『国富論』
アダム・スミスは、前回紹介したマンデヴィルが投げかけた「豊かさと道徳は共存可能か」という問いに正面から向き合い、両者は共存できると主張した経済学者でした。『国富論』の17年前に書かれた、もう一つの主著『道徳感情論』において、マンデヴィルの主張は言葉のごまかしに過ぎない、とスミスは批判します。
マンデヴィルの考えはほとんどの点で誤っている〔…〕尊敬に値する気高いことをしたいという欲求、すなわち自らが尊敬と是認にふさわしい対象になりたいという欲求を虚栄と呼ぶのは適切ではない〔…〕また、十分に根拠のある名声や評判への欲求、すなわち真に称賛に値することをして尊敬を得ようとする欲求も、虚栄と呼ぶべきではない。前者は徳への愛であり、人間本性における最も高貴で好もしい情念である。後者は真の栄誉への愛であり、たしかに前者より劣る情念ではあるが、その気高さは前者に次ぐと言えよう。[^1]
マンデヴィルは、人間の徳を悪しざまに言い立てるというトリックを用いて、この世が悪徳で満ちているかのように見せかけている――スミスはこう指摘します。彼は、「危険な学説について」と題した一章を丸ごと使って、猛烈にマンデヴィルを批判しています。しかし、裏を返せばそれだけの価値を見出してもいたようです。「この学説がどれほど有害に見えるとしても、何らかの点で真理にごく近くなかったら、あれほど多くの人を欺くことも、よりよい原理を信奉する人々にあれほど広く懸念を抱かせることもなかっただろう」。実際、以下で見るように『国富論』の論理は、マンデヴィルからそう遠いものではありませんでした。
『国富論』においてスミスは、マンデヴィルが言う通り、人間が基本的には利己的に振る舞っていることを認めます。人は、労働においても買い物においても、「私のほしいものをください。そうすればあなたの望むこれをあげましょう」というやりとりをしています。これをマンデヴィルに言わせれば、自分の利益のために相手を操ろうとしているし、操るために相手の利己心を刺激している、ということになるでしょう。しかしスミスは、このように「好意〔…〕をたがいに受け取りあう」からこそ、ひとりの人間が自分の衣食住すべてを賄う必要なく、自分の仕事に専念し技能を向上できるのだ、と好意的に評価しています[^2]。
また『国富論』は、現状の社会において富と道徳が両立できていないとする点でも、マンデヴィルの前提を引き継いでいます。スミス以前の経済学理論(重商主義)において、国の豊かさとは、すなわち金・銀・貨幣の量として定義されます。その理論に基づいて、輸入を減らし輸出を増大させることで、貿易黒字による「豊かさ=貨幣」を獲得することが目指されていました。したがって、労働者が生きていける最低限を超える給料の支払いや、貧困層でも買える安価な外国製品の輸入は、国を貧しくすると考えられ、抑制されていました[^3]。そのため、当時の貧しい労働者は悲惨な状況に置かれ、まさに豊かさのために道徳が犠牲にされていたのです。
この悲惨は、重商主義が「豊かさ」とは何であるかを見誤ったせいで引き起こされている、とスミスは批判します。「お金がたくさんあれば豊かである」という考えは自然に思えますが、実際には正しくありません。お金自体はモノと交換できる便利な道具にすぎず、お金自体が豊かさの実体ではないのです。
そもそも、なぜ人がお金を稼ごうとするかといえば、それを自分の欲しいモノやサービスと交換するためです。では、モノやサービスが、豊かさの本体なのでしょうか? スミスはもう一段深く考えました。たとえば一着の服を売って得たお金で、十袋の麦が買えるとしましょう。その場合、一着と十袋の間に何か等しいものが存在するはずですが、それは何でしょうか? 値段、という答えでは十分ではありません。まず初めに両者が何か等しいものを持っていたからこそ、その後に等しい値段が付けられたはずだからです。スミスは、その「何か」とは「商品に含まれる労働の価値」であると主張しました。
貨幣または財貨で買われる物は、われわれ自身の肉体の労苦によって獲得できるのとちょうど同じように労働によって購買されるのである。その貨幣、またはそれらの財貨は、じっさいこの労苦をわれわれからはぶいてくれる。それらはある一定量の労働の価値をふくんでいて、その一定量の労働の価値をわれわれは、その場合、等しい労働量の価値をふくむとみなされるものと交換するのである。
労働は、すべての物にたいして支払われた最初の代価、本来の購買代金であった。世界のすべての富が最初に購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである。[^4]
つまり、服一着と麦十袋は、両者を作るために必要な労働の価値が等しいために、同じ値段で取引されるのだ、と言っています。われわれは、労働することでお金を得て、そのお金で他人の労働の成果を買っているのです。
このことからスミスは、豊かさとはお金の量ではなく、どれだけのモノやサービスを手に入れられるかによって測られる、と主張しました。言いかえれば、豊かになるということは、より多く他人の労働を買えるようになることである、と定式化したのです[^5]。重商主義にとって豊かさの指標・豊かさそのものであったお金は、スミスにとっては交換に便利な道具以上のものではありません。労働こそが、「すべての商品の交換価値の真実の尺度」なのです。
スミスが労働を発明した?
