文化遺産「子連れ鑑賞」顛末記 第五回

〝鑑賞〟とはなにか 顔のない少女と幼児の出会いから考える

mina

「みること」が作品を育てる

マチルデはまだ、作者の手を離れてまもない〝子ども〟だ。将来、彼女がどんな存在になるかは、わからない。

一般に粘土の彫像は石やブロンズに比べて耐久性が弱いが、作者のグラッセッリは日本の「楽焼」にルーツを持つ特製粘土や、釉薬によるコーティングを研究し、粘土の生々しい質感を残しながら耐久性の高い作品づくりをしている。今後も長く博物館にいられるなら、Elisaが教えてくれたメンテナンスや見守り体制、鑑賞者からの愛情をかけられることで、博物館を代表する「名品」に成長するかもしれない。まるで、娘の友だちの将来をひそかに想像するような楽しみがある。

そんなマチルデへの追想と、文化遺産の鑑賞をめぐるモヤモヤが結びついて像を結んだのは、ヨーロッパから帰国したあとだった。あいかわらず「どうしたら子どもが文化遺産を楽しめるか」などと悶々と悩んでいるとき、図書館でふと手に取った美術教育に関する本で、創造と鑑賞との関係性を小難しく語るマルセル・デュシャンの言葉のあとに、著者は次のようにかみ砕いて説明していた。


 私なりに解釈してみますと、鑑賞者は見るなかで創造行為をおこなっている、鑑賞者も作品制作にかかわっているということです。反転すると、「作品は見る人によってつくられる」、つまり「見ることはつくること」というわけです。

(松岡宏明著『子供に子供の美術を』三元社、2023年、135頁)


こんなイメージだろうか。一つの作品を取り巻くさまざまな鑑賞者がいて、なかには子どももいる。子どもは別のことで遊んだり、つまらないと言ったりしているが、おそるおそる近づいて作品を優しくなでると、作品との間になんらかの感情や感覚が生まれる。そうやって、よく見て、場合によってはさわることによって他の鑑賞者と作品との間にもそれぞれの解釈や感情が生まれていき、作品はだんだんと姿を、「みえ方」(視覚とは限らない)を変えていく──。

この時点でまず、「子どもも私もワン・オブ・ゼムなんだ」という当たり前のことに気づく。親は子どもを絶対視し、作品との出会いを「一期一会」と考えがちで、「せっかくだからなにか吸収して!感動して!」と望みをかけてしてしまう。けれど、著者が言うように「見る人によってつくられる」作品にとっては、自分をかたちづくる鑑賞者の一人に過ぎない。遊ぼうが退屈しようが、とんちんかんな想像をしようが構わない。

それは子どもの能力を過小評価するのではなく、鑑賞に序列はないということだ。ときどき、鑑賞したあとになんらかの形でアウトプットする人はいるけれど、それは鑑賞の外の話。アウトプットの結果、それが作品の「みえ方」にまた影響を与えることはあっても、全員が作品と一対一で向き合っていることに変わりはない。

そんな作品と鑑賞との関係性を思うと、ラヴェンナ国立博物館に隣接していたサン・ヴィターレ聖堂も、ちがった姿で思い起こされてくる。

創建当初(547年)、この地の大司教が一度もラヴェンナを訪れたことのない皇帝夫妻への忠誠と、自身の権威を示すために建てた聖堂とモザイクには、そんな意図を知ってか知らずか、後世の鑑賞者たちがそれぞれの解釈を加えている。カール大帝は西ヨーロッパ世界の皇帝としてならうべき規範をビザンツ皇帝の肖像に見出し、八角形の聖堂を彼自身の宮廷礼拝堂(アーヘン大聖堂)の手本とした。詩人ダンテはモザイクを「色彩のシンフォニー」と絶賛し、この地で『神曲』を執筆。クリムトも「比類のない美しさ」と讃えたモザイクから、画業に決定的な影響を受けたことが知られている。

