資本主義と芸術の戦い『バチェロレッテ』シーズン1
『バチェロレッテ』は、〝男女逆転版バチェラー〟だ。日本版の『バチェロレッテ・ジャパン』は『バチェラー・ジャパン』が3シーズン作られた後の2020年に配信を開始した。シーズン1配信開始時のキャッチコピーは「今度は、女が選ぶ番」。才色兼備の女性・バチロレッテが、複数の参加者男性から最終的にひとりを選ぶ。(ちなみにオーストラリアやドイツなど海外の『バチェロレッテ』だと、主人公がバイセクシャルで、参加者が男女混在する場合もある)
男女逆転することで、当然、男尊女卑的だという批判は無効になる。『バチェラー』という番組が意図せずとも醸し出してしまうそういった価値観に抵抗があった人にも見るハードルは下がったはずで、これをきっかけに、『バチェラー』『バチェロレッテ』シリーズ双方を見るようになったという人も多い。
視聴者層も広がり、この『バチェロレッテ・ジャパン』の開始(以下『バチェラー』『バチェロレッテ』と書く場合は日本版を指す)をきっかけに、『バチェラー』シリーズの内容面にも変化が見られるようになっていく。そしてそこには、出演者自身のパーソナリティが大きく作用している。
『バチェロレッテ』のシーズン1は、まだ「婚活サバイバル」という打ち出し方が残っていた『バチェラー』の男女逆転版として始まったため、打ち出し方も「逆玉か、玉砕か!?」など婚活を匂わせるものになっていた。逆・玉の輿、すなわち参加者がお金を求めて参加しているというイメージを打ち出すところまで『バチェラー』の価値観を踏襲している。
ただ、結果的に、『バチェロレッテ』のシーズン1は「婚活サバイバル」というこの番組シリーズが持った傾向に終止符を打つものとなる。傑作との呼び声が高い『バチェロレッテ』の最初のシーズンで何が起きたのか、内容とともに見ていこう。
初代バチェロレッテ女性に選ばれたのは当時32歳でミス・ユニバース・ジャパン入賞経験もある福田萌子。参加者男性は17名で、バックグラウンドは様々だ。起業家もいれば、料理家と名乗りながらも、その実態はカフェのアルバイト店員という男性もいた。
以下は決定的なネタバレなのだが、男性は黄皓(こうこう)と杉田陽平という2名が最終的に残る。黄は中国でも日本でも会社を経営する実業家、杉田は現代美術家で、実は2人とも金持ちだ。この時点で、番組側が最初に期待しただろう〝逆玉もあり得る婚活バトル〟という形ではなくなってしまった。では逆玉狙いではないとすれば、参加男性たちは何を求めたのだろうか。
この2人はともに金持ちではあるのだが、傾向としては大きく違う。黄は筋肉隆々のマッチョタイプで自己アピールも上手い。
一方の杉田は、自分のアピールも控えめで、最初のパーティーでも「かっこいい人達ばっかりなんで怖気づいじゃって……本当だったら割って入るのが一番男らしいのかもしれないですけど、僕はそこまで勇気がなくて……」と、最後までバチェロレッテ萌子に話しかけることができない。泣き出してしまうこともあり、正直、恋リアをゲームとしてみれば、最初から〝弱そう〟なキャラクターだ。オスとしての魅力は黄に軍配が上がるだろう。だが、杉田は萌子が「感受性が豊か」と褒める感性の人でもある。
そんな対称的な2人の価値観がぶつかり合うシーンがある。残り5人となり、萌子への想いを話し合う男性参加者たち。杉田は、萌子の幸せのためなら自分よりも黄が結婚したほうがよいのではと考えたということまで吐露し、自分が勝つことより萌子にとっての幸せを考えていることがうかがえる。
そんな杉田に対し黄は萌子を「譲ってよ」と焚きつける。杉田は「(萌子さんは)モノじゃないですから」と逡巡しながらも、いかに萌子が自分にとって素敵な人かを語りだす。このシーンからわかるのは、黄は好戦的で『バチェロレッテ』という〝ゲームに勝とうとする人〟で、杉田は萌子との〝愛を育もうとする人〟であるということだ。
黄は杉田に「何笑ってんだよ」などと攻撃を続ける。杉田が好戦的であれば一触即発のバトルになりうる場面だが、杉田は「真剣になると笑っちゃう」と言ってニヤニヤし続け、このシーンは終わる。
このシーンが重要なのは、まずはバトルが起きうる場面で、バトルが起きなかったという点である。もっというと、このシーンが画期的なのは「サバイバルゲームに勝つことを目的とするのか。相手の愛を得ることを目的とするのか」という問いかけが表面化した瞬間でもあるということだ。この問いは、『バチェロレッテ』のような形式の恋愛リアリティショー参加者が内面で葛藤していることである。
ゲーム性が強くなることによって、ともすれば、バチェロレッテが、勝ち残った男性に与えられる〝賞品〟になってしまう。男性が争った上で得られる〝賞品〟が女性であるような見え方をしたときに、せっかく男女逆転させて先進的になったはずの企画が途端に前時代的になってしまう。簡単な言い方をすれば、よりグロさが増すだろう。杉田の「モノじゃない」発言は、そう見えることを阻止し、『バチェロレッテ』をゲームではなく、愛の物語に進化させたのだ。
資本主義社会の中で勝ってきた実業家は、この『バチェロレッテ』をゲームと捉えて最後のひとりに残ろうとする。一方で、感性の世界で評価されてきた美術家は、勝負は苦手だが、自分の感性を開示し、あくまで純粋なアプローチをすることで女性の好感を得ていく。杉田はお金を持ってはいるが、お金のことを自分の表現を拡張するためのツールだとして「表現の羽」と定義する。お金の捉え方が、何かをするための手段なのか、目的なのか――。これは恋リアの中で起こった、資本主義と芸術の戦いなのである。
ちなみに筆者は黄と大学・学部・卒業年度まで同じなので、受験戦争に就職活動にと同時代を生きてきた男性の感覚として、人生そのものがサバイバルゲームのような感覚になってしまうのはよくわかる。とりわけ、あの状況に放り込まれれば、中学生のときに話題となった映画『バトル・ロワイアル』のような感覚になるだろう。
