なぜこの世界で子どもを持つのか 希望の行方 第9回

同じ社会のなかで生まれてきたみんなだから

中村佑子

ヤングケアラーだと思う

 彼女は私の気になる人だった。とくに書く文章が、いつでも想いが溢れていて、切実で美しかった。SNSやブログ、ZINEはいつでも彼女が書きたいと思ったときに無理なく言葉を放出している感じで、力みのないストンとした快さがあった。
 出会いは、私の著書『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)の出版記念のトークイベント。彼女――汐見さん(仮名)は終わったあと、自分も母親の病に子どものころから付きあってきて、たぶんヤングケアラーなのだと思う、と話してくれた。
 次に会ったのは、彼女が企画するZINEのイベントだった。それは子どもを産んだ人、産まなかった人、不妊治療を続けている人、性暴力を受けた人、トラウマと闘っている人、癌を患っているけれど子を望む人、うつ病をかかえながらギリギリで子育てしている人、子を失った人、望んでいたけれど子を持つことができなかった人、望んでいない子を持つことになった人……生殖にまつわる身体の問題に直面している、実にさまざまな女性が集う場だった。ZINEやブログで文章を書いている人が多く、自己紹介がてらZINEを交換しあったりリンクを送りあったりしていたけれど、言葉にならない人、言葉をこの場で探し出したいと思う人にも温かく門戸が開かれる実に心地の良い場だった。
 連絡をとりかわす中で、汐見さんが妊娠中であることを知った。精力的に仕事をしているので大丈夫かな、と心配していた矢先、切迫早産の疑いがあり入院することになったと連絡があった。出産までそのまま入院となったが赤ちゃんは無事に生まれ、本当によかったと思ったと同時に、NICUに入ったので、先に退院した汐見さんが病院まで搾乳した母乳を届ける日々であることなどを知った。
 私はあらためて汐見さんの言葉を聞いてみたいと思った。あんなに広く温かくやさしい場を作れる人はどんな人なのだろう。ヤングケアラーだと思うと話してくれたけれど、どんな子ども時代を送ってきたのだろう。子どもが生まれたいま、どんな想いを持っているだろう。

祖父の死と母の発病

 取材は、汐見さんの家の近くの喫茶店で行った。いまは無事退院し6ヶ月を健康に迎えた赤ちゃんは、汐見さんのパートナーが家で見てくれている。
 ひさびさに会う汐見さんは、カジュアルなキャップを目深にかぶり、薄い色合いのトレーナーにスニーカーといういでたちで、東京のリアルクローズという感じだった。キャップの下にちらりと見えた顔はすごくさっぱりしていて、もう少しで春になりそうなうららかな陽の光とも相まって、いつも赤ちゃんと一緒にいる、その柔らかく温かい空気をここにも持ってきてくれているようだった。
 汐見さんのことは実は何も知らなかったので、まずは生い立ちから聞きはじめた。汐見さんはとても可愛らしい声をしているが、その声を発する前、一つ一つの質問に丁寧に言葉を探す、一瞬の静止の時間がある。それは汐見さんの書く文章の印象と、ふしぎなほどイコールだった。
「私、東京の東の方で生まれたんですけれど、生まれたときの家が3世帯家族だったんです。私は一人っ子で両親と3人だけですが、母方の祖父母と、母の弟家族と一緒に住んでいたんです。1階に祖母が住んでて、2階に母の弟家族が住んで、3階に私たちという。祖父は土木関係の会社を興していて、私の父もそうですが、家族は祖父の会社のメンバーでした」
 お母さまの父、汐見さんの祖父は政治の世界にも足を踏み入れ、一時はある土地の町長を務めていたという。社会に対するのと同じように、家族のなかでも君臨し、精神的支柱だったと想像できる。
「私が2歳のときに祖父が亡くなったんですが、母はそれがきっかけで躁うつ病を発症して、そこからずっと、いまも闘病しています」
 お父様が亡くなったことがきっかけで精神的に不安定になったということは、それだけ汐見さんのお母さまにとって、父親の存在が大きかったのだろう。
「祖父が亡くなった後も、祖父がやっていた会社は、母の弟、私の叔父が継いでいたんですが、それがのちに倒産してしまって。それで家も売ることになって、家族がばらばらになったんです。私が聞いた話だと、私の父は実家が地方で、その実家の近くに3人で一緒に行こうと言ったらしいんですが、母は行きたくないと言ったようで……」
 大きな家に生まれ経済的に不自由なくお嬢様として育った汐見さんのお母さまは、田舎には行きたくないと言ったそうだ。
「でもたぶん、それだけではなくて、結構父は浮気もしていて女性関係があった。そのころのこと、母はあまり記憶がないらしく、ちょっとおかしくなっていたというか、買物依存症に走ったり、荒れている感じでした」
 結局ご両親は、汐見さんが小学生のとき離婚している。

