ドラマの登場人物にキレる人々
それでは、物語がリアリティを増していくこと、そして視聴者が物語に没入していくことの弊害はあるのだろうか。体験を付記しておきたい。
2024年の夏、30代の男性の知人に呼ばれ、2人で居酒屋で過ごしていたときのことだ。「今週の『海のはじまり』見ました?」と聞かれたので見たことを伝えると、彼は「津野、めちゃくちゃムカつきませんか?」と質問を重ねた。
津野とは池松壮亮が演じている役で、主人公の夏(目黒蓮)が昔付き合っていた、女性・水季(古川琴音)に想いを寄せていた男だ。その週の放送回では、夏と水季の娘である海が失踪。海は津野の働く図書館にいたのだが、海を迎えにきた夏に津野は「お前、いなかったもんな」といったキツい言葉を突きつけたのだった。夏は水季が自分の子どもを生んだことすら知らなかったので、正直、いなかったこと自体はしょうがないと言えばしょうがないのだが、津野の言葉によって、夏が水季と海との3人の家族としての時間を過ごしていないことを、より深く自覚させられるシーンだ。
知人は、その質問ののち、僕の答えを待たずに、20分ほどにわたって、津野の悪口を言い続けたのである。ともすれば、津野の働く小田原の図書館にクレームを入れそうな勢いだった。誰かの話を酒の肴に居酒屋で管を巻く―。上司や同僚といったように、話題の中身が実在の人物であればよくある話だろう。だが、津野は架空の人物である。それにも関わらず、彼は、あたかも共通の知人、しかも実在する人物かのようなテンションで話を続けていたのだ。途中、僕が「池松壮亮ってなんであんな演技上手いんですかね」と、主題は変えないまま、若干話の方向性だけ変えようと言葉を挟んでみると、「上手いですよね」と同調してくれつつも話は深まらなかったので、池松にキレているわけではなさそうだった。もしかしたら池松には興味もなかったのかもしれない。彼はあくまで、津野にキレていた。
僕はその様子に衝撃を覚えた。たしかに、その週、ネット上にも津野への悪口は溢れていて、その現象をネットニュースにまとめる媒体もあった。それはあくまでドラマの感想が、表現の形を変えたものだと思っていた。しかし、知人の姿を見て感じた。これは、ドラマの登場人物を、実在の人物かのように感じて文句を言う悪口だったのだ。長らく存在する居酒屋での井戸端会議的な悪口であり、ネット上に見える形で書けば誹謗中傷と言ってもいいかもしれない。あまりにもドラマに没入するあまり、そしてドラマにリアリティがあるあまり、感情が、言葉が、実在の人物に対するように湧き上がってきているのである。
少なくとも、彼の中ではリアルとリアリティの境界線がなくなっている―。津野への怒涛の悪口が一段落した頃、そう感じたのである。
男女の曖昧な関係を描き続ける今泉力哉の〝リアリティショー的〟ドラマ
一時期「ドキュメンタリー的ドラマ」とか「ドキュメンタリー的手法のドラマ」といった言葉がもてはやされた時期がある。だが、それは例えばドラマ『BOSS』(フジテレビ・2009)に対して、カメラが手持ちで撮影されているとか、福田雄一のドラマが役者のアドリブに対してリアクションまで含めてカットをかけずにじっくり撮っているとか、あまり本質的ではない部分を指して使われたりしていた。以前、この連載で名だたる映画監督たちの、すべての映像はドキュメンタリーであるという思想を紹介したが、それを考慮しても、撮影手法だけを切り取って「ドキュメンタリー的」と言うのは本質的ではないだろう。
では、改めて「ドキュメンタリー的」ではなく「リアリティショー的」ドラマがあるとすればどのようなものを言うのだろうか。以前、その構造がリアリティショー的な性質を持つドキュメンタリー映画として『ゆきゆきて、神軍』という約40年前の作品を紹介したが、そこから時が進み、2020年代に「リアリティショー的」と、特にドラマを形容するときには、視聴者の反応も込みで定義すべきであると考えている。