だが、黄が見逃しているのは、他者との競争に勝ち抜いて自分ひとりが残ったとしても、こと恋愛においては最後に成就するかどうかは、自分だけではどうにもできないという事実である。恋愛はゲームではないし、百歩譲って『バチェロレッテ』自体をゲームと捉えたとしても、萌子の心を掴まないとこのゲームの勝者にはなれないのである。
そもそも、婚活とは、より高いスペックの異性を獲得するために自身の価値を高めるために行動するという方向性の感覚で使われている言葉でもある。だが、自分の価値を高めることは他者との競争によってではなく、自分の感性の道を追求し続けることによってもできる――杉田と黄が2人残るという状況はそんな示唆を与えてくれる。
『バチェロレッテ』は婚活サバイバルゲームなのか、それとも愛の話なのか――。前年の『バチェラー3』では「バチェラー史上最強のモンスター揃いによる、ドロドロ婚活サバイバル」と女性をモンスター扱いして宣伝していたのから一転、『バチェロレッテ』以降、番組側は「真実の愛」というフレーズを多用するようになる。このシーズンの盛り上がりを分水嶺に「真実の愛を探す旅」といった意味付けがされ、徐々に愛の話の方向性にシフトしていくのである。萌子や杉田といった魅力的な出演者の存在はシリーズ全体の方向性すらも変えていったのだ。
選ばれるのではなく「許可する」
『バチェロレッテ』が婚活バトルから脱却したことはその後の『バチェラー』シリーズにも影響を及ぼしていく。このシリーズの〝見にくさ〟のひとつになっていた、男性が選ぶ側で女性が選ばれる側――という構図は『バチェロレッテ』の開始により解消した。しかし、性別は関係なく、選ぶ側と選ばれる側が存在するというのはこの番組の持った変えられない構造である。どうしても選ぶ側と選ばれる側という権力勾配が生まれてしまう。
しかし、そんな番組の構造が生み出す権力勾配も、魅力的な出演者の言動ひとつでひっくり返すことができる。
2023年に配信された『バチェラー』シーズン5参加者の大内悠里は「女の子メンバーの中で一番(筆者注:可能性が)ナイと思われている」と自認している女性だ。大内は、バチェラー男性・長谷川との2人でのデートの際に「好きになってもいいですか?」と確認。つまり、もともとバチェラーだからといって好きになるわけじゃないというスタンスを持った女性なのである。その後、「みんなにめっちゃほっぺにチューしてるくせにウチにはしてくれないじゃん。みんなにしてるよ、知ってるもん」と水を向ける。長谷川が「させて頂いてもよろしいですか?」と聞くと、なんと大内は「許可する」と返す。さらに、キスのあとは「許可してあげたんたぞ」と笑うという名シーンである。
この瞬間、強い男性が下品に女性を選ぶバチェラーは終わりを告げたといっていいだろう。当然のことながら、バチェラー男性が容姿端麗で金持ちだからと言って、参加者女性がいきなり好きになれるわけではない。そもそもの番組構造が抱える人間の感情との矛盾を露わにした上で、〝選ばれる〟とされていた女性の側にも〝選ぶ〟権利があることを明示したのである。
最終的に長谷川と大内が結ばれることになる『バチェラー5』はこの名シーンあってか、番組のキャッチコピーも「主導権を握るのは、彼か?彼女たちか?」と銘打たれており、男性が主導する雰囲気は皆無に。女性参加者同士がプールで泣きながら抱き合い連帯するシーンなども話題となり、もともと『バチェラー』が抱えていた男尊女卑の香りを一掃した、転換点と言っていいシーズンとなった。
一方で、婚活サバイバルバトルの雰囲気が薄まり「いきなり好きになるわけじゃない」「〝選ばれる〟側も当然ながら〝選ぶ〟権利がある」価値観が前提となると、ゲームとしては盛り上がらないという結果を生むこともある。
2024年に配信された『バチェロレッテ』シーズン3は、参加者男性がバチェロレッテを好きにならずに、男性の辞退者が続出。参加男性がバチェロレッテと2人でいい雰囲気になりうるデート中に、他の参加男性の優しさについてプレゼンするといった、いわば敵に塩を送る展開も見られた。参加者同士の連帯は美しいものの、肝心の恋愛が盛り上がらない珍シーズンに。〝婚活バトル〟ではなくなることで、恋愛が発生しないと、それはもはやただの男女の旅であり、何を見せられているのかわからない事態となった。
こうして、その時代を生きる参加者のリアルな感覚・言動に牽引されるかのように、番組自体も徐々に変化していったのである。
〝家族見せ回〟は格差社会と差別をつきつける
ここまで『バチェラー/バチェロレッテ』の変遷について述べてきた。この番組に関しては、最後に、この番組が持つ他の恋リアと異なる特殊な側面であり、社会が見える窓にもなっている設定をお伝えしたい。それが〝家族見せ回〟である。
参加者は、番組の終盤、3人まで残った時点で、自分の家族をバチェラー/バチェロレッテに会わせる。両親のみならず、妹などが同席する場合もある。恋愛リアリティショーでありながら、当初から婚活と銘打ち、結婚の匂いをさせているこのシリーズは、家族見せ回の必然性があるのだ。
当然、家族見せ回のあとにも選抜は行われる。家族と会ったところで結果に影響はないのでは、と思う向きもあるだろう。だが、そんなことはない。むしろ、視聴者は家族に会うことで、それまでの熱情的な恋が冷める瞬間を目撃することになる。
〝家族見せ回〟の具体的な例をあげよう。
『バチェロレッテ(シーズン1)』では、バチェロレッテ萌子が、イタリア系日本人の父とブラジル人の母を持つ男性・當間ローズの家を訪問。母はローズと会った瞬間に涙を流しながら熱く抱擁するなどとても温かい家庭だが、両親の使用する言語はポルトガル語で、萌子はその文化の違いに明らかに戸惑っている。ローズに過失はなく、ローズはその後に出演したバラエティ番組でも、彼女ができたら「付き合ったその日に紹介したい」と言って議論を巻き起こすなど(フジテレビ「酒のツマミになる話」2025年9月5日放送)、あくまで文化の違いなのだが、萌子は家族と会った後、これまでの情熱的な関係性が嘘だったかのように、ローズを選ばないという選択をする。