普通の家族を持ちたい

 子どものころから家族のケアを担わされている、いわゆるヤングケアラーのなかには、自分が家族を持つことを躊躇する人も多い。親にネグレクトされていたり、虐待的な記憶があったりすると、自分も子どもに同じことをしてしまうのではないかと危惧する、という声はよく聞く。
 しかし汐見さんは、違った。実は取材の依頼のメールにこう書いてあったのだ。
《私は母との関係を再生産しないか不安がある一方で、圧倒的に子どもを持ちたいという気持ちも強く、それは中学生くらいのときから持っていました。そんな私ですが、取材してもらっても良いのでしょうか》
 意外な答えだったのだが、私は、そのままありのままの汐見さんのお話をどうぞしてくださいと返事をしていた。
 この日汐見さんから聞いた幼少期のご両親の話は、「私もヤングケアラーかもしれない」と話してくれたとき私が想像したよりも、いっそう大変そうだと思えた。一人っ子の汐見さんはお母さまのケアをどうこなしていたのだろうか。そして、それでも中学生のときから子どもを持ちたいと強く願っていたのはなぜなのか。
「母は、私のことを小さなときからすごく大事にしてくれたし、父も基本的には愛情を注いでくれていました。でもどうしてもやっぱり母がそういう状態だと、入院したり、1日中寝ていたり、学校の行事にも来てもらえなかったり、寂しい想いというのはずっとあって。一方でいとこの家っていうのは、3人も兄弟がいて、お母さんもお父さんも元気で、私にとっては絵に描いたような、これが普通の家族なんだなみたいなのがあって。すごく比べてしまうというか、たぶん家族というものに憧れてたんですよね。いとこはみんな年下だったので、生まれてくる姿を見ていて、赤ちゃんかわいいなというのもあったし。どこかで私もそういう普通の家族を持ちたいという想いがすごく強くて。あと私、幼稚園の年中から、私立の女子校に入ったんです」
 都内の名門といわれる有名女子校の附属幼稚園だ。クラスメイトとともに、小学校、中高と進級していく。
「そういうところってやっぱり、はたから見るとちゃんとして見えるというか、うちだけすごく変な家みたいな、コンプレックスがずっとありました。皆さんきっと外からはわからない、いろんな事情があると思うし、いま思えば別にいわゆる普通の家族の形にはまらなくてもいいんじゃない?って思うんですけど、いつか自分の子どもを産んで、もう1回家族っていうものをやってみたい、というのがあったんだと思います。それをしっかり自覚したのが、中学ぐらいだったのかな」
 機能不全家族に育った人が、自分の家族を持つことで、私は、僕は、こんな新しい家族を作れるんだ!と自由と解放を感じるという話を、私は最近他の人――それはアメリカ人なのだが――から聞いたばかりだった。家族を作るというのはある種の作品といったら言い過ぎだが、人間にとって自分が作り出せる新しい世界であり希望になり得る、というのは過分にあるだろう。
「一方で、やはり母にしてもらえなかったこととか、いろいろ傷ついてきた子どものころの自分というのが、いまもずっと自分のなかにいて、その自分を、自分の子どもに愛情をかけることで癒やすことができるんじゃないか、という感覚があったりします」
 これは、私には痛みをもって分かる感覚だった。私が、娘が小学校から帰ってきたとき、インターホンに元気いっぱい出ることに異様にこだわっているのは、たぶん小学生だった自分に「おかえり」と高らかに声をあげているのだと分かっていた。その行為自体が再帰的に幼いころの自分を癒えさせ、かつそれができなかった母をも癒していると気づいて、何重にもふしぎな気持ちになるのだった。
「何か家族の仕組みというか、構造みたいなものを自分も経験して、知ってみたかったというか、子どものころいろんなことがあったので、自分もあらためて経験して確かめてみたいな、という気持ちがあるんだと思います」

