文化遺産「子連れ鑑賞」顛末記 第四回

視覚芸術の殿堂で、視覚を手放したときに見えてきたもの

mina

アルハンブラのメッセージ

「二姉妹の部屋」の天井は、アルハンブラ宮殿でもっとも美しいとされる装飾の一つだ。文化遺産に興味のない娘たちも、さすがに少しは心を動かされているだろうと、「どう、素晴らしいでしょう?」と水を向けると、6歳の長女は少し考えてから言った。「うーん、きれいだけど、つまらない」

「マジか」と思った。理屈抜きに美しいはずの装飾を前にして「つまらない」とは。世界中が絶賛してきた「二姉妹の部屋」をつかまえて「つまらない」とは。愕然としながら慎重に理由を聞くと、「しぜんのほうがすき」と彼女は言う。どうやら、吹き抜ける風や、暑い日にほとばしる水、雨のあとにかかる虹といったもののほうが、建物よりも好みらしい。それはそれで素敵だ。ただ、長く受け継がれてきた人の営みにも、目を向けてくれたら…と願うのは、独りよがりだろうか。どれほど優れた文化遺産でも、それ自体の価値を幼児が感じとることは難しいのか。連れてきたのは、まちがいだったのだろうか―。

外はいつしか小雨がぱらついていた。首をのけぞらせるのもおっくうになった私は、何とはなしに中庭を囲む柱の本数を数えてみる。細い柱は何本かにまとまっていて、2本、1本、2本、2本、1本、2本…と連なるところもあれば、4本、1本、1本、2本、3本、1本…と配置されている場所もある。全部で124本あるという円柱の並びは意外なほどバラツキがあり、端正なライオン宮に不思議なリズムを刻んでいる。700年前のイスラムの職人たちは、どんな意図で設計したのだろう。こういった視覚的な味わいを与えてくれるアルハンブラ宮殿が「視覚芸術の傑作」なのは、明らかだ。ただ、その価値は手につないだ幼児には響かない。

むなしさに心が覆われそうになったとき、不意に長女が私の手をすり抜けて、大理石の床を駆け出していく。慌てて追いかけた廊下の先にあったのは、壁や天井の一部などを再現するレプリカだった。娘たちにとっては念願の、「さわれる展示」だ。

3歳の次女も一目散に駆け寄り、長女と一緒になって色鮮やかなタイルや彫りものをした漆喰壁のレプリカをベタベタとさわり始める。ライオン宮以外でも何度か見かけていて、そのたびに娘たちは熱心にさわっていたけれど、私はそれほど気にかけてこなかった。横についた点字までむさぼるようにさわるので、「これは目の見えない人を助けるためのものだから、あなたたちのものではないよ」とたしなめる。葉っぱ一枚うかつにさわれないライオン宮が、そんなにもストレスだったのか…と呆れていると、ふと、点字の上に書かれた英語が目に入る。レプリカの元になっている壁の説明かと思っていたら、「モニュメントの保存にご協力ください」とある。予想外の文言に思わず二度見すると、次のような文章が続いていた。

アルハンブラ宮殿を飾る素材は、一見すると非常に丈夫に見えますが、さまざまな要因によって劣化する可能性があります。時間の経過とともに、摩擦、天然の油分、手の汚れなどは、最も丈夫な石材でさえも、不可逆的に損傷させてしまうことがあります。

アルハンブラ宮殿とヘネラリフェ宮殿の管理委員会は、オリジナルの作品の複製にふれて体験できる「タッチポイント」をご用意しています。

レプリカは、視覚障害のある人のためだけのものではなかった。まして、退屈した子どものガス抜きのためのものでもない。「本物の壁は貴重で壊れやすいです。だから絶対にさわらないでください(代わりにこのレプリカ=タッチポイントをさわってください)」という、すべての鑑賞者に対する宮殿からの明確なメッセージだったのだ。

ライオン宮のタッチポイント

宮殿の公式リリースによると、タッチポイントは2013年7月からライオン宮やコマーレス宮、離宮のヘネラリフェなど、主要見学ルートに設置された。木、石膏、石、陶器など、実際の建築と同じ素材を使った高精度のレプリカは、当時最新の測量技術を用いた3Dモデルにもとづき制作されている。

先述したようにライオン宮の壁や柱は「Don’t touch」。壁にもたれたり、装飾やタイルにふれたりするのはご法度だ。それは鑑賞者に緊張感を強いるルールではあるけれど、13〜14世紀に築かれ、奇跡的に生き残った文化遺産を守るために必須の施策である。

1492年にキリスト教国の手に落ち、約800年にわたるイベリア半島のイスラム教徒による支配の終焉の地となったアルハンブラ宮殿は、その後、キリスト教化に伴う増築や軍事施設化を経て、一時は盗賊などが住みつく廃墟と化した。『アルハンブラ物語』のヒットを機に修復されたものの、一度は「死んだ」文化遺産として、損壊の危険と常に隣り合わせにある。

私たちが訪れた際も、優美な漆喰細工で知られるライオン宮の「諸王の間」は修復中でカバーがかけられていたし、解説板がほとんどないアルハンブラ宮殿において、目につくのはもっぱら「修復」に関連する掲示だ。放っておいてもメディアやガイドが豊富に語ってくれる宮殿の「光」だけでなく、建物のもろさや修復の必要性といった「影」の部分にも注目してほしいという、運営側の強い意思が感じられる。

大人の思惑はともかく、幾何学模様を刻んだ木製の扉や石の壁、石膏の装飾パーツや色彩豊かな陶器製のタイルといったさまざまな素材にふれた経験は、ただ「見る」だけだった美麗な天井よりも、よほど「手ざわり」のある印象となって娘たちの記憶の底に残るだろう。同時にそれは、多様な文字文化や、それを使う人々の存在に想像をめぐらせるきっかけにもなり得る。

いまは、ただ「ふれる」だけであっても、いつかこの経験を振り返るときこそ、人間の技術や想いの結集した文化遺産の価値や、保護の必要性について考える機会になるのかもしれない。それは独りよがりな事情と願望で幼児を連れてきてしまった私の、かすかな希望にもなる。

次ページ ふれて味わうアルハンブラ
1 2 3
 第三回

プロフィール

mina

大手報道機関での事件記者を経て文化遺産に傾倒し、学芸員資格を取って文化部記者に。ビジネス系ウェブメディアで働きながらアートメディアや要約サービスに寄稿。2025年に研究者の夫に同行し、幼い娘2人を連れてヨーロッパ11カ国、350件以上の文化遺産を鑑賞する旅に出た。

プラスをSNSでも