監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男 第8回

世界一と日本一―2009年編

中溝康隆

「侍ジャパン」を整備した原辰徳

「本当に、お前さんたちはねぇ、強いサムライになった! おめでとう!」

 2009年3月23日、第2回WBCで日本代表を率いて連覇に導いた原辰徳監督は、ナインの輪の中で、そう絶叫した。指揮官の祝福の言葉を合図に、決勝の韓国戦で勝ち越しタイムリーを放ったイチローや、二大会連続MVPの松坂大輔らによるシャンパンファイトが始まった。原は50歳にして、WBCの優勝監督になったのである。これは前回大会の王貞治の65歳、のちの第5回大会で指揮を執った栗山英樹の61歳といった、歴代の日本代表優勝監督たちと比較しても、飛び抜けて若い。

 遡ること約5ヶ月前の2008年10月28日、当初は北京五輪で指揮を執った星野仙一監督の就任が内定していたが、二転三転した末に、巨人の監督である原に落ち着いた経緯があった。加藤良三コミッショナーから代表監督の就任要請を受け、受諾した原は就任会見で「日本代表は我々にとって誇りであり、憧れ」と決意を語ったが、中日からは候補選手が全員辞退を表明するなどなかなか野球界全体の足並みは揃わなかった。当時、中日監督の落合博満は「WBCボイコット」と騒ぐ報道陣に対して、こんな談話を残している。

「プロ野球選手に、公式戦以外のイベントへの参加を強制することはできない。怪我をしたら、NPBが補償してくれるというのならいい。でもそうじゃないだろ。理想論を掲げられて、一番困るのは選手だ。代表チームが呼べば、みんなが出てくれると思うのが大間違いなんだ」

(『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』/鈴木忠平/文藝春秋)

 落合は現役時代から一貫して、プロ野球選手は“個人事業主”だと主張し続けていた。それは代表監督に就任した原の「世界中に散らばっている日本野球人が、日本代表を結成する」という呼びかけがあっても変わることはなかった。それぞれの立場があり、考えがある。どちらかが正しくて、一方が間違っているという単純な問題ではない。だが、この中日選手の代表辞退の一件は、両者に少なからず遺恨を残すことになる。

 原にしても、自ら望んで代表監督になったわけではなかったが、引き受けるからには中途半端にならず100%で戦いたいと、日本代表では巨人の背番号「88」ではなく、あえて違う番号の「83」をつけた。コーチ陣の報酬にしても、条件が悪いと聞けば率先して環境を改善しようと奔走した。代表チームの内野・守備走塁コーチを務めた高代延博はその内情をこう明かしている。

「WBCのコーチは、一種の名誉職である。前回(2009年大会)のコーチ報酬は250万円。本当は200万円だったが、50万円は、原辰徳監督の尽力で増えた分だ。私は、それを原監督のポケットマネーだったのではないかと考えていた。250万円というのは月給ではない。ほぼ6か月間拘束されて、この程度の報酬では厳しい」

(『WBC 侍ジャパンの死角』/高代延博/角川書店)

 条件面もまだ整備されていなかった代表チームを率いた原だったが、巨人の春季キャンプを15日間で離れると、完全に代表モードに切り替え、選手選考から起用法まで柔軟な采配でWBCを戦った。大黒柱のイチローの調子が上がらないと判断するや本人と話し合い、三番ではなく、一番打者として固定した。決勝戦でのクローザーには、先発投手のダルビッシュ有を抜擢すると、22歳の右腕が胴上げ投手となった。韓国との決勝戦、延長10回表に勝ち越しの2点タイムリーを放ったイチローは、指揮官への感謝を口にしている。

「僕、韓国との決勝の試合前、整列の時に原(辰徳)監督に一言伝えたんです。ずっと監督、コーチ、選手のみんなが僕に気を遣ってくれていて、それを痛いほど感じていましたから、『足を引っ張ってしまって……』と言ったら、監督は『お前さんがいたから、ここまでできたんだ』って。そこは監督、『お前さん』なんですけどね(笑)」

(「Number」726号)

勝利と育成を両立した黄金期のはじまり

 世界一という最高の結果を手土産に3月25日にアメリカから帰国した原は、慌ただしくチームに戻り、28日のオープン戦から再び巨人の指揮を執っている。毎朝1時間のウォーキングが日課で、東京ドームには試合開始4時間半前の午後1時半に入る。遠征先の名古屋から、散髪するだけために新幹線で一時帰京したこともあった。多忙を極めたが、50歳の原は気力・体力ともに充実しており、指揮官として黄金期を迎えようとしていた。

 2009年からの新たなリーグ5連覇と、直接対決で過去4年間も勝ち越せていない「打倒・中日」を掲げて臨んだペナントレースにおいて、巨人は安定した強さを見せる。4月11日に単独首位に浮上すると、一度もその座を明け渡すことなく首位を快走するのだ。多くの若手選手を抜擢したその戦いぶりは、大型補強を繰り返してきた巨人のイメージを大きく変えた。5月には、一時打率4割を超えた20歳の坂本勇人を一番に固定。二番には育成出身の松本哲也を抜擢した。松本はこの年、129試合に出場して打率.293を記録。外野手としてゴールデン・グラブ賞に選ばれ、新人王にも輝いた。さらにWBCの日本代表に選出された亀井善行が五番に定着して、王貞治の持つ球団記録に並ぶ年間3本のサヨナラホームランを放った。