2026年の1月期の日本テレビ系水曜22時枠で放送されたドラマ『冬のなんかさ、春のなんかね』は、会話の間、シーンの長さ、セリフのまどろっこしさ……どれをとっても、地上波ドラマとしては異様なものだった。初回放送後にXでトレンド入りしたが「これ連ドラ?」「会話が入ってこない」といった声もあり、明らかに異質なものが流れていると感じた人も多いようだ。
物語の始まりは、コインランドリーで、スマホからミッシェル・ガン・エレファントの曲が音漏れしてくることをきっかけに杉咲花と成田凌演じる男女が出会うというもので、固有名詞はここでも活躍している。
全話の脚本とメイン監督を務めたのは映画監督の今泉力哉だ。2000年代半ばから、長らくインディーズ映画も含めて映画を作り続けてきたが、2019年公開の映画『愛がなんだ』が出世作となった。
『愛がなんだ』では、成田凌が料理をしながら自分の指につけたケチャップを岸井ゆきのに自然になめさせるシーンがある。このシーンが、映画公開前に、公式に解禁された本編映像としてネット上に公開されると、岸井ゆきののリアクションも含めてリアルだとSNS上で話題に。「追いケチャップ」という呼び名も合わせて拡散され、作品の注目度を高めた。大げさに言えば、『愛がなんだ』のヒットはSNS上でつっこまれることから始まっていると言ってもいいだろう。
『愛がなんだ』の2人はきちんとつきあっているわけではない。『冬のなんかさ~』も、杉咲花ときちんとつきあっているわけではない、曖昧な関係の男性が複数登場する。杉咲花が成田凌とつきあったかと思えば、次のシーンでは別の男性とホテルにいたりするのである。これらは、よく言えば言葉にできない関係だし、それをだらしないとかビッチの話とか、悪く言う人もいるだろう。
ただ、実はこれはとても〝恋リア的〟でもある。恋リアは基本的に1VS1の恋愛ではなく、1VS複数の異性だったり、複数の男女の恋愛を並行して描くものだからだ。たとえば、女性が複数の男性と同時並行でデートする姿を映すのは当たり前。そして、はっきりとした〝結論〟を出すのは基本的には最終回である。つまり、恋リアは基本的にはずっと〝男女の曖昧な関係〟を描くものなのだ。
そして、今泉は監督としてブレイクする前の時代から、曖昧な男女の関係を描き続けていて、作風は通底している。2015年制作の映画『知らない、ふたり』は、男女7人の交錯する思いを描くが、一方から見ればそれは純愛でも、他方から見ればそれはストーカーだったりする、といったさまを描く。とはいえ、それは乱暴に言葉にした場合の話であって、そういう言葉にできない想いを映像に託すのが上手いのである。
『知らない、ふたり』の予告編では「新時代の恋愛映画監督」、『愛がなんだ』の際には「“正解のない恋の形”を模索し続けてきた恋愛映画の旗手」と紹介されているが、『愛がなんだ』以降は、そのような男女の正解のない、言葉にできないリアリティを描くのが得意な作家として評価されている。
そんな今泉が初めて本格的に手掛けた連ドラである『冬のなんかさ~』は、ひとことで言ってしまえばその手法は〝映画的〟である。間もセリフのわかりづらさも、地上波ドラマっぽくない。だが、それが地上波で流れることで何が起きたか。SNSで切り取られて拡散され、多くのリアクションを生んだのである。
それは津野への悪口の恋愛版のように感情のこもったものでもあり、『花束~』を観た者が自分の恋愛を語りだす現象にも似ていた。実在する男女かのように、自分の経験も重ねながら「激ヤバ沼女すぎる」と登場人物にツッコミを入れたり、「過去にこういう男いた!」と語りだすものがいたり……。温泉旅行に行った際に男女が喧嘩して朝ごはんに行かなかったシーンに現実かのようにツッコミを入れている人もいた。そこから定義できない男女関係の議論が発展することもあり、視聴率は芳しくなかったにも関わらず、大いにSNSは盛り上がった。むしろドラマ本編を見ていなくても、切り取られたワンシーンの男女のやり取りだけをSNS上で見て盛り上がっていた人も多いだろう。最終的には今泉本人が、ごく自然に行われているその行為に、実は違法であることをSNS上で指摘したくらいである。
