「役に立つ」知識を手っ取り早く身につけ、他者を出し抜き、ビジネスパーソンとしての市場価値を上げたい。そんな欲求を抱えた人たちによって、ビジネス系インフルエンサーによるYouTubeやビジネス書は近年、熱狂的な支持を集めている。
一般企業に勤めながらライターとして活動するレジー氏は、その現象を「ファスト教養」と名づけ、その動向を注視してきた。「ファスト教養」が生まれた背景と日本社会の現状を分析し、それらに代表される新自由主義的な言説にどのように向き合うべきかを論じたのが、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)だ。
本記事では、映画・音楽ジャーナリストの宇野維正氏とレジー氏が対談。両氏は共著『日本代表とMr.Children』(ソルメディア、2018年)で日本サッカーとMr.Childrenの関係性を詳らかにしながら平成のポップカルチャーを批評したが、『ファスト教養』と2010年代以降のポップカルチャーについて、どのように感じているのだろうか。
「見て見ぬふり」の結果がこれ
レジー 宇野さん!僕の本、どうでしたか?
宇野 面白かった、すごく。でも、『ファスト教養』の中身の話に入る前に、我々のつながりをちゃんと話しておいたほうがいいよね。レジーくんとは2018年に『日本代表とMr.Children』という本を共著で出していて、その中で既に、今回の『ファスト教養』で扱っている問題意識に繋がるような話をいろいろしていた。
レジー そうですね。Mr.Childrenの音楽が「自己啓発」的な文脈でサッカー選手に聴かれているという話に触れながら、まさに彼らの楽曲に奮い立たされている長谷部誠が『超訳 ニーチェの言葉』を読んでいて、自身でも『心を整える。』というベストセラーになった自己啓発書を書いていること、そんな長谷部と白洲次郎の話で盛り上がる本田圭佑がビジネスの世界にどんどん浸かっていっていることなどについて論じました。
宇野 あの本を書いたとき、自分は半分以上は本気で、ちょっとだけ対談上での役割として、「旧世代」としての立場からそういう自己啓発的なもの、言い換えればファスト教養的なものを明確に否定する立場をとった。で、その象徴として、自分の大好きなサッカーの世界にそういう考え方やライフスタイルを持ち込んで、チームメイトにも少なからず影響を与えていた本田への批判をストレートに展開したわけだけど。
レジー まさに「ストレート」でしたよね(笑)。
宇野 一方で、レジーくんはそうした本田批判に一定の理解は示しつつ、本田や長谷部と同じ80年代生まれの世代の一人として、あるいはビジネスパーソンの一人として、そこでのアンビバレントな心情を話していたよね。
レジー はい。「ビジネスシーンでいかに成り上がるか」みたいな感覚を全否定はできないというか。
宇野 あの本でレジーくんと対話を深めていくことで、80年代以降に日本で生まれた世代を取り巻く過酷な状況というか、社会全体に自己責任論とかが蔓延していく中で「ビジネスパーソンとしてどう振る舞うか」といったことを考えざるを得ない環境が広がっているということに自分も気づかされた。一方で、日本代表に招集されなくなってからの本田のビジネスのやり方や、誰とツルんできたかを観察してると、「やっぱりね」という思いもある(笑)。で、そんなことも考えながら『ファスト教養』を読ませてもらったわけだけど、レジーくんが世代的に影響を受けてきた一連の自己啓発書の書き手だったり、あるいはある時期まで思いっきり前のめりにコミットしてたAKB48のブームだったり、そういうものに対して客観的に批判しているじゃない? 自分はレジーくんのこと知ってるから、「自分のことを棚に上げてるな」ってちょっと思ったりもしたんだけど(笑)。
レジー (笑)。
宇野 ただ、本全体からわかるのは、自身がそういう時代の渦中にいたからこその実感がこもっていたし、たとえば堀江貴文とかについては功罪の「功」の部分にも言及したりと、ちゃんとフェアな作りになっているなと思った。
レジー ありがとうございます。先ほど宇野さんから「アンビバレント」という言葉がありましたが、今回の本については「批判的な分析はするが、自分は決して部外者ではない」という感覚を大事にしようと思っていました。そこが本としてのフェアネスにつながっていたのであればよかったです。
宇野 この本って執筆していたのはいつ頃まで?