「置いていかれる」という感覚

 あらためて、年下のいとこたちと大きな家で一緒に育った汐見さんをイメージした。汐見さんの目には安定した健康的な家族として映ったいとこたちを見ながら、彼女は自分の家族とは違う、オルタナティブな家族への想像を育てていったのだろうという感じがした。いま赤ちゃんは6ヶ月を越えたばかりで、まだ子育ては始まったばかりだと思うが、自分の家族をつくっている感覚はするだろうか。
「結局は、やはり地続きな気がしています。いま母と家が近いので、やはり過干渉気味だったり、ときどき不安定になったりするときもあって、母をケアしなければいけないという状態はずっと続いています。それはしんどくもあるんですけど、私は母のことが大事だし、大好きな存在でもあって、自分の家族をつくりたかったといっても、結局はちょっと母のためみたいなところもある、と。母にとっては生きがいが私しかいなかったんですよね。だから、もし孫とかが生まれたら、母にとって生きがいが増えるんじゃないかという想いはありました。実際、母はすごく孫をかわいがってるし、いままで男性家族がいなかったから、パートナーも増えたことで力強く感じてたりします」
 汐見さんはそこで立ち止まらず、複雑な森の先へもう一歩、歩を進めたのだと思った。家族という苦しくも厄介なものから降りるのではなく、森の先の何やらここからは別世界に見える空間まで、足を踏み出して行ってみること。汐見さんは皆の手をつないで一緒に進んでいったのだと、そんな姿をイメージした。
「私の中で、母も元気になってほしいというか、どうにかその苦しみから少しでも抜け出してほしいという気持ちがやっぱりずっとあったから。私は生まれた家族とは別の家族をつくるというよりは、私が家族をつくることでみんながもうちょっと、健康的に少しでも仲よくなってほしいみたいな感じでしょうか。祖父が亡くなってから母の具合が悪くなったと言いましたが、祖父は祖母に暴力を振るっていたらしく、亡くなる直前に隠し子がいたことも分かったんです。たぶん家族を傷つけてきた人だったと思うし、もしかしたら母も殴られたことがあったかもしれない。聞いたことないですけれど」
 お母さまの精神のバランスが崩れたのは父親の死がきっかけだったと聞いたとき、それだけ大きな存在だったと私は想像したのだったが、その死はある種の解放でもあり、経済的には強い支柱を失う不安でもあり、強い支配下に置かれていた者が急に四方の壁を失うような複雑な経験だったのだろう。その、なんともいえない状況を幼い汐見さんがヒリヒリと感じ取っていたこともよくわかる。
「母はよくも悪くもすごく純粋な人で、だからその愛情は私も素直に受け取っていたんだと思います。母が優しい人だということを知っていた。ただ一方で、もちろん傷つけられることもたくさんあって、一緒に死のうってナイフ持って言われたこともあるし、何度も何度も自殺未遂して、それはもう、置いていかれるという経験で……。もう本当に1年に何回も自殺未遂をするので慣れていましたね。大体は持ってる薬を全部オーバードーズして、連絡が来て、『薬飲み過ぎちゃった』みたいな感じで。それで急いで帰って救急車呼んで、一緒に夜中に病院に行って胃洗浄するのを待って、次の日一緒に帰るとか、そういうことです。中学生ぐらいからかな。小学校のときは、たぶん祖母が行ってくれていたのだと思います」
 私は汐見さんが言った「置いていかれる」という言葉がとても気になった。家族の前で自殺未遂をする人の、残される側の家族は、「自分が持っている薬のオーバードーズでは簡単に死なないことは本人もどこかで分かってやっているし、愛情を確かめる行為なのでは」と思うものだ。それは「対応せざるを得ない私の思い」というものが置き去りにされる感覚で、汐見さんの「置いていかれる」にはそんな感情が見え隠れしていた。
 それでも汐見さんはお母さまの良いところ美しいところを努めて見ようとしているように思えた。
「何だろう、これは本当の母ではないというか、病気でこうなってるんだというのはどこかでありました。私は結構、ポジティブというか、いい面を信じて、悪いことは結構忘れちゃうことも多いし、そんな感じで向き合ってきましたね。ただ私だけが生きがいみたいなのは、正直重いし、どうにかしてほかに何か見つけてくれないかなって、ケアし切れてはいないというか、どうしたらいいのかなって思います」
 子どもが生まれて、汐見さんの母への気持ちは変化したのだろうか。
「実際に子どもを育ててみて知ることってたくさんありますよね。3時間おきにミルクを飲むとか、そんなことも知らなかったし、本当に一つ一つの細かい丁寧なことを全部私もやってもらっていたんだというのはすごく驚きでした。ただまあ、祖母が割と一緒にやってくれてたんだと思うんですが(笑)、それが今になって分かって祖母に感謝を伝えられないことがすごい寂しいというか、申し訳ないなと思ったりもします」
 もちろん母親に手伝ってもらってはいただろうが、汐見さんのお母さまもきっと汐見さんを一生懸命に生かし、育て、大切にしてきたのだろうと、若いころの汐見さんのお母さまの横顔を勝手にいまの汐見さんの顔に透かし見るように私は感じた。そうでなければ、病気で死のうとするお母さまの「本当の姿」の「いいところ」をこんなに一生懸命に見ようとしない。一緒に手をつなぎ、その先へ進もうとしないだろう、と思えた。

