徳光和夫の昭和プロレス夜話 第2夜

プロレス担当配属の挫折から立ち直れた理由

徳光和夫
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  その頃、プロレスに対してはどのようなイメージを。

「もちろん、テレビの創世記、力道山が空手チョップをふるい、バッタバッタと外国人レスラーをなぎ倒していた時代は、それなりに面白いなと思っていました。それがだんだんと世間がプロレスは八百長じゃないかと騒ぎ始めた頃に、私は日本テレビに入社したわけでありますけども、そういう世間の風評に多少なりとも影響されていたかもしれませんね。プロレスとは距離を置いた自分がいたことは確かです」

 その頃は完全に朝日、読売、毎日の朝刊などでは試合結果を報じなくなりましたし。

「ええ、ええ、そうでした、そうでしたよね。力道山が登場した時代の熱狂というんですかね、その熱さから日本人が離れ始めた時期に“お前、プロレス担当な”と言われたんで、余計にがっくりきて」

在りし日の力道山の勇姿。徳光さんが明かす戦後最大のスターの死に 関するBI砲の罪深いかかわりは連載第5夜以降のお楽しみ! 写真/宮本厚二

 

 となると、新人徳光はプロレスを担当しながらも、野球担当に未練アリアリだったというか、なかなかスパッと割り切ってプロレス実況の仕事ができなかった、と?

「私ね、入社1年目の研修期間中に念願の野球中継に触れることができていたんですよ、サブアナとして。といいましても、スコアラーをやったり、まあ、いろんなことを経験させてもらいました」

 あ、そうだったんですか。今でもスコアブックを付けられるんですね。

「書けます、書けます。当時はスコアブックを付けるだけではなく、そのプレーで選手たちがどんな表情をしていたかまでを書き込んで、メインのアナウンサーに情報を提供していました。懐かしいですねえ、ペナントレースはもちろんのこと、六大学野球、都市対抗、いろんな野球を取材で見まくって。さきほどの越智さん――」

 野球中継の大先輩!

「その越智さんから“野球の実況というのは目に映ったものを、すぐに口で描写できなければいけない”と教えてもらったんです。だから、当時はね、大きいデンスケ、今でいうテープレコーダーか、その機材を抱え持って、神宮の外苑にあるアマチュアの野球場に出向き、草野球を題材に実況の練習を繰り返していました。

 野球の実況以外にも、とにかく動いているものを実況できるようにトレーニングしておきなさい、きっと役に立つから、とも言われていたのでね、朝の通勤電車、茅ヶ崎から新橋間で流れる風景を実際に声に出して実況していましたね。ただ、ちょっと恥ずかしかった。恐らく乗り合わせた他の方たちは赤面症の青年が自分の欠点を克服するために、必死に声を出してしゃべる練習をしているんだろうな、と思っていたんじゃないですか」

 どんな具合に流れる風景の描写を?

「ただいま電車は新橋を出まして、次の品川へ向かっております。左手に高架橋が見えてまいりました。その向こう側に東京湾が広がっていることでありましょう。外国航路を行き交う船の汽笛が聞こえてきそうな、そんな小春日和の一日です――」

 素晴らしいッ!

「そういう練習を繰り返し、さらに野球を見まくって、あらゆるプレーをスコアブックやメモ帳に記録していく。同時に頭の中にも記憶する。つまり、脳内に野球のいろんなシーンを詰め込み、しまい込んでいく作業とでもいいますか、引き出し、ライブラリーを作っていくわけなんですよ。それでいざ、自分がしゃべる際に目の前で繰り広げられている試合のプレーひとつひとつに活かしていく。それが幅広く奥深い野球中継につながっていく……」

 わかります、わかります。

「さきほど、プロレス担当に回されて野球に未練はなかったですか、と質問されましたけども、そういう意味では未練大アリでしたね。いや、未練というより、なんだろうな、焦りのほうが大きかった。なにせプロレス担当になってから地方出張が多くて」

 当時の日本プロレスは年間250試合くらい組まれていましたから。

「そうでしたよね、あの頃はホント、プロレスの実況のために毎週のように地方に出ていました。そうなるとですね、当然、野球中継が見られなくなる。プロレスの試合開始と野球のプレーボールの時間が丸かぶりですから。結果的に、どんどん野球から離れていくことになってしまいました。

 せっかく野球を伝えるという作業に没頭し、あらゆるシーンを頭の中に刻み込み、中継に役立つであろうライブラリーを作り始めたのに、このままだと取材した野球の魅力的なネタを忘れていっちゃうんじゃないだろうかと焦っていました。つまり、プロレス担当を続けていく限り、私の野球ライブラリーは錆びついていき、いつかまったく開かないようになってしまうのが怖かった。

 だから、自分が置かれている現状にまいったな、困ったなと思っていました。正直、プロレスをこのまま担当するぐらいだったら、いっそのことアナウンサーを諦め、営業にでも回してもらおうか、と真剣に考えていたほどですから」

 そこまで思い詰めていたんですね。

「ええ。野球を取材できていた頃は、そりゃ充実していましたよ。それがねえ、さきほどお話ししたように、プロレスは実況前の取材がスムーズにできない。しようものなら足蹴にされる(笑)。試合後だってマイクを齧られてしまう(笑)。当時は、いやいやプロレス担当をしていました」

 そんな徳光さんが、なぜにプロレス担当に踏み止まったのですか。

やはり先輩の清水さんが素晴らしいアナウンサーだったこと、そして、ジャイアント馬場さんが実に魅力的な人だったということが大きかった」

(第3夜へつづく)

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プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

 
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