なぜこの世界で子どもを持つのか、このタイトルに抵抗感を持つ人も多いかもしれない。実は私もそうだった。しかしそれ以上に今、子どもを持つことを躊躇する人が増えているという。そのことを考えたいと思った。
本来子どもを持つことは、「なぜ?」と理由を求めるものではないだろう。本来と書いたが、かつての社会では、でも良い。誰か好きな人ができて、関係を結んで、子どもができたら、それは喜ばしいことで、周りからおめでとうと言われ、産んだら皆から祝福される。新しい生命の誕生を祝福できないのだとしたら、人間が一緒に生きていく意味はどこにあるのだろうか。私たちが原初に持つ、無防備な喜びのはずだ。
ではなぜこの本を書こうと思ったのか、いくつかの大きな理由がある。
まず大きいのは、「バースストライキ」と呼ばれる運動が、世界中の若い女性のあいだで起こっていることを知った衝撃だ。気候変動をはじめ、未来の世界への責任ある大人たちや、政治的支配層が解決策を探らない限り、私は子どもを産まないと訴える運動だ。彼女たちは「バースストライカー」と呼ばれ、産む/産まないという女性の選択権を、現代社会への批判道具に使うという態度を持つ。イギリスで起こった運動は、カナダやアメリカに飛び火し、2019年にカナダでは18歳の女性が、#NoFutureNoChildren(安全な未来がなければ子どもは持たない)運動をSNS等で起こしたが、炎上してハッシュタグを取り下げるなどした。
間違えてはいけないのは、彼女たちは決して産まない方が良いと他人に薦めているわけではないことだ。世界の未来に不安を感じ、大人たちの責任を問い、未来の子どもが生きる世界を想って真面目に悩んでいるからこそ、産まないという選択肢を自らに課して、重い腰をなかなかあげない政治的支配層への批判を展開している。
グレタ・トゥンベリさんが気候変動問題への大人の責任を訴えたとき、私自身も本当に心動かされ、同時に大人としての自分を呪った。なんとかしたいと東京でのデモにも参加した。しかしあれから6年、コロナ禍を経て、世界は自国主義がはびこり、より一層経済至上主義が加速し、自分さえ良ければ、という価値観が増したように見える。
実際、グレタさんの訴えによって世界中に広がった気候変動デモは、いまヨーロッパでも下火となり、2019年ドイツ・ハンブルクで10万人が集まった気候変動デモは2024年に同じ場所で行われたとき、わずか3500人しか動員しなかったという。デモを率いたドイツ緑の党の支持率もドイツ国内で落ちる一方だ。
しかし、だからといって北極の氷は溶けるのを止めてくれるわけではない。各国が自国中心主義と排外主義を持つ政党の、猛烈な躍進の波をかぶっているあいだ、夏の気温は上がる一方で、世界各地で洪水や山火事、巨大ハリケーンの被害も激増している。世界環境はまったなしの状況なのに、各国が手を取りあい世界の問題を解決しようとする流れは遠のいている。
こんな世界に若い人たちが不安を感じて当然である。真面目に未来の自分のこと、子どものことを考えるがゆえに、自分の生殖を否定する。世界中の若い女性たちが抱える、このやむにやまれぬ苦しみを分かち合いたい。問題を共有し、どう考えればよいのか道筋を一緒に考えたいと思った。日本の若い女性たちのなかにも、きっとバースストライカーが近い将来もっと現れるだろうから。
もう一つ大きな理由は、反出生主義という思想が、哲学思想界隈でよく聞かれるようになったからだった。デイヴィッド・ベネターという哲学者が問うた「私は生まれない方が良かった」という反出生主義の考え方を最初に聞いたとき、私には圧倒的な抵抗感が襲った。他者の生を否定し、自分の生を呪う思考を、普遍的なものとして哲学が差し出す意味がどこにあるのだろうか。一方で、何人かの知人友人たちのあいだで、自分は反出生主義だと公言する者も増えてきた。この世界において、「生」はどこへいくのか、暗い気持ちが宿る。反出生主義に抗いたい。それが私に強く去来した想いだった。
一方で私の倫理観はそうであるが、もし子どもが「私を生まない方がよかった、生んで欲しいと頼んだ覚えはない」と、親に対して怒りをあらわにしたら、親はなんと答えられるだろうか。
この仮想命題が、私のなかでずっとくすぶっていた。もしそう問われたら、私は命がけで子の生を守ろう、尊重しようと言葉を尽くすだろうが、もし子どもが本気で訴えたら、親に弁明の余地はあるのだろうか。私は「自分が」子どもを持つことを願ったことを知っている。子どもに生まれたいかどうか意思を確認する術はない。親は論理的には弁明の余地がないからこそ、そこにありったけの言葉や態度がつめこまれ、倫理的に絶壁まで追い詰められるはずだ。その倫理的絶壁にはどんな考えが潜んでいるのか。問いが問いを呼んで、私の中でずっと熾火のように燃えていた。
またベネターがヴィーガンで動物好きで、他の生物の生命を搾取する人間に対し問題を感じている人だということもあとから知った。それはバースストライカーの少女たちが感じている世界への違和感に近いものかもしれないのだ。
気候変動だけではない。グローバル化により各国で中間層が崩れ、経済的に困窮する層が年々分厚くなっている。そのことにより、排外主義的で権力を行使する独善的な政治家が選ばれる傾向はますます高まり、戦争の気配もいっそう濃くなっている。明るい未来を描きにくい今の世界で、「子どもを持つこと」に戸惑いを抱く若者の考えをもっと知り、大人として知らねばならないと思った。
「なぜ子どもを持つのか」、その問い自体に最初は抵抗感を持ったと言ったが、私自身その問いを投げられたことがある。
