第3回では文化遺産鑑賞の「自由」について触れたが、子連れ鑑賞には「不自由」がつきまとう。自分のペースで鑑賞できないし、感想を言い合って鑑賞体験を深めるというのは難しい。ただ、子連れに限らず、何かができないということは、その何かを手放したり、別の何かを生み出したりするチャンスでもある。
3歳と6歳の娘を連れてヨーロッパ350カ所以上の文化遺産をめぐった記者の「私」の鑑賞顛末記。今回はスペインの至宝アルハンブラ宮殿で、子どもをきっかけに見開かされたもう一つの「目」から、視覚芸術の殿堂をのぞいてみる。
視覚の戦場
6月の夕暮れ、スペイン南部グラナダのアルハンブラ宮殿。ハイライトとなるライオン宮に入場するとき、私は憧れの地に来られたことにうっとりするよりも、見たいものを逃したくない「ハンター」の顔つきになっていたと思う。
薄曇りの空を映した白大理石の中庭は、テレビや雑誌で繰り返し見てきたとおり、細い水路によって十字に分割され、偶像崇拝が禁じられたイスラムの宮殿にあっては異物感のある12頭のライオン像が、中央でちろちろと水を吐きだしている。周囲を取り囲む円柱の華奢さは想像以上で、なめらかな質感はなまめかしい女性の肌を思わせた。中庭に面した「二姉妹の部屋」はふわりと咲く多弁の花のような天井の装飾があまりにも精密で、「視覚の戦場」という言葉が浮かぶ。構造を見極めようと目をこらしても、たちまち万華鏡のように焦点が分散させられ、とらえどころのなさに一層目を皿にすると、乳白色の装飾のまぶしさとドライアイで目がかすむ。
ふと、呼ばれた気がしてのけぞらせていた頭を元に戻すと、ソバージュの黒髪を波立たせた監視員の女性が目の前に立っている。「子どもを2人ともつかまえておいて」。両手を横に広げてジェスチャーする彼女の鋭いまなざしに射すくめられた私は、すかさず部屋のなかをチョロチョロしていた我が「二姉妹」をつかまえて、両手に確保した。
ライオン宮や、隣接するコマーレス宮は、壁や柱はおろか、中庭の植え込みすら「Don’t touch(さわらないで)」だ。観光大国スペインの文化遺産は概して監視員の数が多く、マナー違反には容赦なく注意が飛んでくる。子どもはだいたい警戒対象で、それまでも「子どもから手を離さないで」と、ミュージアムなどでたびたび言われていた。「目を離さないで」ではなく「手を離さないで」である。入場制限をかけても年間300万人近くが訪れる世界遺産アルハンブラ宮殿にいたっては、壁や柱にあらかじめロープが張られていたり、透明のカバーがかけられたりしていて、ケタ違いの厳しさが感じられた。
とらわれた宇宙人よろしく、娘2人に両手を封じられた私には不満が湧きおこる。これでは周囲のすべての観光客がやっているように、カメラをかざして「二姉妹の部屋」の天井を撮影できないではないか。見回すと研究者の夫はおらず、ヘルプを頼むこともできない。いまごろライオン宮のどこかでベストポジションを確保し、マニアックな写真を撮っているにちがいない。あちらは仕事とはいえ、うらめしい…!
しかたなく、両手を娘たちとつないだまま、ふたたび頭をそらせる。鍾乳石飾りと呼ばれるつぶつぶした装飾は奥行きのない花のように思えて、よく見れば小さなくぼみのついた無数のアーチ型の彫刻が複雑に織り重なり、じつは非常に立体的であることがわかる。ところどころに唐草文様や、青・緑に彩色された部分があり、壮麗さから「魔法使いが建てた」という言い伝えがあるアルハンブラ宮殿も、たしかに職人の手でつくられたのだと実感されてくる。写真を撮れないことでむしろ緊張感が高まり、パーツの一つ一つが粒立って見えるようだ。
そう言えば、宮殿の名を世界に知らしめた米作家ワシントン・アーヴィングの『アルハンブラ物語』(1832年)は、写真が普及していない時代の著作だ。縁あって宮殿に滞在したアーヴィングは自身の五感と、自称〝アルハンブラの息子〟マテオをはじめとする語り部たちの伝承によって、微に入り細にわたり宮殿を観察し、想像を遊ばせた。カメラは、鑑賞には必ずしも必要ではないはずだ。
とは言え、やはり写真を手元に残したい現代的な欲望にも抗いがたい。そうでなくても、さきほどから乾ききっている私の目は、「二姉妹の部屋」の上部の窓から差し込む光の効果なのか、それとも白いモノを見すぎたせいなのか、開けているのがつらくなってきた。まるで魔法使いの手下の妖精が、見えない鱗粉でも降りかけてくるようだ。
「ごめん、手を離してもいい? おかあさん、やっぱり写真撮りたい」。「いいよ」とうなずかれるやいなやスマホをかかげ、息を止めてカシャ、カシャと2回撮った。すばやくつなぎ直した手を軽く持ち上げて、鋭い目線を投げてくる(気がする)ソバージュ嬢にアピールする。

プロフィール

大手報道機関での事件記者を経て文化遺産に傾倒し、学芸員資格を取って文化部記者に。ビジネス系ウェブメディアで働きながらアートメディアや要約サービスに寄稿。2025年に研究者の夫に同行し、幼い娘2人を連れてヨーロッパ11カ国、350件以上の文化遺産を鑑賞する旅に出た。
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