鼎談

30年間行われてきた自衛隊PKOとは何だったのか?

ウクライナ戦争下の今だからこそ考えたい
布施祐仁×伊勢﨑賢治×渡邊隆

「文民保護」のためPKO部隊も「紛争の当事者」となる

伊勢﨑 はい。冷戦が一応は終結したものの、それ以前から多発していた主にアフリカ、アジアでの内戦が更に激化することで地球規模の人道危機が叫ばれ、国連はどういう責任を果たすのかと期待と使命感が支配していた時期だと思うのです。

それが結実したのが、1999年のコフィ・アナン事務総長による、PKOを含む国連部隊に関する告知です。「国連安保理の承認のある国連部隊は、国際人道法を遵守すべき『紛争の当事者』となる」と宣言する内容です。

東京外国語大学教授・伊勢﨑賢治氏(撮影/等々力菜里)

国連PKOは、必ずその受け入れ国と地位協定を結びます。その政権が崩壊している時でも一方的に地位協定を設置し、兵力を提供する国連加盟国に周知させます。「国連地位協定」というものです。その地位協定とは「国連部隊は国際人道法を徹底的に遵守する」ことが前提となります。

そして国連部隊が、国際人道法違反、つまり戦争犯罪はもちろんですが、小規模の業務上過失を引き起こした時でも、日米地位協定など一般の地位協定のように受け入れ国は裁判権を放棄することになります。つまり国連要員は相手国の法制から免責状態になるのです。

これは「不処罰の文化」を承認することではありません。だからこそ「国際人道法に違反した場合、国連部隊の軍事要員は、それぞれの国内裁判所で起訴の対象となる(同告知第4条)」となる。つまり、そういう国内裁判所と、それを支える法制がない国は、そもそも国連PKOに部隊を派遣できなくなっているのです。

この告知が出た直後に、僕は国連から東ティモールに暫定統治機構の県知事として派遣されたのです。後になって治安がぐっと改善したところで自衛隊の工兵部隊が派遣されますが、僕が現場にいた当時はそうではなく、加えて、僕が管轄したのはインドネシアとの国境地域で、戦闘が継続中でした。

僕はもともと開発援助畑の人間ですから、軍事に関しては素人でした。でも、僕が一応形の上では「文民統括」をしていることになっている、一回り以上も年上のオーストラリア軍の司令官(准将)が、手取り足取り教えてくれたわけです。ヤンチャな若主人に仕える冷静沈着な執事のように、戦争のルールである国際人道法を基本のキから、OJTで。

アナン事務総長の告知が出てから、PKO部隊はもう、それまでのように「治安が悪くなったら撤退する」わけにはいかなくなり、国連安全保障理事会から与えられたマンデート(任務と義務)にとって必要なら『紛争の当事者』になるのです。

そのマンデートが「文民の保護」(*3)なら、それは当然、文民への脅威となる“敵”と交戦することを意味します。国連PKOが現場に常駐しながら何もできず、最後には撤退し、史上最悪のジェノサイドを引き起こした1994年のルワンダの虐殺のような人道危機を、二度と繰り返さないように。

しかし、これは、言うは易く行うは難し、です。文民を保護すると言っても、その文民と敵の戦闘員が区別つかない状況はどうするのか。戦闘員が文民の中に巧みに紛れ込む「非対称戦争」の典型的な問題です。

東ティモールの時の僕は、自分の信念として、自分が文民統括するPKO部隊が住民に銃を向けることを厳禁していました。国連の暫定統治機構といっても、所詮は外国人による統治です。住民の不満はデモという形で僕たちに頻繁に向けられていたのです。

僕はPKO部隊が「治安出動」することを禁止していたのです。文民のための平和を維持しているのに、その文民に平和維持部隊が銃を向けることを避けたかった。僕の責任下では、絶対に。

しかし、僕が管轄するニュージーランド歩兵大隊のパトロール隊が、ある日、国境付近でインドネシアから侵入した武装組織と遭遇し交戦状態になり、若い兵士1人がMissing In Action(戦闘中行方不明)。後に惨殺死体で発見されたのです。耳も()がれ、首も切られて。すぐ後にはネパール歩兵中隊の兵士も同じように殉職しました。

