宣教師として挫折した。教会へ通うようになったのは中高校生のころだった。しかし聖職者になろうと志した夢は破れて散り散りとなり、空に消えた。ぼくは34才になっていた。紆余曲折、蹉跌の果てに鴨川の河川敷に漂着し、中年の危機を迎えた。一方、青年イエスは30才で人々の前に現れて、33才で十字架にかかって復活し、天に上って救世主になってしまった。
日本とキリスト教について考えたい。そう強く思ったので、京都大学のキリスト教学研究室を訪ねて、門前の中年小僧になり「賀川豊彦」を知った。耳学問を重ねていくうちに、自分の探しているテーマが「太平洋弧のキリスト教」なのだと理解した。そこから近代日本、キリスト教、死後の世界といった興味関心の射程が広がった。
日本人にとってキリスト教は、いつも異質なものだった。それゆえキリスト教について日本語で考えることは、多くの場合、日本人について考えることでもあった。なぜならキリスト教の神は、いつも人格的応答を求めるからだ。賀川豊彦は全身全霊でキリスト教を生き、神と真正面から格闘し、近代日本のために尽くした。その生涯は、激動の時代、明治・大正・昭和の記録であり、忘れ去られた記憶でもある。
混迷する現代日本に何かしらのヒントを彼から汲みだせないだろうか。ある日本人の複雑な横顔、賀川豊彦という人物を探ることで人間の複雑さを学びたいのだ。近代日本を駆け抜け、八面六臂の活躍をなした傑物・賀川豊彦。ぼくらは、その横顔に何を見出せるのか。彼のまなざしに、ぼくらはどのように映るだろうか。
複雑な家系のトヨヒコ
では賀川豊彦(カガワ・トヨヒコ)とは、いかなる人物だったのか。
彼の祖父母、両親の家系をたどると、なかなか複雑な家庭環境に育ったことが窺える。委細は省くが、著名な事実を置いておく。まず父・賀川純一は、エルトゥールル号の遭難事件の遺品引き上げを手伝った件で名前が残っている。エルトゥールル号は、1890年に来日したオスマン・トルコ帝国からの親善使節団を乗せたフリゲート艦である。横浜を出港し帰路についた同艦は台風に遭遇し、和歌山県の紀伊大島沖で座礁。約600名が殉職する悲劇に見舞われた。純一は、徳島で回漕問屋を営んでおり、過去には自由民権運動にも関わっていた。それゆえの手伝いだったのだろう。
そんな賀川純一と豊彦の関係については、おそらく以下の説明で十分に複雑さが伝わるだろう。父・純一は、神戸を拠点に徳島の名産品である藍玉を扱う海運業の経営者だった。妻の名は賀川みち。そして豊彦の母は、菅生かめ(かのう・かめ)。益栄(ますえ)という名で芸妓を生業とした女性だった。すなわち豊彦は嫡子でなく庶子である。純一とかめの間には、5人の子があった。
豊彦は5才になる前に父と実母を相次いで病気で亡くしている。出生地の神戸を離れて姉と共に徳島の賀川家に引き取られ、純一の正妻みち、義理の祖母せいに預けられることになった。養母みちは病弱でヒステリックな人であり、夫が外でつくった子・豊彦を嫌い、無視または悪罵した。結果、養祖母せいが豊彦の面倒をみた。せいは愛のある人ではあったが厳格だった。それゆえ賀川の幼少期は親の愛や家庭の温もりからは遠く不遇なものとなった。
賀川家は代々続く19の村を束ねる大庄屋である。豊彦は村で「妾の子」と揶揄され、心当たりのない誹謗中傷の的にもなった。徳島の豊かな自然に慰められながら、少年賀川は当時の尋常小学校で優秀な成績をおさめて、旧制徳島中学へと進学した。当時のエリート学生が歩むコースには乗ったが、13才で肺結核の診断を受けた。続いて、亡くなった父の代わりに事業を行う兄の放蕩の果てに、賀川家は傾き、ついに破産した。少年賀川の学費支払もまた窮地に陥った。
