分断の時代を生きる倫理——キャラクターが体現する政治的主体
小森真樹 アメリカ社会の現状を語る際、「分断」という言葉が用いられるようになって久しい。過去の評価や現在の価値観をめぐって激化する「歴史戦」や「文化戦争」、そして「暴力装置」たることを露骨に示し、歴史の改ざんすらも厭わない第二次トランプ政権……。
これらの現状を批評的に盛り込んでいるのが、現在世界中で大ヒットしている、ディズニー映画『ズートピア2』だ。アメリカ文化研究・ミュージアム研究者である著者が、このアニメ映画を起点として、アメリカ社会、ひいては現代世界の向かい合う問題について論じる短期連載の第五回。
本作品の魅力の一つが、個性豊かなキャラクターたちと言えよう。前回まで、ズートピアの抱える構造的な暴力を明らかにしたが、キャラクターたちはこの構造の中でどのように振る舞っているか見ていく。
『ズートピア2』が優れているのは、この巨大な構造的暴力の中で、個人がいかに振る舞うべきかという「政治的主体」のモデルを、キャラクター配置によって提示している点だ。彼らは単なる動物ではなく、現代アメリカの政治のアクター=主役/役者たちの似姿である。
ここで、誤解のないよう一つ付け加えておきたい。本作は「リンクスリー家」という明確な悪役を設定しているが、その視点はあくまで「構造」に向けられており、社会の不安定性や腐敗の原因を個別の巨悪に帰さないという、すぐれて自省的なバランスの上に成り立っている。
リンクスリー家といった悪役――それを「トランプ」という個人に読み替えてもよいだろう――は、原因ではなく結果なのだ。よく言われるように、彼らは社会が抱えた病の「症状」として表れているに過ぎない。
ミシェル・フーコーが権力論において示したように、権力とは、王や独裁者といった特定の主体によって所有されるものではなく、社会の網の目のように至る所に遍在するものである。それらは学校や軍隊、都市設計といった制度を通じた監視と規範化によって、個人の自発的な振る舞いを通じて作用する(*24)。ズートピアのいびつな繁栄を支えているのは、一人の悪党ではなく、快適さを手放したくないと願う住人たちの欲望そのものなのだ。
この「構造としての悪」を前提とした上で、各キャラクターがいかにしてその構造を体現し、あるいは抵抗しようとしているかを見ていこう。
*24 ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』田村俶訳(新潮社、1977年);ミシェル・フーコー『性の歴史 I 知への意志』渡辺守章訳(新潮社、1986年)。
1 リンクスリー家――オリガルヒと「凡庸な悪」
本作の悪役は、わかりやすい独裁者ではない。富とインフラを独占する「家=ファミリー」、すなわち「オリガルヒ(寡頭支配者)」である。
家長ミルトン・リンクスリーを中心にその一家はギャング集団のように――本物らしいギャングはもちろん、『ゴッド・ファーザー』のコルレオーネをモデルにしたトガリネズミのMr.ビッグであるが――、この作り上げた秩序が唯一無二のもののように守護者として振る舞う。
しかし真に恐ろしいのは、その末子ポーバート・リンクスリーの造形だ。彼は、父に認められたいだけのいわゆる「負け組二世(failson)」――家族の富や影響力によって特権があるが無能で成功していない中流・上流階級男性というネットスラング――の典型的な造形として描かれる。彼には、ズートピアをどうしたいかという思想も、特定種族への憎悪の哲学すらないように見え、あるのは、ただ「偉大な家の一員でありたい」という、父権主義の檻に囲われた空虚な承認欲求だけだ。
しかしこの「空っぽな男」こそが、仲間と偽り、ジュディに毒を盛り、ゲイリーを凍死させようとする最も残忍な実行者となる。これを、成り上がりに成功した白人女性(ジュディ)と、知恵とコミュニケーション能力のあるマイノリティ(ゲイリー)を裏切る、精神的抑圧を抱えた「弱者男性」と見るかどうかは評価がわかれるところであろう。
別の説としては、「悪の凡庸さ(banality of evil)」の類型であるとも見える。凶悪なジェノサイドに至る人種差別や排外主義を駆動しているのは、高潔な悪のカリスマではない。ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判で指摘した型にポーバートは当てはまるように見えるが、彼は、システムの中で自分の居場所を確保したいだけの、凡庸で、少しばかり情けない「普通の人々」なのだ。
