睡眠を哲学する 第10回

睡眠の現象学のゆくえ―20世紀の哲学者たちによる睡眠論(2)

伊藤潤一郎

1. 睡眠の現象学などありはしない?

 「現代思想」を考えるとき、現象学を無視することはけっしてできない。たとえば、かつて1990年代後半に講談社から刊行され、20世紀後半以降の哲学・思想に興味をもつ者にとって最良の入口のひとつだったシリーズ「現代思想の冒険者たち」の第00巻を思い出したい。シリーズの起点ともいうべきこの巻は『現代思想の源流』と題されており、タイトルのとおり「現代思想」がそこから流れ出る水源として四人の思想家が取り上げられていた。そこにおいてマルクス、ニーチェ、フロイトとともに「源流」とされていたのが、ほかならぬ現象学の創始者フッサールだった。たしかに、フッサールがいなければ、ハイデガーもサルトルもレヴィナスもメルロ゠ポンティもデリダもいなかっただろう。

 フッサールが活躍したのは20世紀の前半であるから、大雑把に言っていまから100年ほど前のことだ。しかし、フッサールがはじめた現象学は、21世紀の4分の1を過ぎた現在でもなお、新たなかたちで展開されつづけている生きた思想である。たとえば、病や老いに対する現象学的なアプローチはさまざまなかたちでおこなわれているし、「フェミニスト現象学」は日本語でも入門書や研究書が出版され注目を集めている。また、現象学を認知科学と接続する試みもしばしば目にするところだ。

 このように現象学は現在進行形の思想なのだが、では現象学から影響を受けた哲学者たちは眠りについてどのように論じてきたのだろうか。現象学とは私たちの経験の構造や仕組みを問う思考である——そう定義するとすれば、眠りという極めて日常的な経験はどのように理解されてきたのだろうか。今回はフッサールからはじめて、サルトル、メルロ゠ポンティ、レヴィナスといった20世紀に展開された多彩な現象学の睡眠論を見ていきたい。

 ただしその前に、ジャン゠リュック・ナンシーが述べた印象的な言葉をここで思い出しておこう。ナンシーは『眠りの落下』という本のなかで、次のように挑発的に語っていた。

睡眠の現象学などありはしない。

(ジャン゠リュック・ナンシー『眠りの落下』吉田晴海 訳、イリス舎、2013年)

 フッサール現象学を少しでも齧ったことがある方は考えてみていただきたい。フッサールの思想の基本的な構えは、睡眠との相性が悪そうにみえないだろうか。たとえば、フッサールの入門書や概説書にも必ず登場する「超越論的還元」や「志向性」などを思い浮かべてみれば、現象学の基礎とも言うべき考え方の多くが覚醒時の意識をモデルにしているようにも思えてくる。そう考えるとナンシーの言葉も故なき批判ではないようにも思えるが、はたして本当に睡眠の現象学は不可能なのだろうか。まずはフッサールそのひとの思考から考えていこう。

2. 夢を見ない眠りと消え去らない自我——フッサールの睡眠論

 フッサールの生前に刊行された『論理学研究』や『イデーン』第一巻といった主著を読んでみても、睡眠に関するまとまった記述は見当たらず、晩年の重要著作『デカルト的省察』でも睡眠論はまったく展開されていない。フッサールの主要著作を読むかぎり、睡眠論は完全に欠落しているようにみえる。

 とはいえ、睡眠が完全に無視されていたわけではないのだ。自身の著作を出版することに非常に慎重な哲学者であったフッサールは、それと引き換えに膨大な量の草稿や覚書を残しており、そうした遺稿を見てみると、睡眠に興味をもっていたフッサールの姿がおぼろげながら浮かび上がってくる。ここでは、『間主観性の現象学』として死後に出版された草稿集の一節を見てみよう。

私は「死んだ」自我、(夢見ることなくまったく眠っている)目覚めていない自我でありうる。〔…〕そこでは、自我は機能していない。だからといって自我は機能していない場合にも無ではなく、流れと不可分である。この「極」としての自我は生じることも消え去ることもない。

(エトムント・フッサール『間主観性の現象学Ⅲ:その行方』浜渦辰二・山口一郎 監訳、ちくま学芸文庫、2015年)

 眠りと死を似たものとみなす発想は西洋思想においてくりかえされてきた。フッサールもまた、〈眠り≒死〉というオーソドックスな理解をしていることをまずは押さえておきたい。眠ることは、死んだような状態なのだ。

