徳光和夫の昭和プロレス夜話 第2夜

プロレス担当配属の挫折から立ち直れた理由

徳光和夫
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時代は平成から令和へと移り変わり、今、日本のプロレス界は群雄割拠の時代を迎えている。数え切れないほどの団体が存在し、自称プロレスラーを含めると、何百人という男たちが夜な夜なリングに舞っている。

プロレスといえば、日本プロレス。レスラーといえば力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木……そして屈強・凶悪・個性的であり、大人のファンタジーに彩られた外国人レスラーたちとの死闘がその原点である。

そんなモノクロームに包まれた昭和プロレス草創期の世界を、徳光和夫は実況アナウンサーとして間近で体験、血しぶきが飛ぶ、その激しい闘いの数々を目撃してきた。果たして徳光はリング上、リング外で何を見てきたのだろう。

その血と汗と涙が詰まった、徳光のプロレス実況アナウンサー時代を、プロレスに関することだけはやたらと詳しいライター佐々木徹が根掘り葉掘り訊き出し、これまでプロレスマスコミなどが描き忘れていた昭和プロレスの裏面史を後世に残そうというのがこの企画、「徳光和夫の昭和プロレス夜話」である。

さあ、昭和の親父たちがしていたように、テーブルにビールでも置き、あえて部屋の電気を消し、ブラウン管の中の馬場と猪木のBI砲の熱き闘いを見守っていたように、パソコンなどの液晶画面に喰らいついていただきたい!

 

 少し昔話をすると、プロレスのリングが聖域だった時代がある。

 それが昭和50年頃になると、試合後の乱闘のどさくさに紛れて、とくに好奇心丸出しのちびっ子たちが我先にとリングに駆け上ったりするようにはなったけれども、徳光が実況していた時代はまだまだ、犯してはならない聖域だった。

1969年5月16日、第11回Wリーグで初優勝を飾ったアントニオ猪木。写真/宮本厚二

 レスラーとレフリーしか立てない場所(リングアナウンサーと、ほんの一瞬、花束嬢は立てたが)。そこに仕事とはいえ、格闘技経験がなく、投げ技の受け身も取ったことのない普通の男が立つ。しかも、いましがたまでヒールの挑戦者の凶器攻撃にさらされ、顔面を血だるまにされながらも、きっちり防衛を果たしたチャンピオンに試合の感想を聞き出す。まさに非日常の空間だ。

 タイトルマッチが組まれた大きな大会の中継で、徳光はサッとリングに上がり、会場の観客や茶の間の視聴者の邪魔にならないようにしながら、非日常の血だるまの男を前に冷静に今宵の闘いの幕引きを行なう。そのリング上で徳光が見た風景は、どのようなものだったのか。徳光の目に昭和のプロレスファンはどう映り込んでいたのか。そのとき、何に触発され、何を感じていたのだろう――。

 それは徳光和夫しか得られなかった貴重な体験であり、伝え残しておくべき記憶なのではないだろうか。

 いや、リング上だけではない。猛者が集っていた当時の閉鎖的な日本プロレスにおいて、レスラーたちや団体関係者以外に、不審に思われず自由に道場や試合会場の控え室に出入りできたのは、徳光を含めた日本テレビのアナウンサーたち。

 当時は日本テレビの放送料が団体の屋台骨を支えていた時代だ。徳光は日本テレビの社員アナウンサーだった。となれば、ある程度の敬意を踏まえつつ、レスラーたちの禁断の領域まで足を運べたはず。私的にもレスラーと飲みに行くこともあっただろうと想像がつく。そこで徳光は何を見たのか――。

 こんなにドキドキワクワクする、記憶のプロレス夜話はめったなことでは聞けない。そのめったなことが、これから実現しそうなのだ。

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プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

 
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