これもまた、この一年間ほどのアメリカ政治に顕著な現象の似姿だ。トランプという、ひたすらに「名を歴史に刻む」欲望で駆動するマシーンの周辺に群がるのは、イーロン・マスクやジェフ・ベゾスら、金で政治を牛耳ろうとする富豪たちだ。彼らもまた偽りの「仲間」なのだろうか。バーニー・サンダースら民主社会主義者は彼らを「寡頭支配者」と特徴づけて、腐敗した資本主義の陰として鋭く批判してきた。本作の制作自体はトランプ政権2.0の遥か昔のことであるから、驚くべき慧眼である。
2 新市長ウィンドダンサー――スペクタクル化する政治
市長の交代も第一作から二作目への変化を象徴する。前作で多様性の都を掲げつつも事件によって失職し、恐怖政治へ傾きかけた局面を示したのはライオンハート市長だった。「誰でも何にでもなれる」というキャッチフレーズを作ったのも彼だ。
その後任として登場するウィンドダンサー市長もまた、アメリカ政治のアイコンだ。彼は、政治を統治やイデオロギーではなく、「どう演じるか」だというムードを体現する存在だ。
彼は「元アクション俳優」である。レーガンからシュワルツェネッガー、そしてトランプへと続く「芸能(エンタメ)から政治へ」というアメリカ政治家の系譜。当初、彼はリンクスリー家の意向を忖度する傀儡政治家として振る舞う。政治が「統治」ではなく、大衆を楽しませる「スペクタクル」と化した現代において、リーダーに求められるのは実務能力ではなく、カメラ映えする演技力だという皮肉である。
しかし、彼が最終的に「テレビの中だけでなく現実のヒーローになる」ことを選ぶ展開には夢がある。トランプがWWEのプロレス興行とリアリティショーのキャラ俳優としての経験によって培ったポピュリズム感性が、権威主義でファシスト政治家とオリガルヒ体制を産んだ現実を見ると、「アメリカン・ドリーム」という極めて仄かな希望の灯のようにも見えてくる。


3 ニブルス――「陰謀論」と「真実」の逆転、ディープステートとしてのリンクスリー家
本作のトリックスター的な役割を果たすのが、ビーバーのポッドキャスター、ニブルス・メイプルスティックである。彼女は典型的な「陰謀論者」として登場する。アメリカを代表に現代社会を描く物語類型においてすでに定番化したともいえる陰謀論(者)は、Qアノンのように民主主義を脅かし、分断を煽る「正すべき存在」や、あるいは社会を撹乱する単なる「狂人」と描かれることが多い。だが本作は奇妙にも、彼女を「真実への案内人」として配置している。
これは、ズートピアという都市において、既存の大手メディア――体制を支える表層的な報道機関――がリンクスリー家という権力と癒着し、歴史修正に加担しているという「歴史修正」がテーマであることからきているのだろう。公式発表が嘘をつき、教科書が検閲されているとき、真実は「妄想」や「フェイク」のレッテルを貼られた地下放送の中にしか残っていない。ともあれ「ポッドキャスト」(やユーチューブやXなどSNS)は、地下文化でもあり同時に大衆文化でもありえるのだが。
ここには、現代アメリカにおける「ディープ・ステート(闇の政府)」論の奇妙な反転がみられる。通常、トランプ支持層が好む「影の政府が国を操っている」という言説は、主にリベラル派から冷笑される。しかし『ズートピア2』は、「天候制御インフラを独占する寡頭権力が、裏で政治を操っている」という設定によって、まさしく「ディープ・ステートは実在した」としてしまっているからだ。
ニブルス、そして「ディープステート」としてのリンクスリー家の存在は、制度への信頼が崩壊した「ポスト・トゥルース(真実以降)」時代のリアリズムを体現している。彼女は決して知的でも高潔でもない。妄想と事実をごちゃ混ぜにして撒き散らす、ノイズのような存在だ。だが、綺麗に整えられた嘘・プロパガンダに対抗できるのは、こうした飼いならされていない野蛮なノイズだけなのかもしれない。既存の大手メディア――ズートピア体制を支える表層的な報道――が権力と癒着し、歴史修正に加担しているとき、「妄想」や「フェイク」のレッテルを貼られた地下放送の中に「真実」や「正義」があると信じたい――こうした陰謀論を支える大衆の心性の具現化のようなキャラクターである。
