■ 「アップデート」に囚われる
「企業名 ●●件」。この見出しだけで、何のニュースなのかわかってしまうようになった。スマートフォンを開くたびに、よく見知った企業が顧客の個人情報を漏洩させてしまったというニュースアプリの通知が目に入る。ある企業のうかつな従業員がUSBをどこかに忘れてきてしまった——なんて話も紛れているかもしれないが、これだけ立て続く背景に生成AIを「活用」したサイバー攻撃の活性化があるのは間違いないだろう。
生成AI技術の恐ろしいところは、誰かがどこかで実現したことが物理的・資本的・知的リソースの制約をほとんど受けずに世界中どこででも実現できるようになってしまうことだ。これまでは、なにかが起きてもせいぜい風や波のようなスピードで社会に広がっていったものが、イルミネーションを点灯したときのように、スイッチを入れた途端に全体がパッと問題の範疇に入る。どこが発生源になったとか、そんなことを考える余地もない。マクルーハンが『メディア論』で述べていたような、地球を電子回路が覆い尽くし、世界がひとつの村になるというイメージ(グローバル・ヴィレッジ)が遂に完成してしまったのかもしれない——昨今のサイバー攻撃のニュースに触れるとそんなことを考えてしまう。
どこかで問題が発生しているなと思ったら、あっという間に「自分ゴト」になってしまう。サイバー攻撃についての僕らの関心はすぐに、「どの企業が漏洩させてしまったのか」という野次馬的なものから、自分の情報もいずれは漏洩する(あるいはすでにしている)前提でどうやって身を守ればいいのか、というものに変わった。パスワードはサービス毎に使い分けようといったお決まりのものから、サービスを退会するときには登録情報をあらかじめデタラメなものに変更しておこう、といったものまで、様々なティップスが流通している。セキュリティ上の脆弱性がいくつも確認されたという通知が来たため、利用しているブラウザにもすぐにアップデートをかけた。
なにもかもが結びついてしまった社会では、どこか遠いところで発生した問題だからといって知らんぷりをし続けることは難しい。さきほども述べたように、遠いところで発生してから自分のところでなにか不都合が生じるまでのタイムラグがほぼ消滅してしまうからだ。タイムラグの消失は、サイバーセキュリティ以外の領域でも生じている。テキスト型のSNSでは、どこかの誰かが発信したミクロな価値判断についてタイムラインのみんなでその是非を争う応酬が繰り広げられる、という光景が当たり前になった。昨日誰かがSNSに投稿して話題になった出来事について、翌日には一国の大臣がコメントを発しているといったことも珍しくはなくなるだろう。「私」と「公」が短絡される社会において、日々発見される脆弱性を僕たちは「アップデート」し続けなければならない。このような主張は、市民が備えるべき徳について強く訴えられる。多様で、公平、包摂的な社会を実現するために、僕たちは現代的な価値観を身につけなければならない、と。
無論、現代社会の様々な問題や抑圧的な構造について学び、そこから自分たちの振る舞いを振り返ったりするのは善いことだ。そんなこと、いまさら言うまでもない。たとえば、後述する哲学者のミランダ・フリッカーが展開した議論に触れることは、僕たちの認識のレイヤーをもう一層増やすことで、これまでは見えていなかった不正を見て取ることができるようにしてくれる。僕たちは知ることによって、様々な不正や不条理、偏見や抑圧がそこにあることを知覚できるようになるのだ。そのように知覚を変化させることで、僕たちが眼の前に迫る悪徳を退けたり周りの人に警戒を促したりするよう動機付けられるのだとしたら、学問は、間違いなく僕たちの社会を善くするための役に立っている。
しかしながら、そうやって学んだ知識が他者と歴史を断罪するために用いられるとき、僕たちはしばしば視野狭窄に陥ってしまう。というのも、僕たちは自分が「知っていること」に照らして物事の正否を判断するしかないのだが、僕たちはいつでも、「知っていること」に基づいた視点が最善のものであると錯覚してしまうからである。しばしば目にする「価値観の『アップデート』」という言い方には、マイノリティや彼らを抑圧する知について知ることが、そのまま自分たちの道徳的な進歩に繋がるのだと決めてかかっているようなふしがある。ここでは次のように問いを立ててみよう。「価値観のアップデート」という言い方は果たして適切なのだろうか? あるいは、知ることで僕たちを道徳的に高めてくれるような事実はどこにあるのだろうか?