 投手陣ではリーダー役を期待された27歳の内海哲也を「アイツは侍じゃない。“ニセ侍”だ」とあえて厳しく叱責して奮起を促し、結果を残せなければ宿舎の自室に呼び出し、直々にファーム行きを命じたこともあった。ドラフト7位入団からの叩き上げで23歳の東野俊が、中日戦で四球から崩れ、逆転を許すと「そろそろ、砂遊びは卒業しなくてはいけない」と檄を飛ばす。それでも原監督は内海を27先発、東野が26先発とシーズンを通してローテーションで起用し続けた。この左右のエース候補を軸に、前年限りでヤクルトを自由契約になったディッキー・ゴンザレスが、巨人に移籍するなり、チームトップの15勝を挙げ勝ち頭に。育成出身の外国人投手、ウィルフィン・オビスポは7月2日の広島戦で先発初勝利を記録すると、6勝1敗、防御率2.45という好成績を残した。未来への投資とも受け取れる抜擢も目立ち、6月21日のロッテ戦では、ドラフト1位ルーキーの大田泰示を一軍デビューさせ、9月11日の広島戦では19歳の中井大介が平成生まれの選手として初の本塁打を記録している。年間を通して多くの若手にチャンスを与え、“勝利”と“育成”を両立。小笠原道大やアレックス・ラミレスら大物補強組と、生え抜きの若手陣が絶妙なバランスで融合したチームを作り上げる。そんな原巨人をメディアも、「“金権補強時代”よ、さらば 09年巨人は久々にファンの納得するVへ」(「週刊ベースボール」2009年9月28日号)と好意的に報じた。

坂本への無言の叱咤と「キャッチャー・キムタク」

 この頃の原采配は、ベテラン選手には信頼して調整を一任する一方で、阿部慎之助や坂本勇人ら長くチームの中心を担うであろう生え抜きの主力選手たちは、とりわけ厳しく指導することも多々あった。主将の阿部慎之助が福島でのナイターを終え、すぐ車で帰京して、翌日にぎっくり腰を発症した時のことだ。原はトレーナー室に入り、強い口調で「ガッツ(小笠原)はホテルに泊まって、夜遅くまで体の手入れをしていたぞ」と阿部を叱った。キャプテンという立場でありながら、帰京することを優先させて何のケアもせず故障したことが、指揮官には許せなかったのだ。阿部は自身の行動を反省し、原監督と話し合い、以降は試合前の準備を入念にできるよう遠征先での球場入りを1時間以上早めたという。レギュラー2年目の20歳の坂本勇人に対しても、開幕戦で緩慢な動きを見せると、容赦無く途中交代を命じた。

「この年、僕は彼に一度だけ無言の叱咤を与えたことがある。東京ドームでの広島との開幕戦(4月3日)、坂本は8番・遊撃手で先発した。その坂本を、僕は3打席でベンチに下げた。交代したピッチャーを8番に入れたかった事情もあったが、凡打の内容の悪さや全力疾走を怠ったことが、大きな理由だった。その後、彼はよく奮起して、4月に月間打率3割7分6厘を残した」

(『原点 勝ち続ける組織作り』/原辰徳/中央公論新社)

 この年から一桁の背番号6に昇格していた坂本は、懲罰交代に心折れるのではなく、発奮材料にしてグラウンドで躍動する。一番打者で起用されると、シーズン最後までその座を守り通すのだ。自身初の3割到達となるリーグ4位の打率.306、年間178安打はラミレスに次いでリーグ2位の好成績である。当時の一軍にいる若手は、ほぼ全員が昭和生まれで、原監督の時に突き放すような言葉にも臆することなく食らいついた。原体制では、そういう強い負けん気を持つ若手選手だけが生き残れたという見方もできるだろう。それが、2010年代に入ると、徐々にチームに平成生まれの若手選手たちが増え、年齢の離れた原監督の厳しい指導に萎縮してしまうような場面も見られるようになる。のちの第三次原政権の迷走の一端は、価値観の違いから来るジェネレーション・ギャップも原因だったように思う。だが、この頃の50代になったばかりの原辰徳は、非情さだけでなく、まだ選手と一緒になって戦う、兄貴分の雰囲気も残す指揮官でもあった。