誰にも孤独を感じてほしくない

 家族に対する複雑な気持ちのなかから子を持つということを選んだ、その複雑さを考えると、汐見さんが主宰したイベントに実にさまざまな身体の当事者を呼んでいたことが思い当たった。汐見さんは企画当初、妊娠していて「産むであろう人」だったが、その催しには産まなかった人、産んだけれどもうまく育てられない人、不妊治療の果てに産むことができなかった人らも呼んでいた。
 いま社会には「子持ちさま」「子無しさま」などという呼称があるように、産む人と産まない人のあいだに分断があるように見える。それを乗り越えて、一緒に語る場を汐見さんは提供しようとしていた。そこにはどんな想いがあったのだろうか。
「妊娠して、とくに切迫早産で入院することになって、不安だからSNSとかで自分と同じ状況の人とかの情報を検索しますよね。すると不妊治療をしてる人だったり、他の状況の人たちも見えてきたんですが、どうしてもSNSでは分断されてるように見えたし、それがとても苦しくて。一度、階段で妊婦さんがちょっと突き落とされて、突き落とした人は不妊治療している人だったらしい、という投稿を見たときに、何でそんなことが分かるんだろうと思って。炎上させたい人がいるんじゃないかなと思って、すごく悲しくなったんです」
 分断をあおりたいのかと思うような投稿はたしかにSNSにあふれている。その投稿を目にしたのが、イベント開催のきっかけだったのだろうか。
「何か一緒の場で語れないことが、すごく寂しいと感じたというか。本来はそれぞれに体があって、みんな一人として同じではない。もっと本当のことを話せたほうが楽になるんじゃないか。でも、どうしても孤独にならざるを得ない状況がある。不妊治療も、会社の人に理解を求める言葉を尽くすのが大変だったり、本当はもっと話したい人がいるはずだって思いました。もしかしたら誰かとつながりたいと思っている人たちにとって、見つけてもらえる場所になったらいいな、と。私は、子どもを産みたい気持ちが強かったけど、もしかしたら産まない選択をした自分もいるかもしれない。そういう決められないでいる人、年齢だけは迫ってくるけど決断できないという話は友人からもよく聞くし、みなそれぞれに人生があって、私には想像しても分からない人生がいっぱいある。そうした人たちにも届くような言葉を紡いでいけたらいいなとずっと思っていました」
 汐見さんは子宮内膜症があり、生まれつきの子宮奇形で不妊の可能性があると医師から言われていたという。そんななか自然妊娠できたこと自体は意外な嬉しさだったけれど、子ができなかったかもしれないという選択肢を、ずっとリアリティをもって感じていたという。汐見さんは、不妊治療を受けている人を支援する団体にも、イベントへの参加を依頼したという。
「私自身、里親について調べたときもありましたし、不妊治療のことも考えていた。それもあって、あのときのイベントに不妊治療の団体の方にお声かけしたのですが、“今回のテーマに私たちが支援している人は含まれるのでしょうか”と言われたんです。不妊治療の家族を支援する団体のパンフレットをZINEなどと一緒に置かせていただきたいと言ったときに、“母になりたかったけどなれない、またなれなかった人は含まれていないようで、私たちが支援している妊娠できない人、できなかった人は趣旨からずれてしまわないかという点を懸念しています”というお返事をいただいて。でもその後に、もう一度連絡をしたんです」