レジー 校正作業とかは発売ギリギリまでやってましたけど、文章自体は5月いっぱいくらいには基本的には完成していました。構成自体も、6章の組み立て以外は書き始めるタイミングである程度はまとまってましたね。
宇野 となると、今年の7月の参議院議員選挙、というか安倍晋三にまつわるもろもろの大きな出来事の前には本がほぼ出来上がっていたわけだよね。書いていた時からさらに状況が動いているような実感ってない?
レジー それはほんとにありますね。山上徹也的なものが生まれた土壌と『ファスト教養』で掘り下げている磁場はつながっていると思いますし、NHK党と参政党が受容されている感じも「ここまで来たか」という気持ちです。
宇野 ガーシーまで当選しちゃったし、ごぼうの党みたいなのまで出てきちゃったからね。自分の周りでは、みんな彼らのことは話したがらないけど。
レジー ガーシー、基本的にはこれまで言及してないです。
宇野 口にするだけで何かに加担してしまうみたいな、そういう気持ちはよくわかるし、自分もソーシャルメディアでは触れないようにしてるんだけどさ。でも、その「見て見ぬふり」の結果が日本の現状でもあるわけでしょ? 『ファスト教養』で扱っている中田敦彦とか箕輪厚介とかもその中に入ると思うけど、いわゆる「インテリ層」が黙殺してきたことによって一定の影響力を持っちゃったものって結構あるじゃない?
レジー それは確かにそうなんですよね。本の中で映画『花束みたいな恋をした』の話をしていて、そこでも「麦はビジネス書を読むにしても『人生の勝算』を選ぶべきではないのでは?」という旨の指摘をしているんですけど、『人生の勝算』も箕輪厚介が手掛けたものです。「インテリを気取る人たちの忌避しがちなものが、忌避されていたがゆえに強大になっている」という状況への問題提起は『ファスト教養』を通じてしたかったことの1つでもあります。もちろんこの話も自分に返ってくるわけですが。
教養があるとインフルエンサーにはなれない
宇野 箕輪の話で言えば、本の中でちらっとだけど彼の音楽活動についての言及があるよね。SKY-HIとかが関わっていた。
レジー そうですね。本には書きませんでしたが、ぼくのりりっくのぼうよみもプロデューサーとして名を連ねてました。
宇野 自分は性格上、そういう「あっ!」って思ったことは全部しっかり記憶するようにしてるんだけど(笑)、自分の仕事のテリトリー的にあのくだりは結構重要な話だと思っているんだよね。ミュージシャンや役者がファスト教養的な空間とどう付き合うべきかっていう。まあ、「付き合うべきか」というか、長く活動していくつもりなら黒歴史にしかならないから付き合わない方がいいと思うんだけど、そういう磁場に引き寄せられるようなムードは確かにここ数年ずっとあって。まあ、ぼくのりりっくのぼうよみみたいに、もともとそっち側の志向を強く持った人が音楽を利用してたみたいなケースもあるわけだけど。
レジー ファスト教養と文化、ポップカルチャーとの距離感については、音楽サイドにも軸足を置いている自分だからこそ書きたいなというのはありました。そこに関連するテーマで言うと、そもそも「ファスト教養」の着想にあたっては「ファスト映画」の問題が大きくかかわっています。映画の世界でお仕事をされている宇野さんにとって、「ファスト映画」のようなものが支持される現状についてはどんな考えをお持ちなんですか?