もちろん、その理由を明文化はしないのだが、ローズの母が家族の絆を熱弁した上で、萌子に「私たちを引き離すことはしないでほしいです」と不安を語る場面を入れるなど、明らかに家族が一因であることを匂わせる演出を番組側もしている。
『バチェラー(シーズン5)』「許可する」の大内悠里は金髪の女性で話し方も独特である。そんな大内にバチェラー男性長谷川が家族を会わせた回のことである。長谷川も「不安そうな顔をしてましたね」と自らの家族を形容するように、最初、長谷川の家族はたしかに一瞬、大内をバカにしたような、戸惑うような表情を見せる。しかし、大内が経営者だとわかった瞬間に、長谷川の母は目を見開き、父は「自立してるね」と言葉にするなど態度を一変。受け入れモードに舵を切る。髪の色のような表層的なものに踊らされてしまうような自らの中に確固とした判断基準を持たない人間は、社会的地位のようなわかりやすい指標で態度を急変させるのだ。
こういった現実でも起こり得る生々しいシーンが〝家族見せ回〟では多く散見される。その生々しさが最高潮に達したのが、『バチェラー(シーズン6)』である。このシーズンのバチェラー・久次米は、共立美容外科の御曹司という、シーズンの中でも屈指のお金持ちバチェラーであり、さらに自らの起業により直近で金を得たタイプと違い、親にもお金があり、生まれた時点からのお金持ちである。
このシーズンの〝家族見せ回〟はラスト2人の時点で行われた。つまり、最終判断の直前だ。
この時点で残っていたのは石森美月季と小田美夢という女性2人だ。
石森は、実は、この番組の参加前に既に、久次米自身の家で行われたパーティーで久次米と知り合っている。つまり、番組のお膳立てがなくとも、リアルの世界でも出会える環境に生きてきたのである。石森は初登場の自己紹介シーンで、なぜか蕎麦を持って登場。これは自分が大手製粉会社の家系であることの〝匂わせ〟だとされている。つまり、最初のアピールが〝生まれ〟だったのである。出てきた石森の両親も、これぞ育ちのいいお金持ちという重みがあった。
一方の、小田のアピールのひとつは、大変な環境で生き抜いてきたということだった。小田はそれまで、家族が不仲だったことなどを久次米に告げてきた。その不遇な環境で生き抜いてきた小田にバチェラー久次米は心を寄せ、2人の距離は縮まっていった。そこまではよかったのだが、〝家族見せ回〟ではそれが裏目に出て、小田の両親が仲の良い家族を装っても、どこかぎこちなく見える。石森家と小田家、2つの家族が久次米と対面する場所は一緒で、だからこそ、より両家族の差が際立ってしまう。格差社会と言葉にして何度も聞かされるよりも、映像を通して一瞬でそれが伝わってきてしまうのだ。
その後、久次米は小田を選ばず、石森を選ぶ決断をする。
久次米は小田の家族に「ご両親が最後の決め手とかそういうことではなく」と告げる。表面上はそう告げているのだが、どうしてもそれが、家族で決めているからこその相手を傷つけないための配慮に見えてしまう。もちろん、これは誰が悪いわけでもない。久次米も小田も小田の家族も、誰もここでミスを犯していない。会話も順調に進んでいた。だが、だからこそ、何が久次米の決断を後押ししたのかが浮き彫りになってしまう仕組みになっている。人が変えられないものは何なのかが明示されてしまうシーンだったのだ。
「恋愛は格差を越えられるのか?」は『花より男子』や『プリティ・ウーマン』に果ては『曽根崎心中』まで、古今東西、繰り返し語られてきた永遠のテーマである。越えられるというハッピーエンドを描く物語もあれば、越えられない無常を描く物語もある。
だが、この『バチェラー/バチェロレッテ』というリアリティショーは、その壁を越えることは難しいという現実を突きつける。
番組は、結婚を押し出す上に、育ちの差に関わらず、いきなりお金持ちと出会えるファンタジー設定だからこそ、最後にその差を乗り越えられなかったときに、その残酷さが際立つ。そこに至るまでの恋愛シーンが自由で、盛り上がれば盛り上がるほど、恋愛と結婚の間に存在する段差、そのコントラストが際立ってしまう。そもそも出会うことのなかった2人が番組によって出会ってしまうからこそ、悲劇が起こるのである。
文化や育ちの差によって、結婚相手を判断する。それは、静かだが確実に存在する差別である。批判しているのではない。必要悪と言ってもいいかもしれない。
そもそも、声高に差別をするのは一部のレイシストのみで、多くの大衆は、差別の心を相手に言葉にして直接ぶつけるのではなく、あくまでひっそりと、心の中で差別をする。
当然、これらのシーンで出演者たちは自分の心の中を明文化することはしない。だが、番組は、出演者の一瞬の表情などから、その心の中をあぶり出し、匂わせるような演出をする。あからさまに言葉にできないものであるからこそ、余計に、それは存在しつつもひっくり返すことのできない格差であり差別であるということが伝わってくる。
王子様にいきなり出会えるシンデレラのようなファンタジーを始めておいて、最後の最後に、魔法を解いてリアルに戻す――それがこのリアリティショーの本質であり、残酷な面白さなのである。
〝10代の純情〟と〝大人の下品〟を一手に担うABEMAのリアリティーショー
2017年に始まった『バチェラー』シリーズは、2020年の『バチェロレッテ』開始を起点として、婚活サバイバルゲームの色を薄くし、下品さも消えていった。
では、それは人々の心から下品さが消えたということなのだろうか。コンテンツに下品さを求めるニーズがなくなったということなのだろうか。そうではない。
この間に『バチェラー』が失った下品さの受け皿となったのが、ABEMAの恋リアである。「下品さ」というのはいささか失礼かもしれない。〝人間の欲望をリアルに描いた恋リア〟と形容するのがより正しいだろう。