 そのうえで、もう少し注意深く読んでみれば、フッサールが考えているのが睡眠一般ではないことがわかるだろう。ここで死にも似た状態とされているのは、眠りのなかでも「夢を見ていない眠り」である。フッサールは、夢の有無で睡眠を区別しているわけだが、なぜ夢を見ているかどうかにこだわるのだろうか。ここにはフッサール現象学の重要概念である「志向性」が関係している。

 簡潔に言えば、志向性とは、私たちの意識が「何らかの対象に向かう」ということだ。いま目の前のCDプレーヤーの再生ボタンを押せば、アリス゠紗良・オットが弾くヨハン・ヨハンソンのピアノ曲のメロディが聴こえてきて、私の意識はその音色へと向かう。あるいは、窓の外に目を向ければ、新潟の曇りがちな、けれどももう雪は降らない3月の空模様へと意識が向かう。このように、意識は方向性をもって存在している。

 もちろん夢においてもこうした志向性は成り立つ。よく冷えたビールをたらふく飲んでいる夢を見るとき、夢のなかでの意識はビールへと向かっている。志向性とは、夢までも含めた私たちの経験の構造を解き明かす概念なのである。

 しかし、夢を見てないときはどうなるのだろうか。明らかにそこには志向性が存在しない。もはや意識は何にも向かっておらず、それゆえ私というもの自体が存在しないように思える。志向性がなくなり、私の存在すら失われているかのような限界経験こそが、夢を見ない眠りなのだ。

 このように私の輪郭が最も曖昧になる場面を特定し、そこに注目したことこそが、フッサールの睡眠論の特徴だといえる。だが、先ほどの引用からわかるように、フッサールによれば、夢を見ない眠りにおいても自我が完全に失われるわけではない。夢なき深い眠りにおいてさえ、ある種の自我は存在しつづけている。つまり、自我が失われているかのようにみえるギリギリのところにおいてすら、なおもそこに消え去らない自我があるというのだ。

 志向性のない深い睡眠においてすら持続する自我、そのような自我を想定するフッサールの睡眠論をどのように評価するかは難しい。前回見たベルクソンのように、覚醒と睡眠が同じメカニズムに従っていると解釈することもできるだろう。覚醒と睡眠に共通する何らかの経験の流れのようなものがあるということだ。そうであれば、フッサール現象学もまた、目覚め中心主義の伝統の失効をしるしづけるものとみなしうるが、しかしその一方で、フッサールが語る消え去らない自我が、どうしても覚醒時の自我をモデルや基準にしているように見えてしまうのも事実だ。覚醒時の自我を機能している自我とみなし、睡眠時の自我を機能していない自我と考える発想は、目覚めに軸足を置き、睡眠を欠如として捉える思考ともみなしうる。

 いずれにしても、経験の構造を明らかにするのが現象学なのだとすれば、フッサールの現象学は睡眠という経験については十分な解明をおこなえなかったと言わざるをえない。そもそもほとんどが草稿のなかでの言及であることを考えても、睡眠の現象学はフッサール以降の現象学者たちに残された未解決の課題だった。では、実際に睡眠の現象学はどのように展開されていったのだろうか。フッサール以後の現象学的睡眠論を追っていこう。

3. 入眠状態——サルトルの睡眠論

 哲学史の教科書に登場する順番でいえば、フッサールの次には必ずハイデガーが出てくる。しかし、残念ながらハイデガーにはまとまった睡眠論がない。散発的な言及はあるにはあるのだが、覚醒と眠りが比喩的に用いられているだけのことが多く、睡眠に真正面から取り組んだ議論はほとんど見当たらない。

 細かく見ていけば、「動物は世界に乏しい」というテーゼで有名な『形而上学の根本諸概念:世界-有限性-孤独』のなかで、「石は眠るのか」「植物は眠るのか」といった興味深い問いが立てられているが、これも深められることはなく、足早に次の話題へと移ってしまっている。もちろん、同書で展開されているハイデガーの存在論の全体を視野に収めてこれらの問いに答えることはできるだろう。しかし、それはあまりにも煩瑣な手続きを踏まなければならなくなるうえに、おそらく眠りについて新たな展望を開くものではないので、ここでは控えておきたい。むしろフッサール以降の展開として外せないのは、サルトル、メルロ゠ポンティ、レヴィナスといったフランスで活躍した哲学者たちの睡眠論である。

