トレイルはアメリカ発祥の概念で、山野に付けられた道を歩く、いわゆる「山歩き」。
北米ではポピュラーなアクティビティであり、文化として根付いている。
山に登るのではなく、山を歩くとはどういうことか。なぜ人々は山を歩くのだろうか。
20年にわたり国内外のトレイルを歩き、日本におけるトレイルカルチャーの普及に努めてきたプロハイカーが、その豊富な実体験を通して「山歩きの哲学」を伝える。

トレイルづくりのきっかけ
本連載ではここまで、トレイルとの出会いそして2012年からプロハイカーとしての活動を紹介してきたのだが、今回は僕がトレイルを歩くもう一つの理由、地元山形にトレイルをつくる活動について話したいと思う。
きっかけは、やはり2005年に歩いたアパラチアン・トレイルだった。無事に再就職した翌2006年、地元の大学が自然をテーマにした事業の公募を発表した。予算も一定の規模があったので、山形にトレイルをつくるプランがピッタリ合うのではないかと直感した。久々に胸が高まり、1か月ほど掛けて仕事の合間に資料を作った。もちろん加藤則芳さんにもアドバイスをもらった。
2005年、日本には信越トレイルとわずか数か所のトレイルがあるのみだった。日本に国定公園や国立公園を通るトレイルがまだ無かったことから、加藤さんは「MASA、山形にトレイルをつくるなら国定公園や国立公園を通るルートを提案してほしい」とおっしゃった。真っ先に蔵王国定公園が僕の頭に浮かんだ。トレイルを継続的に運営するには、ある程度知名度があり、かつアクセスの良い場所がルートに含まれていなければ、人に来てもらうことが難しい。地元の大学が公募するので、当初は山形県内で完結するルートを考えたのだが、山形の南に面する福島や、北に面する秋田へ将来的にその道を延長できるように、東北の背骨にあたる奥羽山脈を中心にルートを考えていた。結果、北は新庄市(山形県北部)から南は米沢市(山形県南部)までをルートにする構成にした。
まずは奥羽山脈沿いからとりかかった。登山で良く使用する1/25000の縮尺地図を全て手に入れ、新規の道はつくらず、現在ある登山道や林道、古道や生活道路を中心に全て結べないか考えた。地図上で道が途切れている場所を見つけると、実際にその場所に行き、道があるかどうかを確認したりもした。今の僕から見ると、林道中心に予定していたり、トレイルを示すマークを付けられるかどうかの確認もされておらず、だいぶ足りない内容だったが、基本的なトレイルをつくる考えや、道路をトレイルで使用する際の管理者への確認も押さえてあり、このままでも十分トレイルつくりが成立する内容だったと思う。さらに、専門は違うが地元の大学の教授にも学内で企画を通すためのアドバイスを頂き、満を持して資料を完成させた。日々の生活に追われ、消えかけていたトレイルへの情熱が蘇り、再びトレイルを歩いているような、熱く楽しい時間だった。
だが、結果は落選。後から聞くところによると、採用されたのは大学関係者が応募した案だった。資料が自宅に送り返され、夢のような1か月は音を立てて崩れ去った。僕は返却された資料を押し入れの奥にしまった。アメリカのようなトレイルを地元につくる夢は、僕の脳の一番深い引き出しにしまわれ、思いだすこともなくなった。
再びトレイルを歩くことはもうない
すっかり会社員の生活にも慣れていた。徐々にトレイルの事を思い出す事が少なくなっていく。そんな生活を3年続けた頃だろうか。僕の母は、会社を定年退職する半年前、クモ膜下出血で3か月入院した。手術はうまく行かず、1か月間も集中治療室に居た。僕は仕事帰りはほぼ毎日病院に通っていた。その後一般病棟へ移り、3か月後に母は退院して自宅に戻ってきた。母は、戻ってきて直ぐに「自分で洗えないから頭を洗って欲しい」と言った。僕は洗面所で母の頭を洗いながらきっとこんな生活が一生続くのかと思った。母の長い入院が、僕の中である程度覚悟する準備期間になっていたのだろう。落胆することも無かった。
