公式が旗を振ってほしい
本連載第4回で、ある種のファンダムと「隣組」的な告げ口文化の親和性が高いことを指摘した。隣組とは太平洋戦争中の日本に存在した配給・防災・防空・防諜などの業務を担っていた地域組織だが、組員同士で監視し合い、不満や反対思想を持つ者を密告(告げ口)する機能も有していた。
ファンダム内にも、「公式に通報します」といった告げ口ムーブや、「それは不適切なふるまいだから、公式に何か言われる前に私が注意してあげる」といった相互監視ムーブが存在する。(連載第4回より)
昨今発生した相互監視ムーブの典型的事例として、タイプロ同人誌炎上事件を挙げておこう。
2026年3月、男性アイドルグループtimelesz(タイムレス)の追加メンバーを決定するオーディション企画「timelesz project(タイプロ)」に関する評論系同人誌の作り手が炎上した。timelezは旧ジャニーズのSexy Zoneを前身とするグループであり、このような同人誌はジャニーズファン界隈のルール「事務所の非公認本は作らない・買わない」に反する――というわけだ。当然ながら、公式(所属事務所であるSTARTO ENTERTAINMENT)は本件に対して反応せず、公式の注意勧告もしていないが、「同人誌を派手に宣伝したこと」がファンの間で“不適切”と捉えられ、糾弾された格好である。
この騒動をリアルタイムでウォッチしていた某男性アイドルグループファンのLさん(30代女性)は、「Xでの突っかかられ方は“学級会”の域を出てなかった」と振り返る。「今日△△ちゃんは給食でにんじんを残しました。好き嫌いはいけないと思います。そう思う人〜!」「はーい」「はーい」「はーい」「じゃあ△△ちゃんは、みんなの前で謝ってくださーい!」というやつだ。
なぜ、にんじんを残したら教室中のクラスメートに謝罪する必要があるのか。糾弾者に問えば、きっとこう答えるだろう。「先生が好き嫌いは良くないって言ってたから」「ニュースでフードロスが問題になってるって言ってたから」
Lさんは続ける。
「そもそも評論同人誌というものを知らない人が多くて、ファンアートや小説といった二次創作との区別がついていないがゆえのハレーションはありました。ただ、それを指摘されても『事務所のHPにはこういうふうに書いてある!』と肖像権や著作権の注意書きを振り回す人が結構いたんです。
ここ数年の傾向ですが、二次創作を含めて、オタク同士の中で何か気に入らないことがあると『気に入らない』と意見表明するのではなく、公式や法律を金科玉条のように掲げる人が増えました。この一件ではそれが特に顕著だった気がします」(Lさん)
この金科玉条がすなわち、「先生が言ってた」や「ニュースで言ってた」である。ちなみにLさんは連載過去回で何度か登場している某男性グループアイドルファンDさん(40代女性)の友人だが、そのDさんはこんなことを口にしていた。
「今はとにかくSNSが混沌としています。情報が錯綜していて、誹謗中傷と批判の境目も区別がつかなくなっている。そこは公式が旗を振ってほしいんですよね。公式はちゃんと仕事してくれってことです。私たちはそこにカネを払ってるんで」(Dさん)
ファンダム内には明確な意思決定機関や裁定機関がない。ローカルルールがはっきりと明文化されているわけでもない。そのためファン同士で荒れると収拾がつかなくなる。そういった中、混沌を「仕切る」ことができるのは公式以外に存在しない。少なくともDさんはそう考えている。
公式は「調停」する
『新写真論 スマホと顔』『マンションポエム東京論』などの著書がある写真家・ライターの大山顕は、公式に期待されているこのような機能を「調停」と形容する。
「公式に旗振りを求めてる人は、絶対的な正しさを求めているわけじゃなくて、公式がこういう見解を出したという事実だけが欲しい。それによって界隈のややこしさや面倒くささが解消されるので。要は、調停してほしいんですよ」
調停とは、揉めている当事者の間に第三者が入って仲裁することだ。裁判のように勝ち負けを決めるのではなく、お互いを和解させるのが目的である。
