鼎談

30年間行われてきた自衛隊PKOとは何だったのか?

ウクライナ戦争下の今だからこそ考えたい
布施祐仁×伊勢﨑賢治×渡邊隆

PKOには決められた定型は無い

布施 そういうPKOの変化を、当時はどのように受け止めていらしたのですか?

渡邊 言い方が非常に微妙ですが、PKOの定型って無いんですよ。そもそも国連憲章にすら規定されていない。国連は、時の事務総長や世界情勢を見ながら非常にうまく、その形を変えていくわけで、時代とともにPKOもどんどん変わってきたわけです。

まさに今はその「文民保護」、つまり「そこにいる住民の方々をどう守るか」という責任に焦点が当たっていますが、これもまた、時代が下れば変わるかもしれません。

第一次カンボジア派遣施設大隊長・渡邊隆氏(写真/本人提供)

ただ日本の場合は、どちらかというと、伝統的なPKOの活動である「停戦監視・平和維持」というところに焦点が当たった枠組みの派遣活動である、ということだと思います。

布施 東ティモールPKOでも、いったんは紛争当事者間で和平合意が結ばれ、(1999年8月に)東ティモールの独立の是非を問う住民投票が行われて、多数の賛成によって独立するという形になりましたが、その投票結果を受け入れられない「インドネシア併合支持派」の人たちもいて……。早くも紛争状態に逆戻りしてしまった、という経過がありました。

カンボジアの場合も、パリ和平協定が結ばれて紛争当事者であった4つの武装勢力がいったんは停戦したものの、自衛隊が行く頃にはポル・ポト派が和平協定で合意した武装解除に応じず、事実上、和平プロセスを妨害するような形で敵対行動を取っていました。

このように「いったん停戦合意が結ばれても、それは非常に(もろ)いもので、武力紛争が再燃してしまうことがある。そうなったからといって国連はPKOを止めないし、日本だけ撤収するわけにはいかない」という問題は、もうカンボジアPKOの時から、ある意味、顕在化していたのかなと……。渡邊先生は最初のPKOでカンボジアに行った時から「PKO参加五原則」と現場の矛盾とかギャップみたいなものを感じていらっしゃったんでしょうか。

渡邊 矛盾とかギャップという観点で言うならば、そもそもPKOは「国連が行う活動に日本が部隊を派遣して、その司令官の指示に従う」というのが本来のスタンスですので。そこにあんまり違和感は無かったです。

いろんな形で情勢が変わっているのは事実でしたが、我々は一回目の派遣だということで、派遣されているエリアも、非常に配慮をされていて、非常に落ち着いた地域でした。

それから、ものすごく注目をされた派遣でしたから、本当におそるおそる「初心者マーク」を付けての活動だったかなと、今振り返れば思います。

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プロフィール

布施祐仁

1976年、東京都生まれ。ジャーナリスト。『ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場』(岩波書店)で平和・協同ジャーナリスト基金賞、日本ジャーナリスト会議によるJCJ賞を受賞。三浦英之氏との共著『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(集英社)で石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。著書に『日米密約 裁かれない米兵犯罪』(岩波書店)、『経済的徴兵制』(集英社新書)、共著に伊勢﨑賢治氏との『主権なき平和国家 地位協定の国際比較からみる日本の姿』(集英社クリエイティブ)等多数。

伊勢﨑賢治

1957年、東京都生まれ。東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。インド留学中、スラム住民の居住権運動にかかわり、国際NGOでアフリカの開発援助に従事。2000年より国連PKO幹部として、東ティモールで暫定行政府県知事、2001年よりシエラレオネで国連派遣団の武装解除部長を歴任。2003年からは、日本政府特別顧問としてアフガニスタンの武装解除を担う。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)、共著に『新・日米安保論』(集英社新書)、『主権なき平和国家』(集英社クリエイティブ)など多数。

渡邊隆

1954 年生まれ。国際地政学研究所(IGIJ)副理事。元陸将。1977年に防衛大学校(機械工学)卒業の後、米国陸軍大学国際協力課程へ留学。その後、陸上自衛隊幕僚監部装備計画課長、第一次カンボジア派遣施設大隊長、陸上自衛隊幹部候補生学校長、第一師団長、統合幕僚学校長、東北方面総監などを歴任。

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