「私はいまの台湾の民主主義が好きじゃない!」

このアンケート調査で最初に蔣経国の名を挙げた人は、台北近郊で出会った60代の男性だった。大柄で、芸人の松村邦洋氏に雰囲気が似たその人は、とある展示施設のボランティア解説員をしていた。英語ができるし、とにかく話好きな様子だったのでアンケートをお願いしたのだ。
最初の質問は出身地と年代、第2問は「あなたの民族は?」(自由記述)で、第3問は「あなたのアイデンティティは?(台湾人 中国人 原住民他)」としてある。彼は第2問に「漢族」と答え、第3問では台湾人と中国人の両方にチェックを入れた。
そして例の質問に進む。彼はほとんど悩むことなく「蔣経国だね」と答え、さらさらと書き入れる。
「できれば理由もお願いします」と私はたずねた。
「彼は公正な政治家で、台湾を経済発展と民主化に導いてくれたからね。自分のことを度外視してものごとを判断し、実行できる政治家はそうはいない」
え、蔣経国ってそんなりっぱな人物だったっけ? 以下、私がいだいていたイメージと比較してみる。
台湾に逃げてきた蔣介石が総統に復職し、独裁政治を始めると、経国は特務機関を統合し、独裁体制に刃向かおうとする者を逮捕・処罰することで、国民党内での地盤を固めていった。この時代の台湾の特務(政治警察)といえば、罪に当たる事実がない者でも、警官の点数かせぎのために平気でしょっぴき、描写を読むのもつらい拷問にかけ、芋づる式に友人・知人も連行し、最終的には処刑も辞さないような連中だ。いわゆる白色テロルの実行役。
そういうことを仕切っていたのが蔣経国というイメージを私は持っていた。若い頃モスクワで学んだ彼は「元共産党員」で、ソ連式の恐怖政治が身についていたという見方もある。
こっちのイメージだけでいくと、彼が現在も尊敬されているというのは理解に苦しむ。
だが蔣経国には続きがある。順調に出世した彼は国防部長を経て1972年6月に行政院院長(首相にあたる)に就任すると、最初の大きな改革を断行した。行政院副部長、内政部長、交通部長、台湾省主席、台北特別市市長と主だった要職のすべてに本省人(戦前から台湾に住んでいた人々)を起用したのである。国民党が台湾に移ってきてからというもの、彼ら少数の外省人が、住民の大多数を占める本省人を支配し、搾取するといういびつな社会ができあがっていた。中央政府の議員は外省人が占めており、これではとても多数派台湾人の利益を考えてくれるとは思えない。こういう背景があったから、本省人を重要なポストに取り立てることは、民主化への静かな、しかし大きな一歩となった。
蔣経国の招きで政治の世界に足を踏み入れた大人物がいる。ほかでもない、李登輝(1923~2020)だ。彼の自伝におもしろいエピソードが書かれている。1969年に、とある無実の嫌疑で逮捕された李登輝は、取り調べの中でこう言われたというのだ。「おまえみたいな男は蔣経国以外は使ったりしない」と。はたしてその後、李が国民党に入党すると、蔣経国は農業経済学博士の彼に期待して農政担当の政務委員に抜擢。その後も台北市長、台湾省主席などのポストに起用する。父の死後、総統に就任すると、ついには副総統として、自身の跡継ぎに指名するのである。
さらには総統世襲の否定、「私もすでに一人の台湾人である」発言、38年間も続いていた戒厳令の解除と、最晩年の蔣経国にはたしかに「自分のことを度外視して」台湾人のために働いていたように見える。
そして蔣経国が亡くなると、李登輝が総統になり、民主化をいよいよはっきりと推し進めていくわけだ。よその国(日本)で多少の読書を通じて台湾史をのぞきこんでいた私は、このプロセスに、1970年代の半ば、スペインの独裁者フランコ将軍から国王フアン・カルロス一世へのバトンが結果的に非常にうまく民主化をもたらしたのに似た妙味を感じていた。そこでさっきの男性に訊いてみた。
「李登輝さんを後任に指名したことこそ、蔣経国のえらかったところですよね」
すると彼は苦々しげに首をひねった。
「いや、それは関係ないよ」
「でも、李登輝さんのおかげでいまの民主的な台湾ができたとは思いませんか?」
「私はいまの台湾の民主主義が好きじゃない! 指導者というものは、人々に争いをもたらすものであってはいけないんだ。ところがどうだ。いまは(国民党と民進党の)二大政党制で、選挙のたびにたがいを攻撃しあってばかりじゃないか。
だけど経済には率直に誇りをもてる。そしてその台湾経済の礎を築いたのが蔣経国だ」
李登輝は関係ない。あくまで蔣経国その人が大好きなようだ。
まあこの人はたぶん台湾社会の中でも変わり者に類するのだろう。その時はそう受け流していたが、その後もわりと頻繁に、蔣経国を尊敬する人と出会うのである。台湾一周、100人のアンケートを終え、最終的に彼は9票を獲得した。初の女性総統・蔡英文の10票にせまるいきおいで、世代別に見ると、70代が1人、60代が2人、50代が3人、40代が1人、30代が2人。ちなみに一位は李登輝の13票で、これは私たちにもなっとくの結果だろう。
それに対し、蔣経国の父親である蔣介石大元帥は旅の後半でやっとこさ2票を獲得しただけだった。回答者はいずれも70代の女性で、幼いころに学校で英雄崇拝を叩き込まれた世代だろう。
そもそも「台湾の歴史上、あなたが最も尊敬する人物は誰ですか?」の質問を考えたのは、民族意識とか支持政党とか歴史認識といった、直接には聞きづらいデリケートなテーマに関する考えを知りたい、という目的もある。上位にあがった蔣経国の人気の理由をひもといてみれば、現代台湾を生きる人々の意識の一面が見えてくるかもしれない。

平和を実践するためにスペイン、韓国など世界の大地に自転車を走らせ、亡命者や難民との邂逅を通して思考をめぐらし続ける──。 ノンフィクション作家の前川仁之氏は『逃亡の書 西へ東へ道つなぎ』『人類1万年の歩みに学ぶ 平和道』など、他者との共生と平和の希求をテーマに、独自の世界観を持つ作品を発表してきた。 前川さんが今回赴いたのは、台湾。台湾有事が叫ばれる今、この島の人々は何を思い、暮らしているのだろうか。自らのルーツでもある琉球弧をつたい、台湾の路上の人々の声を集め、その無事の未来を考える短期連載。
プロフィール

まえかわ さねゆき
ノンフィクション作家。1982年、大阪府生まれ。埼玉育ち。東京大学教養学部(理科Ⅰ類)中退。人形劇団員、警備員等を経て、立教大学異文化コミュニケーション学科卒。2014年、スペインの音楽家アントニオ・ホセの故郷を訪ねてその生涯を辿った作品で開高健ノンフィクション賞の最終候補となる。著書に、亡命者や難民の境遇を追った『逃亡の書 西へ東へ道つなぎ』(小学館)、『人類1万年の歩みに学ぶ 平和道』(インターナショナル新書)、『浄土真宗「道場」の四季 北陸・福井に残る真宗信仰の古層』(宗教問題)などがある。
前川仁之





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