結局、豊彦は叔父を頼ることになる。亡父・純一の弟である叔父の家にて家庭教師をしながら学業を続けた。しかしキリスト教を信じ伝道者になることを志したゆえに、叔父とは物別れとなった。叔父の名は森六兵衛。生粋の実業家たる六兵衛には、甥・豊彦の行く道は到底理解できなかった。なお六兵衛の事業は、現在も継承されている。東証プライム市場に名を連ねる森六ホールディングス株式会社である。
以上が、賀川の少年時代のあらましである。豊彦の家系と生育環境については、雨宮栄一(1927-2019)の著作に詳しい。雨宮が著した評伝三部作『青春の賀川豊彦』『貧しい人々と賀川豊彦』『暗い谷間の賀川豊彦』を参照するとよいだろう。
賀川の少年時代は、わずか120年ほど前だ。文豪・谷崎潤一郎(1886-1965)は賀川のふたつ年長であり、哲学者・和辻哲郎(1889-1960)はひとつ年少である。賀川は19世紀の後半、明治生まれで、大正と昭和を駆け抜け、第二次世界大戦を経て、1960年、20世紀中葉に没した。賀川の生きた時代のイメージが湧くだろうか。
100年前のニッポン、現代の日本
100年前と聞くと、読者はどう思うだろう。遠い過去、大昔の話だと感じるだろうか。それとも近代日本の話だから、徒歩5分圏内のコンビニのように身近に思うだろうか。このあたりの時間の遠近感は、学者の研究分野によっても違う。ぼくはキリスト教の研究者なので、聖書学も多少齧っている。だから約2000年前の死海写本について語ることに比べると、約60年前まで生きていた賀川の話、彼の少年時代は随分と近く感じる。一方、最新のテック業界で流行の技術を研究する人々の場合、そもそも100年前に研究分野自体が存在していないこともあるだろう。または地質学や宇宙物理学の研究者は、億年や光年単位の話をするから、近代日本であろうが2000年前であろうが、大差ないのかもしれない。
いずれにせよ、約100年前の日本を生きた賀川豊彦は、複雑な生育背景を持つ人物だった。ぼくには彼の話が、そこまで遠い時代の話のようには思われない。たとえば1923(大正12)年、関東大震災をきっかけに賀川は35歳で東京へ転居し、救援活動を開始した。現代でも、2011年の東日本大震災後に東北へ引っ越して、賀川のようにボランティアを志す人はいるだろう。19世紀初頭から戦前にかけて、すでに鉄道もフェリーも自動車も通信技術も存在していた。たしかに21世紀の現代との技術格差は否めない。それでも賀川豊彦が生まれ駆け抜けた明治・大正・昭和という時代は、平成と令和のいまに繋がっている。ぼくは現代日本と地続きの時代について話している。
もちろん差異もある。賀川豊彦の生まれた時代においては、養子縁組はごくありふれた一般的な出来事だった。賀川の父・純一も養子として磯部家から賀川家に入った人物である。純一の正妻みちもまた、実は養子だった。
このような事実を現代日本と照らし合わせてみると、たった100年で家族のかたちが変わっていることに気づく。多くの人が考える両親とその血縁である子どもによって構成される現代日本の家族イメージも、家に重きを置いて祖父母と同居する家父長制的な伝統的家庭の観念も、歴史を通じて変わらぬ絶対のものではないのだ。本家と分家の大家族から核家族へ、養子縁組から血縁のみの家庭形成へ、旦那さん/奥さんから一人親家庭へ。社会の構成単位である「家族」理解は、時流にあわせて、つねにダイナミックに動いていると考えてもよいだろう。いまの日本で求められている家族/家庭のかたちは何だろう。賀川なら何と語るだろうか。
過去を相対化することで今を知る