もちろん、歴代の鑑賞者はこんな有名人ばかりではない。無数の鑑賞者たちが意味づけし、〝育てた〟聖堂は今、世界遺産として普遍的な価値を獲得している。

サン・ヴィターレ聖堂(6世紀前半)の外観。世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」の8つのモニュメントのうち代表的な建築物の一つ。

さらに言えば、同じ鑑賞者でも状況によって生まれる感情・感覚は変わる。そんな具合で、鑑賞が生み出すものは無限に広がっていく。


 …ゴッホの《夜のカフェテラス》を見たとき、黄色と紺色の対比によって人々の賑やかさを感じる人がいるかもしれませんし、一方で、落ち着いた、夜の静寂を受け取る人もいるかもしれません。さらに同じ人が、朝、仕事に行く前に玄関に飾ってある《夜のカフェテラス》の複製画を見て生まれたアートと、夕方、疲れて帰ってきて見たときに生まれたアートは変化していることでしょう。そのような多様性や移ろい、ひろがりこそがアートの醍醐味です。

(前掲、138頁)


モザイク画の場合、時間帯や天候、季節、見る角度などによって実際に見え方が大きく変わるらしい。サン・ヴィターレ聖堂をつくった無名の職人たちはこのことを熟知していて、テッセラを均一でなく異なる向きに埋め込むことで多彩な輝きを生み出した。それはまるで、この聖堂がイコノクラスム(8〜9世紀にビザンツ帝国内で起こった聖像破壊運動)の混乱を生き残り、1500年後の今までさまざまな季節、さまざまな時間、さまざまな位置からさまざまな人によって鑑賞され続けることを、予見していたようではないか。

鑑賞を支える高度な修復技術は、現在もラヴェンナを中心に磨かれるだけでなく、先に述べた高精度のレプリカや現代モザイクに派生し、めぐりめぐってマチルデのようなモザイク以外のアートにもつながっている。広がる枝葉の先に、「虹さがし」やレプリカで遊ばせてもらった娘たちがぶら下がっている。

ここまで考えてようやく、大人も子どもも、鑑賞者が文化遺産にどう向き合えばいいか、「心がまえ」のようなものが見えてくる。と言っても、大上段にかまえるものではない。

身もふたもないが、自由でいいのだ。本質そっちのけで遊ぼうが、「つまらない」と吐こうが、周囲や作品に迷惑をかけない限りは問題ではない。ネガティブな反応も作品を育てる肥やしにならないとは限らない。作品を理解できないからといって鑑賞を敬遠する必要はない。幼い子どもでも引き寄せるパワーを持つ作品は絶対にあるし、そうでなければ、そのときは袖が触れ合う程度の縁だったというだけだ。

守らなければならないのは、作品に大切に接し、保存することだろう。そうすれば次の鑑賞者にバトンをつないでいける。別の機会に訪れて、別の感情や感覚を得ることもできる。

文化遺産やアートは、自らを育てる鑑賞者を待っていてくれる。今もラヴェンナの博物館の回廊で、じっと顔を入り口のほうに向けているマチルデのように。のっぺらぼうの顔を思うたび、子どもと文化遺産やアート鑑賞に向かう足がぐんと軽くなって、地面をける。

※写真は2025年6月に筆者が撮影

【参考文献】
『光の美術 モザイク』(益田朋幸著、岩波新書、2025年)
『ラヴェンナ ヨーロッパを生んだ帝都の歴史』(ジュディス・ヘリン著、井上浩一訳、2022年)
『子供に子供の美術を』(松岡宏明著、三元社、2023年)

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 第四回

プロフィール

mina

大手報道機関での事件記者を経て文化遺産に傾倒し、学芸員資格を取って文化部記者に。ビジネス系ウェブメディアで働きながらアートメディアや要約サービスに寄稿。2025年に研究者の夫に同行し、幼い娘2人を連れてヨーロッパ11カ国、350件以上の文化遺産を鑑賞する旅に出た。

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