これは僕にとっても、僕が管轄するPKO部隊全体にとってもショックでした。国連PKOの通常のROE(武器使用規定)は自衛が原則で、武器使用には警告など事前の手順が必要です。しかし、この事件を受けて、武器携帯を目視するだけで武器使用を可能にしたいという、ニュージーランド歩兵大隊隊長(中佐)のROEの変更要請に、僕は許可を出します。

加えて、Cordon and Search Operationといって、住民の居住区を武力封鎖し、虱潰しに武器や戦闘員を家宅捜索する許可も出しました。僕の管轄区では、はじめてPKO部隊が文民に銃を向けることになりました。

結果的に、十名を超える敵戦闘員を射殺することになりました。生きて捕まえた者は一人もいません。検視にも立ち会いましたが、平服の若者の複数の無言の死体は、僕にとって死ぬまで消えないトラウマになっています。本当に全員が戦闘員だったのか? なぜ一人も捕虜にできなかったのか?

非戦闘員を巻き込んだとしても、それは殺人ではなく、正当な戦闘行為の結果だったと自分に言い聞かせる、唯一のメンタルブロックが国際人道法です。こういう事態に自衛隊が直面したら、どうするのか?

そういう事犯が発生した時に、国際人道法がそれを批准する国家に期待するのは、まずその国家が第一次裁判権を行使することです。国際戦犯法廷など国際司法の活用が議論されるのは、その第一次裁判権の行使の不十分さが問題になる時です。はたして、日本の法制は、この期待に応えるべく整備されているか?

日本に帰ってきて、一生懸命に発信したのです。1999年のコフィ・アナン事務総長の告知の意味を。それからもう20年たっているわけです。

*3 1999年9月、安保理決議第1265号により、文民の保護のために、国連PKOのマンデートにおいて、元兵士の武装解除、動員解除、社会復帰を含め、特に子ども兵士の動員解除及び社会復帰を重視すべきこと、さらに、女性や子どもに対しては特別に保護及び支援を提供することの重要性を表明。また、そのために、国連PKO要員に対する国際人道法、人権及び難民法、文化的意識及び民軍連携に関する訓練の実施を要請し、小火器や対人地雷が文民の安全に大きな影響を及ぼしていることを示した。(参考:第14回 武力紛争下における文民の保護 : 内閣府国際平和協力本部事務局(PKO) – 内閣府国際平和協力本部事務局(PKO) (cao.go.jp))

渡邊 私が伊勢﨑先生と初めて会ったのが、まさに東ティモールでした。今おっしゃったような状態で、「東ティモールは危ない状況かもしれない」ということで、陸幕長という、陸上自衛隊のトップと一緒に現地を見に行って。

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プロフィール

布施祐仁

1976年、東京都生まれ。ジャーナリスト。『ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場』(岩波書店)で平和・協同ジャーナリスト基金賞、日本ジャーナリスト会議によるJCJ賞を受賞。三浦英之氏との共著『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(集英社)で石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。著書に『日米密約 裁かれない米兵犯罪』(岩波書店)、『経済的徴兵制』(集英社新書)、共著に伊勢﨑賢治氏との『主権なき平和国家 地位協定の国際比較からみる日本の姿』(集英社クリエイティブ)等多数。

伊勢﨑賢治

1957年、東京都生まれ。東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。インド留学中、スラム住民の居住権運動にかかわり、国際NGOでアフリカの開発援助に従事。2000年より国連PKO幹部として、東ティモールで暫定行政府県知事、2001年よりシエラレオネで国連派遣団の武装解除部長を歴任。2003年からは、日本政府特別顧問としてアフガニスタンの武装解除を担う。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)、共著に『新・日米安保論』(集英社新書)、『主権なき平和国家』(集英社クリエイティブ)など多数。

渡邊隆

1954 年生まれ。国際地政学研究所(IGIJ)副理事。元陸将。1977年に防衛大学校(機械工学)卒業の後、米国陸軍大学国際協力課程へ留学。その後、陸上自衛隊幕僚監部装備計画課長、第一次カンボジア派遣施設大隊長、陸上自衛隊幹部候補生学校長、第一師団長、統合幕僚学校長、東北方面総監などを歴任。

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