 まずはサルトルとメルロ゠ポンティから見ていこう。この二人に共通しているのは「入眠」に注目したことだ。つまり、眠っているあいだの時間ではなく、覚醒から睡眠へと転換するタイミングに光をあてて眠りにアプローチしたのである。もちろん両者とも夢についても論じているのだが、入眠が多くのひとを悩ませつづけている問題であることを考えても、ここでは入眠についての二人の議論に注目したい。

 一般に、サルトルといえば「実存は本質に先立つ」という言葉で有名な実存主義の中心人物として知られている。しかし、いま取り上げたいのは、実存主義を唱える前の若きサルトルが1940年に発表した『イマジネール:想像力の現象学的心理学』という著作だ。タイトルからわかるように、写真や肖像画や心象などさまざまなイメージを現象学的に検討する本である。そのなかで、「入眠時イメージ」という聞き慣れないイメージが取り上げられている。覚醒時の知覚とも睡眠中の夢とも異なり、半睡状態のときに現われてくる独特なイメージ、そんなイメージの特徴をサルトルは心理学など他分野の研究成果と対話しながら論じてゆく。

 ただし、ここではイメージの問題は措いておきたい(私の個人的な感覚では、入眠時に起きる現象としては、イメージの出現よりも身体がビクッとなることのほうが多いように思える)。むしろ、いま注目したいのは、サルトルがそもそも「入眠」という状態をどのように描き出していたのかということだ。『イマジネール』から引用しよう。

問題は、ふつうわれわれは眠ろうと欲する' ' 'ということだ。つまり、われわれは眠りに向かう意識をもっている。この意識が、ある種の意識の幻惑状態を生み出すことで、眠りが進むのを遅らせるが、それこそがまさに入眠状態なのである。

(ジャン゠ポール・サルトル『イマジネール:想像力の現象学的心理学』澤田直・水野浩二訳、講談社学術文庫、2020年、強調原著者)

 強調点が振られた「欲する」というところが重要だ。眠ろうという意識が強くなればなるほど、実際には眠りから遠ざかってしまう。ここでサルトルは、そんな逆説を描き出している。

 私たちの日々の睡眠を振り返ってみれば、覚醒から睡眠へと移行するとき、私たちは自分の意志で〈覚醒/睡眠〉の境界を跨いではいない。「いつのまにか眠っていた」というのが、眠るという行為の一般的なあり方だろう。だからこそ、眠りに「落ちる」と表現するわけだ。自分から落ちにゆくのではなく、いつのまにか落ちているのが眠りなのである。

 逆に言えば、自分の意志で眠りに向かおうとすればするほど、眠ることができなくなってしまう。次の日に朝早く起きなければならず、普段より早い時間にベッドに横になったが、いつまで経っても眠れない。誰もが一度はそのような経験をしたことがあるだろう。「もう布団のなかに入ってから3時間も経ってしまった、あと3時間しか眠れない」と真夜中に意識すると、どんどん眠りは遠ざかってゆく。やっとウトウトしたかと思いきや、何かの拍子にまた目覚めてしまう。サルトルはそのようなきわめて浅い眠りを「入眠状態」と呼び、そこに現れるイメージに関心を抱いたわけだが、睡眠論として重要なのは、やはり意欲と睡眠の反発する関係が指摘されたことのほうだろう。

 眠ろうという意欲が強くなるぶんだけ、眠りから離れていってしまう。だからこそ、眠れぬ夜に私たちは羊を数えるのかもしれない。「羊が一匹、羊が二匹……」と数えることは、「眠ろう」という意欲から意識を逸らすことになる。しかし、それもだいたいはうまくいかない。羊を数えることは羊に意識を向かわせることだが、おそらく眠るときに必要なのは、「何かに向かう意識」そのものが消え去ることだからだ。私たちは日々この意識を消し去って眠っているにもかかわらず、それは考えれば考えるほどきわめて難しいことのように思えてくる。何気なく毎日おこなっていることこそ、いざ意識してみると謎に満ちているものだ。はたして私たちはどのようにして覚醒と睡眠の境界を越境しているのだろうか。

4. 眠るまねをする——メルロ゠ポンティの睡眠論

 眠ろうとすると眠れなくなる。この問題に身体という観点からアプローチしたのがメルロ゠ポンティだ。主著の『知覚の現象学』のなかで、睡眠を「訪れる」ものだと表現している印象的な一節を読んでみよう。少し長い引用になるが、「ものまね」や「模倣」という言葉に注目して読んでいただければと思う。

