僕がトレイルを歩く理由 第3話

バッグパックを引き継ぎパシフィック・クレスト・トレイルへ

斉藤正史

トレイルはアメリカ発祥の概念で、山野に付けられた道を歩く、いわゆる「山歩き」。
北米ではポピュラーなアクティビティであり、文化として根付いている。
山に登るのではなく、山を歩くとはどういうことか。なぜ人々は山を歩くのだろうか。
20年にわたり国内外のトレイルを歩き、日本におけるトレイルカルチャーの普及に努めてきたプロハイカーが、その豊富な実体験を通して「山歩きの哲学」を伝える。

1通のメール

 アパラチアン・トレイル(AT)を歩き終わった後も、加藤則芳さんとのメールは続いていた。トレイルを歩き終えた僕は、会社の面接に行っても「どうせまた辞めてアメリカに行くのでしょう」と言われ、なかなか就職出来ずにいた。当時はまだ、会社を辞めて海外に行くことがよしとされる時代ではなかった。地元の山形には僕の前職に近い仕事はなかったので、再就職はそもそも難しい。そんな事は分かっていたが、悶々とした日々に嫌気がさしていた。

 そんな中、加藤さんのAT踏破報告会が東京で行われた。報告会にお誘い頂き、僕は加藤さんと再会した。その後、半年にも及ぶ就職活動も終了し、仕事中心の生活から、土日休みで残業のない生活へと変わった。

 僕は、再就職を機に、休日に自然の中で子供たちと過ごすボランティアを始めた。ATで出会った多くのボーイスカウトの引率者のような人生を過したいと思ったからだ。そしてその頃から、加藤さんの仲間の会合に参加するようになっていった。年に1~2度、信越トレイル(長野と新潟の県境にある日本初のトレイル)で集まり、加藤さんから僕のまだ見ぬトレイルの話を聞かせてもらうのが楽しみになっていた。トレイルを歩く前と180度大きく人生が変わったが、それなりに満足のいく日々だった。

 しかし、ある1通のメールが僕の人生を大きく変えることになる。

 2010年秋、加藤さんを囲む会合のメンバー全員に、加藤さんから、1通のメールが届いた。ご自身がALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症したことの告白だった。メールを受け取った僕は、直ぐに進行する病気ではないと認識していた。まずは、お会いした時に詳しく聞こうと思っていた。そんな安直な考えは、翌年の信越トレイルで開催した、恒例のスノーシューイベントで加藤さんに会って一変した。告白メールから半年、すでに加藤さんは体の一部が動かなくなっていたのだった。

 その夜、仲間内で話し合った。最後に加藤さんを自身のフィールドであるジョン・ミューア・トレイルへ。そんな計画が進み始めた。その後、東日本大震災が発生し、この状況下でジョン・ミューア・トレイルへ行くのはどうかという意見もあったが、そんな感情は、加藤さんの病気の進行速度の前に立ち消えた。後に知ったのだが、当時、加藤さんは震災跡地に「復興トレイルを作るアイディア」を環境省に提案していたそうだ。その後、計画は採用され、現在の「みちのく潮風トレイル(東日本大震災跡地に環境省が設定した青森県八戸から福島県松川浦まで続く約1,000kmのトレイル)」のベースになっている。

 2011年8月、加藤さんと共に総勢13名でジョン・ミューア・トレイルへ行く計画が実現した。すでに立つことも出来なかった加藤さんを3人で交代で背負い、加藤さんが望んだ、カセドラル・レイクに向かい、2日間キャンプで滞在した。

 カセドラル・レイクからの帰り、最後に加藤さんを背負ったのが僕だった。頭の直ぐ後ろで加藤さんの声がしていた。僕は力を無くした加藤さんのその体を背負うだけで精一杯だったが、加藤さんの想いやその悔しさは、背中から痛いほど伝わった。歩き終えた後、加藤さんは全員とハグして自分のフィールドに別れを告げたのだった。

加藤さんのバックパックを引き継ぐ

 休みが長く取れなかった僕と、一緒に加藤さんを背負った消防職員の吉川長門さんと2人で一足早く日本への帰路についた。機内では、これまでの話やこれからの話をしていた。当時、トレイルは、ようやく登山雑誌で特集が組まれたり、徐々に注目を集めていた。大切に育ててきたトレイルカルチャーがまさに芽吹き、これからという時にその芽を育てることが難しい状況になる、加藤さんの口惜しさや無念さは痛いほど感じた。