男女のやり取りの映像に対してSNS上で色々とツッコミが入るその状況は、恋愛リアリティショーと同じと言ってもいい。『冬のなんかさ~』は、とても恋リア的なドラマだった。だがそれは映画的であり、民放のドラマっぽくなかったからというのが理由ではない。もちろん映画的な間がよりリアリティを増長させるのに寄与はしていただろう。だが、それだけではない。SNS上でリアクションが加わったことで、そのリアクションも含めて〝恋愛リアリティショー的〟になったのである。
再現VTRを恋リアみたいに観る『あざとくて何が悪いの?』
「男女のドラマを見る→それにあれこれ言う」というこの恋リア的な構造を、実はひとつの番組内で完結していたバラエティ番組がある。それが『あざとくて何が悪いの?』(テレビ朝日)だ。
2019年からの特番を経て、2020年10月にレギュラー放送を開始。当初は視聴者の投稿をもとにした「あざとエピソード」を再現VTRにしていたが、2021年1月からより物語性のある「あざと連ドラ」として、番組内で流すことに。設定も細かく、ネクストブレイクのアイドルや実力派俳優を起用して、単なる再現VTRの域を越えた、リアリティに溢れた本格的なドラマを作った。そしてそのドラマに山里亮太をはじめとする番組MC陣があれこれ言っていくという構成だ。恋愛リアリティショーの本編パートの役割をドラマに代替することによって、擬似的リアリティショーを作っている番組と言ってもいいだろう。
ここでの番組MCは〝代表的視聴者〟の役割を果たす。恋愛リアリティショーの番組MCのコメントは、視聴者のSNSでの反応の方向性を誘導する〝正しい感想〟の役割を担ってしまうため難しい部分もあるが、恋リアが実在の人物であるのに対し、「あざと連ドラ」はリアリティがあるとはいえ、あくまでドラマなので、登場人物へのコメントへの鋭さのリミッターも解除され気味だった。『テラスハウス』事件後の自粛ムードのタイミングで、鋭いコメントを聞ける場としても、この擬似的リアリティショーは必要とされていたのかもしれない。
その『あざとくて何が悪いの?』のプロデューサーがAmazonに移籍して作ったのが『セフレと恋人の境界線』で、これも基本的な作りは同じだ。「あざと連ドラ」の代わりに、セフレと恋人の間で揺れていたり、どちらとも定義できない曖昧な男女の関係を描いたりする、実話をもとにした短編映画が流れる。その内容にスタジオMCがツッコミを入れたり、タイトル通りの境界線について話したりする。
そして、その番組内の短編映画の全話の脚本と一部の監督を担当しているのが今泉力哉だ。
描かれるのは、男女の、一言では定義しづらい関係性で、だからこそ、スタジオからもSNSからも言葉が溢れ出る。SNSを盛り上げるのは、〝映画的〟に言えば〝余白〟であり、〝バラエティ番組的〟に言えば〝ツッコミシロ〟である。この両方を持った今泉の作品はやはり〝リアリティショー的〟なのだろう。
ちなみに今泉はスタジオに登場して短編映画の内容を解説する役割まで担う。だが、「登場する男女はラストシーンの後どうなるのか?」といった具体的なことを聞かれても、そこは「俺も結論はないんでわかんない」と言葉にはせず、曖昧にするところまで、その作風のようだ。