4 ゲイリー・デ・スネイク――キー・ホイ・クァンと「不在」の奪還
本作の最大のトリックスターであり、歴史修正の「生きた証拠」となるのが、蛇のゲイリー・デ・スネイクである。キャラクターが観客に与える感動の源泉は、その声を演じるのが俳優キー・ホイ・クァンであるという「メタ物語」と不可分に結びついている。
1980年代に『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』や『グーニーズ』の子役として一世を風靡した彼は、その後、アジア系俳優に与えられる役が極端に少ないというハリウッドの構造的な差別により、数十年にわたり表舞台から姿を消さざるを得なかった。彼がスクリーンから消えていた「空白の数十年」は、個人の才能不足ではなく、業界の制度的な排除の結果であると見ることもできる。このクァンの半生は、優れた技術を持ちながら「危険な種族」として歴史から消去されたゲイリーの境遇と、残酷なまでに重なり合う。ゲイリーが奪われた「特許」を取り戻そうとする旅は、クァンが『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でオスカーを受賞し、自身のキャリアを劇的に「取り戻した」軌跡とリンクする。
彼は「マーシュ・マーケット」という隔離地域からやってきた。かつて街を追放され、地図から消された場所で生きる爬虫類の姿は、移民や難民のメタファーだ。ベトナムからの難民としてのルーツを持つクァンが、言葉や文化の壁、そして業界内の構造的差別を乗り越えて居場所を築いたように、ゲイリーもまた、偏見の目に晒されながら、ジュディやニックといった「他種族」との信頼関係を築いていく。ゲイリーが口にする「過去の過ちを正し、世界をより良くできると信じる」という姿勢は、不遇の時代を経てなお映画への愛と他者への信頼を持ち続けたクァンの復活と「構造的な修正」の歴史そのものであり、物語に倫理的な芯を通している。
ゲイリー・デ・スネイクは、銀幕の「公式の歴史」から一度は抹消され、そこから生還した俳優の身体性を伴うことで説得力を持つ存在となる。「歴史否定」に抗う力として、消されたはずの者が、消されたはずの声で、再び「私はここにいる」と語り始めている。

5 ジュディとニック、ファズビー――「セラピー」を超えて、歴史の証言者へ
前作において、ウサギのジュディ・ホップスは「偏見を克服するヒロイン」だった。彼女は、努力と善意があれば、ウサギでも警官になれるし、キツネとも相棒になれると証明した。それは「一七七六年的」なアメリカン・ドリーム、すなわち「制度は正しいが、運用する個人の心が未熟なのだ」というリベラルな信念の勝利であった。
しかし『2』において、彼女はその「制度内リベラル」としての限界が強調される。冒頭の彼女は、ことあるごとに「正しい手続き」や「警察の正義」を口にする。彼女にとって、法は絶対的な善であり、社会問題は法の執行によって解決可能だと信じているからだ。
この構造への皮肉として機能するのが、ZPD警察所属のセラピスト、ドクター・ファズビーによるカウンセリング・シーンである。ジュディとニックのすれ違いをファズビーは、「コミュニケーションの不全」や「アンガーマネジメントの問題」として処理しようとする。一見コミカルなこの描写は、現代のリベラル層が好む「セラピー文化(精神分析医)」への風刺である――自虐ネタのように受け取る観客も多いのではないか。
社会には構造的な不正義や、歴史的な搾取が存在している。にもかかわらず、それを「あなたの言い方が悪い」「感情の処理が下手だ」という個人の内面の問題――メンタルヘルスへとすり替え、ガス抜きをしてしまう。精神分析はこうした機能を持っている。ジュディはこの段階では、制度が生む歪みを、個人の努力や対話スキルで修復できると信じている「優等生」だ。この「社会構造」から「個人の内面」へと問題のすり替えは、まさしく『ズートピア』第一作の限界であり、『2』が乗り越えを図ったものであった。