フランスの政治哲学・社会学者であるドミニク・メーダは、このときのアダム・スミスが労働を発明したのだ、と主張しています[^6]。もちろん、ここでメーダが言う「労働の発明」とは、文字通りの意味ではなく、現代のわれわれが労働を理解している仕方、われわれにとっての労働の概念の発明を指しています。
本連載の初回で私は「古代や中世の農民・兵士・聖職者は、それぞれ自分たちと他の身分の人間が等しく『労働』なるものを行っているなんて思いもよらなかったはずです」と書きました。畑を耕すことと、敵を殺すことと、祈りを捧げることの共通点は何でしょうか? 別の言い方をすれば「労働」の定義とは何でしょうか? この問いに対し、愚直に無数の労働を調査して共通点を見つけようとしてみても、上手くいきそうにはありません。
しかしスミスは、おそらく本人も気づかぬままこの問題に思わぬ形で解答を与えました。それが、商品の交換を可能にする「真実の尺度」としての労働の発見です。
先ほどは詳しく触れませんでしたが、「労働の価値」とは、一体どのようにすれば測れるのでしょうか? スミスは、労働の時間と質という二つの基準を考えます。たとえば、1時間のつらい労働と2時間の簡単な労働は、どちらがより高い価値をもつのでしょうか? この点について、スミスはかなり歯切れが悪いです。「つらさにせよ、創意にせよ、それの正確な尺度を見つけ出すのは容易なことではない。〔…〕正確ではなくても日常生活の業務を十分にやってゆけるようなおおよその同等性でもって、市場のかけひきや交渉により調整されるのである」[^7]。
つまり、スミスの主張をまとめればこうなります。労働とは価値の尺度であり、価値の尺度とは市場でおおよそ調整されるものである。すなわち労働とは、市場でおおよそ調整されるものである。おかしなことを言っていますね。実際、スミスの後の経済学者たちの多くは、『国富論』のこの理屈を批判しています。
しかし、単純に誤りかというと、そうは言い切れません。メーダは、スミスが 「労働を研究対象としないような研究の帰結」として、労働自体をいくら研究しても決して見えてこない、「交換に根拠をあたえることを本質的な属性とする計算と尺度の道具」としての「労働」を発見した、と評価しています[^8]。確かにこの定義は、完全に抽象的で道具的であり、実際の労働がもつ、体の動作とか汗とか知能の活用といった具体性が入り込む余地はありません。
しかし「より豊かでより大きな労働の現実とか概念〔…〕に比して、経済が単純化をおこなってしまった、と思わないように」気をつけねばならない、とメーダは注意を促します[^9]。というのも、すべての労働が汗をかくわけではないし、全ての労働が知能を活用するわけでもありません。そうした具体的には全くばらばらの行いを「労働」という一つのカテゴリーで把握するという考えを、スミスが発明したのです。
具体的な共通点がないのであれば、抽象的な共通点を見出すしかありません。それによって初めて、ソクラテスや中世の聖職者が使っていたよりも多くの行動を含む「労働」という概念が生まれたのです。だから「スミスは労働の現実を無視した机上の空論だ」という批判は、スミスが発明した抽象概念としての「労働」に全面的に依存したものになってしまいます。
結果として、『国富論』のこの箇所は後の経済学者たちから猛烈な批判を受けたにもかかわらず、スミスが生み出した「労働」という抽象概念それ自体は、現代の制度や認識を成り立たせる前提として、今なお生き続けています。
生産性向上の起源
現代のビジネスでは当然の、「生産性の向上が重要だ」という認識の起源も、『国富論』です。労働者が今より多くのモノを手に入れ豊かになるためには、労働の量か質を向上させる必要があります。スミスは、労働する時間・人数を増大させるという量的な方法では、労働者が摩耗してしまい、持続的な豊かさを得られないことを知っていました[^10]。それに対し、生産性の向上は、労働者の収入を上昇させると同時に、より多くのモノを社会に送り出すため、格差があるとしても「人民の最低の階級にまで普遍的な富裕がゆきわたる」だろう、とスミスは言いました[^11]。