以前書いたように、もともとABEMAは『バチェラー』が始まったのと同じ2017年に『今日、好きになりました。』『オオカミには騙されない』シリーズなど10代向けの恋リアを開始。2017年には既に若者のテレビ離れが叫ばれていたが、そんな時代の若者たちもスマホで見られるこの番組には熱狂。『今日好き』シリーズは 2025年には70近いバージョンが作られ、女子中高生の2人に1人以上が視聴したとされる人気シリーズとなっている。(ABEMA調べ)
だが、その10代向け路線とは別に、ABEMAは2020年代になって『シャッフルアイランド』(2021~)『LOVE CATCHER Japan』(2023~)『GIRL or LADY』(2023~)『ラブパワーキングダム ~恋愛強者選挙~』(2025~)といった恋リアを次々と開始する。
『シャッフルアイランド』は、南国の2つの島に集められた男女が2つの島を行き来しながら恋愛をする。男性は筋肉隆々、女性も水着姿が映える出演者しか選ばれておらず、番組出演中は基本水着だ。男女の生々しい接触が描かれ、出演者も「欲と欲のぶつかり合い。オスとメスって感じ」と語るような内容だ。(『ABEMA夏の恋リア祭2025』)
『GIRL or LADY』はハイスペックな男性たちを、20代の女性(GIRL)と、30代の女性(LADY)がチームに別れて取り合う内容だ。番組も公式に「婚活バトル」「婚活リアリティー」と謳い、各回のタイトルにも「ボディタッチ多発!20代女子の逆襲」「30代レディの濃厚ハグ!」といった言葉を並べて見どころにしており、初期の『バチェラー』を彷彿とさせる。
『バチェラー』がおとなしくなっていく一方で、こういった刺激を求めるニーズはABEMAの恋リアが一手に引き受け始めたのである。そもそもABEMAというインターネットテレビ局の開局当初からの色でもあるのだが、近年の地上波テレビでは見られないような刺激的な映像を流しており、それが若者を含む視聴者を惹きつける要因のひとつになっているのだ。
またABEMAの恋リアはゲーム性が強いのも特徴だ。『LOVE CATCHER Japan』には恋愛目当てではなく金目当ての出演者が紛れ込んでいて、大人版『オオカミには騙されない』シリーズと言っていい仕組みだ。『GIRL or LADY』には、自分以外の人間がデートしている様子をモニタリングできる仕組みもあり、さながら『カイジ』のようなデスゲームを想起させる。
これらABEMAの大人向けの恋リアに共通するのは、下品さとゲーム性だ。『テラスハウス』のように環境を用意するだけ、ではなく、様々な演出や設定が入ることによって、ゲーム性が増していく。もちろん出演者の恋愛模様を見ながらも、デスゲームものを見ているかのような楽しみ方もできる。
すると、女性が男性にベッドの上で馬乗りになってキスするシーンも、ワザを繰り出しているように見えてしまうのである。実際『LOVE CATCHER Japan』の出演者も「キスで性欲を掻き立てる」と語っており(『ABEMA夏の恋リア祭2025』)、これらの番組では恋愛玄人の熟練したワザを見ることができる。
恋リア第1世代はどのように生まれたのか
一方の、『今日、好きになりました。』『オオカミには騙されない』シリーズのような、ABEMAの10代向け恋リアに目を向けてみたい。一気に10代に受け入れられたこの2番組だが、まずは、なぜ彼らには恋リアという新しいカルチャーを受け入れる土壌があったのか? という話をしていきたい。
ここで、2017年の〝恋リア元年〟に中高生だった2000年代前半生まれの視聴者を〝恋リア第1世代〟と呼ぶことにしよう。〝恋リア第1世代〟は恋リアをどう受容してきたのかを見ていこう。
2010年代半ばは、若者向けの恋愛ドラマの冬の時代だった。そもそも、テレビ局が視聴率を優先した結果、絶対数の少ない10代より、人口のボリュームゾーンに向けて番組を作るようになっており、ドラマは安定して数字の取れる『相棒』のような刑事もの、『ドクターX』のような医療ものを始めとしたお仕事ドラマで溢れた。その結果、10代が同世代の登場人物に共感して見られるようなドラマがどんどん少なくなっていった。90年代にはテレビ朝日にですら月曜ドラマ・インという若者向けのドラマ枠があったし、2000年代は『花より男子』や『花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜』といった若者から人気に火がつくドラマがゴールデンプライム帯に多く存在したが、そういった類のドラマはどんどんと存在感を薄めていったのだ。
象徴的なのはフジテレビの月9ドラマだ。80年代後半からのトレンディドラマの時代、90年代の『ロング・バケーション』『ラブジェネレーション』というように、若者に向けた恋愛ドラマを作り続けてきた印象が強い。しかし、2010年代に入るとお仕事ものが増え、あの木村拓哉でさえ総理役をやらされていた始末。2010年代後半には『コンフィデンスマンJP』『絶対零度〜未然犯罪潜入捜査〜』といったすっかり毛色の違うドラマが放送される枠になっていた。
2015年に『恋仲』という若者に向けた恋愛ドラマが放送されたときには、月9が王道に戻ってきた感じが逆に話題になったくらいである。プロデューサーは「比較的年齢層が高い視聴者に向けたドラマが多い」当時の現状を踏まえた上で、若者をターゲットにしたドラマを作らないと「テレビドラマが終わってしまう」という危機感でこの作品を作ったと語っていた。(NEWSポストセブン2015年7月27日配信 月9プロデューサー「若者を標的にしないとドラマが終わる」)
これほどまでに、地上波テレビの中に、10代向けの恋愛ドラマがなくなっていた2010年代の半ば。この頃、10代の恋愛モノが見たいニーズに応えたのが、映画と恋リアなのである。
