座談会

日本文化と深く響き合うスーフィズムの精神 前編

『スーフィズムとは何か』刊行記念対談
島田裕巳×中田考×山本直輝

 スーフィズムは、日本語ではイスラーム神秘主義と訳され、日本人にはあまり馴染みのない難解な思想に思えるが、その本質は茶道や武道にも通じ、日本文化と極めて近い。『スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道』を上梓した山本直輝氏は、トルコをはじめ、イスラームの若者たちには日本の少年漫画の熱烈な愛好者も多く、その物語の中にも、スーフィズムと共有できる思考法や関係性があるという。
山本氏の学部時代からの師であるイスラーム学者・中田考氏、宗教学者の島田裕巳氏に参加していただき、スーフィズムの世界観、魅力、さらにその枠を超えた新しい文化体系の可能性などについて、語り合っていただいた。

構成=宮内千和子 撮影=石川雅彩

欧米より日本文化に近いスーフィズムの本質

中田 島田先生お久しぶりでございます。島田先生には、私が東京に来てから随分お世話になって、感謝しております。この本を上梓いたしました山本直輝先生は、私が同志社大学にいたときの最後の弟子で、彼は学部時代トルコに留学しました。その後、京都大学大学院に行ってから、スーフィズムの研究を続けております。彼は現在トルコの大学で教鞭をとっておりますが、実は島田先生も、義理の弟さんがトルコ人であるという御縁もありまして、日本の宗教研究者の中では、体感的なイスラームの理解がある方だと思っております。

それと島田先生のツイッター(現X)を拝見していると、能の話がよく出てきます。昨日、私たちも寄席を聴きに行ってきたのですが、日本の伝統芸能の中に含まれている、イスラームの知恵的なもの、宗教の知恵的なものを、どうやって現代に再建するかということを考えておりますので、ぜひ宗教学者であるとともに、能や歌舞伎がお好きで関わっていらっしゃる先生に、伝統の現代化といった話もお伺いできればと思って、今日は無理にお時間を頂きました。

島田 こちらこそ、よろしくお願いします。山本さんとは今日が初対面ですが、実は少し前、突然トルコから荷物が届いて、何だろうと思ったことがありまして(笑)。中に世阿弥の翻訳が入っていて、知らない方からトルコ語も読めない私に何でこんなものが送られてきたのかなと最初は思ったんです。

山本 本が届く前に島田先生宛てにメールを書いたのですが、それが届いてなかったようで、勝手に世阿弥のトルコ語訳を押しつけた、やばい日本人みたいな感じになってしまい、本当に申し訳ございませんでした。

島田 いやいや。その後にこの本を読ませていただいて、非常に面白かったし、なるほどと理解が深まる部分がたくさんありました。私自身あまり詳しくないのですが、スーフィズムとは一体何なのかについて、今まで言われてきたことと大分、印象が変わったなという気がします。日本的に言うと、道。何とか道という、道の実践と捉えると分かりやすいという解説。そう考えると、イスラームという宗教に、馴染みのない日本人にも一気に理解しやすくなってきます。

山本 そう思います。日本の伝統的な修行文化で大事にされているキーワードや、型とか所作といったものから、イスラームのスーフィズム文化を見てみると、実は、欧米でつくられた近代的な分析概念を使うよりも、よっぽどイスラームの本質に迫れるのではないか。そういう問題意識で、茶道を一例として出したり、あるいは少年漫画『NARUTO-ナルト―』に出てくる「先生」というキーワードを使ったりして解説をしたという経緯があります。

日本における「道」の確立は武士社会から

島田 なるほど。日本の「道」は、やはり武士社会の中で出てきたものだと思うんです。茶道にしても能にしても、ちょうど武士が台頭してくる中でできたものなので、武士の体の使い方が基盤になっているんじゃないかと。例えば茶道の茶室ですが、千利休が、たしか二畳の茶室を造っている。それは、どんどん規模を小さくすることによって、非常に窮屈な空間の中で、どうやって点前をするか、体を動かしていくのかを突き詰めていった結果として、あの茶室が生まれたのではないかと思う。武術でも、剣を振るということは、相手をやっつけるわけで、そのときに一番速いスピードで相手を倒さなきゃいけない。そういう所作が武術で確立されて、それが能のほうにも行けば、茶道のほうにも行った。そういう流れかと僕は思っているんですが、どうでしょうか。