スミスは、生産性の向上のための最も重要な要素として、分業に注目しています。たとえばピン作りの素人が一人でピンを作ろうとしても、「一日に二十本どころか、一本のピンさえも」作れないでしょう。しかし、工場において分業を行えば、はるかに多くのピンを生産できるはずです。その工場では「ある人が針金を引きのばし、次の人がそれをまっすぐにし、三人目がこれを切り、四人目がそれをとがらせ、五人目は頭部をつけるためにその先端をみがく。頭部を作るのにも、二つか三つのべつべつの作業が必要で、それをつけるのが特別の仕事であるなら、ビンを白く光らせるのも、一つの仕事である。ビンを紙につつむのさえ、それだけで一つの職業なのである」というふうに、ピン作りの工程を細かく分業化します。そうすれば、10人の未熟な労働者たちでさえも、1日あたり48000本のピンを生産できるだろう、とスミスは言っています。「針金引き伸ばし職人」や「ピン磨き職人」たちの集団は、熟練した鍛冶職人よりも素早くピンを生産できるだけでなく、しかも一人前になるまでの修行期間も不要です。その結果として、生産性は向上し、国は豊かになるはずだ――そうスミスは分業を讃えます。
なぜ、分業がそれほど生産性を向上させる力を持っているのでしょうか? スミスは、三つの理由を指摘します。第一に、分業は「その人の生涯のただ一つの仕事」を、針金をのばすなどの単純な作業に分解するため、技能の向上が容易になります。第二に、一人の作業を一種類に限定することで、ある作業から別の作業へ移る時間のロスが削減できます。そして第三に、それぞれの動きが単純なため、いずれは機械に任せて、人手を他の仕事に回すことができるようになる可能性があります(『国富論』の数年前に、ワットが蒸気機関を実用化しています)。スミスの主張が正しかったことは、現代の自動車やスマートフォンなどの工場が、ここで描かれた分業の原理を体現している事実によって証明されています。
しかし、気になることがあります。「その人の生涯のただ一つの仕事」が針金をのばすことである職人は、豊かになれるとしても、自分の仕事に誇りを持ち、幸せに、道徳的に生きることができるのでしょうか? スミスもそのことに気がついてはいました。
分業が発達すると、労働によって生活する人々、つまり人民の大多数の仕事は、少数のごく単純な作業にかぎられる。ところが、大部分の人々の理解力というものは、日常の仕事によって必然的に形成されるものである。一生涯少数の単純作業を繰り返している人は、人間として可能なかぎり、愚かで無知になり、感情も荒れ、私生活上の日常の義務や国の利害についても正しい判断がもてなくなる。〔…〕かれの特定職業における巧妙さは、知的、社会的、軍事的な徳性を犠牲にして獲得される。[^12]
その対策としてスミスが考えたのは、下層民でも受けられる義務教育を充実させるべしという、いささか頼りないものです。スミスは、下層民への教育によって社会が得られる利益を力説しています。「教育を与えれば与えるほど、無秩序をひきおこす熱狂や迷信にとらわれなくなり、秩序正しくなり、反乱や扇動のうらにある利己的不平を見抜くこともでき、政府の施策に無用な反抗をすることも少なくなる」。たしかにその通りかもしれません。しかし、スミスは次のことを見落としています。教育を受ければ受けるほど、自分の生涯を針金のばしに費やし、「人間として可能なかぎり、愚かで無知に」なっていくことは、より耐えがたく感じられるだろう、ということを。
単純作業の弊害は、産業革命以後の工場において、はっきりと現れることになります。
産業革命に逆らう労働者
