知ることはあなたの世界をどう変えるのか 第4回

科学的な知がもたらす暗がりについて

田村正資

■ あのとき、マクドナルドで本を読んでいた。

 二〇一一年三月一一日、一四時四六分。僕は八王子の京王線・南大沢駅すぐ横のマクドナルドにいた。半分くらい埋まった二階のテーブル席でフライドポテトをつまみながら本を読んでいた。前日に大学の合格発表があり、ようやく訪れた春休み気分はしかし、急な違和感で断ち切られる。なにか内臓がくるったような気持ち悪さ。いや、原因は僕のなかではなく外にあった。少し大きくて、いつもとは違う感覚の揺れ。思わず隣の席に座っていた人と目を合わせた。その人が「揺れてますね」なんて声をかけてくれた瞬間に、二階建てのマクドナルドが大きく震動し、軋んだ。これまでの人生で経験したことのない大きな揺れに驚いて、テーブルにしがみついた。揺れが落ち着くと、店員が二階に上がってきてその場にいた全員を避難させた。マクドナルドの外に出るとまもなく、付近の商業施設にいた人たちも含めて数百人の人間が駅前に避難して座り込んだ。

 歩いて帰ることのできる距離だったので、周囲で建物の火災や崩落が起きていないことが確認できたらすぐ家に帰った。出勤していた父親は無事だったが、電車がまったく動かないのでとんでもない距離を徒歩で帰るとのことだった。母親がどこにいたのかはまったく覚えていないが、たぶん家かすぐ近くにいたのだろう。家族の安否がわかると、僕はテレビとTwitterに流れてくる情報に釘付けになった。

 それから数日、あるいは数週間の情報体験はその後の僕の価値観に大きな影響を与えた。

 ここからは、自分の記憶に偏った記述になることをあらかじめ断っておこう。テレビでは東北の被災地の様子、そして途中からは福島の原発の様子がつねに報じられていた。Twitterでも同じように被災地の情報が多くのアカウントから発信されていたが、そこにはマスメディアがひとつひとつ取り上げて報じたりはしないような、補足的でローカルな情報も多く含まれていた。各地域の避難所やライフラインの状況が、公的と思われるアカウントからも個人のアカウントからも絶え間なく発信され、それらは僕も含めた多くの傍観者たちの「これは拡散してあげたほうがよさそうだ」という判断で拡散されていった。また、震災直後は電話回線がほとんど繫がらなくなっていたため、多くの地域で平常時と変わらずに利用することのできたインターネット回線を経由して——つまり、TwitterやFacebookだ。当時はLINEがまだなかったのだから[1]——家族や友人の安否を確認するための投稿が相次いだ。これらの投稿もまた、必要だと判断した多くのアカウントによって拡散されていった。

 なかには、写真付きで「【場所の名前】で母親が瓦礫に埋まっています。助けてください。拡散希望」と緊急の救助を求める投稿もあった。はじめのうちは、このような投稿も真実性が高いとみなされて多くのアカウントによって拡散されていたものの、やがて、怪しい投稿が増えていくと「こんなものを拡散しないでください」と呼びかける人が現れたり、「嘘をつくな」と投稿者にリプライを送る人が出てきたりするようになった。救助を求める投稿をしたアカウントのこれまでの投稿を覗いてみると、震災の直前まで明らかに被災地ではないところで過ごしていたことが明白なケースもあったし、自分の居場所だといって投稿した画像が他のアカウントからの転載もしくは粗雑な加工が施されたフェイクだとわかるケースもあった。

 実際に投稿されたもののなかにどれだけの真実があったのか、当時の僕にはまったくわからなかった。ただ、なにか新しく真実味のある呼び掛けが登場して少し経つと、それを模倣した投稿が相次ぐようになる、という状況を数日のあいだディスプレイに釘付けになって見ていることしかできなかった。これは、僕にとって——もしかしたら、日本社会にとっても——リアルタイムで進行する大きな状況のなかで真実の報道をボトムアップのフェイクが蝕んでいくのを目の当たりにする初めての経験だった。