■ 過去を断罪する
僕たちが「アップデート」の効能をもっとも感じられるのは、身近な歴史的言説、つまり、アップデートされる前のひと世代か二世代くらい古い価値観に触れるときだ。昭和、平成に人気を博していたテレビ番組の演出や、巨匠として崇められていた人々の対談記事のなかでは、いまの感覚ではまったく考えられないような行いや言説がまかり通っている。そういった事例を取りあげて批判していくこと——特にこれまで世間ではまったく問題視されていなかった事例が大きな問題をはらんでいたのだと指摘していくこと——は重要だ。しかしながら、そのような指摘が「いまの自分たちは道徳的に『アップデート』したのだ」という自己認識から成されているのだとすれば、どうだろうか。ニュースメディア『The HEADLINE』編集長を務める石田健は、二〇二六年八月に出版した『なぜ、それは不適切なのか』において次のように述べている。
女性芸人に「ブス」と言っている様子を笑っていたことや、誰かの頭を叩きながらツッコミをする様子が面白かったことを「認識の欠如」や「アップデートできていない」と批判することは簡単だ。しかし、当時なぜそれを「面白い」と思っていたかという感覚を振り返り、なぜそれが今では問題視されるかという論理を理解しない限り、似たような振る舞いを繰り返してしまうだろう。[1][2]
僕たちの生きる社会とかつての不適切なコミュニケーションに満ちあふれた社会のあいだには、明確な切れ目があるわけではない。平成になってから生まれた人のほうが、昭和に生まれた人たちよりもコンプラ意識において優れていると考えるのはナンセンスである。アップ−トゥ−デートであることは、それが道徳的に優れたものであることを保証するわけではないのだ。アップデートのように見えるものが、実のところ単なるトレンドに過ぎないことはいつだってありうる。
「アップデート」がつねに良いものであると考えるのは、なにか真に理想的な社会やコミュニケーションの形態があって、それと比較してなにが欠如しているかに良し悪しを語れると考えることである。それは、僕たちの社会が理想に向かってつねに進み続けるという進歩史観を採ることでもあるだろう。歴史家のリン・ハントは、このような進歩史観に対する批判を、「ヘーゲルのコンプラ的な問題を批判する現代人」という極端な事例を引き合いに出しながら展開している。
ヘーゲルの言葉のなかに、ヨーロッパ中心主義、性差別主義、人種主義の徴候がうかがわれるという理由で、〔現在に生きる私たちが〕ヘーゲルに対して優越感を感じてはいけないだろう。その前に、そうした判断のなかにある暗黙のアイロニーを考察することが必要となる。「振り返って」みた場合に、ヘーゲルの欠陥を発見できるようにしているのは、歴史が進歩するというヘーゲルの感覚なのである。それは、ちょうどヘーゲルがアジアやギリシアを顧みて、その欠陥を見て取ったのと同じようなものとなる。[3]
大哲学者・ヘーゲルのテクストには、いまの僕たちの感覚からすれば道徳的にありえない記述をいくつも見出すことができる。しかし、現在の観点からヘーゲルに道徳的な欠点が見出されることを以て、自分たちがヘーゲルよりも優れていると結論づけることはヘーゲル的な進歩史観をそのまま踏襲することである。後世の人々からすれば、僕たちもまた「ヘーゲルよりは多少マシなだけの深刻な差別主義者」に過ぎないのかもしれないのだ。だとすれば、過去を現在の視点から断罪して優越感を得ることになんの意味があるだろう。
「アップデート」という比喩のなかには、旧いバージョンを上書きして削除するという含意がある。しかしながら、ブラウザのセキュリティアラートに対処する場合とは異なり、欠陥を抱えた過去からはまったく汲み取るべきものがない、ということにはならない。リン・ハントが強調するのは、その時代的な制約のなかで試行錯誤する人々への「リスペクトの念」こそ、僕たちが歴史から学ぶべきものだという点だ[4]。たとえば、僕たちは生活水準や政治体制の面で比較すれば大きな欠点をいくつでも見出すことのできる古代ローマの政治家たちに「いま」学ぶことができる。それが可能なのは、それぞれの時代に生きた人びとが、それぞれの時代のなかで眼の前の現実に対してどのように向かっていったかのプロセスや姿勢に眼を向けることによってであろう。「この時代の人々はこんなことも知らなかった」と腐すことは、ともすれば僕たちが歴史から学ぶことを妨げてしまうことになる。