ちなみに、2017年に筆者が編集長を務めるWEBメディアで連載を依頼したときは、今泉本人から出てきた企画の内容が「これまで自分が告白してきた女性との関係性を文章で描く」というものだったので、もともと男女のリアリティを起点に描くことを得意とする作家なのだろう。1年かけてそれを綴ったあとに始まった連載は『今泉力哉の代表作を作りたい』だった。多作だが、代表作がないというご本人の認識を企画にして始まったものだったが、すぐに『愛がなんだ』がヒットして代表作になってしまったため、3回で終わってしまった。
『冬のなんかさ~』を初めて見たときは、2000年代から2010年代には単館系の映画として観ていた今泉の作風が、そのまま2026年には地上波のドラマで流れるほどに求められていることに個人的には驚愕した。
だが、今泉の作品を恋リア的だと捉えれば、それは至極当たり前のことなのかもしれない。『知らない、ふたり』はお世辞にもヒットと言える映画ではなかったが、YouTubeにアップされた予告編には、2018年~2019年にかけて「これ今やったら流行りそう」といったコメントが多くついていた。お互いの本当の思いを恋する2人は知らないが、神の視点を持っている観客は知っているというこの映画は、構造としても恋リア的で、とても頷けるコメントだ。
この頃は、恋リア元年・2017年の1~2年後にあたる。『バチェラー』も盛り上がり、『テラスハウス』は休止前で、『あいのり』も配信で復活し、恋リア的なものを楽しむ感覚が浸透してきていたということだろう。『愛がなんだ』が作られ、公開されたのは、まさにこの頃だ。
今泉はずっと変わらず〝リアリティショー的〟な作品の作り手であり、逆に言えば、今泉のブレイクがリアリティショー的なものを楽しむ時代が到来したことの象徴なのではないだろうか。2015年に作られた、ヒットしなかった作品の予告編での「新時代の恋愛映画監督」というコピーはまさにその通りで、この数年後にやってきた、新しい恋リアの時代にピッタリとハマったのである。
タワマン文学は〝リアリティショーの小説化〟である
映像作品を例に、フィクション作品がリアリティショーに近づいていっているという話をしてきた。その例の最後として、映像作品ではないが、リアリティショーと構造や見られ方が似通っていて親和性の高い、タワマン文学の話をしたい。
2021年頃から、麻布競馬場と窓際三等兵といった匿名Twitterアカウントの投稿が、多く拡散、いわゆるバズっている時期があった。彼らの投稿は、タワマンでの生活や学歴などに関するものが中心だ。窓際三等兵が「『タワマンを叩けばビューが取れる』と言われるように、タワマンを叩く投稿や中学受験関係の投稿って、Twitterではすごく反応がいいんです」(CREAWEB「タワマンを叩けばビューが取れた」 窓際三等兵が「タワマン文学」 に感じる“焦燥感” )と語るようにネット上で多く拡散された。
彼らはその後、投稿をまとめたり、あらたに書き下ろす形で小説を発表した。例えば麻布競馬場の『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社・2022)は「六本木の森ビルから出てきた東大卒ゴールドマンサックス勤務の彼」「桜蔭出身のお嬢様」など、場所や会社名・学歴の固有名がかなり細かく書かれ、それらが生み出す階層の差に着目した話が多い。
「タワマン文学」「Twitter文学」と呼ばれるこれらの投稿・作品は、六本木や湾岸エリアなどのタワマンに住む人々に対して、憧れというよりも、嘲笑の視点で綴られている。
窓際三等兵は支持される根底にあるのは「リアルな焦燥感」だと自己分析している。
「タワマン文学の原動力は、リアルな焦燥感だと思います。たとえばこれが港区の低層マンションや、渋谷区松濤の100坪の戸建ての話だったら絶対にバズりません。なぜなら、書くほうにも読むほうにも、まったくリアリティがないからです。『ちょっと頑張れば手が届くかもしれない』湾岸のタワマンだからこそ、バズるんだと思います」(CREAWEB「タワマンを叩けばビューが取れた」 窓際三等兵が「タワマン文学」 に感じる“焦燥感” )