2010年代半ばは『ストロボ・エッジ』や『アオハライド』など少女漫画を原作にした大規模公開の映画をはじめ、『オオカミ少女と黒王子』『黒崎くんの言いなりになんてならない』『PとJK』など、山崎賢人や坂口健太郎に中川大志、ジャニーズ俳優をキャストに据えた中規模公開の、そもそも大人をターゲットにしていないような映画が多く作られた。これらは10代をターゲットにし、基本的には登場人物も10代の青春映画である。もちろん昔から青春映画自体は存在するが、この頃、量産される流れができ始めたのだ。現在も春休み前後の時期にはこういった映画を多く散見することができる。
とはいえ、映画は中高生が鑑賞するには、多少のハードルを要するものである。そこで、これらの映画と双璧をなすように、同年代の恋愛モノを見たいニーズに答えたのが、スマホで手軽かつ無料で見られるABEMAの10代向け恋リアだ。『今日、好きになりました。』のように10代の美男美女が、「恋の修学旅行」と称して、韓国やグアムといった、非日常だが近い将来行けなくもなさそうな場所で等身大の恋愛をする姿は、多くの共感と憧れを持って見られる〝恋愛ドラマ〟だったのだ。
1985年生まれの筆者が中高生だった90年代後半から2000年代前半は、月曜の夜はフジテレビをつけっぱなしにし、月9の恋愛ドラマを見て、22時から『SMAP×SMAP』を見て、その後『あいのり』を見るという流れで、感覚としては22時以降はバラエティという枠組みで見ていた。少なくとも『あいのり』を(それはドキュメントバラエティという呼称にこだわる作り手が望んでいたことでもあるようだが)恋愛ドラマとしては見ていなかった。
一方、〝恋リア第1世代〟は、恋愛ドラマのように恋リアを消費している。ときに彼らは出演者に自分を重ね、共感と憧れを持って見てきたのだ。
かつての青春ドラマが担っていた、10代が支持する若手俳優を発掘する場としても機能しており、『オオカミ~』は少なくともひとりの若手俳優の〝恋の演技〟を見られる場でもある。
また、ABEMAの10代向けの恋リアは大人向けに比べれば、一見純情かに思えるが、そうとも言い切れない。『オオカミ~』と『LOVE CATCHER Japan』は〝恋する演技〟をする人間が紛れ込んでいるという点で設定が近く、比較しやすいが、10代でも大人顔負けの〝策士〟も存在する。
そう、番組を見ればみるほど、10代は全員純情とは断言できなくなる。人の本質とは10代後半の頃には既に決まっているのでは――とも考えさせられる番組群なのだ。
ちなみに、2017年の〝恋リア元年〟に中高生だった彼らが20代になった2025年現在、熱狂した恋リアが『オフラインラブ』(Netflix)である。
10日間を異国の地で過ごす男女が、スマホを持たずに出会い、恋をするというこの設定は、「恋の修学旅行」の20代の豪華版と言ってもいい。ニースのおしゃれな街並みでスマホにとらわれない生活をおくるのは、一種の憧れでもある。
恋リアというのは基本、出会いだけは設定されている。番組が出会わせてくれるので、そこ自体にドラマは生まれづらい。だが『オフラインラブ』はこれまでの恋リアが演出し得なかった偶然の出会いを演出し、さらに携帯電話がない時代のすれ違いや相手を待つ時間の心情を描くことにも成功している。それは、スタジオにいる小泉今日子にはトレンディドラマのような懐かしいものとして映り、2000年代生まれには逆に新しく、憧れとして映るのだ。
加齢と成熟とはイコールではない『あいの里』
人は年齢によって変化するのか――。ABEMAの10代向け恋リアが投げかけてくれた、その答えを探るためには、10代からぐっと年齢を上げて、この恋リアを見てみよう。
『あいの里』(Netflix・2023~)は、35歳から60歳の男女が古民家で自給自足の生活をおくる番組で、『あいのり』と同じ制作陣が作っている。あだ名で呼ぶ手法なども共通しており、『テラスハウス』よりこっちの方がよほどシェアハウス版『あいのり』だ。特色を生み出すのは、やはり出演者の年齢だ。
出演者は35歳以上ということで、どんな落ち着いた空気感で〝大人の恋愛〟が見られるのかと思いきや、シーズン1は開始早々、50代男性と60代男性の喧嘩で幕を開ける。
その後も、下手な恋愛アドバイスや、恋の勘違いなど、これは10代や20代の出演者が主だった『あいのり』と比較しても、外見が老けているだけで何も変わらないのでは――という不安がよぎる。スタジオにいるMCの田村淳も「変わらないね。45歳になっても18歳と同じようなことやってる」と発言。年齢を重ねることと成熟とは決してイコールではないのだと感じさせる内容だ。
だが中盤、ゆうこりんという女性の登場以降、番組全体に、出演者たちが年齢を重ねていることの意味が出てくるようになる。
36歳(参加時)のゆうこりんが、子どもが欲しいか、できなかったらどうするかを3男性陣ひとりひとりに聞くシーンがある。ゆうこりんは、自分くらいの年齢の女性とつきあうとすれば、子どもを産めるかどうかのリスクはもちろん、子どもに障害が現れる可能性まであるとした上で、彼らの回答を「深い考え方が見えない」と一蹴する。出産を考える30代中盤以降の女性と、同年代以上の男性たちの、つきあうことへの覚悟の差が露わになる。
ゆうこりんは、当初、酒ちゃんという男性と距離を近づける。ともに、障子の張替えをする際に、子どものように乱雑に障子を破ってテンションを上げる人たちに乗れなかった2人である。2人はずっと家を守ってくれて張りついていた障子の気持ちまで慮り、〝障子の気持ちトーク〟で盛り上がる。
「子どものよう」と形容してしまうと、いろいろな意味を内包してしまうが、〝子どものような〟粗雑さが消えずにそれが露わになってしまい距離を置かれるケースもあれば、〝子どものような〟純粋さを保ったまま大人になったことで惹かれ合うケースもあるのである。