スミスが『国富論』を書いたのは、産業革命の開始とほぼ同時期でした。そのため「ピン工場」には機械が登場せず、手工業として描かれています。刊行のわずか数年後から、蒸気や水力の力を用いた大規模な工場が、従来の家内制手工業などを圧倒するようになりました。スミスの理論が現実化したと言えるでしょう。
しかし、それは経済学者にとっては理想的な進歩であっても、労働者にとっては苦難の始まりでした。たとえば、産業革命期の工場において新しく生まれた規則に、定時出社の厳守があります。個人や小規模な工房ならともかく、何十人・何百人を一斉に集め、大量の燃料を消費する工場が、誰かの遅刻のせいで止まってしまうのでは困ります。しかし、定時出社は現代では当然の義務であっても、当時の人々にとっては、唐突に現れた耐えがたい束縛として感じられたようです。
産業革命初期・1806年の靴下工場の管理者は、次のように嘆いています。「規則正しい時間や習慣に対して労働者が極度の嫌悪感を持つことがわかった。〔…〕労働者は好きなタイミングで作業を始めたり止めたりできず、好きなように休日を取れず、これまで通りの生活ができないことにかなり不満をいだいていた。〔…〕彼らはシステム全体に嫌悪感を抱くようになり、私はシステムを諦めざるを得なかった」[^13]。また別の会社では、月曜日の始業時間に2~3時間以上遅刻した労働者を、「退職したという合理的な仮定」に基づいてクビにしていった結果、毎週20人の退職者が発生し、年間でほぼ100パーセントの離職率を記録したといいます。
現代から見るとあまりに無秩序に思えますが、別に当時の労働者たちが怠け者であったわけではありません。彼らはむしろ、現代よりもずっと長時間の労働を行っていました。たとえば産業革命直前の1747年の就職案内書では、ほとんどの業種において、労働時間は「午前六時から夜八時まで」と定められています[^14]。
とはいえ産業革命以前の長時間労働は、その後の工場や現代のオフィスにおける長時間労働とは事情が異なりました。たとえば当時のヨーロッパには「聖月曜日」(St. Monday:月曜日をSt. Valentine’s dayのような祝日に引っ掛けた言い回し)の習慣が存在しました。当時のバラッドは次のように歌っています[^15]。
月曜は日曜の仲間だけれど、
火曜が来れば仕事にかかろう。
働くからにゃ陽気にやろう
必要なカネを稼ぐのだから。
1816年のイギリス国会でも、職人たちは「月曜日にはたいてい一日中遊び、火曜日もほとんど遊び、木曜日には夜遅くまで働き、金曜日には頻繁に一晩中働く」と報告されています[^16]。
つまり、産業革命以前においては、一週間単位で見れば長時間労働であっても、労働者たちにある程度の裁量があったのです。産業革命後の労働者が工場に覚える耐え難さは、単なる長時間の労働にあったのではなく、会社や機械の都合によって決められたスケジュールを上から強制される、という点にありました。
言うことを聞かない社員へどう対処すべきか?―上司にとっては永遠の悩みでしょうが、そこで思いつかれる解決策もまた、永遠に似たようなものなのかもしれません。つまり、アメとムチです。
労働者へのアメとしては、現代と同様に、飲み会などのレクリエーションが用意されました。当時の工場では、「労働者とその子ども五百人を招いた祝宴」を開いたり、「主任労働者と木の実拾いの遠足に出かけ、その後豊かな夕食でもてなした」という記録があります[^17]。しかし、現代において上司の開く飲み会が期待通りの効果を上げることが多くないのと同様に、当時も効果は芳しくなかったようです。
他方でムチもまた十分な成果を挙げられませんでした[^18]。体罰は当時でさえ時代遅れの方法と考えられており、子どもに言うことを聞かせるための方法として、最低限の使用に留められていました。罰金は、軽微な違反に対してもっとも一般的な罰でした。しかし、雇用主自身が罰金を懐に入れようと、違反とも呼べない違反に対して過大な罰金を課す傾向があり、労働者の不満の種になっていました。解雇は、その地域に他の工場がない場合にはよく機能しましたが、労働市場が売り手優位の状況では十分な罰にはなりませんでした。この結果を歴史家のシドニー・ポラードは次のようにまとめています。