湾岸のタワマンにリアリティを感じる層と、東京の私立の中高一貫校の名前にまでリアリティを感じられる層は重なる。そこが想定読者ということだろう。
「東京の大学に通う大学生」というような大きな括りではなく、大学名・学部や、出身地、出身高校まで、これでもかといった具合で固有名が明かされる作品には、大いなるリアリティが宿る。地名や持っているバックのブランド名まで含めて、タワマン文学の中で出される固有名詞は、すべて登場人物の〝スペック〟を描写するためにあると言っても過言ではないほどだ。
そこで描写されるのは、大きく括って外から見れば同じでも、中で生きる本人たちは明確に感じる格差である。そこでは、生まれや中高の学歴といった後からは基本的に変更することのできないものと、就職先などその後変更可能なものとは分けて描写されている。逆の言い方をすれば、同じ就職先にいても、どこの中高だったかで描き分けがされているのだ。窓際三等兵の言葉を借りれば「ちょっと頑張れば手が届くかもしれない」ものと、大人になってから頑張ってもどうにもならないものは明確に描き分けられているのだ。同じ世界の中に生きていて平等に見えるが、実は全く平等ではない。
連載の第5回では、『バチェラー』に関して「〝家族見せ回〟は格差社会と差別をつきつける」と書いたが、その意味でタワマン文学の読後感はリアリティショーを見たときに通じるものがある。
また、近年『バチェラー』の代わりに『GIRL or LADY』『時計じかけのマリッジ』といったABEMAのリアリティショーが婚活要素を押し出して人気を博している。これらの番組では、最初に参加者男性の具体的な年収・職業といったスペックが明かされた上で、女性が彼らを選ぶという仕組みになっている。中にはスペックのせいで選ばれずに、会話もできないまま去ってしまう参加者もいる。これでもかというほどスペックが描写され、重要要素になってくるのだ。場所も新宿のホテルのペントハウスと呼ばれる最上階の高級ルームが貸し切られ、そこで共同生活が行われたりする。
〝月9が手放した派手な東京〟をABEMAの婚活系恋リア番組とタワマン文学は舞台にしている。そこには、SNS上で憧れや妬みや嘲笑といった様々な感情がぶつけられる。
構造としても似通っている。どちらも、登場人物のスペック・格差の背景を明示した上で、ひとつの世界の中で交流させる。彼らがそれをひっくり返そうとしたり、ひっくり返せなかったりする様を読者が楽しむ。受け取る側にあるのは、その姿への共感であったり、逆転が起きるときのカタルシスだったりする。その意味で、タワマン文学は〝リアリティショーの小説化〟であると言ってもいいのかもしれない。
タワマン文学をリアリティショーだと捉えると、窓際三等兵の言う「湾岸のタワマンにリアリティを感じる層」よりも、もう少し面白がれる読者層は広がってくるだろう。
リアリティショーには全く知らない世界を覗き見るという楽しみ方があるのは以前にも述べた。『ラブ上等』ではヤンキーではない視聴者もヤンキーの世界を覗き見たように、タワマン文学を通して、よく知らなかった〝東京の港区の格差社会〟を覗き見るという楽しみ方もある―そう考えたときに、タワマン文学がSNS上で広く拡散されたというのはとても腑に落ちる現象なのである。
物語を通して掴めるのは〝リアル〟ではない
前回から今回にかけて「リアルだった」という褒め言葉も飛び交うフィクション作品について見てきた。ひとつ注意しておくべきは、「リアルだった」という言葉が発動したときに、そこで称賛されているのは「リアリティ」である―ということだ。「リアルかどうか」は本質的にはジャッジできないのだ。