宇野 ファスト映画に関しては、正直に言うと送り手に対しても受け手に対しても哀れみしかないんだよね。だって、映画って楽しいから観るわけじゃない? 自分にとって今でも人生で最もワクワクする瞬間は、ずっと楽しみにしてきた映画をスクリーンで初めて観るときで。その楽しさを知らない人に対して、別に「けしからん!」とか思えなくてさ。「ごめん、こっちはこんなに楽しいことを知っていて」ってだけ。ただ思うのは、映画って音楽とか他の表現形式と比べても、リファレンスと文脈とそれまで映画を見て培ってきた見識が見方を左右するものだから。そういう「線」ではなく一つの作品としての「点」で接することしか知らなければ、ファスト映画みたいなものに流されるのも無理はないとは思う。たとえばサッカーとか野球とかのリーグ戦で、ずっとそのチームの戦い方を追ってる人と、たまたま一試合だけ見た人では、その試合の面白がり方が全然違うじゃない? そこで「結果だけ教えてくれ」ってなるとしたら、そのスポーツを見ることがその人に向いてないってこと。それと同じで、ファスト映画はそもそも映画に向いてない人たちの営みでしかないから。
レジー 宇野さんから今あった「映画に向いていない人たち」という指摘は結構重要だと思っていて、本来は映画を観なくてもいい、特に映画を好きなわけでもない人たちが、コンテンツが溢れている中で「周りと話を合わせたい」みたいな動機でファスト映画に接しているわけですよね。『ファスト教養』でも「上司と話を合わせるための文化コンテンツ」というところから話を始めていますが、「興味はないけどコミュニケーションツールとして知っておきたい」という動機が前に出てきすぎると、どんなジャンルでも本末転倒な状況が生まれてしまうのだと思います。そういえば、宇野さんは今YouTubeで「宇野維正のMOVIE DRIVER」というコンテンツを展開されているわけじゃないですか。ある意味ではファスト映画の牙城だった場所、今回の本に引きつければファスト教養的な空気がどんどん育っている場所で、ちゃんとした批評を発信することにはどんな意義を感じているんでしょうか。
宇野 たとえば歯医者に行って、歯科助手の人に「YouTube見てます」とか言われるとやっぱりうれしいんだよね。何かをやるなら、そういう雑多な人が集まってるところで何かやりたいというのは自分の仕事の仕方の前提としてあって。かつてその中心は雑誌で、それがウェブメディアに移って、というのをキャリア的に経験してきたわけだけど、ウェブメディアのプラットフォームとしての力もどんどん弱くなってきていて。結果として、YouTubeという場所に押し出されたような感覚がある。
レジー そこのところ、もうちょっと説明してもらえますか?
宇野 昔、雑誌にはその雑誌固有の読者がいたんだけど、ある時代を境に、表紙のファンに買わせることでしかビジネスとして維持できなくなった。雑誌全体の部数減とかよりも、書き手にとってはその変化の方が深刻でさ。巻頭記事以外ほとんど誰も読まないわけだから。で、ウェブメディアもある時期までは受け手側に贔屓のサイトみたいな意識があったように思うけど、今ではPV数ってその記事で取り扱ったアーティストが公式にリツイートとかで拡散してくれるかどうかにかかってる。バズ狙いの社会時評とかゴシップ記事とかはまた別だけど、少なくとも自分が主戦場としているようなジャンルにおいては、ウェブテキストの世界って完全にファンダムに飲み込まれちゃったんだよね。
レジー その感覚はわかります。エゴサし続けているファンに刺さればPV自体は増えて媒体的にはありがたいかもしれませんが、「よくわからないけど褒めてくれてありがとうございます」みたいな感想がばーっと出てくる状況を目の前にすると書き手として思うところはあります。だったら、書きたいことは数字を気にせずにnoteのような個人ブログで書くよって話ですよね。
宇野 もともと潤沢にお金が回っていた界隈じゃないから、一定の読者がついてる書き手は必然的にそうなっていくよね。ただ、それも言ってみれば書き手の小さなファンダムみたいなもので。それだと受け手との偶然の出会いみたいものがなかなか生まれにくいじゃない? YouTubeをやってるのはその外側で新しい出会いを求めてるからなんだけど、やり始めて早々に謙虚な気持ちになっていった。
レジー 宇野さんらしからぬ発言ですね(笑)。
宇野 いや、これは真面目な話。YouTubeに自分のコンテンツを出すと、再生回数が表示されるでしょ? これまでも雑誌の部数だとか、ウェブ記事のPV数だとか、単行本の部数だとかを自分で把握できる機会はあったけど、YouTubeはそれが受け手にまで全部詳らかにされる。初めて自分の仕事が「リアルな市場に出た」って感じがするんだよね。2万とかしか再生回数が回らない立場からすると、100万回るっていうのはそれだけでちょっと一目を置かざるを得ないという。
レジー すべてが数字で可視化されることで手段と目的の関係がおかしくなってしまう、結果としての数字ではなくて数字を上げるためのアクションにすべてが支配されてしまう、というのは『ファスト教養』でも触れている話で、ファンダムの力があらゆる場面で増していっているのも自分たちの活動の結果が定量的に確認できるからこそなんですよね。ただ、その宇野さんの論法だと、それこそファスト映画の方が宇野さんが作っているものよりも価値が高いみたいなことにならないですかね。
宇野 もちろん数字にすべての価値を置いているわけじゃないんだけど、自分ができることはなんなのかってことを考えるきっかけになる。そもそも、教養系で数字を追い求めるってこと自体が矛盾を抱えているわけで。たとえば中田敦彦なんて、本当に再生回数のことしか考えてなくて、それで行き着いたのがまさにあのファスト教養動画なわけじゃない?