「ムチ」による抑止力のシステムは、産業に規律をもたらす完全または永続的な基盤となることはまったくできなかった。恐怖とは粗雑で不器用な道具であり、すぐに鈍り、また浪費的でもあった。それが作り出したのは人々の服従であって、労働者を自発的に働かせることでも、良い仕事をさせることでもなかった。それが生み出したのは従順の習慣であり、勤勉の習慣ではなかった。[^18]
規律訓練
アメでもムチでもない、この時代に現れた第三の手段が、フーコーが「規律訓練」と呼んだ方法です。それはまさに求められていた、「単に他の人々にこちらの欲する事柄をさせるためばかりでなく、こちらの望みどおりに、技術にのっとって、しかもこちらが定める速度及び効用性にもとづいて他の人々を行動させるため」の「身体を従順かつ有用にする技術」です[^19]。規律訓練が新しかったのは、「最大限に詳細に時間・空間・運動を碁盤目状に区分する記号体系化にもとづいて行われる」点にありました。
こう聞くと、想像もつかない途轍もない技術のようですが、誰もが知る現代の学校こそ、典型的な規律訓練の場です。 たとえば、フーコーは規律訓練における罰の特徴として、罰金や文字通りのムチのような「規律違反への報復」ではなく、「義務の繰り返し、義務の反覆の強要」という性質をもつことを挙げています[^20]。つまり、勉強ができない罰として、殴るのではなく追加の宿題を出す、ということです。また習熟の度合いを「記号体系化」された試験の成績によって示すことは、アメとムチとして機能するだけでなく、生徒に自身の位置を継続的に意識させ続ける方法でもあります。そして学校は、かつては修道士ぐらいしか用いていなかった、「碁盤目状」の時間割に沿った、規則正しい生活を身につけさせる場所でもあります。
そのような規律訓練の場としての学校において、人は「比較し差異化し階層秩序化し同質化し排除する。要するに規格化するのだ」、とフーコーは言います。これは、ただ遅刻する度に罰金を徴収するだけでは、到底成し得なかったことです。スミスが論じた教育の重要性は、部分的には正しかったと言えます。しかし、スミスが期待したのとは異なり、単純作業の繰り返しの中でも道徳的に生きられるようにするためではなく、誰もが同じように、規格化された単純作業を繰り返せるようにする場所として、学校は機能しました。
規律訓練の象徴的な例として、功利主義で知られる哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した、パノプティコンという独特な監獄をフーコーは挙げています[^21]。 パノプティコンの構造は、円筒状の建物を細かく区切った独房と、円筒の中心に建てられた監視塔からなります。独房から円筒の外側を見れば窓があり、内側を見れば塔が見えます。その構造によって、塔の内部からは、逆光を受けたシルエットとして、すべての囚人を一望できるようになっています。
しかし、パノプティコンの画期性は、単に看守が囚人を一望できることではありません。そうではなく、塔の内部が見えないようにされていて、囚人の目には看守がいるのかどうかさえわからない、という点が重要なのです。看守が今自分を監視しているかどうかが分からなくても、囚人は常に「見られているかもしれない」可能性を意識して行動せざるを得ません。その意識さえ持たせれば、あとは塔の中には誰もいなくとも、囚人たちが勝手に規律に従ってくれるようになるのです。そうなるともはや囚人たちを従わせているのは、看守ではなく、綿密に構築されたシステムと、囚人たち自身の意識です。
パノプティコンは計画に留まり、実際に建造されることはありませんでした。しかし、「精神に、精神をもとにした権力を与える」ことで、最小限の設備や人手によって大勢を効率的に管理できるパノプティコンの思想は、軍隊・職場・学校・病院など、今や社会の様々な場所に拡散している、とフーコーは指摘しています。