その後ゆうこりんは、たぁ坊という男性と2人になった際に勇気を持って、改めて35歳以上の女性とつきあうことの覚悟を問う。たぁ坊はそれを「気になって当たり前の質問と思う」と優しく包み込み、そのやりとりを経てゆうこりんは、たぁ坊を好きになったと宣言する。
そして出演者たちは呼応するように、各々の過去を開示していく。お金を全部だまし取られた者、2回不倫された上で現在は子持ち独身の者、妻に40代で先立たれ2人の子どもを育てている男――彼らの背景は、とても若者には持ち得ないだろうものである。
人生を重ねてきた彼らは、各々の背景を持っている。彼らの背景は、彼ら自身に重みを出す。それは人としての重みでもあるし、子どもを育てていることなどで、身軽には動けないという重みでもある。当然、それは今後の人生まで踏まえた恋愛をする上で、影響を及ぼすことになってくる。60代の女性を好きになるも、自分は自分の子どもが欲しくないのかと自問自答し、告白を諦めた40代の男性もいた。
年令を重ねるということは、人生の選択を重ねるということでもある。その選択を積み重ねた上に、どんな人生が形作られるのか――。
出演者はひとくちに大人と括られる年齢の人々だが、30代で成熟している人もいれば、50代になっても成熟とは程遠い人もいる。〝子どものような〟が悪く表出する人もいれば、魅力になる人もいる。ひとりの人間の中でも、変わらないことが魅力になる部分もあれば、変わったほうが魅力になる部分もある。
やはり、加齢と成熟とはイコールではない。彼らの人生の背景、そして各々の人生での葛藤の深さや物事の捉え方が、人間としての成熟を生み出すことを痛感させられる内容だ。
リアリティが増すフォーマット 『ラブ・イズ・ブラインド』
『ラブ・イズ・ブラインド』はその名の通り、最初は相手のことが〝見えない〟恋リアだ。外見が〝見えない〟ことで、人の内面が逆に〝見える〟つくりになっており、それが他の恋リアとは違う面白さを作り出している。
「愛は盲目かの実験です」
これはブラジル版で司会者が最初に言う言葉だが、米国版を皮切りに、現在9つの国と地域で作られているこの番組は『ラブ・イズ・ブラインド JAPAN』として2022年に日本版が作られた。
男女が別れて、ひとりづつポッドと呼ばれる会話をするためだけの部屋に10日間入る。そこは壁で仕切られており、向こう側のポッドにいる異性の相手と会話をすることはできるが姿を見ることはできない。出演者たちはそのポッドの中で異性との会話を繰り返し、顔を見ない状態で“プロポーズ”をする。それが成立すると対面をし、そこから3週間の同棲生活を送り、最終的にカップルになるかを決めるという仕組みだ。
番組の最大の見せ場となるのが、今まで外見が見えなかった相手に“プロポーズ”を成立すると、実際に対面をする瞬間だ。そして、この見せ場を面白くするためには〝落差〟が必要となる。内面で好きになったはずの相手だが外見は好きではなかった――など、出演者の中に「思っていたのと違った」という感情を作り出すことが見せ場を生み出すのだ。そして、その〝落差〟が落胆のまま終わるのか、その後の生活で埋まっていき、さらなる愛を生み出すのか……が番組の〝実験〟の趣旨となる。
基本的には恋リアというのは容姿端麗な人々が出演することが多い。前述した『シャッフルアイランド』のように、男性出演者の体の形がみんな同じに見えるような恋リアまである。だが『ラブ・イズ・ブラインド』はこの番組の設定による最大の見せ場を面白くし、実験の趣旨を完遂するためなのだろう、そうではない人も多く含まれているのだ。端的に言えば美男美女だらけではない恋リアなのである。だが、これがよりリアリティーを増す効果を生み出している。王子様が美女を射止めるファンタジックな恋リアではなく、視聴者の日常の周りにもいそうな人々が恋を繰り広げる恋リアなのだ。好みは別れるだろうが、この番組フォーマットによって、必然的にリアリティーが増す仕組みになっているのである。
他にも〝見えない〟ことで起こる事象はいくつか存在する。まず、人気が一極集中しないのである。男女が複数人ずついる場合、相手の外見がわかると、人気が誰かに集中するということは、特に若い時期にはよく起こる話である。一方、この番組では、最初は相手の外見がわからないため、出演者は内面で自分とフィットする人を探すことになる。そうすると、誰かに人気が集中するということがないのである。これは実験が教えてくれた教訓のひとつである。
その内面がフィットする相手を探すために行われるのは会話である。他の恋リアのように、派手なデートや演出はなく、会話するのみ。これは、残酷なほどに出演者の対話力を可視化させる。視聴者も会話に着目するため、日常でもよくある、つまらない男の話を延々と聞かされるような体験をすることになる。これもひとつのリアリティと言ってもいいかもしれない。
そして、外見が〝見えない〟ことで、出演者の内に秘めた部分が〝見えて〟しまうことにもなる。出演者はポッドの中では、当然のことながら、会話の相手からは見えていないという意識で臨むことになる。カメラに映っている意識はあるだろうが、それでも、直接の会話の相手からは見えていないことで気が緩む。
そうすると、例えば、相手の会話を聞きながらソファーにふんぞり返って足を投げ出すような男も出てくる。背筋を伸ばして相手の話を聞く男と比べると人間性の差は一目瞭然である。カップル不成立がわかると、持っていたメモ帳を床に叩きつける男もいた。それは、ポッドの向こうにいる女性からは見えていないが、視聴者には見えている。出演者の見られている意識が薄まっている分、視聴者だけが持てる〝神の視点〟から見られるメリットがより増す番組でもある。
現実世界を生き始めたときに判明する人間としての“リアル”
この世界には様々な不可逆な事象がある。〝無名から有名になる〟もそのひとつで、ひとたび有名になってしまったら最後、無名に戻ることは二度とできない。