紛争の当事者は自分の主張を通したいし、相手に頭を下げたくない。しかし利害関係のない権威ある第三者の決定であれば、比較的素直に従うことができる。「公式がそう言っているから」という決定は、振り上げた拳を下ろすための最高のエクスキューズなのだ。
なお、大山は都市論に明るい団地研究家にして、「工場萌え」の立役者としても知られる趣味人だが、趣味として団地探求をするにあたり、公式に問い合わせようとしたことは一度もなかったという。
「団地がおもしろいと思って追っかけを始めたとき、公団(旧・日本住宅公団、現・都市再生機構)に話を聞きに行こうとは一度も思いませんでした。僕らがやりたかったのは、のめりこんだり、没頭したり、熱中したりすることであって、公式という存在なんてどうでもよかった。僕ら自身が対象に対してどう向き合うか、という話なので。
ただ、どんな趣味分野でもそうだと思うんですが、人が増えて“界隈”が形成されると、趣味的なサブカルだったものが〈公式の仕切る文化〉に変貌して、趣味じゃない何かになる。比喩的に言えば、〈ゲーム的〉な様相を帯びてくる。どういう武器を持っている奴が有利で、敵はこういうスペックで、といった界隈を統べるルールが形成されていく」(大山)
「事務所の非公認本は作らない・買わない」もある種のルールだ。そういったルールをプレイヤーが受け入れる際の混乱を収めることや、プレイヤーのふるまいがルールに抵触しているかどうかの判定は―ゲームの比喩で言えば―プレイヤー自身にはできない。それができるのは、ゲームマスターとして世界観の維持管理を行っている、調停者としての公式だけだ。
公式を調停者に見立てると、連載第4、5回で言及した「公式とジャーナリズム」や「公式と批評」の相性の悪さにも、より一層合点がいく。ジャーナリズムや批評の機能は「状況に波風を立てること」だが、調停のそれは「波風を収め、ややこしい状況を沈静化/鎮静化すること」。真逆なのだ。両者が相容れないのは当然である。
公式という存在に「どうしようもなく日本的なるもの」を見出そうとするのが本連載の目的のひとつだが、「波風を立てない」や「沈静化への尽力」ほど日本的な立ち居振る舞いはない。それらが閾値を超えれば瞬時に事なかれ主義が蔓延する、という意味においても。
調停者としてのGrok
Dさんが公式に旗振りを求める背景には、「SNSの混沌」があった。
たしかにSNS、特にTwitter(現X)の登場はあらゆる議論を混沌化した。Twitterは短文連投という仕様上、議論の経緯を漏れなく追いかけたり、陣営別の見解を整理したりすることには、絶望的に向いていない。
しかも、議論には経緯を踏まえず直情的な感想だけを投げる者、間違った認識に基づいた自説を滔々と述べる者、その間違った主張の一部を切り取って拡散する者、意図的な論点ずらしを連発して議論に混乱を来す者などが大量発生し、あっという間に収拾がつかなくなる。
多くのネットユーザーは、そういった状況に辟易している。とはいえ議論の全貌を把握するには多大な労力を必要とするので、そんな労力は払いたくない。
そこに颯爽と登場した調停者がいる。生成AIだ。
昨今では、ネット上、おもにSNS上で何かが議論になると、すぐに誰かがAIの回答をスクショしてポストする。その心は「生成AIはこう言っているのだから、これが正解ですよね?」。ポスト主のドヤ顔が透けて見える。
そこに回答内容を疑うようなリプを投げようものなら、「生成AIが言ってるんだから、自分に言われても困る」と来る。「自分は皆の代わりに問い合わせただけなので、回答の内容に責任を負う義理はない」ということだ。
著名なビジネスインフルエンサーや起業家が、XのポストでAIに聞いた結果を特に疑いもなく、信用に足る“公式”的な情報として挙げてくるケースは、もはや珍しくない。また、マスコミの「偏向報道」を疑うネットユーザーの中には「生成AIのほうが公正・中立・正確な情報を出してくれる」として相対的に高い信頼を寄せている者もいる。