わかりやすい例を挙げるとすれば、テレワークにおけるサボり検出システムが、「いつ・どのように・何を」チェックしているかを労働者に隠していれば、労働者は「いつ・どのように・何を」見られても大丈夫なように、「永続的な自覚状態」の下で働かざるを得ません。そのような高度なシステムでなくとも、たとえば数値によるノルマ管理や、ベルトコンベアによる作業スピードの強制なども規律訓練の一種と言えます。
以上のように産業革命期においては、仕事の内容やスピードが変化しただけでなく、労働者と労働の関係それ自体が、より厳格に、より効率的に管理されるようになりました。この変化は、経済学者と工場の管理者にとっては喜ばしいものであったかもしれませんが、労働者にとっては苦しさの増大をもたらしました。その苦しさは、やがて許容範囲をはるかに超えていきます。マンデヴィルが提示し、スミスが解くのに失敗した「豊かさと道徳の両立」の問題は、後の経済学者たちに引き継がれ、社会制度の改善が模索されることになります。次回は、当時の工場労働の実態に、マルクスが下した診断から始めます。
(次回へつづく)
参考文献
川北稔(1987)「時は『カネ』か『敵』か――前工業都市の『非労働時間』」川北稔編『「非労働時間」の生活史――英国風ライフ・スタイルの誕生』リブロポート
アダム・スミス([1759]1790=2014)『道徳感情論』村井章子・北川知子訳、日経BPクラシックス
アダム・スミス(1776=1980)『国富論』玉野井芳郎・田添京二・大河内暁男訳、中公バックス
ミシェル・フーコー(1975=1977)『監獄の誕生――監視と処罰』田村俶訳、新潮社
ドミニク・メーダ(1995=2000)『労働社会の終焉――経済学に挑む政治哲学』若森章孝・若森文子訳、法政大学出版局
Pollard, Sidney. (1963) “Factory Discipline in the Industrial Revolution” The Economic History Review 16(2): 254-271.
註
[^1]: スミス([1759]1790=2014)§7.2.4
[^2]: スミス(1776=1980)§1.2
[^3]: スミス(1776=1980)§4.8
[^4]: スミス(1776=1980)§1.5
[^5]: スミス(1776=1980)§0、§1.5
[^6]: メーダ(1995=2000)§3.1
[^7]: スミス(1776=1980)§1.5
[^8]: メーダ(1995=2000)§3.1
[^9]: メーダ(1995=2000)§3.2
[^10]: スミス(1776=1980)§0、§1.8
[^11]: スミス(1776=1980)§1.1
[^12]: スミス(1776=1980)§5.1.3.2
[^13]: Pollard (1963)§1
[^14]: 川北(1987)
[^15]: 川北(1987)
[^16]: Pollard (1963)§1
[^17]: Pollard (1963)§1
[^18]: Pollard (1963)§2
[^19]: フーコー(1975=1977)§4.1
[^20]: フーコー(1975=1977)§4.2
[^21]: フーコー(1975=1977)§4.3
プロフィール

あいかわけい 生活保護受給者。30代、無職、職歴無し。不登校による高校中退後、大学で社会学・哲学に没頭するも留年を重ね除籍。古代哲学から現代社会論までを横断する、歴史に根ざした生活の思想を展開している。note(https://note.com/kei_aikawa)においても、本連載を補足する記事を執筆している。
相川計





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