義は宣長のものに完全に依存している。『古史伝』ではこの説から脱却し、「阿米と云言義は、网と同言にて、其は世に有リとある物悉く、其中に罹れるを以て云」(平田篤胤「古史伝一」『平田篤胤全集第一巻』名著出版、一九七七年、一二五頁)という説を唱えている。その上で、注二八の如く「天」を定義している。
[34] 「三大考に天つ日の質は火の精きものぞといへるは、いみじき非言なり」(平田篤胤「霊能真柱上」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一〇二頁)として中庸の説を批判している。
[35] 「三大考に、月泉は水の精きものぞといへるは、いみじき非なり」(平田篤胤「霊能真柱上」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一〇三頁)として中庸の説を批判している。
[36] この点は中庸『三大考』と大いに異なるところであって、篤胤が天動説ではなく地動説をとったことによる。本文中では、天津神が「此漂在之国」と述べたことの「此」という指示語に注目し、天上から見下ろして地上の様子がよく見えていたことを表していたという推測から、天地が切り離されていたことを証明している。
[37] 「今在る橋の。此方の岸より。彼方の岸に掛れる如く。天と地との。中間にかゝれる物にもあらず。また天と地と連続たる帯にも非ず。神の御量もて造り出給ひて。事と有る節は。それに乗て。虚空を乗り給う物にて。此の世なる物にては、水を乘る船の如き物なり」(平田篤胤「霊能真柱下」『新修平田篤胤全集』名著出版、一九七七年、一五〇頁)。これは早々に「天」と「地」を切り離したため、このような理解になっている。


 

 

 第4回
もし死が存在しなかったら 平田篤胤と「死ぬこと」の思想史

マイクロビオテックやグルテンフリー、オーガニック……現代において、健康志向とスピリチュアルは密接に結びついている。さらに、そうしたスピリチュアリズムは反動的なナショナリズム運動と結びつき、社会のなかの排外主義や差別と結びついてしまっている。こうした健康志向・スピリチュアリズム・ナショナリズムの根底には、人間が生来持っている「死」への恐れがある。 このような時代の流れをどのように捉えればいいのか?「死」の恐怖から、人間は逃げられないのか?この問いを向き合うヒントは、平田篤胤とその門下生たちが辿った足跡にあった。 本連載では国学研究をおこなう著者が、篤胤を「人間の持つ『死』への恐れを乗り越えようとした思想家」として位置づけ、日本の国学の系譜を総攬することで、恐怖から生まれる反動的な思想を乗り越えるための思想を考える。

プロフィール

石橋直樹

いしばしなおき 宗教学・近世思想史・文学。2001年神奈川県生。論考「ザシキワラシ考」で、2020年度佐々木喜善賞奨励賞を受賞し、民俗学を中心に執筆活動をはじめる(論考はその後『現代思想』「総特集=遠野物語を読む」に掲載)。論考「〈残存〉の彼方へー折口信夫の「あたゐずむ」から」で、第29回三田文學新人賞評論部門を受賞。論考「看取され逃れ去る「神代」」(『現代思想』「総特集=平田篤胤」)の発表以降、平田篤胤を中心とした国学思想を中心に研究を進める。編著『批評の歩き方』等々に寄稿。

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この世界はどのように誕生したのか―『霊能真柱』における篤胤神学(前編)―

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