 二〇二六年のいま、こんなのはSNS黎明期で人々の情報リテラシーがまだまだ未発達だったころの話だ、と言って切り捨てることができたらどれだけよかったか。

■ DHMOジョーク

 福島第一原発で発生した事故の様子が明らかになってくると、Twitter上の混乱はさらに増していった。放射性物質の拡散とその影響をめぐっていたるところで議論が紛糾し、科学者による科学コミュニケーションの在り方に大きな課題が突きつけられた。

 震災直後からずっとTwitterに張りついていた僕にとって、ずっと喉に刺さった小骨のようになっているエピソードをひとつ挙げよう。きっかけは、とある大学生(と思われる)アカウントが「水道水からDHMOが検出された」という旨の投稿をしたことだ。これに対してあるアカウントが「危険なデマを広めるな、すぐに撤回して謝罪しろ」と迫った。このやり取りを見た周囲のアカウントは「釣られてマジギレしている人がいるw」と盛り上がっていた。

 DHMOとは、Dihydrogen Monoxide(一酸化二水素)の略で、H2Oとも呼ばれる。要するに、水のことだ。ありふれた物質で、僕たちの誰もがその特性を感覚的に理解している。しかし、DHMOという見慣れない表記をすることで人々はなにか未知の物質だと思いこみ、そのリスクを過大評価してしまう。たとえば、この物質は「温室効果を持つ」「金属を腐食させる」「末期ガン患者の悪性腫瘍から検出される」「原子力発電所でも用いられている」——など、悪意を持ってピックアップした特徴を併記することで、人々を不安に陥れることができる。このジョークは震災よりもずっと以前から使われているもので、一部のコミュニティではネタとしてしばしば引き合いに出されていた。

 だから、「水道水からDHMOが検出された」とは「水道水から水が検出された」と同じ意味の言明になる。つまり、これはデマではない。単なるトートロジー、言い換えだ。だから、それを悪質なデマだと思って怒っている人を「釣られた」と言って笑うのだ。「科学的知識」なるものを持っている者が、そうでない者を見下して貶める。あまつさえ、こんなジョークには引っかからないように「リテラシー」をつけましょう、とのたまうのだ。参加はしていなかったものの、このようなやり取りを僕も「2ちゃんねる」的な感覚で眺めていたことを白状しよう。そのときの罪悪感のようなものが、ずっと心のなかにわだかまっていた。当時の自分の態度も含め、詐欺師が「騙されるほうが悪い」と言うのと同じことを、科学的知識を人よりも持った人間がSNSで言って得意げになっている——それも、未曾有の大災害で日本中が混乱する最中に——のは、単に悪質だ。というのも、それは「デマ」を広める人々と同じやり口であり、人々の科学的な知識に対するリスペクトを大きく毀損する事態でもあるからだ。

■ 科学的な知識は、会員証ではない

 人を選別する手段として科学的な知識をもてあそんでいるあいだに、客観的な事実や科学的な知識それ自体の地位は大きく低下してしまった。いわゆるポスト・トゥルースの時代が到来したのである。ところで、科学哲学者のリー・マッキンタイアは、現実の認知が政治的な立場に従属してしまうポスト・トゥルース的状況のルーツを、それ以前から存在する「科学否定」の潮流のなかに見出している[2]。科学否定とは、たとえば気候変動や進化論など、科学的なコミュニティで一定の根拠をもとに確立されたコンセンサスをあえて拒絶することを指す。
 もちろん、科学的には見解がまとまっているがセンシティブなトピックに疑問を差しはさめばすぐさま科学否定論者に分類されるというわけではない。マッキンタイアは次のように述べている。

どんな科学的トピックであれ、コンセンサスに疑問をもつだけでは否定論者とは呼べない。だが、科学的コンセンサスを信じることを頭から拒否し、どんな証拠があれば考えを改めるのに十分かについて口をつぐむ者は、やはり否定論者である。反ワクチン派、気候変動否定論者、フラットアーサーは証明にこだわる。これは間違いなく不合理だ。経験的な研究はそのようなものではない。[3]