何が言いたいか。賀川が生きた時代について、ぼくらは当事者ではないが、関係者ではあるのだ。言うまでもなく、1880年代に生まれた賀川と同世代の人間で2020年代に存命している者はいない。賀川豊彦が生きた時代は、ぼくらの祖父母の親、祖父母の祖父母らの時代なのだ。それゆえ賀川の少年時代、思春期、青年期を知るとき、その時代性がぼくらの今を相対化してくれる。
相対化とは、見る視点によって物事が違ってみえること、「絶対にこうだ!」とは言い切れない状態を確認することである。この相対化こそ、ある日本人キリスト者・賀川豊彦の横顔を見つめることの意味にほかならない。近代日本の一断面を知ることによって、現代日本と照らし合わせて、それを相対化し、知的に深めること。相対化した上で、是々非々で批判すべきは批判して、継承すべきは継承すること。この営みこそ、今を生きる日本人であるぼくらに、賀川が求めることではあるまいか。
前述した雨宮の評伝を読むと、歴史を再構成して表現することの難しさを感じる。賀川豊彦という男は、たしかに実在した。しかし、その仔細をつぶさに確認することは難しい。それは賀川のみならず、誰であれそうである。たとえば、私人・波勢邦生がいたこと、その実在を200年後に確認することはかろうじて可能であっても、その全容を細かく把握することは難しいだろう。歴代総理のような公人でさえ、その内面や日常の全体を記述することは、時を経れば経るほど難しい。けれども、その難しさに取り組むことには価値がある。その価値の一端が、歴史的事実による現代社会と自他の相対化、深化なのだ。
賀川豊彦の幼少期
では賀川豊彦はどんな子どもだったのか。複雑な家庭環境については、簡潔に述べた。実際にはどんな子どもだったか。
まず豆知識として彼の命名について考えておく。「豊彦」という名前の由来は、父・純一が奉じた豊受大御神(とようけのおおみかみ)から一字、また猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)から一字を得て、トヨヒコと名付けられた。後代のぼくらから見れば、彼の名はまさしく体を表している。豊受大御神は、御饌都神(みけつかみ)であり、食膳と衣食住を司る産業の守り神である。また猿田彦大神は、先導の神である。豊彦と名付けられた子は、長じて人々の衣食住を守るために社会を導く者となった。賀川には、キリストの神以外からも祝福があったのかもしれない。
改めて彼の幼少期の特徴を指摘しておきたい。彼の思想との関連に限っていえば、自然とのふれあい、都会からの情報、貴族的な教育環境、この3点をおさえておくと判りやすいだろう。
賀川豊彦自身の回想によれば、神戸を離れて、旧制徳島中学へ入るまでの約7年は、家庭の温もりを味わうことのない、寂しく辛い時代だった。とはいえ、子どもらしい腕白さを感じる記憶もあるようだ。何歳頃の話かは分からない。たとえば、甘いものが食べたくて砂糖を盗み、マッチ箱にきな粉と一緒に詰めて食べ、義母にきつく叱られた。また渡し守の番小屋で友人と博打をうって儲けては駄菓子を買った。友人と隠れて博打したことで警察に捕まるのではないかと不安になったこともある。地元の祠の壁に馬の絵をらくがきし、ときには姉の着物をコッソリ持ち出して、演劇までしてみせた。緑あふれる徳島の村里を駆けまわる子どもの姿が浮かぶようである。しかし豊彦にとって外で遊ぶことは、養母みちとの関係の暗さと表裏一体だった。
繰り返しになるが、愛はあれど 厳しい祖母、無視と悪罵でしか関われない母のいる家は、豊彦にとって安心と温もりのある家ではなかった。だから阿波の国、吉野川流域(現在の鳴門市)の豊かな自然が、豊彦の慰めであり安心の場となった。自然とのふれあいが、賀川の幼少期を支えていたのである。