 当時は、同じ年にトレイルを一緒に歩いたスルーハイカーは、同期として仲良くなり人生に関わりを持つことが多かった。僕も身近にトレイルを話せる相手が唯一加藤さんであったように、きっと加藤さんにとってもATでの出来事を気軽に話せる唯一の存在が僕だったに違いなかった。出会ったハイカー、見つめた同じ景色、僕は加藤さんがトレイルの同期として人生に深く関わり始めている事を感じていた。だから、これから発展していくだろうトレイルが、知らない誰かの手によってなされるより、トレイルの同期として歩いた僕が歩いて行く方が加藤さんの口惜しさは半減するのではないかと思った。それに、職場で先輩方が日々繰り返し話す、早期退職して退職金を多くもらうという人生がどうしても僕には素敵なものには思えなかった。同じ時間をすごすなら、誰かの何かの為に過ごす人生を送りたい。だから困難でもトレイルを歩く人生を選びたいと僕は思った。機内で吉川さんが言った「MASA、トレイルを歩く道を選ぶなら僕がファンになって応援するからやってみたら」という言葉に背中を押してもらい、僕は会社を辞めてトレイルを歩くことを決めた。

 そして決断すると加藤さんの愛用のバックパックを引き継いだ。これが僕がプロハイカーとして名乗り、未知の世界を歩く始まりだった。

 もし、父が亡くならなかったら、僕は山形に戻ることも再び自然と触れ合うことも無かった。あの日ATの番組を見なければ、そして記憶の奥底にトレイルがしまわれていたら、ATを歩くことも、加藤さんに出会うことも無かった。何か一つ欠けていても僕はこうしてトレイルを職業にすることは無かった。人は思いもしない出来事に説明を付けるために色々な言葉を生み出す。僕にとって「運命」はそんな言葉の一つかもしれない。運命という言葉を信じられる人生、きっと悪くないと今なら言える。

 アウトドアの世界へ右も左も全く分からずに丸腰で飛び込んだ僕。加藤さんからは、当時加藤さんがサポートを受けていたブランドを紹介してくださるという話もあったのだが、実績も何もない僕にサポートを頂く判断をする事も、その期待に答える自信も全くなかった。いずれ一人でやらなければならない。とにかく甘えず自分でやれるところまでやろうと思った。僕に不思議と不安は無かった。

 すでにアメリカ3大ロングトレイルを踏破した日本人ハイカーが一人誕生していた。アウトドアの世界で自分自身どうすべきか考えた時、プロハイカーとして活動するなら、アメリカ3大ロングトレイルの踏破はマストだと僕は考えた。アメリカ3大ロングトレイルを踏破し、日本人2人目のトリプルクラウナー(アメリカ3大ロングトレイルを踏破した者に与えられる称号)になる事がアウトドアの世界で生き残る最低条件だと考えたのだ。

 では、どこを歩くか?

 加藤さんの著書『ジョン・ミューア・トレイルを行く』を読んだ時、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)をいつか歩いてみたいと書かれていたことを思い出した。僕自身、ATを歩いた時、「MASAならPCTを踏破出来るよ」と多くのハイカーに言われていたことを思い出した。

ヨセミテ国立公園北部にあるPCTのサイン。
撮影/筆者
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 第2話
僕がトレイルを歩く理由

トレイルはアメリカ発祥の概念で、山野に付けられた道を歩く、いわゆる「山歩き」。 北米ではポピュラーなアクティビティであり、文化として根付いている。 山に登るのではなく、山を歩くとはどういうことか。なぜ人々は山を歩くのだろうか。 20年にわたり国内外のトレイルを歩き、日本におけるトレイルカルチャーの普及に努めてきたプロハイカーが、その豊富な実体験を通して「山歩きの哲学」を伝える。

プロフィール

斉藤正史

(さいとう まさふみ)
プロハイカー

1973生まれ。山形県新庄市出身。アパレルブランドやディベロッパー企業などに勤務後、
2012年より日本で唯一のプロハイカーとして活動。トレイルカルチャー普及のため、海外のトレイルを歩き、アウトドア媒体を中心に寄稿、講演やイベントを行う傍ら、地元山形にトレイルのコースを作る活動「YLTクラブ(山形ロングトレイル)」に携わる。スルーハイク(単年で一気にルートを歩く方法)にこだわり、踏破した国内外のトレイルだけで25,000km(地球半周以上)を超える。

公式HP https://hikermasa.wixsite.com/
Instagram @hikermasa
Facebook https://www.facebook.com/saito.masafumi.3

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