対してニック・ワイルドは、最初から制度を信用していない。彼は前作で警官になったものの、その身のこなしは依然として「被支配者のリアリズム」に貫かれている。彼は知っている――権力者の都合一つで、いつまた自分が「狡猾なキツネ」というステレオタイプに押し戻され、「害獣」扱いされるかを。彼がジュディの「正しさの暴走」にブレーキをかけようとするのは、臆病だからではない。制度が暴走したとき、最初に踏み潰されるのは自分のような有色系・マイノリティであることを、骨身に沁みて理解しているからだ。
ニックのシニカルな冷笑は、きれいな建国神話を信じることが許されなかった者たちの、生き延びるための知恵である。
物語の転換点は、二人が「法」と「歴史」の乖離に直面した瞬間だ。リンクスリー家が支配するズートピアにおいて、法――特許や都市計画――は、盗用と排除を正当化するために書かれていた。法を守ることは、歴史修正に加担することを意味してしまう構造にあるのだ。ここでジュディは決定的な脱皮を迫られる。「法を守る良い警官」であり続けるのか。それとも、「法が間違っているときに、法を破ってでも正義をなす市民」になるのか。
結末において、二人が選んだのは、警察バッジの重み(=職務という立場)よりも、目の前の真実(=ゲイリーや爬虫類の人権)を守ることだった。彼らは上司である署長の命令を無視し、指名手配犯となりながら、隠蔽された日記を白日の下に晒す道を選ぶ。これは単なる「犯人逮捕」のアクションではない。歴史修正主義に対抗する手段は、行儀の良い対話やセラピーではないことを彼ら=リベラルが悟ったからである。インフラの深部に潜り、コンクリートの下に埋められた記録を掘り返し、祝祭の壇上で嘘を暴く。このフィジカルで危険な「直接行動」だけが、制度化された忘却を打ち破ることができる――こうしたアメリカ社会のリアリティである(が、「立場ではなく人権を」というメッセージは日本社会でこそ刺さるものがあるのではないか)。
2016年の『ズートピア』とは、ジュディが「警官」になる物語であった。そして2025年の続編で彼女が「成った(becoming)」のは、国家の物語=社会の制度や構造に異議を申し立てる「歴史の証言者」である。パートナーシップとは、「多文化主義」という理念モデルだけでは達成されない。二人が汗(泥?)まみれになりながら共有したのは、この街の「汚れた過去」を直視し、その土台を掘り返す共犯関係であった。制度への素朴な信頼=「一七七六年」から、痛みを伴う歴史の直視=「一六一九年」へ。ジュディとニックは、分断されたアメリカ社会は、そうである自分=アイデンティティを固定せず、なおユートピアを語り続け、「変わり(becoming)」続けなくてはいけないのだろう。

アメリカ社会の現状を語る際、「分断」という言葉が用いられるようになって久しい。アメリカの建国は、英雄たちによる「輝かしい」ものなのか? それとも、アメリカの発展・繁栄は奴隷制によって支えられた、「血塗られた」ものなのか? 過去の評価や現在の価値観をめぐって激化する「歴史戦」や「文化戦争」、そして「暴力装置」たることを露骨に示し、歴史の改ざんすらも厭わない第二次トランプ政権……。 これらの現状を批評的に盛り込んでいるのが、現在世界中で大ヒットしている、ディズニー映画『ズートピア2』だ。アメリカ文化研究・ミュージアム研究者である著者が、このアニメ映画を起点として、アメリカ社会、ひいては現代世界の向かい合う問題について論じる短期集中連載(全6回)。
プロフィール

(こもり まさき)
1982年、岡山県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士号(学術)取得。武蔵大学人文学部教授、立教大学アメリカ研究所所員。専門はアメリカ文化研究・ミュージアム研究。批評の執筆や雑誌の編集、展覧会・オルタナティヴスペースの企画にも携わる。著書に『美大じゃない大学で美術展をつくる vol.1 藤井光〈日本の戦争美術1946〉展を再演する』(編著、アートダイバー)、『楽しい政治—「つくられた歴史」と「つくる現場」から現代を知る』(講談社選書メチエ)、『歴史修正ミュージアム』(太田出版)がある。







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