レジー そうですね。中田敦彦が自分の動画を「エクストリーム授業」と呼んでいるのも、内容の深さや正確性よりもエクストリームスポーツ的な爽快感を重視しているからなわけですが、そこから発せられる「わかった気になる感じ」はYouTubeという場とめちゃくちゃ相性がいいんですよね。ただ、それが「教養」なのか?という点については宇野さんが指摘されている通り大きな矛盾があると思います。また、爽快感や刺激そのものに傾倒しすぎると、結果的に陰謀論みたいなものに接近してしまうケースもあります。
宇野 そう。つまり、数字は可視化されるけど、質は可視化されない。それがYouTubeとかソーシャルメディアの特性だけど、そういう環境で数字だけを追い求めていくと「コンテンツの質」よりも先にぶち当たるのが「受け手の質」の問題だと思うんだよね。この前もTwitterで国葬に反対している人に対して「向上心が圧倒的に足りませんね」「何故、頑張って自分も国葬儀してもらおうと考えない」と投稿したある経済評論家がいて、どこをどう切り抜いてもひどい内容なんだけど(笑)、そんな人にも何十万ってフォロワーがいるんだよね。それに対して「こういう言論を支持する人に囲まれている状況に同情する」ってコメントしてる人がいて、大体の話はこれで終わっちゃう。それこそ、学歴とは関係なくまともな知性や教養があったら、そんな投稿に盛り上がる人たちが周りにたくさんいるのって耐えられないじゃない?
レジー 教養があるとインフルエンサーにはなれない。
宇野 結局YouTuberとして成功している人たちって、それに耐えられる人なんだよ。アーティストとか役者とかと違って、受け手との心理的な距離も近いしね。そこでスキルとして必要とされるのが、地頭の良さとか話術の巧みさとか、あとは毎日更新する驚異的な勤勉さとかで。それはレジーくんがファスト教養として指摘している概念とも近い。体系的な知識を持っていることよりも、瞬発力でその場を収めることが重視されていて、そのために活用される知識はインスタントで表面的なものであってもいいっていう。
レジー 確かに。こう並べると、YouTuberというものが「芸術家」ではなくて「ビジネスパーソン」だということがよくわかりますね。そういう人が作るコンテンツを多くの人が「エンターテインメント」として受容しているのが今の文化状況なのか。
宇野 でも、レジーくんの今回の新書とか、あるいは彼とも仕事したことがあるけど稲田豊史さんの『映画を早送りで観る人たち』とかが、そういう構造を解きほぐしてくれて、それが多くの人に読まれていることには、ちょっとホッとするんだよね。そういう社会現象って、外部から総括されることで勢いが止まることがあるから。一方で、それでも残ったものはより先鋭化していくんだろうけど。
レジー ひろゆきみたいにマスメディアの世界でもメジャーな存在になるか、よりアンダーグラウンドになっていくかの二極化みたいなことは起こってますよね。
宇野 ただ、地頭の良さとか話術の巧みさとかが持つ影響力を見くびってると、本当に足元をすくわれてしまう時代だと思う。
世の中よくなるといいな
レジー 今回の本ですが、終わり方はどう思われましたか?
宇野 「ノイズとしての雑談」とかって話だよね? あれはあれでよかったと思うけど。
レジー どうやってこの本を終わらせるか、2つの点ですごく難しかったんですよね。現状の問題を指摘するだけじゃなくて、「この先どうする?」まで踏み込んで少しでも前向きな話にするにはどうするか、というのが1つ。で、そこに踏み込むにあたって「古き良き教養」とは違う解決策を提示できるか、というのがもう1つ。ここは方向性が固まるまでに時間がかかりました。結果的に何とかまとまったんですけど、「まとめなきゃ!」って意識が強かった分、良くも悪くも優等生的な着地になったなというのは自分が思っているだけじゃなくて別の人からも指摘されていたりします。
宇野 うーん、まあ「結論がふわっとしている」とか「あれが入っていない」とか、そういうのは後からだったらいくらでも言えることだからさ。
レジー それはそうですね。
宇野 逆に質問で、これも「優等生」的な結論なのかもしれないけど、「ファスト教養的なるものが支配的ならば、その中身の質を高めていけばいい」と自分は思ってて。本の終わりにもそういう話があったけど、それも綺麗ごとでしかないと思う?
