〝遊び〟と〝鑑賞〟のあわい
のっぺらぼうの彼女に出会ったとき、〝遊び〟の狂騒曲がぴたりとやむのを感じた。
豪奢なモザイク画をめぐったあと、猛暑から逃げるようにして訪れたラヴェンナ国立博物館。もとは聖堂に附属する修道院だった建物の小さな受付を通り、中庭を囲む回廊にたどりつくと、サン・ヴィターレ聖堂の喧騒がうそのように静まりかえっていた。中庭との間を仕切る石壇はところどころ、つなぎ目が金属で補強されていて、その古びた石壇にちょこんと腰かけていたのがその少女。いや、少女像だ。
たぶんアート作品だが、詳しくはわからない。「さわらないでください」の表示も見当たらない。
頭部にはやわらかな線がうねっていて、毛髪の生命力が感じられる。白いワンピースからのぞくぽてっとした足には白い靴をはき、つま先が少し内側を向いているのが、いかにも子どもらしい。ベージュ色の肌はざらりとした質感があり、15〜16世紀の建造だというルネサンス様式の回廊にしっくりなじんでいる。けれど明らかに「異質」な、不思議なたたずまいの少女は、娘たちの心をまたたく間につかんだようだ。
長女は吸い寄せられるようにして石壇によじ登り、なぜかじっと右側を向いている少女の顔をのぞき込む。おもむろに肩に腕を回すと、まるで恋人を抱きよせるようにそっと体を近づけた。私はさっきまで駆け回っていた子どもが、これほど優しい手つきで人(像)を抱くことができるとは、想像もしていなかった。
親としては、やめさせるべきだったのだろう。
ただ、なぜか引き離したくないと思ってしまった。そこには「とにかくさわれればいい」という欲望とはちがい、愛情があり、畏れがあった。「さわる」というより「なでる」に近い。長女はやがて少女の顔に手を添えると、なにを思ったか自分の首に巻いていた手ぬぐいを当て始める。次女もまねしようとする。
ここでストップがはいる。近くの受付にいた女性スタッフが苦笑しながら止めに来てくれた。私はあわあわと謝り、「おこられた」と思った娘たちは悲しそうに石壇から下りた。年配の女性はなぐさめるようにして頭をなでてくれ、なにか言ったが、私は動揺して聞き取れなかった。いま目の前で、なにが起こったのだろう。

「なんで、手ぬぐいでふいたの?」と聞くと、長女はこう言った。
「暑いから、汗をかいていると思ったから」
彫刻が汗をかくと思った?!と、のけぞって会話を終えてしまったのが悔やまれる。それは〝鑑賞〟の萌芽だったかもしれないのに。
なんにせよ作品に対して感じたことを言葉にするのは、近年、大人に人気の「対話型鑑賞」や、子ども向けの美術鑑賞ワークショップでもたびたび行われる。ただの人形遊びとちがって見えたのは、長女のしぐさがじつに丁寧だったから。このような接し方を幼児に促す展示品は、レプリカやハンズオンなど「さわれる展示」のなかでもめったに見ない。
うまく言語化できたわけではない。学びを得たわけでもない。〝やりすぎ〟になってしまったのは(私が)猛省すべきところだ。ただ、もし〝遊び〟と〝鑑賞〟をあえて分けるとしたら、このときの接し方は、両者の「あわい」にあたるものではなかったか。猪突猛進で遊ぶのではなく、リスペクトと共感を持って作品に接する。
私は「そっとさわろうね」などと言っていない。子どもが自ら丁寧なかかわり方を選び、そんな態度を子どもから引き出したのは少女像だった。作品には、そうさせるだけのパワーがある。子どもにも、作品を大切にする心がある。「子どもは〝遊び〟はできても〝鑑賞〟はできない」とあきらめかけていた心に、ぽっと反証の灯がともったようだった。
プロフィール

大手報道機関での事件記者を経て文化遺産に傾倒し、学芸員資格を取って文化部記者に。ビジネス系ウェブメディアで働きながらアートメディアや要約サービスに寄稿。2025年に研究者の夫に同行し、幼い娘2人を連れてヨーロッパ11カ国、350件以上の文化遺産を鑑賞する旅に出た。
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