■ 道徳的な知覚をもたらす「器官」
時代が進めば進むほど僕たちは進歩するという考え方を批判するとき、道徳的な理想とは、果たして一義的に考えることができるものだろうか、と疑うことも有効だろう。どんな時代であっても目指すべき道徳的な理想が共通しており、それを共通見解として持っておくことができれば、人類史においてどの時代がもっとも道徳的であったかを評価し、それによって自分たちがつねに進歩し続けているという確信を持つこともできる。しかしながら、描きうる道徳的な理想というものが時代の制約を大きく受けているとしたらどうだろうか。
哲学者のミランダ・フリッカーは『認識的不正義』のなかで興味深い議論を展開している。たとえば、一九五〇年代にジェンダー的な偏見から女性の証言を軽視する振る舞いをした男性について、僕たちがその過失を非難すべきではないのではないか。これはさきほど登場した事例に当てはめるなら、一九世紀初頭に書かれたヘーゲルの著作のなかに現代の基準からすれば明らかに侮蔑的で差別的な表現が見出されるからといって、即座にヘーゲルを非難すべきではない、ということになるだろうか。このような考え方は、アップデート主義的な考え方には決して馴染まないだろう。フリッカーがいったいどのような議論からこのような考え方にいたったのか、もう少し丁寧に見てみよう。
フリッカーは同書のなかで「認識的不正義」という概念的な枠組みを体系立てて展開する。「認識的不正義」とは大まかに言えば、知識の獲得・伝達・共有といった実践において、特定の主体が不当な不利益を被ってしまうことを指摘するための枠組みだ。なかでもフリッカーが注目するのは、彼女が「証言的不正義」と呼ぶ領域だ。証言的不正義が生じるのは、ある話し手がなにかを伝達しようとしているのだが、聞き手が持つアイデンティティに関する偏見によってその証言の信用を不当に低く見積もられてしまうときである。このような場面において話し手は、「知識の提供者としての能力にかんして」[5]不正を被っているのだとフリッカーは述べる。アイデンティティに関する偏見が知識を生み出し、伝達する実践のなかにも浸透してしまっていることで、「本来なら知識の主体という考えそれ自体を生みだす実践に、その話し手が参加するのはふさわしくないというメッセージ」[6]が送られることになる。そうやって特定の属性を持った人々が知識の領域で萎縮させられてきたのだ。
フリッカーのすぐれた議論は、僕たちの知覚を変化させる力を持っている。いまや、日常的なやり取りのなかで、特定の属性を持った人々を「知識の主体」としては軽視するような言動がせり出してくるように感じられる。そのような言動は僕たちがフリッカーの議論を学ぶ以前からさも当たり前のようにまかり通っていたのだが、僕たちがそれを知覚できるような「器官」を手に入れるまでは——そのような言動によって実際に抑圧されていると感じている人々でない限りは——はっきりと意識されることがほとんどなかったものだ。『ちいかわ』について何も知らなかった人が、大ヒットしているからといって何も知らずに劇場版『ちいかわ』を観に行った帰り道、こんなにも街中に「ちいかわ」たちのグッズが溢れていたのかと気づくようなもので、僕たちは、それにはっきりと輪郭を与えて知覚する「器官」を持たなければ、どれだけ視界に入ってきても気に留めることさえできない。
身も蓋もない話をしよう。他者をないがしろにし、傷つけてしまっている多くの場合において、僕たちはその他者がどんな人間であるかについて積極的な興味を持っていない。興味を持っていないということは、その他者の機微について感覚するための「器官」がその人に欠けている可能性が高いことを意味している。しかし、当然ながら僕たちはどんな人間に対しても等しく興味を持つことなどできはしない。だからこそ、自律的に成長する興味という「器官」とは別に、知ることを通じて人工的な「器官」を養っていく必要があるのだ。