睡眠に際して私はベッドに左を下にして横たわり、膝を曲げ、眼を閉じ、呼吸をゆるやかにし、さまざまな企てを自分から遠ざける。ところが私の意志または意識の力がおよぶのは、そこまでである。あたかもディオニソスの祭典で信者たちがディオニソスの生活場面をものまねすることよってこの神を招来させるように、私は睡眠者の息づかいやその姿勢を模倣することによって睡眠の訪れを呼びよせる。〔…〕睡眠が〈訪れる〉瞬間というものがあり、睡眠は私によって提示された睡眠自身のあの模倣のうえに来て身を据え、こうして私はみずからそうであるようにみせかけていたものになることに成功するわけだ。〔…〕身体の役割は、以上のような変身を確保することである。つまり、身体は観念を物に、私の睡眠の物真似を本当の睡眠に転化するわけだ。

(M・メルロー゠ポンティ『知覚の現象学1』竹内芳郎・小木貞孝 訳、みすず書房、1967年)

 メルロ゠ポンティは左の腹を下にして寝ていたのだなという妙なところも気になってしまうが、大事なのは睡眠が模倣的なものだとされていることだろう。ディオニソスを信じる古代の人々が、ディオニソスをまねる熱狂的な祭儀によって神がかりの状態に陥るように、眠りに落ちるには、眠るふりをしなければならない。そうメルロ゠ポンティは述べているわけだが、ディオニソスの信徒と眠る者が類比的に語られているのは、どちらも文字どおり「忘我」の状態にあるからだろう。我を忘れた状態になるには、まずは模倣からはじめなければならないということだ。

 ベッドに横たわり、眠っているときと同じ体勢を取ってはじめて、眠りに落ちる準備が整う。このように模倣を出発点として考えることは、覚醒から睡眠への移行を意識から切り離すことを意味している。サルトルが述べていたように、眠ろうという意識(メルロ゠ポンティの言葉で言えば「企て」)は、私たちを眠りから遠ざけてしまう。それゆえ、眠りに落ちるためには、意識による眠ろうという企てをやめて、体勢という身体のあり方に自分自身をゆだねなければならない。意識によって眠れないという悪循環が引き起こされる以上、眠るための鍵は意識ではなく身体にあるということだ。

 これを〈能動/受動〉という枠組みを使って言えば、睡眠への移行は能動的なものではないということである。もちろん、ベッドに横になっていつもどおりの姿勢を取るところまでは能動的な動作だが、能動的にできるのはあくまでそこまでだ。覚醒が睡眠に切り替わり、眠りに落ちることは、私が能動的にコントロールできる範囲を超えた動きなのである。メルロ゠ポンティは、「訪れる」という表現によってこうした能動性の外部を表している。自分自身で眠りのなかに意識的に入っていくのではなく、眠りのほうが私に「訪れる」ということだ。くりかえしになるが、このような眠りの「訪れ」を引き起こすのは、意識ではなく身体なのである。

 このように、メルロ゠ポンティにとって身体とは、眠るまねを本当の睡眠に変えるような力をもつものだといえる。覚醒から睡眠への境界線を越える動きをこのように理解できるとすれば、では逆に睡眠から覚醒への越境はどのようになされるのだろうか。

 メルロ゠ポンティは、先ほどの引用箇所の直後で、眠っている者が何も感覚していないわけではないことを強調している。つまり、眠っているあいだも感覚器官は働いており、それが世界との最低限のつながりを保っているということだ。もしこのつながりさえなくなってしまえば、もはや世界に戻ってくることはできず、人間は二度と目覚めることができなくなってしまうだろう。メルロ゠ポンティはそのように考え、眠りを完全に閉ざされた状態とはみなさず、五感をとおしてほんの少しだけ世界と結びついた状態だと考える。身体を介したこの細い紐帯が、〈睡眠→覚醒〉という越境を可能にするのである。

 メルロ゠ポンティにとって、〈覚醒→睡眠〉と〈睡眠→覚醒〉という二つの越境運動の鍵を握っているのは身体だった。このように身体を基点に睡眠を理解することはリズムの問題とも密接に関連しているのだが、リズムについては次回見ることにして、今回は最後にレヴィナスの睡眠論を見ておこう。レヴィナスの睡眠論のキーワードは「場所」である。

5. 避難所としての眠り——レヴィナスの睡眠論

 レヴィナスが眠りについて最も充実したかたちで語っているのは、1947年に刊行された『実存から実存者へ』においてだ。レヴィナス本人が序文で述べているように、同書の原稿の大部分は第二世界大戦中に捕虜収容所で書かれたものである。それゆえ、『実存から実存者へ』の言葉を読むと、どうしても当時のレヴィナスが置かれていた状況をそこに読み取りたくなってしまう。つまり、眠りであれば、そこで語られているのは収容所における眠りなのではないかと思えてしまうのだ。そのような見方をせずに、純粋に存在論的な議論として読むこともできるのだろうが、ここではあえてレヴィナスの言葉を当時の状況のなかで書かれた言葉として読んでみたい。そうすることこそが、いま私たちが生きる世界の眠りとの接点になるはずだからだ。