  「証明」については補足が必要だろう。ここで述べられている証明——つまり、科学否定論者が過分にも科学に要求しているとされるもの——とは、たとえば気候変動が人間の活動によって引き起こされる因果関係の完膚なきまでの証明とか、第三種混合ワクチンの接種と自閉症のあいだにはいかなる因果関係もまったく存在しないことの証明といったものである。数学のような学問とは異なり、経験科学は帰納的な手法を採るためつねに不確実性をはらんでいる。科学否定論者は、科学的な営みにとって本質的なこの不確実性をもって求める証明の不在と捉え、私たちの考えを変えたいならすべての証拠を揃えよと言う。しかし、もし科学の本質を無視してそのような主張に与するのであれば、「すべての証拠をそろえるのが不可能な以上、私たちはなに一つ知ることができなくなってしまう」[4]のだ。

 科学雑誌の『サイエンス』は、二〇一〇年五月に米国科学アカデミー会員たちの署名が入った書簡を公開した。そこには、気候変動について研究する科学者たちへの政治的圧力が高まっていることへの懸念の表明に加え、次のような言葉が書かれている[5]

市民のみなさんには、基本的な科学的事実を理解していただかなければなりません。科学的な結論には、つねになんらかの不確実性が伴います。つまり、科学がなにかを完璧に証明するということは決してありえないのです。科学者たちが絶対的な確信を持つまで待ってから社会は行動を起こすべきだと言う人がいるならば、それは、社会はいかなる行動も起こすべきではないと言っているも同然です。[6]

 科学的な知識を持つこと、科学的な知識をもとになにかを判断していくことというのは、科学的な営みの持つ不確実性を受け容れることでもある。不確実性を受け容れるというのは、どんな科学的な主張であっても疑念の余地があることをもって「信じるに値しない」と切り捨てる極端な態度を捨てることだ。疑念の余地があることは、当の科学的な主張が脆弱であることを意味しない。その主張が科学的なコミュニティのなかで度重なる検証を受けているのならばそれだけ、また僕たちの生活のなかにも浸透していればそれだけますます、その科学的な主張を覆すために支払わなければならないコストも増大すると考えなければならない。

 だが、このような高説を垂れるだけで科学否定論に傾いている人たちの考えを変えることができると考えるのは安直だ。マッキンタイアが『エビデンスを嫌う人たち』で論じているのは、人々がなにかしらの信念を受け容れるときには、経験的証拠よりもその人のアイデンティティを維持するような認知をもたらすかどうかのほうが重要であるということだ。人々は、自らのアイデンティティや所属するコミュニティへの影響が生じない場面では、科学的・合理的な態度を容易に維持することができる。しかし、ある信念を受け容れることが、たとえばその人の話によくしっかりと耳を傾けてくれて、いつも快く迎え入れてくれる人たちとの深刻な対立をもたらすような意味を持つときには、どんな人であっても心理的な抵抗を覚えてしまう。

 ここで最初の話題に戻るのだが、だからこそ、科学的な知識の有無によって人を貶めるようなコミュニケーションをすることは、科学そのものへのリスペクトを損なうことに通じるのだ。それはいわば、科学的な知識をコミュニティのメンバーシップにしてしまうようなことだ。だが、水にDHMOという呼称があるのを知っているかどうかを会員証として用いるようなコミュニティに属している人たちの話を熱心に聞きたいと思うだろうか? 重要なのは、科学的な知識が会員証のようにあなたとわたしの区別を設けるものではなく、どんなコミュニティに属する人であってもアクセスでき、その有無によって一方的に貶められるようなものではないと認識してもらうことだ。いかなるメンバーシップとも無縁の、「特別な」ものだという認識が成立してようやく、誰もが科学的・合理的な判断に向かって議論を重ねていく土台を作ることができるのだ。