山本 僕は日本文化の専門家ではないので、適当には言えませんが、今先生がおっしゃった、無駄をそぎ落として、そぎ落とした先にある、人間の理想的な型とは何かというのが、日本文化の修行の中で実践されている大きなテーマだと僕も思います。この本で語られている幾つかは、スーフィズムという名前では実践されていないものです。例えば音楽であったり、武術であったり。それは確かにスーフィー教団のお家元が精神修行の一つとして実践しているものですが、スーフィズムの修行として説明することはほとんどなくて、これが預言者のスンナ(慣行・規範)だという形で実践しているんです。

島田 私たち日本人も、何か一つのことに打ちこんでいるなら、修行道を実践していることになる。そう考えると、私たちも広い意味でのスーフィーなのかもしれませんね。

山本 そうですね。柳宗悦という有名な民芸運動の担い手の方もおっしゃっています。茶道で重要なのは、茶室の中で修行することではないと。茶室という場は、確かに無駄な動きをそぎ落とし、人間の本質的な型を学ぶ場ではあるが、大事なのは、そのエッセンスを身につけて、日常生活にどれだけ生かすことができるかだと思うんです。茶道の中でどれだけ仰々しく茶を扱っていても、家に帰ってペットボトルをぶん投げていたら、何の意味もないわけで。料理だって、本ではメヴレヴィー教団の料理を紹介しましたけど、ケバブやトルコアイスを作ることが大事なのではなく、料理を作っているときの心の動きが大事なんですね。だから、おにぎりを握っているときも、みそ汁を作っているときも、その心の型の一つの写しとして日本料理が作れるのであれば、それもスーフィズム文化になり得るということです。

道元に通じるスーフィズムの修行

島田 それは道元の話とよく似ていますね。道元の開拓した禅の修行と非常に共通したものを感じます。永平寺の中では、もう日常全てが修行になっていて、美的という観点はないのだろうと思うのですが、いかに無駄なく行動するかが規範になっている。例えば食事を取るときに、それぞれの人たちが食器を持っているわけです。それを開いて、どう置くか。その器に食事をもってもらい、それをいかに食べるか。しかも、一切音がしないような形で食べる。道元は食事を食べることだけではなくて、食事作ることも非常に重視して、典座といいますけど、それについての書物(『典座教訓』)も書いています。

 道元は中国に行ったときに、典座の重要性に気がつくんです。川を渡るため船に乗ろうとしたとき、そこに中国の禅僧がいた。その人物と話をすると、非常に禅の知識が深いということが分かって、彼はもっと話をしたいと思った。ところがその中国の禅僧は、これから私は、お寺に帰って、食事を作らなければいけないと言うので、道元は、食事なんか大したことではないのだから、もっとここで話をしましょうと引き留めた。すると禅僧はこう彼に言った。あなたはまだ禅のことが分かっていないと。道元はその言葉に衝撃を受けます。典座といわれる食事を作る行為がいかに禅の修行として重要かを彼自身が納得して、その後、典座の修行に励む。それを書物に書き残したので、永平寺などで実践されているんですね。今のお話も、それと似ているなと思いました。

山本 はい、永平寺の修行の話はとても近いと思います。永平寺の修行を、トルコ人の学生向けに説明するときは、これは仏教版のメヴレヴィーキッチンだと解説したり、逆に日本人の学生にメヴレヴィーキッチンの話を説明するときには、これはイスラミック精進料理だと説明したりはしますね。