X上に議論を巻き起こすような真偽不明のポストが投下された場合も、必ずと言っていいほど「@grok 真偽を教えて」といったポストが返信ツリーに紛れ込んでくる。Xに連動した生成AI であるGrok(グロック)に、混沌とした状況の整理と着地点(答え)の提示を求めているのだ。
ここにおいてGrokは、明らかに調停者としての機能を期待されている。
生成AIは「新たなる公式」
依然としてハルシネーション(幻覚/生成AIが誤情報をあたかも事実のように出力する現象)のリスクがあるにもかかわらず、生成AIがこれほどまでに調停的役割を期待される理由は、ひとつしかない。
人間ではないからだ。
ネット上あるいはSNS上では、専門家であれ識者であれ、この現実世界で「何かしらの立場」をもって生きている人間である以上、ポジショントークを疑われる。完全なる公正中立は保証されない。利害関係のない、完全なる第三者としての調停者にはなりえない。
一方のAIは人間ではなく、立場も感情もないので、ポジショントークをする必要がない。それゆえに完全なる第三者たる調停者として信用される。
連載第3回で述べた「公式の自我が邪魔くさい」を思い起こさせる。公式=調停者にパーソナリティは不要。キャラはいらない。自我を感じさせない公式がもっとも信用されるのだ。
さらに同回では、公式のformula的性質として「決まりと手続きの重視」を挙げた。個人の情緒的判断を挟むことなく、事前に決められたルールとデータのみに基づいて機械的かつ正確無比にジャッジする姿勢こそ、人々が公式に求めるものだ。
そういった意味では、本連載で再三こすっているアニメ専門誌のインタビュー原稿の“監修”ほどAIに向いている業務はない。クリエイターへのインタビューそのものは人間のライターが行い、生成AIにはそのインタビュー音源、作品本編および公式に発表している全資料、製作委員会が策定した宣伝方針や情報出しルールなどを飲み込ませ、文字数と打ち出したいポイントをプロンプトで指定し、原稿を作ってもらえばいい。公式による監修をあらかじめ織り込んだ、修正の余地が一切ない、“完璧な”原稿の出来上がりだ。
自我を持たず、情緒を排し、事態を沈静化させる解を瞬時に出すことのできる生成AIは、現代社会における「新たなる公式」そのものである。
自分で決めたくない/誰かに決めてほしい
調停者としてのAIや公式を重宝する心理の根底には、「決断の責任を取りたくない」という、現代人の強烈な回避本能がある。何かについて考え、その末に出した結論がもし「間違っていた」場合に、責任を取りたくない。糾弾されたくないし、辱められたくないし、恥ずかしい思いをしたくない。もっと言えば、時間をかけて脳みそを回したにもかかわらず何も報われないのは、コスパが悪すぎる。
だからAIにジャッジを代行してもらう。多少の不正確が含まれるかもしれない可能性は、「責任を取らなくていい」というメリットがねじ伏せる。
連載第1回で言及した「公式に問い合わせちゃう問題」はここに根ざしている。公式に直接、「二次創作していいですか?」と許可を求める人が増えている背景には、明らかに「自分で決めたくない/誰かに決めてほしい」という気分がある。
調べごとにおいて生成AIが検索エンジンよりも重宝されるのは、生成AIのほうが検索エンジンよりも正確だからではない。検索は複数の情報から「正しさ」を自分自身で選ぶ責任が発生するが、AIは“彼”自身の責任のもと、唯一の回答を提示してくれるからだ。選択の責任を相手に転嫁できることこそが、ユーザーにとって最大の快適なのである。
「日本人ファースト」という世界観
「自分で決めたくない」という他責思考には、「目の前の問題や現状を自分で言語化する労力をかけたくない」という気分も含まれている。
何かを自力で言語化できない者は、誰かが既に行った言語化を追認することしかできない。何かについてうまいこと言っているXのポストをリポストする、「いいね」する、あるいはAIに文章をゼロイチで作成してもらう。これらは「用意された言葉に納得するだけの簡単なお仕事」であるという点において共通している。指一本でできる事後承諾だ。
こうした構造は政治にも見られる。