しかし豊彦は、単に自然と向き合っていただけではなかった。彼は大庄屋・賀川家と学校の話し合いだけで1年早く尋常小学校に入学し、生年月日を偽って旧制中学へ進学するほどに勉強ができた。兄が毎月送付してくれる巖谷小波(いわや・さざなみ)の主筆雑誌『少年世界』を愛読し、広く情報に触れていた。田舎では得られない、国際港湾都市・神戸の空気もまた賀川の幼少期の特徴である。
賀川の幼少期、最後の特徴は何か。それは貴族的な教育環境である。たとえば豊彦が10才のころ、すでに彼は賀川家の亡き当主・純一の名代、一人前の男として扱われていた。兄は遠く神戸で事業に奔走し、豊彦に徳島の本家が任されたかたちである。曰く、祝祭日には同級生らが外で駆け回っている中、彼は自宅屋敷の応接間の上座にあって、村人からの挨拶を受け、頭を下げられていた。厳しい祖母からは、二宮尊徳に習えとばかりに農作業を手伝わされた。また同様に、近くの禅寺にて四書五経を学ぶように強いられた。
このような幼少期の経験は、当時の一般的な農家の子どもの経験とは違うものである。賀川に与えられた教育環境は、政治と商売を追いかけて夭折した息子・純一のようにはならないでほしい、という、祖母せいの想いが込められていたのかもしれない。
こうして、自然とふれあい、都会からの情報も熱心に摂取し、教育環境を用意されながらも孤独に過ごした少年賀川に転機が訪れる。
冤罪事件である。同級生が肺病で亡くなった際、まったく身に覚えがなかったが、豊彦が傘で同級生を突いたせいで、その同級生が死んだとの噂が立った。完全なる冤罪だったが、賀川家の面目もあり、豊彦は貯蓄していた小遣い5円(現在の貨幣価値でおそらく10万円ほど)を包み、正装して謝罪し見舞いに行った。口惜しさに3日間泣きはらした。
「村の人々は、わたしが父のめかけの子であることをよく知っていて、何かにつけて、わたしをおとしいれる傾向のあることをわたしは知っていた」
(賀川豊彦「わが村を去る」『若き日の肖像』毎日新聞社、1955年、99頁)
阿波の国・堀江村東馬詰は、彼にとって安住の地ではなかった。少年賀川曰く、この冤罪事件で、父の生家を出ていくことを決意した。1年早く小学校に入学し、成績優秀で級長まで務めても、家では安らぐことなく、周囲からはあらぬ噂を流されてしまう土地の空気に嫌気がさしたのかもしれない。父の事業を継いだ兄もまた賀川の今後を思い、旧制徳島中学への進学に同意することとなった。ときは明治33年、西暦1900年。20世紀を迎えた豊彦は12才を数えていた。
このように、総じて賀川の幼少期は辛い家庭経験に基礎付けられ、自然とのふれあい、都会からの情報摂取、高い教育環境によって彩られている。これらは自然観察と読書習慣として賀川の性格を形成し、後にキリスト教に出会う道備えとなった。つまり賀川は生涯、自然を愛し読書を喜んだ。また「天のお父さま」と祈ることを愛した。実父の不在、父への憧憬は、賀川のキリスト教受容のステップとなった。まさしく「三つ子の魂、百まで」といったところである。賀川家は、たしかに特殊な環境であるが、当時にはありふれた機能不全の家庭でもある。賀川の幼少期を一瞥し、読者は自らの今と幼少期を照らして、何を思うだろうか。現代の日本人である「あなた」自身を相対化し、深めて考えるなら、何が思い浮かぶだろう。
(第3回は11月下旬に更新予定/賀川豊彦がキリスト教に出会う旧制中学時代について扱います)
あなたは「賀川豊彦」を知っていますか? ノーベル賞候補であり、ベストセラー作家であり、世界三大偉人であった稀代の「キリスト者」に焦点をあて、日本とキリスト教について思索する。
プロフィール
ライター/研究者
1979年生まれ。博士(文学)、京都大学非常勤講師など。2015年以降、賀川豊彦を研究。日本のキリスト教について考えている。