恋リアについて綴ってきた締めくくりとして、ここでは、恋リア出演を経て有名になった出演者の〝その後〟について考えてみたい。
「恋リア出演程度で有名になったと言えるのか?」と思う人もいるかもしれないが、出演したという事実だけでSNSのフォロワー数は跳ね上がるし、番組終了後も彼らの行動が少なくともネットニュースになる程度にはバリューを持つことになる。
カップルになった者同士の破局・結婚・離婚といった恋リア視聴者が関心を持ちやすい話題はもちろん、ときにそれ以外の言動についてもネットニュースになり、そしてそれに対してSNS上などで様々なことを言われるようになる。
番組終了と同時に、彼らへの関心がゼロになるわけではない。そして、自分で「ゼロにして欲しい!」と願ったところでそれはどうこうできるものではない。
そう、彼らは番組が終了してもその〝延長線上〟を生きることになる。そして、それは自身が望むと望まないとに関わらず用意される道筋なのである。
こう書くと、悲劇のようだが、基本的には望んで〝延長線上〟を生きる出演者が多い。誰に強制されたわけでもないのに、番組終了後も出演者同士で集まり、その様子をSNSにアップしたり、出演時のエピソードも語ったりする。そして、終了後の自らの生活を公開し続ける。これらはすべて自主的な行為である。
だが、番組出演中との最大の違いは、編集権が自分にあるということである。番組では、豪華な舞台が用意された上に、番組スタッフというプロによる編集が入る。それは出演者自らがすることはない。一方、番組終了後はもちろん舞台を用意してくれる人はいないし、SNSのアップは自分の権限で行うことになる。どんな部分をアップしようと自由。編集権が自分に移るのだ。晒されていた生活が、自ら晒す生活に変化すると言ってもいいだろう。
この差が生み出すのが、視聴者の「なんかイメージ違った」という感想である。プロの演出や舞台設定がなくなることで露わになるのは、その出演者自身の〝リアル〟である。リアリティショーの終了後には、出演者がショーの舞台から降りた後の〝リアル〟が判明するのだ。
もちろん、それがよくはたらくか、悪くはたらくかはその出演者次第だ。「イメージ違った」には番組出演中よりもよく見えるパターンもあれば悪く見えるパターンもある。
そしてこういったイメージの変化が起きるのは、視聴者から見た出演者に限った話ではない。出演者同士でも起こり得る事象なのである。
現実世界を生き始めたときに判明する〝リアル〟はショーの世界が華やかなほど、落差が大きい。そして当然それは、番組終了後の出演者同士の恋愛感情にも影響を及ぼすことになる。
現在計9シリーズが作られている『バチェラー/バチェロレッテ』シリーズだが、番組で成立したカップルが今も継続しているケースは実はゼロだ。(番組終了後にバチェラーが番組で選んだ以外の相手と交際し結婚したケースと、番組で成立したカップルで結婚するも離婚したケースは存在する。当然、その離婚自体はもちろん、不倫疑惑や裁判の行方までネットニュースになり続けている)
一方、『ラブ・イズ・ブラインド JAPAN』は、番組での成立カップル2組のうち2組ともが実際に結婚している。両番組を比べると、『バチェラー/バチェロレッテ』のほうが舞台は海外で豪華にショーアップされている。一方で、『ラブ・イズ・ブラインド』は、最初は顔が見えずにポッドの中で相手と会話するだけだし、その後も日本で共に日常(模擬結婚生活)をおくるという恋リアの中では割に地味な舞台で、顔が見えないということ以外の番組の仕掛けも少ない。
また、『バチェラー/バチェロレッテ』と同じAmazon配信作品でも『ラブ トランジット』は地味系だ。そもそも、この番組はもともとカップルだった者同士が2人1組となって出演しているので、いきなり別世界の王子様に出会えるかのようなファンタジー感は薄くなる。さらにヘリコプターデートなども用意される『バチェラー/バチェロレッテ』に比べて、デートも自らで車を運転することもある〝自作〟のものだ。完全に旅行に出かけるのではなく、共同生活をしながら仕事にも出かけるので、日常生活とも接続されている。こちらもシーズン2までの番組成立カップル6組のうち3組が結婚している。
これらは、もちろんショーではあるものの、出演者にとっても〝リアル〟との段差が低めの恋リアといえる。恋リアの中にも、ファンタジーなショー寄りの恋リアと、現実世界と地続きの恋リアがあるのだ。
断定するにはまだケースが少ないが、こういったショーアップされていない恋リアのほうが、終了後の恋愛がうまくいきやすいということは言えるかもしれない。
また、番組終了後には自分が知らなかった相手の行動を出来上がった番組を通して知ることができるというのは大きく作用するだろう。つまり、出演中には得られなかった〝神の視点〟が得られるのである。
『バチェラー』は、番組の構造上、ひとりの男の複数の相手との恋愛が同時並行的に進行するので、番組を視聴すれば、嫉妬の念や疑念が生まれがちである。平たく言うと、番組を通して「自分にアプローチしてる裏側で、別の相手にこんなことをしていたのか」という発見があるのだ。
一方、『ラブ・イズ・ブラインド JAPAN』は顔が見えない時点でカップルが成立するので、そういった場面がない。むしろ、顔が見えなかったからこそ当時は見えなかった相手の気遣いや想いなどが放送を通してより見えるようになる。
そのためか、出演者のアヤノが、もともと顔の見えないポッド内の時点で自分の陰の部分に気づいてくれていたモリと、番組内ではカップルにならなかったものの、撮影終了後に“再会”し、結婚する――というパターンも起きている。
華やかな非日常のショーであるほど、リアルに戻ってきたときの〝感情の段差〟は大きくなる。その段差が、恋愛感情においては落胆に変わってしまうケースもあるのかもしれない。