現代における「母親」の存在論的な居場所についてインタビューを交えて描き、やがてケアというものの根幹にたどり着いた拙著『マザリング 性別を超えて〈他者〉をケアする』で、私は韓国のアーティスト、イ・ランさんにインタビューを行った。そこでイ・ランさんは私に、「なぜ佑子さんは子どもを持つの?」と問うた。「いますでに生まれている不幸な子どもを引き取ればそれで良いのではないか。子どもを持つのは親のエゴではないのか? もうこの世界に子どもを増やす必要はない」というのであった。
お隣の韓国はフェミニズムも女性運動も、日本より一足はやく敏感な動きを見せていて、韓国の若い女性たちのあいだで産まない選択をする人が多いことは知っていた。しかし、それが直接の問いとなって振りかぶってきたとき、私は「子どもは一人の他者であり、子どもの感受性に立ち入ることはできない。産んだ子が生を呪うかなんて、誰も予測はできない」と答えていた。他者の生を誰も予測はできない、産んだ子どもが不幸になると決めつけることの方が問題だ、それが私のギリギリの倫理観だった。それでよかったのだろうか。他にも言えることはなかったのか。この問いも私のなかに異物として残りつづけた。
私は娘と息子を産んでいるが、もし将来子どもたちが自分は子どもを持ちたくない、あるいは自信がない等と言われたとき、何を言えるだろうかと深く考えるようになった。子どもたちの選択を最大限尊重しようとするだろうが、一方で私が彼らに会えたことの感動は、飽かずに素直に伝えたいとも思うだろう。もし彼らが将来子を持つかどうか迷ったときに、手にとれる本を遺してあげたいとも思った。拙著『マザリング』は子を持った人のことを考えた本だったが、今の時代に産まない選択をする女性も多いなか、子を持たなかった/持たないと決めた人のことを考える本が書きたいとも思っていた。
また、大学で教えて5年が経つが、今の大学生と接していてアロマンティックやアセクシュアル、つまり誰とも恋愛したいと思わないし、性的に惹かれない人が増えているという感触がある。いまの世界で「子どもを持つこと」は、誰かを好きになって訪れる自然な帰結でもマジョリティでもなく、幾重にも理由を問われたのちの限られた選択肢として相対化されている。
社会に目を向けても、「子を持つこと」は、実にさまざまな風当たりを受けていて、一筋縄ではいかない。
子どもを持つか持たないかという選択肢が、人々を分断する線として屹立してしまっている。バースストライキに関しては自分の身体条件をプロテストの道具に使うという女性運動の一面があったが、子どもを持つか持たないかに関しては、女性だけでなく男性の間でも分断線をもたらすであろうし、LGBTQ当事者が子を持つ選択をしてもそうだろう。
世間では「子持ち様」「子無し様」という双方への揶揄の言葉さえ生まれている。子どもを持ったことで産休育休の取得や、残業ができない人のかわりに、子を持たない人がフォローをすることは、多くの会社で行われているが、そのことで子を持たない人が不公平感を募らせたり、逆に子を持つ人が昇進から除外されたり、両者共に不満を募らせる状況が生まれている。
本来は人生の選択によって分断される問題ではないはずだ。社会にはびこる損得感情が、子どもを持つというプリミティブな事態に流れ込んでしまっている。キャリアを捨てて子どもを持つのか? 先に子どもを持って、そのあとキャリアを形成できるか? 子を持つか持たないかの選択によって、それぞれが人生の自己責任を問うような事態に陥っている。
とくに女性においては出産の年齢制限と、キャリア形成の時期が重なってくる。また何重にも女の人たちが悩まなくてはいけない。そういう状況に女性が置かれていることを、私は見て見ぬふりはできないと感じた。
それは、本来理由など問われる必要のなかった「子どもを持つこと」に、新自由主義的な論理や予測、数値的エビデンスが求められているともいえる。論理で解決できることなんて、世界のほんの一部にしか過ぎないのに、世界は論理至上主義に陥っている。未来に責任を持てる「保証」や「理由」が揃わなければ産んではいけない、ということもないと思っている。子どもが生まれてから、皆でがんばるということでもいいはずだ。子を持つことは、もっと無節操で無鉄砲で、無理由でもいいはずなのだ。
このようにしていくつもの理由が重なり、「なぜ今の世界で子どもを持つのか?」という問いが私のなかで実にさまざまに変奏して鳴り響いていた。
しかし重要なことは、子を持つことを「なぜ」と問うことによって、「こういう理由だから」子どもを持つべきです、あるいは子を持つべきではないと結論づけるものではないことだ。
難しい時代にそれでも子どもを持つ選択をした方、だから子どもを持つ選択をしなかった方。それぞれに逡巡や躊躇、ためらいがあるのではないか。様々な選択をした方々のインタビューを交え、世界の動向や考え方を紹介しながら、「なぜこの世界で子どもを持つのか」、この問いを明らかにし、悩める人の視界がせめてクリアになることを願って、書き綴っていきたいと思う。

世界各地で起きる自然災害、忍び寄る戦争の気配やテロの恐怖、どんどん拡がる経済格差、あちこちに散らばる差別と偏見……。明るい未来を描きにくいこの世界では、子どもを持つ選択をしなかった方も、子どもを持つ選択をした方も、それぞれに逡巡や躊躇、ためらいがあるだろう。様々な選択をした方々のインタビューを交え、世界の動向や考え方を紹介する。
プロフィール

1977年東京都生まれ。映像作家。立教大学現代心理学部映像身体学科兼任講師。哲学書房にて編集者を経たのち、2005年よりテレビマンユニオンに参加。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』が、著書に『マザリング 性別を超えて<他者>をケアする』『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』がある。