いっとき「日本人ファースト」という標語が思いのほか多くの人に受け入れられた理由も、そこにある。この言葉は、さまざまな社会状況が複雑に折り重なった結果ある種の人たちが感じていた生きづらさの解決法を、極度に単純化してワンワードに凝縮したものだった。
ジャーナリストの柴田優呼は、2025年8月の参院選で「日本人ファースト」を掲げた参政党が躍進したことを受け、以下のような持論を述べている。
「[…]問題は、ではどんな政策が行われればましになるのか、(人々が)はっきりわからないでいる、ということがあるように思う。そうした生きにくさを表現するために、日本人全体という極めて大まかに網をかけた話に飛びついて、不満を表明しているのではないだろうか」(「外国人に仕事を奪われたわけでも治安が悪化したわけでもないのに…『日本人ファースト』がウケた深刻な理由」PRESIDENT Online/2025年8月12日)
漠然とした、しかし切実で耐えがたい不満があったとする。しかし、それを言語化する能力がない者、言語化する労力を割きたくない者、あるいは言語化して公に発表する覚悟がない者は、自分ではない別の者が放った言語化の尻馬に乗る。細部の検証も発言の責任も不要だ。リポストと「いいね」で、とりあえず溜飲は下げられる。
「そうそう、俺もそう思ってた! 俺がずっと言いたかったことは、それなんだよ!」
連載第3回で述べた「他人が作った世界観に浸る楽さ」と同じ。何かを自分で一から組み上げるより、公式が提供する夢に乗っかるほうが労力がかからない。脳を回さなくていいので、コスパがいい。
公式は、快適な世界観を構築してファンをそこに引き入れる。ある政党が、耳当たりのいい世界観を構築して支持者を集めるのと、たいして変わらない。その世界観を守るため、ファンはカネを出し、支持者は票を入れる。それだけの違いだ。
正しいのび太より、頼もしいジャイアン
「SNSが混沌としていて、情報が錯綜しているからこそ、公式に旗を振ってほしい」というDさんの言葉は、現代社会の潜在的欲望を象徴している。
何が本当か嘘かわからない。誰かにとっての正義は誰かにとっての悪。世界情勢は複雑を極め、どの国がどの国の敵なのかが即答できない。各国のパワーバランスは日々変化し、物の価値は一瞬で下がり、あるいは爆上がりし、数年後に元気な産業と消える産業の予測もつかない。
あるポリコレ判断が行き過ぎなのか足りていないのかは、関係する人たちがどんなコミュニティに属しているによって、まるで変わる。何かを発言すれば、誰かの癇(かん)に障(さわ)る。良いと思ったものは誰かに罵倒され、クソだと感じたものが誰かにとってのプレシャスだったりする。
だいたい、SNSのアルゴリズムひとつとっても信じられない。拡散や閲覧を最大化するルールはろくに開示されず、予告なく変更され、昨日までの必勝法が今日は使えないゴミになっている。
そういう時代に求められる旗振り役は、「とりあえず決めてくれる人」だ。熟議を重ねて正解を模索するのんびり屋ののび太ではなく、乱暴者で独善的だが決断だけは断固としているジャイアン。熟議のプロセスは「正しい」のかもしれないが、そんなことをしている間に、生活はどんどん苦しくなる。早いとこなんでもいから決めてほしい。能書きはいいから早く調停してほしい。
臆面もない排外主義者にして、人格的に決して褒められた人間ではないドナルド・トランプが、なぜ2016年と2024年の2度もアメリカ大統領に選ばれたのか。人間性に難があることくらい、大多数のアメリカ人はわかっているだろう。たぶん、トランプは調停者としての力量を買われたのだ。ヒラリー・クリントンやカマラ・ハリスよりは―ジャイアン的な意味において―「ちゃんと仕切って」くれそうだと考えたアメリカ国民が、彼女たちの支持者よりも幾分か多かったということだ。
ちゃんと仕事をするジャイアン、それこそが調停者たる公式に求められている資質である。時代は、人は、「正しさ」より「頼もしさ」を選ぶ。おそらく、やがて日本でも。
正解を超えた安心
「調停」から連想される代表的な手続きに「離婚調停」がある。夫婦間の話し合いによる協議離婚で解決しなかった場合、家庭裁判所を入れて解決を図るためのものだ。それでも夫婦が合意に至らなければ離婚訴訟に進む。