だから僕たちは「知識の主体」として人々が適切に扱われているかどうかを感覚するための「器官」を獲得するために、たとえばフリッカーの議論を参照するべきだ。しかし、ありうべき道徳的な主体についてこれだけ鋭利な議論を展開しているフリッカーが、他方では、新たに獲得した認識に基づいて過去の人々の行いをいたずらに糾弾すべきではない、ということもまた論じているのだ。
■ 道徳的な非難はどこに向けられるか
『認識的不正義』では、繰り返し映画『リプリー』(一九九九年) の一場面が取りあげられる。一九五〇年代のアメリカで、造船会社の社長として富を築いたハーバート・グリーンリーフは、息子ディッキーの行方と彼の所業について、ディッキーの恋人であったマージ・シャーウッドの証言を「女の勘とは別に、事実というものが存在するのだよ」という言葉によって沈黙させる[7]。フリッカーはこの場面を、マージの立場や証言には一定以上の信頼すべき理由があったにもかかわらず、グリーンリーフが彼女のアイデンティティへの偏見に基づいて信頼性を不当に低く見積もった「証言的不正義」の事例として取りあげている。フリッカーはそこで、グリーンリーフの振る舞いの問題点を指摘するのと同時に、彼がその振る舞いを非難されるべきではない、ということもまた主張している。そのときに彼女が注目するのは、規範的・倫理的な価値観についてグリーンリーフが利用することができた資源の乏しさ、その歴史的な偶然性である。
ハーバート・グリーンリーフのような人物は、たとえ善意をもち続けていたとしても、歴史上のどこかの時点で、彼の過失が非難すべきではないものから非難すべきものへと移行する傾向があるだろう。このような人物は、ジェンダーの偏見にかんする証言的正義の徳を一貫して欠いているが、その認識行為における欠陥が非難に値するものとなるためには、集団的な意識の重要な進歩が必要である。こうしたことから、〔グリーンリーフの置かれた〕あの歴史的状況においては、グリーンリーフがマージに対して犯した証言的不正義は非難には値しない、というのが私の提案である。[8]
グリーンリーフがたとえ善意を持って人々に向き合っていたとしても、彼の振る舞い——誰かを抑圧し、傷つけているという意味でそれは過失とされる——のなかには、その時点では非難されるべきものではなかったものの、後から振り返ってみれば非難すべきとされるものを見出すことができてしまう。その振る舞いがなんらかの道徳的な規範に基づいて非難すべきものとなるためには、集団的な意識の変化が必要であり、それがなかった時点での振る舞いについて現在の視点から非難すべきではない、というのがフリッカーの議論だ。グリーンリーフは「彼に必要であった批判的概念が歴史的に利用できなかったせいで、マージに対する彼の判断に見られる、ジェンダーの偏見の影響を中和できなかった」[9]のだと彼女は診断する。
フリッカーの主張からは、次のような立場を読みとることができるだろう。つまり、過去を断罪する際に必要なのは、このように、その人が偏見からくる行為を回避するために必要だった批判的概念や解釈的な資源にアクセスできる可能性があったか、ということへの考慮である[10]。このような見地に立てば、道徳的な事柄について「アップデート」という比喩を用いることが不適切である理由も述べることができる。ソフトウェアのアップデートにおいて、旧バージョンに留まることは脆弱性の放置を意味している。しかし、道徳的認識において「旧バージョン」の人々の言動はその時代に利用可能な概念的資源を条件として導き出されたものであって、そもそもが「新しい」「旧い」という尺度で比較可能なものではない。
よくよく注意しておきたいのは、これはグリーンリーフのような言動を擁護するためのものではないということだ。グリーンリーフの言動によってマージがなんらかの仕方で軽んじられてしまっているという事実は変わらないし、グリーンリーフの言動を非難すべきものだと感覚できるような条件が整った世界で生きる僕たちが彼の真似をすることは戒められなければならない。
