対談

第3回 防諜体制強化が、沖縄戦で何をもたらしたのか?

誰が「スパイ」とされるのか?思想統制と防諜体制、沖縄戦、そして現代日本
荻野富士夫×林博史

政府や軍のやることに不満を漏らしたら「スパイ」扱いされ処刑された

「軍事機密を探知し、あるいは知っており、それを敵に漏らす」というレベルのスパイ視は全くなかった、とは言えないかもしれませんが、それよりはるかに重要なのは、政府や軍が行うことに対する一切の不平不満や批判を許さず、「防諜」という名目で、そうした民衆をスパイとして摘発、排除し、国民を動員、相互監視、密告させる仕組みが作られ、人々の中に「スパイを警戒する」意識がたたき込まれていったことです。そうした中で、軍に抵抗したり、言うことを聞かない、あるいは軍や国家に対する「裏切り者」など、軍の不利益になると思われた者は、スパイとみなされて殺されたのではないでしょうか。

 日本国民によるスパイ罪は、その幇助
ほうじょ
行為を含め、陸海軍の刑法では死刑だけなんです。刑法でも最高刑は死刑で、「反逆行為」は一般刑法でも死刑のみです。

 ですから、おそらく一般の兵士たちには難しい法律のことなど教えられていないでしょうが、「スパイは死刑だ」ということは繰り返し言われていただろうと思います。そして、軍法会議を開く余裕がない戦場では「即決、処刑して当然」という意識が日本兵にあったのでしょう。

 警察の資料でも、同じようなものがありました。沖縄県警察部の文書で、『沖縄県史』に資料としていますが、これは私がアメリカで見つけてきた資料です。米軍が沖縄で没収した文書で、島田叡
しまだ あきら
県知事と荒井退造県警察部長が承認していると考えられる文書です。この中で警察官に対して「警察官はいかなることがあっても」捕虜になるなということや「敵占領地域にいる者たちについて、秘密裏に捜査を行って、もし敵への協力者を発見すれば、殺すか、あるいは、しかるべく措置すべし」と。だから、警察も敵への協力者、裏切り者は殺せと命じていた。これは警察の文書ですが、軍も県もそういう発想だっただろうと推測できます。

 正確な日付は分かりませんが、1945年3月だと考えて間違いないと思います。これは特に沖縄本島の北部、山原
やんばる
の方の警察に対する指示だと思います。

勤労動員や食料供出、軍人による暴力などで住民の反発も生まれていた

 日本軍が沖縄住民をスパイ視する背景として、日本軍第32軍が来てから、駐留が長期化する中で、勤労動員や食料供出などが続いたせいで、地元住民は自分の仕事もできず、食べ物も乏しくなっていき、軍への信頼が薄れ、反発が生まれてきた、ということもあります。

 無理やり勤労動員で働かされますし、日本軍の将校や下士官が「食料の供出が足りない」と言って、区長や村長を殴るわけです。それで反発が生まれ、さらに地上戦が始まると、日本軍が住民を壕から追い出したり食料を強奪したりして、軍への信頼が崩壊してきていた。

 沖縄戦の特徴は、実は近代の日本の戦争の中で、最も高い比率で日本軍将兵が捕虜になった戦いである、ということです。日本軍将兵の捕虜は、1945年6月30日現在で7401人となっています。

 米軍の資料だと、41年12月に太平洋戦争が始まってから45年3月までの日本兵の捕虜数が約1万2000人でしたから、それと比較して、沖縄戦は3ヵ月弱の短期間にもかかわらず非常にたくさんの捕虜が出ている。

 これは日本軍自体の構造的変化もあって、日本全国から雑多な人間をかき集めて沖縄に送り込んだせいでそうなった、ということもありますが。そして沖縄出身兵士(臨時召集、防衛召集も含む)の脱走、集団脱走が非常に多かった。これも特徴です。

 沖縄出身兵の場合、逃げ出して、そのまま家族のところに行って民間人として紛れ込むことができたので、米軍の捕虜としてはカウントされてない人間が、少なくとも数千人はいたはずです。