『バチェラー』のようなシンデレラストーリーは華やかだ。だが、日常とは一気に違う場所に連れて行ってくれる分、終わった後に転ばないように丁寧に階段を降りなければならないのである。
番組終了後も“リアリティーショーの延長”を生きる出演者たち
豪華なデートなど、刺激の強い演出の世界から帰ってくると、その差によって恋愛感情にも影響があるのでは……という話をした。言い方を変えれば、リアリティショーの中身が、出演者自身の〝リアル〟と差があればあるほど、彼らが日常に戻ってきたときの、その揺り戻しによるダメージは多くなるのでないだろうか。わかりやすいのは、今述べたような恋愛感情の変化だが、それ以外にも1回刺激を受けたことよる影響は計り知れないものがあるだろう。
番組が終わってなくなるのは演出だけではない。番組が用意した舞台設定があることで、自然と進んでいた物語も終わりを告げることになる。だが、当然のことながら、彼らの人生の物語は、番組が終了しても続いていく。そこで演出のない〝リアル〟を生きる人生に戻れるのか、それとも、ショーアップされた物語をなんとか継続する道を選ぶのか――。
実は筆者には、複数の恋リア出演者の知人がいる。ここでは、日常生活で彼らと接して感じた、あくまで傾向としての彼らの話をしたい。
彼らは、番組終了後も、自らの人生に過剰とも言える物語を作ろうとしたり、演出を施していったりする傾向がある。例えば、離婚や浮気など、一般的にはマイナスだったり波乱万丈と捉えられがちな行動へのハードルが低いのである。3回離婚したことを鉄板トークのように笑って話してくれるような人もいる。
これは、こういった一見マイナスなことも、自分の物語になることへの直感があるからではないだろうか。彼らは番組出演によってなのか、マイナスなことも人生を彩るという感覚を持っているのである。試練のない平坦な物語よりも面白いという感覚すら持っている。悲劇を一面的なものとして捉えておらず、悲劇を喜劇の始まる前段階のように捉えている人もいた。それを自覚してかなり意識的にそういった行為をおこなう人もいるし、無自覚な人もいる。
そして、そういった行為は単に行うだけではなく、自ら発表してこそ、他者に触れ、物語としての意味を持つ。彼らは、発表して人に物語として消費されるのを体感することで、その悲劇が多少なりとも価値を持つことをより深く自覚するようになっていく。その最初の体験が、恋リア出演なのではないだろうか。出演中には悲しかった自らの失恋などの出来事が番組を通して視聴者の楽しみに変わっているのを知り、その感覚を得るのではないだろうか。
もちろん、恋リアに出演しようと考え、その機会が巡ってくる時点で、だいぶスクリーニングされているし、そもそもがある程度は自分の人生を物語として晒すことに意欲的な人たちなのだとは思うが、出演後に会う彼らは、おしなべてその感覚をもっているように思う。
つまり、恋リアというショーが終わった後の彼らは、ショーを自作自演するようになるのである。その〝延長戦〟を自ら主催し、生き始めるのだ。編集権は自分に移り、自分が脚本・主演・演出のショーを始めていくことになる。ショーと言っても恋愛をはじめとした彼らの日常生活がショーになるので、始めること自体のハードルはさして高くはない。
当然、ショーには観客がいるので、〝ショーマン〟として優秀な人ほど、観客が何を求めているかを察知できる。だが、彼らのショーの内容は彼らの人生そのものである。「観客が面白がるショーを作りたい」という意識が、彼らの人生の選択に影響を及ぼしてしまうと思うと、少し心配でもある。また、自分の観客の数はSNSのフォロワーという形で、常に数値化され続ける。面白いショーを作り続けないと、観客がいなくなってしまうという強迫観念もあるだろう。
観客を満足させるために、そして観客を増やし続けるために――。彼らは自分の人生をショーにし続けていく。観客のためにという思いで自分の人生を輝かせることができるのなら、それを否定するつもりはない。だが、そのショーが、彼らの〝リアル〟とかけ離れてしまいすぎたときや、悲劇を厭わない姿勢で突き進み続けたときに何が起こってしまうのかには、案じる部分がある。日常生活を自らショーにしていったとき、そのショーの結末はどうなるのか――。恋リア出演というのは、自分の人生に観客がつくというもう戻れない橋を渡ることでもあるのだ。
(次回へつづく)

いま世界中でさまざまなヒットコンテンツが生まれている「リアリティーショー」。恋愛、オーディション、金融、職業体験など、そのジャンルは多岐にわたり、出演者や視聴者層の年齢も20代のみならず50代・60代以上にも開かれつつある。なぜいまリアリティショーが人々に求められているのか。芸能コンテンツの批評やウェブメディアの運営を行ってきた著者が代表的な番組を取り上げながら、21世紀のメディアの変遷を読み解く。
プロフィール

しもだ あきひろ
エンタメライター、編集者。1985年生まれ、東京都出身。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニオタ男子」。大学在学中に執筆活動をはじめ、3冊の就活・キャリア関連の著書を出版した後、タレントの仕事哲学とジャニー喜多川の人材育成術をまとめた4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書・2019)を発売。3万部突破のロングセラーとなり、今も版を重ねている。カルチャーWEBマガジン「チェリー」の編集長を務めるなど、エンターテインメント全般に造詣が深く、テレビ・ラジオをはじめ多くのメディアに出演・寄稿している。また、音声配信サービス・Voicyでの自身の番組『シモダフルデイズ』は累計再生回数250万回・再生時間 20 万時間を突破し、人気パーソナリティとしても活躍中。近刊に『夢物語は終わらない ~影と光の”ジャニーズ”論~』(文藝春秋)。


霜田明寛




松岡茂樹×塚原龍雲


大塚英志
三宅香帆