 『実存から実存者へ』において何よりも問われていたのは、「私」がどのように確立されるのかということだった。レヴィナスは、「私」という人称が立ち上がる前の非人称的な次元を「イリヤ」と呼び、「イリヤ」から「私」が出現することを「実詞化」と呼ぶ。「イリヤ」とは「存在一般」のことなのだが、これだけでも非常に抽象的な議論が展開されていることがわかるだろう。

 しかし、抽象論には首を突っ込まず、「イリヤ」を収容所のなかで生きることと理解してみよう。収容所では一人ひとりの「私」が確立されることなど到底できない。固有名は剥奪されて番号によって管理され、ただの頭数として労働を強制される。レヴィナスが語る非人称的な「イリヤ」をそうした収容所における生としてイメージするとき、その過酷な状況から「私」という人称はいかにして現れてくることができるのだろうか。言い換えれば、すべてのひとが番号に還元される収容所のなかに、他の人々から明確に区別されるような「私」が存在する余地はあるのだろうか。

 レヴィナスの答えはこうだ——収容所のなかにおいても、眠るときだけは「私」が現れる。眠っているあいだだけは、収容所の生が中断されるということだ。レヴィナス自身の言葉を見てみよう。

〈眠り〉は、土台としての場所との関係を復元する。横たわり、片隅に身を丸めて眠るとき、私たちはひとつの場所に身を委ねる——そしてこの場所が、土台として私たちの避難所となる。そのとき、存在するという私たちの営みはただ休むことだけになる。眠ること、それはいわば〈場所〉のもつ庇護の功徳に触れることであり、眠りを求めることは、ある種の手さぐりによってこの接触を求めることである。

(エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修 訳、ちくま学芸文庫、2005年)

 『実存から実存者へ』のなかでも収容所の影を強く感じさせる箇所である。収容所での厳しい労働のあとに眠りにつくとき、その場所は「避難所」となる。そこでだけは、私は非人称的な数字に還元されず、人称としての「私」になることができる。眠っているあいだだけは、自分だけの場所がそこに生まれるということだ。

 これは収容所のみならず、戦場や極度の緊張を強いられる状況において、眠る場所がいかに重要であるかを物語っているだろう。目を閉じて眠るということは、外の世界でどれほど悲惨なことが起きていようとも、外界との接続をいったん断ち切り、自分自身へと引きこもることにほかならない。人間が眠らなければ生きていけないということは、このように引きこもるための「場所」が存在しなければならないということだ。ただ休むためには、何よりも「土台としての場所」が必要なのである。

 レヴィナスが収容所の経験から導き出した眠りと場所をめぐる洞察は、現代の世界とも無縁ではない。いま私たちは、ただただ休むだけの場所をもちえているだろうか。本連載の前半で見たように、私たちの眠りは、いまやますます資本主義に囲い込まれている。睡眠の質を改善・向上するという謳い文句によって、さまざまなスリープテックが生活のなかに入り込み、それを科学知が下支えしているが、実のところそのようにして進んでいるのは、(明け透けな言い方をすれば)睡眠時間による金儲けでしかない。私たちは寝ても覚めても資本主義に仕えつづけているのだ。そのような世界に決定的に欠けているのは、ただ休むためだけの場所と時間だろう。レヴィナスの睡眠論は、現代が資本主義による収容所ともいうべき状況と化していることをも示唆している。 ここまでフッサール現象学を独自の仕方で引き受けたサルトル、メルロ゠ポンティ、レヴィナスの睡眠論を追ってきたが、このように見てみると、「睡眠の現象学などありはしない」というナンシーの言葉は、少なくともこの三人の哲学者にはあてはまらないだろう。フッサール以降の現象学の多様な展開は、豊かな睡眠論を生み出すものでもあったわけだ。それでは、当のナンシー自身は眠りについてどのようなことを語っているのだろうか。次回は、哲学史編の最終回として、さらに時代を下って哲学者たちの睡眠論を見ていきたい。

(次回へつづく)

 第9回
睡眠を哲学する

私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。

プロフィール

伊藤潤一郎

いとう じゅんいちろう

哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。

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