 その象徴的な一戦が2009年9月4日のヤクルト戦だ。3対3で迎えた延長11回裏、巨人の加藤健が頭部死球を受け負傷退場する。一塁側ベンチには捕手登録の選手がいなくなるが、原監督は12回表の守備からひとりのベテランにマスクを託す。この年限りで現役を引退するプロ19年目の木村拓也である。捕手での出場は広島在籍時の1999年7月6日横浜戦以来。すでに場内の時計は23時を過ぎていたが、一球ごとに東京ドームがざわつく異様な雰囲気の中、木村は藤田宗一や野間口貴彦を懸命にリードする。二死一、二塁のピンチを招くも、最後は空振り三振で無失点に切り抜けベンチに戻る背番号0を、グラウンドに飛び出して抱き抱えるように肩を叩いて称えたのが、原監督だった。このシーンを見た日本テレビ解説席の山本浩二は、「私、寒気してきましたね。しっかりと仕事してますよ! リードからキャッチングからね、これがまたチームがひとつになるきっかけになりますよね」と緊急捕手キムタクと原采配を絶賛した。

物議を醸した手記

 そして、優勝マジック5で迎えた9月21日からの中日3連戦、原巨人は東京ドームでライバル相手に3連勝を飾り、9月23日に球団36年ぶりのリーグV3を達成するのだ。三連覇は、あのV9以来の快挙でもあった。現役時代の背番号と同じ8回宙に舞った原は、開幕前の宣言通り、中日相手に16勝8敗と大きく勝ち越してみせたのである。歓喜の胴上げから一夜明けた翌24日、読売新聞に掲載された原監督の優勝手記が物議を醸す。

「WBCに中日の選手は一人も出場しなかった。どんなチーム事情があったかは分からないが、日本代表監督の立場としては『侍ジャパン』として戦えるメンバーが中日にはいなかったものとして、自分の中で消化せざるを得なかった。野球の本質を理解した選手が多く、いつもスキのない野球を仕掛けてくる中日の強さには敬服するが、スポーツの原点から外れた閉塞感のようなものに違和感を覚えることがある」

(「読売新聞」2009年9月24日)

 シーズン中に触れることは避けていたが、原はWBCでの選手選考を巡る行き違いを決して忘れていなかったのだ。クライマックス・シリーズでは、再び落合中日をファイナル・ステージ第2戦からの3連勝で一蹴。日本ハムと対戦した日本シリーズは4勝2敗で制し、7年ぶりの日本一に輝いた。巨人の3勝2敗で迎えた第6戦では、先発の東野が右手甲に打球を受けて1回途中に負傷降板すると、二番手で緊急リリーフしたのは内海だった。試合前、監督室に呼ばれ、「お前も最初から、東野と同じマウンドへ上がっている気持ちで準備しておいてくれ」と伝えられていた内海は、先発できなかった悔しさを引きずることなく、4回2/3を無失点で抑え、チーム7年ぶりの日本一に貢献するのだ。長いシーズンの締めは、11月14日に長崎で開催された日韓クラブチャンピオンシップで、韓国王者のKIAを9対4で破った。いまだに長いプロ野球史において、同一シーズンにWBCの世界一とNPBで日本一に輝いた監督は、原辰徳ただひとりである。

 この年、ヤンキースの松井秀喜がワールドシリーズのMVPに輝いたが、正力松太郎賞は日本球界への貢献が評価された原が受賞する。激動の一年を締めくくるように、大晦日には世界一監督としてNHKの紅白歌合戦にゲスト審査員で呼ばれた。2009年は、いわば監督・原辰徳の絶頂期であり、指揮官として通算6シーズン目で辿り着いた原巨人のひとつの完成形でもあった。

 それでも、巨人軍の監督である限り、戦いは続いていく。原監督は、渡邉恒雄球団会長、滝鼻貞雄オーナーに日本シリーズ優勝の報告を行った際、報道陣に「他チームはすでに2010年に向けてスタートしている。我々も立ち止まることは出来ない」とさらなる補強を口にした。強い巨人の復活で、目指すはV9以来の黄金時代の再来だ。

 だが、雪辱に燃える、あの男がその前に立ちふさがる。目の前で胴上げを見せつけられ、「このまま終わると思っているのか? 見くびるなよ」と静かに口にした、落合博満だ。

 原巨人を待ち受けていたのは、落合中日の逆襲だった―。

(第9回へつづく)

 第7回
監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男

2002年、現役時代から比較されてきた長嶋茂雄の後を継ぎ、読売巨人軍の15代監督に就任した原辰徳。その後、3期17年に渡って監督を務め9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた彼は、巨人の伝統を背負いながら大型補強と大胆なベンチワークを独特のマネジメントでまとめ、新しい野球の形を示した。しかし、現役時代から昭和の象徴である長嶋茂雄の後を背負いながら、平成・令和を経て野球という娯楽の在り方の変化に翻弄された。そして、3度目の監督就任時にはファンから多くのバッシングを受けながら監督を退任するに至る。若き改革者は、なぜファンからも嫌われる「ヒール」になったのか?17年の軌跡を追う。

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プロフィール

中溝康隆

なかみぞやすたか 1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。
2010年より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』が人気を博し、プロ野球ファンのみならず、現役の選手間でも話題になる。『週刊ベースボールONLINE』『Number Web』などのコラム連載の執筆を手掛ける。
主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)、『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋)、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(PHP新書)などがある。

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世界一と日本一―2009年編

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