 とてもデリケートな問題だし、参加に懸念点があるという団体にもう一度連絡する胆力に、私は唸った。どう説得したのだろうか。汐見さんはそのとき送ったメールの一部を読んでくれた。
「私は妊娠している当事者だけれど、妊娠を望んでる人や不妊治療してる人、妊娠できなかった人、里親含め母になりたい人、なりたくない人、関心がない人、女性の体を持っているために選択しなければならない人、そうした自分の体について孤独を感じている方、全ての方に心を寄せたいという思いから企画したもので、不妊治療している人にとって、妊娠している私や妊娠を望まない人と同じ場で一くくりにされることを暴力的に感じる可能性もあります。ただ一方で、同じ社会に生きる中で、不妊治療という経済的、時間的、精神的に負担のかかることについて、もっと職場や社会の理解や制度のサポートが必要だと感じており、それは不妊治療してる人だけではなくて、私のように働いている妊婦や子供を育てる人にとってもそうなので、語りたくない人は無理に語る必要はないけれど、もっと社会に届いてほしい、語りたいと感じてる人にとって語ることができる場になったり、一人で悩んでいる方に、出会いの場になれば、という思いで企画したということを書きました。自分の病気のことも話し、みなそれぞれの人生があり、事情があって、私は不妊治療の当事者ではないけれども、当事者の方の思いを聞きたいし、同じ社会に生きる者として自分にできることを考えたいという想いでした」
 その団体からは、汐見さんの想いや意図はよく分かりました、と返事が来て参加してくださることになったというが、そのとき「不妊の経験と一言で言っても、その中にいろんな方がいて、流産、死産を経験された方もいるし、男性不妊の方もいる。汐見さん自身でなくても、将来、汐見さんの子どもが不妊になる可能性もあるし、そういうことを考えてみてください」という言葉があったという。
 不妊のつらさだけでなく、その先の結果をどう受け入れるか。その終生続く「痛み」を「自分の子どもが不妊になる可能性もある」という一言で、よりリアルに感じて欲しい、という願いを感じる返答だった。私は実際に、イベントでこの不妊支援団体の方と話をしている。そのときに支援者の方が醸していた、さまざまな痛みを受け止め続けてきた懐の広い印象を思い出していた。それでもなお、イベントに参加してほしいと強く願った汐見さんの想いの広さもまた、特別だった。
「生殖に関する身体的な問題に直面した人が、このイベントのことを見つけてくれ、もし訪れたときに、自分の問題が疎外されていると感じて思ってほしくない、ということはあったかもしれません。もちろん全部の人に寄り添うなんてことはできないかもしれないけど、それでもできるだけ孤独を感じてほしくなかった。私の話もある、対象にされている、と思ってほしかった。だから、やっぱり欠かせないと思ったのだと思います」

