『荒天の武学』 内田樹 光岡英稔著

一寸先は武の世界 名越康文

 出会った瞬間、まるで峻厳な自然の光景や歴史的な建造物を見た時の感覚に陥る——。ごく稀に、そんな〝存在に響きを持っている人”と出会う機会があります。その数少ない人物が本書の共著者である武術家の光岡英稔先生でした。十年程前初めてお会いした時、まるで金剛力士像が立っているような空気を湛(たた)え、経験の浅い私でも、先生が武術の天才であることは明確に感じ取れました。

 一方光岡先生の対談相手を務める内田樹先生は、専門はフランス現代思想で、合気道を通して自身の「弱さ」を見つめ、研鑽しているとおっしゃっておられます。武道体験を文筆や言論に瞬時にフィードバックして、縦横無尽の活躍を続ける氏の姿に、今はほとんど廃れてしまった師というものへの憧憬をみる人は後を絶ちません。立ち位置の異なる二人が、ある前提のもと武術について語っているため、本書は対話が響きあい、多様性のある希有な内容になっています。

 ではその前提とは何か?

 それは「武術とは〝今”を強烈な起点として全体性を生きること」ではないでしょうか。強さを競い勝敗に一喜一憂するのは試合であって武術ではありません。次の瞬間、何が起きるか分からない状況で、〝今”に自らの感性と知性を賭け続けながら生きること。それができればたとえ戦闘的環境にいなくても、ある意味武の世界にいるといえるかも知れません。自身の稚拙な体験でも、クライアントに会う前に何を言おうかあれこれ考えずに〝今”を生きるクライアントにそのまま対峙するようになるまでに十年近くかかった気がします。一回性の世界を生きると意識した瞬間から、我々は誰しも武の道を歩んでいる。本書を読むと「一寸先は武の世界」ということが当然の理として分かってきます。

 こうした武術と対極にあるのは、予め用意された正解を出すことに価値を置く日本の教育であり、大衆が溜飲を下げるその場限りのパフォーマンスに終始せざるを得ない政治情勢です。それが世に広がる現状だからこそ、余計に本書が貴重な示唆を与えてくれるように思います。

なこし・やすふみ●精神科医

青春と読書「本を読む」
2013年「青春と読書」1月号より

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