——閑話休題。この連載のどこかでまた立ち返ることになると思うが、そうはいってもやはり、知識はあなたとわたしを区別するものとして機能する側面がある。なにかを知っていることが仲良くなるきっかけになったり、仲間として迎え入れる根拠となったりする場面をいくらでも挙げることができるだろう。そして反対に、なにかを知らないことが相手を貶めたり排除したりするきっかけになることもある。だとすれば僕たちにとって「知ること」は、自分が世界のどこに属するのかを決定するメンバーシップ的な機能を果たしてしまっていると言えるだろう。そう考えればむしろ、メンバーシップ的な機能を果たすべきではない(にもかかわらず僕たちはそのように使ってしまっている)という意味で科学的な知識が特殊なのであって、それ以外の知識は良きにつけ悪しきにつけメンバーシップ的な機能を持っているのがふつうだということになるかもしれない。

■ 無知を生産する科学

 いま僕は、科学的な営みによって生みだされる知識がコミュニティを超えた特権的なものであるべきだと述べた。しかし、それはもちろん理想論であり、ひとつひとつの個別的な科学的な実践はどこか特定のコミュニティのなかで営まれている。そして、それぞれのコミュニティが持つ利害関心は、そこで生産される科学的な知識の在り方を規定することになる。科学社会学と呼ばれる分野においては、たとえば科学者の業績がどんなふうに評価され、どんな待遇に結びつくか、どんな補助金があってどんな文化圏のなかで研究が営まれているのかによって知識の生産にどんな影響が及ぶのかが長らく研究されてきた。

 その社会でどんな病気の研究に経済的・人的なリソースが投じられるのかを考えてみればよい。単純化した例であることを断っておくが、たとえば、衛生環境も食環境も大幅に改善された現代の日本で多くの人が関心を持つのは「がん」の治療だろう。二人に一人は生涯のうちでなにかしらのがんになると言われているなか、がん研究には多額の資金が投じられ、その研究成果が日々医療現場に還元されている。それに対して、難病ではあっても罹患者が極端に少ない病気の研究には資金も人手もなかなか投下されない現実がある。人々の関心を反映したこのような現実が、それらの病気に関する知識の質・量を規定することになるのだ。そこにもし、新型コロナウイルスのように多くの人に影響を及ぼす新たな病気が現れると、短期間であっても莫大なリソースが投じられるというようなことも起こる。

 社会的なものと科学的知識の関係への眼差しは、すぐにその裏側である「無知」にも向けられることになる[7]。科学社会学の研究を大きく発展させたロバート・K・マートンは、「無知」を科学研究の資源として見出した。なにがわかっていないのか、どんな知識が欠如しているのかがわかれば、それは「特定された無知」として科学的な研究の対象とすることができる。アドベンチャーゲームで、マップが手に入ると自分がまだ行ったことのないエリアが暗く表示される。このとき、そこに何があるのかはわからないが、そこに行けば何かがあることはわかる。これが特定された無知だ。

 ゲームのマップ程度であれば踏破することは可能だ。というか、そういうふうに作られている。しかしながら、ゲームの外側に広がる世界はあまりにも広い。ゲームのマップのひとマスひとマスがすでに人々の一生涯をかけても見渡しきれないような広さを持っているような途方もなさだ。だとすれば、無知がどこにあるかを特定したとしても、限られたリソースを実際にどの無知に投下するか考えなければならない。さきほどの病気の研究の例のように、社会が持つ関心に応じて知的リソースが振り分けられていく。そのようにリソースが振り分けられた後に残ったものは、もはや無邪気に資源としての無知と言えるようなものではなく、人々が取捨選択した結果捨て置かれた無知、つまり社会的に構築された無知だと言える。特定の地域、特定の病気、特定の文化、等々……について、知らないでいることが選択されたのだ。このように、資源としての無知が捨て置かれた、作られた無知として社会的に構築されることを心理学者のマイケル・スミスソンが指摘した。