同じ社会に生きる者として

 私は汐見さんがこの日何度か「同じ社会に生きる者として」という言葉を使うのがとても気になっていた。小さなころからお母さんのケアに時間と心を割く必要のあった汐見さんは、それでも早いころから自分も家族をもって、自分自身の子どものころだけでなく、母をも救いたいと考えていた。何かから降りずに、問題は問題のまま一歩一歩歩き続ける選択肢をとる。そんな汐見さんの語る「同じ社会」には、きっと希望の種が蒔かれているような気がした。
 それぞれが別の体で、別の人生を送っていて、それぞれの世界には分断も抵抗もあるだろう。しかしとにかく共に集まって、皆が話をできる場所を作りたい。「同じ社会」に生きる者として。そんな希望だ。
「私、子どものころから人が集まるきっかけをつくるのがすごく好きだったんですよね。いとこたちと住んでいた家のなかでもやっていたんです。今日はお祭りをします、来てくださいって。たぶん寂しいから人を集めたいというのもあって。誕生日とかはもちろんやったのですが、なんでもない日にも、日にちを決めて開催しました。魚つりができるようなおもちゃで出店風にしてみたり、私が物語を考えていとこたちに演じてもらうという学芸会風なときもあって。観客はほぼおばあちゃんと、ときどき私の母。いとこたちの両親は仕事で忙しくてほとんど来られなかったけど、それでも普段はバラバラに生活をしている人たちが集まるのが嬉しかった」
 家のなかで皆を集める小さな汐見さんが、いま目の前にいる汐見さんとまっすぐつながった気がして、私はふいに胸を打たれた。寂しい想いや不安を抱えていた汐見さんは、皆が集まるその場所で、少しだけ救われたのではないか。そこでなら、自分の想いを少しだけ表現できたのではないか。いま大人になっても、きっと皆そういう場所が必要だ。いえ、むしろこんなにそれぞれの世界が小さく閉じて、他の世界の人をリアルに感じられることが少なくなった時代にこそ必要なのだと思う。
 この日の汐見さんの話は、つらく痛い話も多くあったのに、なぜか思い出すと、のどかな春の日ざしと、軽くて柔らかい汐見さんの声の印象、そして「それでもいいほうを信じたい」と話す、汐見さんのさっぱりした顔しか目に浮かばないのだ。
「その人固有の人生は、やっぱりその人にしか語ることができない。赤ちゃんを見ていて、この子はいまこの瞬間の赤ちゃんのころの記憶を大人になったら忘れてしまうけれど、私たち自身もみんな本当に同じように赤ちゃんだった。そうやって生まれてきたみんなだから、うん。世界の現状に絶望するときもあるけど、やっぱり地球きれいだな、とか思うんですよ。子どもがいてもいなくても、みんなで少しでもいい、未来をつないでいきたいという気持ちが強いし、できるだけ手を取り合っていきたいと思いますね、うん」
 同じ社会のなかで、こうやって生まれてきたみんなだから。こうした努力をする人を、お花畑だなどと揶揄する人も、今の世界にはいるかもしれない。けれど、誰もがハスに構えて現状を受け入れているだけだったら、世界はもっとひどい状態だったはずだ。どこかで誰かが努力をしている。嫌いあっている人をつなげる努力、コミュニケーションをとりたくないと思っている同士をつなぐ努力、ばらばらになった家族をつなげようとする努力……。同じ社会のなかで、こうやって生まれてきたみんなだから。その言葉を胸に刻んだ。 〈了〉

 第8回
なぜこの世界で子どもを持つのか 希望の行方

世界各地で起きる自然災害、忍び寄る戦争の気配やテロの恐怖、どんどん拡がる経済格差、あちこちに散らばる差別と偏見……。明るい未来を描きにくいこの世界では、子どもを持つ選択をしなかった方も、子どもを持つ選択をした方も、それぞれに逡巡や躊躇、ためらいがあるだろう。様々な選択をした方々のインタビューを交え、世界の動向や考え方を紹介する。

プロフィール

中村佑子

1977年東京都生まれ。作家、映像作家。立教大学現代心理学部映像身体学科兼任講師。哲学書房にて編集者を経たのち、2005年よりテレビマンユニオンに参加。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』が、著書に『マザリング 性別を超えて<他者>をケアする』『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』がある。

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同じ社会のなかで生まれてきたみんなだから

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