島田 なるほど。その説明だと双方が分かりやすい。

修行は日常の延長線上にある

山本 16世紀から17世紀ぐらいに書かれたメヴレヴィー教団の、アリ・エシュレフおじさんのレシピというのがあるんですが、古典どおりのレシピで作ると、全然味が違ったりして再現できなかったんですね。それで本では現代版を使って紹介しているんですが、あそこで紹介されている料理は、実は今ほとんどトルコで食べることができるんです。

島田 そうですね。私もそれは存じています。

山本 永平寺の精進料理も、我々が日常で食べているものです。スーフィズムとはやっぱり日常の延長線上にあるものなんです。土井善晴先生の「一汁一菜」の精神と同じです。そんな大した料理を作らなくても、自分が作れる限りの握り飯とみそ汁一杯に、作り手が祈りを込めて、受け取る側もその祈りを受け取ることができれば、それで十分ということ。その意味では「一汁一菜」もスーフィズムです。些細なことにどれだけ祈りが込められるか。アラビア語でドゥアーというんですけど、その祈りがなければ形だけ真似をしても意味がない。あたりまえに目の前にあるおにぎりのおいしさをちゃんとかみしめることがスーフィズムの精神なんです。

島田 まず心を込めて一品作ってみるとちょっと近づけるかもしれない。

山本 ええ。現地のムスリム社会の中で、神秘哲学を読んでいる人間なんてほとんどいないし、それは我々日本人も同じじゃないですか。やっぱりほとんどの人は、レンズ豆のスープを作ったりケバブを作ったりして家族の帰りを待っている。その中に実は、スーフィズムが受け継いできた究極的な人間性の型、あるいは祈りというものが続いているということなんだと思います。

 13年ほどイスラーム地域でフィールドワークしてきて感じたのは、イスラーム文化には日本文化と近いものがたくさんあるということ。それを紹介したら、日本人にとっても、イスラームはよそ者ではなくて、案外身近に感じられるのではないか。そういう気持ちでこの本を書いたんです。

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プロフィール

島田裕巳

(しまだ・ひろみ)

1953年東京生まれ。作家、宗教学者。1976年東京大学文学部宗教学科卒業。同大学大学院人文科学研究科修士課程修了。1984年同博士課程修了(宗教学専攻)。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任し、東京女子大学非常勤講師。著書に『帝国と宗教』『ほんとうの親鸞』『「日本人の神」入門』『性と宗教』(以上、講談社現代新書)、『創価学会』『世界の宗教がざっくりわかる』(以上、新潮新書)、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『宗教消滅』(SB新書)、『0葬』(集英社)などがある。

中田考

(なかた・こう)

1960年岡山県生まれ。イスラーム学者。東京大学文学部卒業後、カイロ大学大学院文学部哲学科博士課程修了(哲学博士)。在サウジアラビア日本国大使館専門調査員、山口大学教育学部准教授、日本学術振興会カイロ研究連絡センター所長、同志社大学神学部教授、同志社大学客員教授を経て、イブン・ハルドゥーン大学(トルコ)客員フェロー。著書に『イスラーム 生と死と聖戦』『イスラーム入門』『一神教と国家』(内田樹との共著、集英社新書)、『カリフ制再興』(書肆心水)、『タリバン 復権の真実』 (ベスト新書)、『どうせ死ぬ この世は遊び 人は皆 1日1講義1ヶ月で心が軽くなる考えかた』(実業之日本社)他多数。

山本直輝

(やまもと なおき)

1989年岡山県生まれ。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。広島大学附属福山高等学校、同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究科助教を経て、国立マルマラ大学大学院トルコ学研究科アジア言語・文化専攻助教。著書に『スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道』(集英社新書)、内田樹、中田考との共著『一神教と帝国』(集英社新書・2023年12月刊行予定)。主な訳書に『フトゥーワ――イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)等、世阿弥『風姿花伝』トルコ語訳(Ithaki出版、2023年)、『竹取物語』トルコ語訳(Ketebe出版、2023年)、ドナルド・キーン『古典の愉しみ(The Pleasures of Japanese Literature)』トルコ語訳(ヴァクフ銀行出版、2023年11月刊行予定)」等がある。

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