 だがそれは、僕たちのリソースが有限だから「仕方がなく」「たまたま」生じてしまった「無知」だ。確かにそういう側面もあるかもしれない。しかしながら、リソースが有限であるがゆえに無知が生じるということは、リソースをどこかに過剰に集中させることによって狙った仕方で無知を生産することも可能なのではないだろうか。このような仕方で、戦略的・積極的・政治的に構成されたものとしての無知に着目する「無知学(アグノトロジー)」という研究領域が、近年注目を集めている。

 これは比較的新しい領域で、その名称はロバート・N・プロクターとロンダ・シービンガーが編集して二〇〇八年に出版された論文集のタイトルでもある。無知学の研究者として、海外の研究成果を精力的に日本で紹介している鶴田想人は、無知学のコンセプトを次のようにまとめている。

無知学は、作られた無知という観点から歴史を眺め、その無知が誰によって/いかにして作られ、それが誰の利益/不利益になるのかを明らかにしようとするものである。[8]

 無知学を紹介する文献を読んでいて必ずといっていいほど登場するのが、タバコ産業の事例だ。喫煙がさまざまながんと結びついていることが指摘されて以降、タバコ業界が採ったのはタバコの発がん性についての知を無知で囲い込むために、まったく別種の知を生産するという戦略だった。無知学の草分けであるプロクターは一九九五年に出版した『がんをつくる社会』以来、アメリカのタバコ企業の策略を追い続けた。一九九八年に見つかったアメリカのタバコ会社の内部資料からは、彼らががんのメカニズムに関する疑問をあちこちに作りだすことで、タバコが決定的な原因と断定するには尚早であり「まだまだ研究の余地がある」と言える状況を生みだそうとしていたことがわかる[9]。では、彼らは具体的にどんなことをやったのか。再び鶴田による整理を引こう。

彼らが実際に行ったのはタバコの発がん性の解明とは無関係なさまざまな基礎研究——遺伝学や生化学など、がんの原因よりもメカニズム(機序)に関するもの——であった。何のためにか。第一には、タバコががんの原因である、という事実から人々の目を逸せるためであった。また第二には、業界が喫煙の健康リスクの究明についてできるだけのことはやっている、と見せかけるアリバイ作りのためでもあった。さらに業界は、タバコの発がん性を示す証拠に対して疑念を投げかけ、タバコの有害さを結論するには「さらなる研究」が必要であると主張し続けた。[10]

 タバコが有害であると「証明」するためには、さらなる研究が必要だ。がんというのは、まだまだ解明されていないさまざまなメカニズムによって生みだされているのだから、それらをひとつひとつ解明していかなければ決定的なことは言えない。このような語り方に覚えがないだろうか。それは、マッキンタイアが指摘した科学否定論者たちによる、科学に対する過大な要求とその姿勢において一致している。莫大な資金を動かして科学を駆動させ、ある領域における知識を積極的に生産するように仕向けることで、むしろ人々を無知な状態に追い込む。それによって利益を得る人たちがいるのだ。

 科学哲学や無知学[11]の知見は、僕たちが何かについて知ることで、他のなにかについて知らないままでいることに伴う問題があるのだということを教えてくれる。知ることはしばしば暗がりに光を当てることに喩えられる。ゲームのマップを広げていくように僕たちの知が広がり、やがて世界を覆い尽くすことができるのならば、気になったところから気ままに光を当てていけばいいだろう。しかしながら、世界は曖昧な無限性を携えていて、僕たちの知的リソースは有限だ。そのリソースを費やして何かを知るということは、実のところ別の何かを永遠の暗がりに葬り去ることでもある。それはもちろん、しょうがないことだ。しかしそれが、誰かの不利益の上に設計された知であり、意図的に維持された無知への加担であるとしたらどうだろうか。

(次回へつづく)