離婚調停における調停者は裁判所だが、裁判所は夫婦のあるべき形(=正解)を提示するわけではない。裁判所の目的は正解の提示ではなく、揉め事の収束だからだ。裁判所は男女関係の真実など探求しない。疲弊した夫と妻に精神の安寧をもたらすことが、調停者の責務だ。
調停者たる公式がもたらすのは、正解を超えた精神の安寧。それを、ここではひとまず「安心」と呼びたい。安心して誰かを推せる環境、安心して何かに課金できる状況、安心して浸っていられる世界観。
「安心」で想起するのが、2026年4〜6月にフジテレビ系で放映され、ギャラクシー賞の月間賞を受賞したドラマ『銀河の一票』である。同作はスナックのママ(野呂佳代)と政界を追放された選挙秘書(黒木華)が都知事選に挑む物語だが、ふたりが出馬にあたって掲げたキャッチコピーは「成長と前進の前にまず『安心』」だった。令和日本の気分、ここに極まれり。
現在の日本で、普通に働いて普通に生活している普通の中間層が最優先で求めているのは、手取りが多少増えるとか、持ち家が多少手に入りやすくなるとかいった経済成長ではない。社会の意識や価値観が前進(アップデート)することでもない。
大多数の人が求めているのは、普通に働いてさえすれば生涯を通じて生活に困窮しないという保証、つまり安心だ。普通に年金をもらいたい。子供に普通の習い事をさせ、普通に塾に通わせ、普通に大学くらい行かせたい。自分や家族が病気になっても絶対に詰まないような制度を整えてほしい。
何かが成長したり前進したりすることは、確かに正しい。国力や経済力、社会のモラルや多様性に対する意識、個人のスキル。それらの成長や前進は圧倒的に正しい。
しかし、そんな正しさの追求によって生活が不安定になることを、多くの人は望まない。正しくなくてもいい、とにかく安心したい。私たちは、ただ安心したい。
公式は、各々が統べる小宇宙のなかで、頼もしき調停者としてファンたちに日々安心を与え続けている。現代社会における公式とは、単なる著作権者ではない。混沌とした情報空間において、思考コストなしに解を与えてくれる安心のインフラなのだ。
そう考えると、ファンが公式に求める救済と、この混沌極まりない現代社会において国民が政治やAIに求める救済は、ほとんど同じものなのかもしれない。
【『「公式」の研究』は今回が最終回です。本連載は大幅な加筆修正のうえ、集英社新書から刊行予定です】

推し活がビックビジネスになりつつある昨今。とりわけ、アニメ、アイドル、お笑い分野はかつてない活況を呈している。 それと同時に、かつては存在しなかった言葉がファンの間で流通し始めた。それが「公式」である。作品の制作者の意図、アイドルの世界観、番組の意図などその言葉の使われた方はさまざま。共通するのは「公式の判断が絶対視」されていることである。なぜユーザーたちは「公式」を絶対視するようになったのか? 日本のメディア・消費の変化の最前線を取材し続けてきた著者が、「正解」や「絶対者」を超えた欲望をあきらかにする。
プロフィール

いなだとよし 1974年、愛知県生まれ。ノンフィクションライター、編集者。映画配給会社、出版社を経て、2013年に独立。著書『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が新書大賞2023第2位。その他の著書に、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)、『ぼくたち、親になる』(太田出版)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『「こち亀」社会論 超一級の文化資料を読み解く』(イーストプレス)などがある。近著は『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)。
稲田豊史





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