レジー いや、そんなことはないと思います。今の状況に対する処方箋として有効なのは「古き良き教養」ではないというのは結構こだわったところなんですけど、現状のメディア環境の変化はもはや不可逆な部分も大きいわけで、その流れを踏まえてどうするかを受け手も作り手も考えていくべきだと思うんですよね。圧縮されたコンテンツであってもまともな人が作っているものであればうまく使うべき、という主張もそんな考えがあってのことです。
宇野 そうだよね。この『ファスト教養』のフォーマットでもある新書だって、昔からあるフォーマットではあるけれど、手に取りやすさや読みやすさという意味では、その処方箋になり得ると思うんだよね。薄っぺらい内容の新書もたくさんある中で、同じ文字量でいかにちゃんとしたものを作るかっていう。自分がやってる「MOVIE DRIVER」も、それこそファスト教養的なコンテンツが大量にあるYouTubeという場所で、そのフォーマットで関心を引き付けながら、そこでいかに真っ当なことを言うかっていうチャレンジをしてるつもり。お客さんがたくさんいる土俵にとりあえず上がって、そこで質を高める努力を地道にし続ける。送り手としてはそれしかないと思うんだよね。
レジー おっしゃる通りだと思います。
宇野 以前、誰かが「自己啓発本の問題は、それに対するちゃんとした批評がないことだ」ってことを言ってたんだけど、それは当然の話でさ。『日本代表とMr.Children』のテーマとも重なるけど、自己啓発的な姿勢と批評的な態度って、もうどうしようもないほど相性が悪いの。世の中がここまで「批評」と「批判」を混同して、「上から目線」みたいな言葉で批評を忌み嫌うようになったのと、ファスト教養的なるものが広がっていったのは、完全にシンクロしていると思うんだよね。この流れがしばらく変わるとは思えない以上、こちらからファスト教養的磁場をハックして、そこから少しでも世の中をよくしていくしかないじゃない?
レジー 「ハック」という言葉をつかってる時点で、宇野さんもちょっとファスト教養に毒されている気もしますが(笑)。
宇野 朝倉未来やヒカルの動画を見てたまに感心することはあるけれど、ファスト教養的なものにはまったく触れてないよ(笑)。
レジー でも、わかります。言葉にしちゃうと軽いかもしれませんが、「世の中よくなるといいな」っていうのは僕も本音としてあります。自分の立場では残念ながら何かを根本的にかつ短時間でひっくり返すことはできないですが、まずは届けられるところから誰かの態度変容につながるものを発信したいというのをこの本を書いて改めて思いました。
宇野 うん。今何かを広く発信しようとするのであれば、目の前にある現実にある程度アジャストして、その内側から徐々に変えていこうっていうところに帰着せざるを得ない。それこそ、『ファスト教養』だってもしかしたら一部ではファスト教養的に読まれているのかもしれないけれど、それでもそこには小さくない意義があるんじゃないかな。
レジー ありがとうございます。本の中で「ファスト教養を解毒する」って表現を使っていて、実際に「解毒」が進むのはしばらく先かもなんて話をしたりもしていたのですが、社会が動き出すきっかけとしてちょっとでも機能するといいなと思っています。
(構成:宇野維正/レジー)
プロフィール
レジー
ライター・ブロガー。1981年生まれ。一般企業で事業戦略・マーケティング戦略に関わる仕事に従事する傍ら、日本のポップカルチャーに関する論考を各種媒体で発信。著書に『増補版 夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』(blueprint)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア、宇野維正との共著)。twitter : @regista13。
宇野維正
1970年、東京都生まれ。映画・音楽ジャーナリスト。音楽誌、映画誌、サッカー誌の編集部を経て、2008年に独立。著書に『1998年の宇多田ヒカル』(新潮社)、『くるりのこと』(共著:くるり、新潮社)、『小沢健二の帰還』(岩波書店)、『日本代表とMr.Children』(共著:レジ―、ソルメディア)、『2010s』(共著:田中宗一郎、新潮社)