[1] 実のところ、「東日本大震災のときにLINEはまだなかった」という表現はあまり実態に即していない。開発した企業によれば、LINEとは震災の経験を踏まえ、電話回線が繫がらなくてもインターネット回線を通じて大切な人とコミュニケーションをすることができるようにと開発されたアプリケーションだからだ。LINEの開発は震災直後から急ピッチで進められ、二〇一一年六月二三日にリリースされた。現在では、日本人の九割以上が利用していると言われるほどに普及しており、大規模な災害が起こった際に利用できる安否確認機能も無料で提供されている(cf. 近藤仁美「LINE誕生のきっかけは「東日本大震災」だった——運営が語る“開発の背景”とは 緊急時の活用法も紹介」、ねとらぼ、 二〇二四年五月二〇日、https://nlab.itmedia.co.jp/cont/articles/3378251/、参照日:二〇二六年三月二三日)。
[2] マッキンタイア(二〇二四)『エビデンスを嫌う人たち』西尾義人訳、国書刊行会、三一五。
[3] マッキンタイア(二〇二四)『エビデンスを嫌う人たち』西尾義人訳、国書刊行会、三〇一—三〇二。
[4] マッキンタイア(二〇二四)『エビデンスを嫌う人たち』西尾義人訳、国書刊行会、一〇〇。
[5] cf. マッキンタイア(二〇二四)『「科学的に正しい」とは何か』網谷祐一監訳・高崎拓哉訳、ニュートンプレス、一四。
[6] P. H. Gleick, R. M. Adams, R. M. Amasino, E. Anders, D. J. Anderson, W. W. Anderson, et al. (2010) “Climate Change and the Intergrity of Science,” Science 328, no. 5979: 689. (訳文は前出のマッキンタイア『「科学的に正しい」とは何か』邦訳内で引用されているものを参考にしつつ、田村が新たに作成した)
[7] 以降の科学社会学や無知学についての説明は、以下の文献を参考に再構成していることを断っておく。
 鶴田想人(二〇二三)「無知学(アグノトロジー)の現在」、『現代思想』第五一巻第七号、二四—三五。
 鶴田想人+塚原東吾編著(二〇二五)『無知学への招待:〈知らないこと〉を問い直す』、明石書店。
[8] 鶴田想人(二〇二三)「無知学(アグノトロジー)の現在」、『現代思想』第五一巻第七号、二八—二九。
[9] 鶴田想人(二〇二三)「無知学(アグノトロジー)の現在」、『現代思想』第五一巻第七号、二五—二六。
[10] 鶴田想人(二〇二三)「無知学(アグノトロジー)の現在」、『現代思想』第五一巻第七号、二五。
[11] 無知学の視点は、大企業の陰謀のようなものでなくてもさまざまな場面で応用できそうなところが非常に面白いと僕は思っている。たとえば僕は「競技クイズ」に励む人々のコミュニティに近いところにいるが、競技クイズでは同じプレイヤー群が持ちまわりで出題者と解答者を務めるような構造になっているため、プレイヤーの属性が出題される問題のジャンルの広さや深さに影響しやすくなっている。理念的には、森羅万象どんなものからでも出題して構わないとされているクイズが、たとえば高学歴男性という属性の関心を強く反映した問題群になることもある。そうなると、新規参入してきたプレイヤーは自分がクイズで高いパフォーマンスを残すためにその関心に同調することが最適な選択となる。このような循環によってクイズコミュニティが囲い込んでしまった無知の領域がさまざまなところにあるのではないか、という視点で出題される問題のコーパスを考えてみると、示唆が得られることもあるだろう。たとえば、このようなコーパスの固定化への問題意識を持っているプレイヤーのなかには、出題される問題の幅を広げようと試行錯誤をしている者もいるが、彼らの試みになにかヒントをもたらすこともできるかもしれない。

 第3回
知ることはあなたの世界をどう変えるのか

生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。 哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。

プロフィール

田村正資

たむら ただし 哲学者。1992年生まれ。東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現象学とモーリス・メルロ゠ポンティ。著書に『問いが世界をつくりだす メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)、『独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)など。

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科学的な知がもたらす暗がりについて

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