母が自宅に戻って3年、妹の手助けもあったのだったが、母との2人だけの暮らしの中で、どんどん僕は疲弊していった。なんとか自分のバランスを取りながら生活していたと思う。そんな中、加藤さんをもう一度ヨセミテへ、ジョン・ミューア・トレイルへという仲間との計画(第3話参照)は、母との暮らしで暗闇の中手探りで生きていた僕に、大いなる光と希望を与えてくれた。失っていた情熱のようなものが僕を再び奮い立たせた。そして僕はいつしか、無謀と思われるトレイルを仕事にすることを現実にできるよう考え始めていた。加藤さんのバックパックを引き継ぐ決断ができたのは、こうした背景があったからかもしれない。それは、僕が1ミリも想像もしていなかった新たな未来だった。
トレイルをつくる側へ
僕は人生最大の決断でどこか吹っ切れた気がした。その日は高校時代からの友人たちにお願いされ、1泊2日で蔵王の縦走路を案内することになっていた。
夜、山小屋で軽くビールを飲む。心穏やかに満天の星空を眺めたのは随分久々だった。1人また1人と外に出てくる。その後、なぜトレイルをつくる計画を話したかはっきりと覚えていない。しかし、「MASA君さ、歩いてトレイルを伝えるだけじゃ伝わらないよね」「なら実際に歩ける場所をつくろう! 俺たち応援するからさ」このI君(後の「山形ロングトレイル」の代表理事)の一言で、僕はトレイルを歩くこと、トレイルをつくることの両輪でプロハイカーの活動を続けていくことになったのだった。
トレイルをつくるチームの名前は「山形ロングトレイル」に決まった。2012年のことだ。設立メンバーは、僕の同級生から元上司まで総勢7名ほど。トレイルの事は分からないけど、とりあえずトレイルづくりを応援するという名のもとに集まってくれた。まだまだ世間一般にトレイルが知られていない時代、事務作業や資料作りも全て僕の仕事だった。
最初の2年は、僕がアメリカ3大ロングトレイルを踏破するため、半年海外に行くと山形ロングトレイルの活動は停止した。僕が戻る冬場に再び動き出すという、完全に僕がいなければ何も進まない状態だった。
トレイルを仕事に変えた最初の2年間、母は小康状態だったが、妹が休みの度、母の面倒を見てくれたし、近くに住む親戚にも時々様子を見てもらっていた。
当時の母は、手術の後遺症でスムーズに言葉が出なかった。他人と話さなくてもいいように家にばかりいた。僕が仕事を終え家に帰ると、休むこと無く母は話し続けた。遠い昔、母が若い頃の話ばかりだった。僕が社会人になった頃からの記憶はほとんど無いらしい。しかし、僕がトレイルで海外に行くようになると、頼る先が妹しかいない。ただ、少し離れた場所に住む妹には依存できなかったのだろう。母は外に出るようになっていった。僕がいない間、母は人の輪に入るようになり、他人と話すことができるようになっていく。この時、母は指示されれば身の回りの事は一人でできるようになっていたし、僕への依存度も以前の様子から比べれば随分落ち着いていた。
僕がトレイルを仕事にしたことで、母の自立を促し、僕は自分を追い詰めなくて済むようになった。トレイルを仕事にすることが、母と僕のお互いの未来にいい影響を与えたのかもしれない。今、親や家族の介護に直面している同世代の人は多いと思う。僕は他の人より少し早く父を亡くし、母の病気を経験した。だから言えるが、必ずしも一人で向き合う必要はないと思う。「助けて」と声を出すことは恥ずかしいことでもなんでも無い。アメリカのトレイルでは、はっきり意思を伝えないと応援してもらえない。僕はトレイルを歩いたからこそ、人に頼ることができた。また、人にお願いすることで、自分の荷物を下ろすことができた。そうすることで自然に心に余裕も生まれる。心に余裕ができると、人は優しくなれることを身をもって体験した。僕は周りに助けられたからこそ、トレイルを歩くこともつくることも続けられるのだ。

トレイルはアメリカ発祥の概念で、山野に付けられた道を歩く、いわゆる「山歩き」。 北米ではポピュラーなアクティビティであり、文化として根付いている。 山に登るのではなく、山を歩くとはどういうことか。なぜ人々は山を歩くのだろうか。 20年にわたり国内外のトレイルを歩き、日本におけるトレイルカルチャーの普及に努めてきたプロハイカーが、その豊富な実体験を通して「山歩きの哲学」を伝える。





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