私たちのほとんどにとって、「司法」とは縁遠いもので、敬して遠ざけられる。刑事司法はいわずもがな、民事だってできることなら一生かかわりたくない。いや、法があるから秩序ある社会が営まれていることはわかっているけれど、その当事者になるのはやっかいだ。
――このあたりが「ふつうの人」の感覚ではないかと思う。けれど、不運にも私たちは時として法に訴えられたり、訴えたりする。不注意の事故、軽はずみなおこない、そして降って湧いたような被害。覚悟も、準備もないまま、私たちは法の前に晒されることがある。そのとき私たちはあまりに無力だから、伴走するための専門家として弁護士がいる。
私たちが法廷に立たなくてはいけなくなるのは、たいてい不運なことだ。被害のほとんどはいわれなきことで、しかしそれを正さねばならない、なかったことにはできないと思うから、立ち向かおうとする。
司法とは縁遠い、ふつうの日常を送っていたはずの私たちは、あるとき突然「ふつう」でいられなくなることがある。しかもそれは、わかりやすい「加害者」がいないこともある。いつもの生活をしていたら、家族や集落全体が原因不明の病に襲われる。長いあいだ公にやってきた仕事が、突然「違法」だと言われる。みんなが当然もっている選択肢が、自分たちには与えられていない。生まれもった外見だけで警察から睨まれ、職務質問を受ける。
みんなと同じ「ふつうの人」でいられなくなったとき、私たちは「当事者」になる。そして、これらは誰か個人のせいではない。最初のケースでは、いまや定着した「公害」という言葉が示すように「害」をもたらしたのは「公」、すなわち国という仕組みであり、その庇護下にある国家組織や大企業だった。
ほかの事例でも、たとえば若者に人気のタトゥーショップの彫り師を「医師法違反」で逮捕した警察官や、同性同士での婚姻届を受理しない市役所の職員は、個々人の判断でそんなことをしたのではない。それは所属する組織、ひいては国という仕組みの実務セクションである行政の判断であり、したがって責任の主体もそちらにある。
こうした、個人ならざる組織や国を相手どった訴訟こそ、本書が紹介する「公共訴訟」である。
〈公共〉とは、私たちみんなが、個々人の価値観の違いや利害の対立をかかえながらも、なんとかやっていくための枠組だ。そこで重要になるのは、依怙贔屓をしないことである。誰が相手であっても、同じ基準に則って、同じ手続きをしなくてはならない。知り合いだから犯罪を見逃すとか、態度が悪いから体裁が整った書類を受理しないなどということをやってはいけない。それが〈公共〉に属する組織の厳格なルールである。それに守られて、私たちの「ふつう」はある。
けれど、この〈公共〉が突如として牙をむき、私たちに「ふつう」であることを許してくれなくなることが、ある。それが先に挙げたようなケースだ。粛々と、既存の慣習やルールに則っていると言いながら特定の人を排除したり、時代に沿わない法律の条文を持ち出して規制をかけようとしたりする。
〈公共〉からの害を司法に訴えることは、顔の見える個人からの「害」に対するよりも、もっとずっと勇気と力がいる。なにしろ相手は〈公共〉なのだ。誰を恨んで、誰の故意や過失を問えばよいだろう。相手は組織だから罪悪感をいだく主体すらおらず、譲歩や示談の話が出ることはない。最高裁までいく裁判は、とても、とても時間と労力、そして経済的負担がかかる。まして向こうは「顔」がないのに、こちらは被害当事者として顔や名前を晒さなければいけない。
そんなことを、ただ自分の利益のためだけにする人など、いない。
公共訴訟の原告たちは、私たちみんなのために法廷に立ってくれているのだ。
日本初となる公共訴訟の入門書である本書は、情理を尽くして、すなわち具体的なエピソードと原告や弁護士たちの思いから客観的なデータと制度的構造や学術的な位置づけまで、情熱と冷静を尽くして、いまなぜ「公共訴訟」なのかを説いてくれる。
不意に〈公共〉から排除されてしまうことがありうる私たち全員にとって、しかしそんな私たちも含める形で〈公共〉を編み直し、共に生きるための回路が司法にこそあるのだと示してくれる本書は、私たちの「ふつう」は運まかせではないのだ、それは誰もにあってしかるべきなのだと力強く論じてくれる。
世界中で民主主義が危機に陥り、選挙という〈私〉と〈公共〉をつなぐ回路のひとつが機能不全に陥っているように思われてしまう、いまこそ読まれるべき、勇気の出る一冊。
プロフィール

(ちゅ ひちょる)
哲学者。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。著書に『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)。2026年5月、好評を博した『100分de名著 ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」』のテキストを大幅改稿した初の新書『バラバラな世界で共に生きる――リチャード・ローティの哲学』(NHK出版新書)を刊行。
朱喜哲






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