道徳的な問題は、解決されるのではなく形を変えて出現し続ける。それは、僕たちがつねにそれぞれの時代や環境といった固有の条件のなかでコミュニケーションをする主体であるということだ。だとすれば、有利な立場から過去を断罪して悦に浸るよりも、いまの僕らにとっては利用不可能だが、未来の人々にとっては利用可能になっている批判的概念がいつどんなときでもありうるのだという道徳的な洞察を持つことが不可欠であろう。そしてその洞察は必然的に、過去の人々、現在を生きる僕たち、そして未来を生きるであろう者たちそれぞれが生まれ落ちた「条件」についての省察へと僕たちを促す。グリーンリーフやヘーゲルに対して僕らが優越感に浸ることができたのは、彼らの言動を彼らの生まれ落ちた「条件」から引き剥がして問題にすることができたからである。しかしながら、いま僕たちがどうすべきかを考えるときに、僕たちが生まれ落ちたこの「条件」を無視することはできない。というよりも、この「条件」をまっとうすることこそが善く生きることであるとさえ言うことができるだろう。
■ 生まれ落ちた者の倫理
僕たちは、それぞれが生まれ落ちた条件のなかで善く生きようとする主体である。そのことについて考え続けた哲学者として、モーリス・メルロ゠ポンティの名を挙げて今回の議論を締めくくりたい。
メルロ゠ポンティが一貫して批判の対象としていたのは、僕たちが時代や環境、それまでの経験や肉体といったものに制約されることなく思考し、認識することのできる普遍的な理性を分かち合った主体であると見なす考え方だ。そのような考え方に基づけば、道徳や倫理といったものも、眼の前の状況や時代背景といったものを超えて自由に思考することのできる主体によって打ち立てられることになるだろう。しかしながら、そのように普遍的なものとして道徳や倫理を反省することができるのだと考えてしまうのは、僕たちはひとりの人間として、固有の肉体、固有のパースペクティヴという限界を備えてこの世界に生まれ落ちた者であるということを忘れてしまっているからなのだ、とメルロ゠ポンティは主張する[11]。そして当のメルロ゠ポンティは、僕たちがそれぞれ独自な仕方でこの世界に実存する意識であるということを認めるのであれば、道徳や倫理もその条件の自覚と批判によってもたらされなければならないと考えている。
〔僕たちが実存する意識であると認めるなら、〕われわれの認識はわれわれの存在に依存することになり、また道徳論(la morale)も自己自身についての心理学的・社会学的批判から始まることになる。そして人間がはじめから道徳性(moralité)の起源をもつものとはかぎらなくなる[…]。[12]
道徳とは空から降ってくるように与えられるものではなく、この身体でこの社会に生まれ落ちた僕たちが、自分自身を省みるところからしか始まらない。川崎唯史は、僕たちが知覚する主体として実存する事実と倫理・道徳をこのようなかたちで結びつけるメルロ゠ポンティの議論を「誕生」というキーワードを強調しながら展開している。メルロ゠ポンティが「知覚」という観点から解き明かしたような主体は、もちろん「差別に加担してしまう危険を初めから免れているわけではないが、自分が社会に織り込まれた存在であることを忘れなければ、無知に気づき、知らなかったことを学ぶことに対して開かれている。誕生の事実を重視することからは、無知を自覚して生きるという倫理的な帰結も生じるのである」[13] 。
メルロ゠ポンティと川崎の主張は、ここまでの議論にとっても重要な意義を持つ。ふたたび「アップデート」という比喩を問題にするなら、「アップデート」を完了した主体とは、最新の道徳的知見を手にしたことで世界を正しく見渡せるようになったと自負する主体にほかならない。ところが、自分は「アップデート」したのだからといって、自分たちを条件付けていた過去と決別し、いまや世界のなかの不正や偏見を見て取ることができるのだと確信しているのだとすれば、そのとき僕たちは、自分たちも過去の時代を生きた人びとも、特定の時代に、特定の身体をもって、特定の社会のなかに生まれ落ちた者であるという事実を忘却してしまっている。いまこの時代を生きる僕たちの道徳性は、僕たちが自らの具体的な存在を解明していく作業のなかでしか獲得されえないものなのだ。
だからこそ「アップデート」という比喩を避けながらも、「知ること」「知ろうとし続けること」の重要性が存している。知ることが僕たちにもたらす最も重要な変化は、自分の道徳的な立場を「アップデート」することではない。むしろ、自分がいまだ知らないことがあるのだと——しかも、いま知らないということすら知りえないような仕方で——気づかせることによって、僕たちを他者や歴史に対して開かれた状態にしておくことではないだろうか。