例えば2025年に公開され、実写邦画の興行成績・歴代1位となった映画『国宝』を見たときに、多くの人が「リアルだった」とか「歌舞伎界のリアルを描いていた」という感想を口にしていた。だが、そのほとんどは、歌舞伎界の人間ではないし、歌舞伎界に詳しい人間でもないだろう。あくまで、断片的にそれまで自分たちが見聞きしてきた歌舞伎界の情報と、整合性があったり、「ありそう」と思える範囲内の物語だったから、「リアルだった」という感想が出てくるのである。もちろん、『国宝』のリアルさは原作者の吉田修一が黒子の格好をまとって楽屋から舞台裏、ときには地方の芝居小屋まで4年をかけたという徹底した取材が基盤になっている。そこからフィクションである小説になり、さらにそれが映像化されるという行程を経ている。収集したリアルをもとに、ひとつのストーリーができあがったとき―。それがどんなに崇高なものであったとしても、それは〝リアルそのもの〟ではなく〝リアリティ〟なのである。
これは、実話をもとにした映画ではより注意しなければならない。近年で言えば、福島第一原発事故を描いた『Fukushima 50』やコロナ初期の豪華客船内の感染者に対峙する医療従事者たちを描いた『フロントライン』などを例にするとわかりやすいが、実際の出来事の概要を、多くの人はニュースなどを通して知っている。それぞれの記憶の中に、テレビのニュースやSNSで見かけた情報の断片が残っていると、全く知らない話に比べると物語も格段に見やすいものになる。記憶の断片がひとつの筋になり、物語として成立していると、「あのとき、中ではこんなことが起こっていたのか」というように発見をした気にもなれ、安心すらするような、気持ちのいい体験になる。誰が善人で誰が悪人かわかりやすく描き分けられていると尚更で「あの事件で悪かったのはこいつだったのか」と誰かひとりのせいにして納得したり、それがかつての報道と相違があったりすると「当時の報道ではこんなことが隠されていたのか」と感じたりする。
もちろん、それがこういった物語の重要な役割のひとつではあるのだが、その物語もまた、誰かを主人公に据えた視座から見える世界の筋であり、ある意味では単面的であることにも注意しなければならない。物語を通して手に入れられるもの。あくまでそれは〝リアリティ〟である。〝リアル〟を掴んだ気になってしまってはいけないのだ。
(次回へつづく)

いま世界中でさまざまなヒットコンテンツが生まれている「リアリティーショー」。恋愛、オーディション、金融、職業体験など、そのジャンルは多岐にわたり、出演者や視聴者層の年齢も20代のみならず50代・60代以上にも開かれつつある。なぜいまリアリティショーが人々に求められているのか。芸能コンテンツの批評やウェブメディアの運営を行ってきた著者が代表的な番組を取り上げながら、21世紀のメディアの変遷を読み解く。
プロフィール

しもだ あきひろ
エンタメライター、編集者。1985年生まれ、東京都出身。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニオタ男子」。大学在学中に執筆活動をはじめ、3冊の就活・キャリア関連の著書を出版した後、タレントの仕事哲学とジャニー喜多川の人材育成術をまとめた4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書・2019)を発売。3万部突破のロングセラーとなり、今も版を重ねている。カルチャーWEBマガジン「チェリー」の編集長を務めるなど、エンターテインメント全般に造詣が深く、テレビ・ラジオをはじめ多くのメディアに出演・寄稿している。また、音声配信サービス・Voicyでの自身の番組『シモダフルデイズ』は累計再生回数250万回・再生時間 20 万時間を突破し、人気パーソナリティとしても活躍中。近刊に『夢物語は終わらない ~影と光の”ジャニーズ”論~』(文藝春秋)。
霜田明寛




亀石倫子×ダースレイダー
平尾剛


森野咲