 沖縄出身兵士の証言でよく出てくるのが、「おまえたち、脱走したら家族皆殺しにするぞ」と日本兵から脅された、ということです。つまり「家族皆殺しにするぞ」と脅すことによって、何とか脱走をとどめるような状況が生まれていた。そして多くの住民が敵、米軍に収容されて保護されていた。米軍が収容した民間人は、米軍が上陸してから3週間後の4月22日に10万人を超えていました。

 それから沖縄中部では、実は集団投降した人も多いんです。そのあたりに日本軍はいなかったから、ガマに隠れたりしていた人たちが、何十人、あるいは何百人も集団で出ていって米軍に保護された。日本軍から教えられていたことと全然違って「(降伏すれば)米軍は残虐なことをしない。ケガを治療してくれたり食料をくれる」という話が広まると、それを体験した人や、耳にした人が、家族や知人が隠れているガマに行って「出てきなさい」と投降を呼びかけたんです。これが日本軍にとっては、まさに「裏切り者」に見えた。

 保護された住民の間では当然、米軍から配給された食料を少し配ったり、米軍が配給するだけでは全然足りないので、米軍のトラックに一緒に乗って、あちこちの村の物置や、食料がありそうなところを回って食料を集めたりして、みんなに食べさせた。その姿を日本兵が遠くから見て「米軍のトラックに住民が一緒に乗って何やってるんだ! 米軍の手先め!」と怒ったりした。

 ですから、「沖縄人はみんなスパイだ」とか、そういうことが日本兵の中で繰り返し語られた。それで、見かけない顔の避難民が来ると、「これは米軍が送り込んだスパイだ」として殺したのでしょう。

「捕虜になるより死ね」という政府や軍の指示に従わなかった者を「裏切り者だ」「スパイだ」と言って殺した

沖縄本島小禄、捕虜収容所の外観。300人余の日本人捕虜。沖縄県公文書館蔵

 ですから、これは「防諜」というよりも、「国家への裏切り者」だ、と。裏切者はスパイであり「死刑になって当然だ」という意識があったのだろうと思います。

 そういう状況にいらだった日本軍が、住民に不信感を抱き、スパイ視して、「米軍は捕らえた住民をスパイにして送り込んでくる」と軍の中で繰り返し言った。そして「沖縄人はスパイだ」と非難するようになった。

「捕虜になるより自決せよ」という国家の指示に逆らって生きようとした多くの人々がいて、それに憤った日本軍は、ますます凶暴になっていったのではないか。

 これは防諜政策が「軍や政府への批判や不平不満を言う者は外国のスパイだ」という意識を植えつけ、さらに戦場においては「国家への反逆者」とみなして、「そういうやつらは殺してもいいんだ」と認識されたのではないかと思います。

 ですから沖縄戦を考える場合、いわゆる軍事機密を漏らすかどうか、ということにばかり焦点が行くと間違いやすい。それだけでは、スパイ視され、殺されたさまざまな事例を説明できません。

 防諜政策が極端化していった結果が沖縄で起きたことです。そういう沖縄戦の実態と、前半のお話にあった、「防諜政策が外国のスパイよりも一般市民を取り締まるものとして使われていた」ということ、そうした歴史的事実を、現在の問題にも関連づけて見ていく必要があると思います。

(第4回に続く)

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プロフィール

荻野富士夫

(おぎの ふじお)

1953年、埼玉県生まれ。小樽商科大学商学部教授を経て、2018年に定年退官。同大学名誉教授。専門は日本近現代史、とくに治安体制・思想統制史。主な著書に『特高警察』(岩波新書)、『よみがえる戦時体制――治安体制の歴史と現在』(集英社新書)、『検証 治安維持法――なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』(平凡社新書)、『「国体」とは何か――教育勅語から八紘一宇へ』(地平社)、『治安維持法と「国体」』(大月書店)等多数。

林博史

(はやし ひろふみ)

1955年、神戸市生まれ。現代史研究者。関東学院大学名誉教授。主な著書に『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書)、『沖縄戦と民衆』『沖縄戦が問うもの』(大月書店)、『沖縄戦 強制された「集団自決」』『米軍基地の歴史 世界ネットワークの形成と展開』『帝国主義国の軍隊と性 売春規制と軍用性的施設』(吉川弘文館)、『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』(高文研)、『BC級戦犯裁判』(岩波書店)、『日本軍「慰安婦」問題の核心』(花伝社)等多数。

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