僕たちの生きる世界は、つねに未完成の作品である。しかしそれは、来たるべき理想や完成された像と照らし合わせたときになにかが抜け落ちている、という意味ではない。僕らの営みは、完全なバージョンに到達するための「アップデート」なのではなく、いまこの時代を、この場所を生きる自分たちが何者であるかを知ろうとし続ける運動そのものなのだ。知ることはたしかに僕たちを善くすることがあるかもしれないが、そのような変化は、つねに未完成なまま生きている事実をいちど「思い出す」という迂回を条件としているのである。
(次回へつづく)
[1] 石田健(二〇二六)『なぜ、それは不適切なのか』、マガジンハウス、五—六頁。
[2] 石田は上述のような問題意識から、時代遅れの人々を諭すような「啓蒙アプローチ」ではなく「原理的アプローチ」を採ると宣言している(石田健(二〇二六)『なぜ、それは不適切なのか』、マガジンハウス、三頁)。
[3] リン・ハント(二〇一九)『なぜ歴史を学ぶのか』長谷川貴彦訳、岩波書店、八九頁。〔〕内は訳者による補足をそのまま引用したもの。
[4] リン・ハント(二〇一九)『なぜ歴史を学ぶのか』長谷川貴彦訳、岩波書店、一〇五頁。
[5] ミランダ・フリッカー(二〇二三)『認識的不正義』佐藤邦政監訳・飯塚理恵訳、勁草書房、一〇頁。
[6] ミランダ・フリッカー(二〇二三)『認識的不正義』佐藤邦政監訳・飯塚理恵訳、勁草書房、一八七頁。
[7] cf. ミランダ・フリッカー(二〇二三)『認識的不正義』佐藤邦政監訳・飯塚理恵訳、勁草書房、一一頁。フリッカーは、アンソニー・ミンゲラが監督・脚本を務めた一九九九年版の映画『リプリー』の脚本をもとに議論を展開している。
[8] ミランダ・フリッカー(二〇二三)『認識的不正義』佐藤邦政監訳・飯塚理恵訳、勁草書房、一三〇頁。〔〕内は訳者による補足をそのまま引用したもの。
[9] ミランダ・フリッカー(二〇二三)『認識的不正義』佐藤邦政監訳・飯塚理恵訳、勁草書房、一三一頁。
[10] ところで、このような己の偏見からくる不正を回避するための批判的な概念へのアクセス可能性を論じる際に、彼女が「認識的・道徳的不運」(一三一頁)という言葉を用いている点も非常に興味深いのだが、紙幅の関係からこの点については措いておこう。
[11] 本論で再三述べる「生まれ落ちた者」としての主体の捉え方やメルロ゠ポンティの解釈については、以下で参照する川崎唯史『メルロ゠ポンティの倫理学』の整理を大いに参考とし、そこから示唆を得ている。
[12] モーリス・メルロ゠ポンティ(二〇一四)『行動の構造 〈下〉』滝浦静雄+木田元訳、一六八頁。〔〕内は引用者による補足。
[13] 川崎唯史(二〇二二)『メルロ゠ポンティの倫理学——誕生・自由・責任』、ナカニシヤ出版、iv頁。
[TT1]このあたり、このままだと少し物足りなさが残ってしまうので、もう少し文章を足して議論を展開する。進歩史観を採らずにいることの意味をもう少し記述する。
[TT2]フリッカーが参照しているのがこのバージョンのリプリーなのかどうかは、テクストで要確認

生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。 哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。
プロフィール

たむら ただし 哲学者。1992年生まれ。東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現象学とモーリス・メルロ゠ポンティ。著書に『問いが世界をつくりだす メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)、『独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)など。
田村正資




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