オレに死ねと言ってんのか? ━検証!高額療養費制度改悪━ 第5回

日本の医療制度はもはや『世界に冠たる』ではない

西村章

厚労省のグラフはフェアじゃないし、ロジックも不可解だった

 では、なぜそのような大きな負担を強いてまで、政府と厚労省は高額療養費制度の上限額を引き上げようとしたのか。その理由のひとつとしてよく指摘されるのが、岸田政権時に掲げた「次元の異なる少子化対策」の実施で国民の実質的追加負担を生じさせないことを謳ったために、その財源として、面倒な法改正を必要とせずに政令の改変のみで着手できる高額療養費制度がターゲットにされた、という〈背景事情〉だ。

 政府と厚労省は、「財源として手をつけやすそうだったので、ここを削って少子化対策のほうへ持っていこうと考えていました」などとあからさまなことを言うわけではもちろん、ない。彼らが制度の自己負担上限額を〈見直し〉た理由として挙げていたのは、「非常に高価な薬剤が次々と登場しており、高額療養費は国民医療費全体の倍のスピードで伸びている」という事情で、これは衆参院の予算委員会などで石破首相が何度も述べる姿がニュース等でも再三報道されたので、ご覧になった方も多いだろう。

「高額療養費が国民医療費全体の倍のスピードで伸びている」という論拠は、厚労省が保障審議会医療保険部会などで示した以下の図に示されている。

図4:2024年11月21日第186回社会保障審議会医療保険部会等で配布された、厚労省作成の資料。実際の金額ではなく、平成27年度(2015年度)の値を100とした図であることに注意

 平成27(2015)年度の高額療養費と国民医療費をそれぞれ100として、そこからの伸び率を示した上の図では、高額療養費が14%増えているのに対して国民医療費は7%の上昇で、これを見ると確かに高額療養費が国民医療費をしのぐ「倍のスピード」で大きく増えているように見える。石破首相が国会で言及していたことはまさにこの図が示すとおりで、この調子で伸びていけば将来はもっと大変なことになる、という主張に首肯したくなるグラフだ。では次に、この高額療養費と国民医療費の伸びを、安藤教授の作成したグラフで見てみよう。

図5:高額療養費と国民医療費を名目値(総額)の変化で見たグラフ(左)と、対GDP比の変化で見たグラフ(右)(厚労省「医療保険に関する基礎資料」と2023年国民経済計算体系をもとに安藤教授作成)

 図4と図5では、高額療養費が国民医療費の倍のスピードで伸びているとする「事実」に対する印象が、ずいぶん異なるはずだ。図4では「伸び率」の推移を比較して強調しているのに対して、図5の場合は左のグラフが2012年度から2021年度まで10年間の金額変化(国民医療費は39.21兆円から45.04兆円、高額療養費は2.16兆円から2.85兆円)を示している。図5の右グラフは、各年の医療費のGDPに対する比率を表している。国民医療費は各年GDPの7.85%から8.12%という変化(0.27%ポイント上昇)であるのに対し、高額療養費は0.43%から0.51%に変化(0.08%ポイント上昇)している。

 では、厚労省はなぜ、このような「高額療養費の急激な伸び」を強調するグラフを作成して、危機感を煽るようなことをあえてしようとするのか。安藤教授はその理由を以下のように説明する

「高額療養費が国民医療費の倍のスピードで伸びている、というのはもちろん嘘ではありません。ただ、そうやってある側面を強調して、やりたい政策の理由を正当化するのは、昔からの役所のデータの作り方です。たとえば、財政制度等審議会(財務省)の資料などは、その典型例のようなデータやグラフが散見されます。ただ、最近ではEBPM(Evidence Based Policy Making)、つまり証拠に基づく政策形成が重要だと言われているので、このような結論ありきのデータの作り方は官庁でもある程度は是正されるようになっていると思います。

 この厚労省のグラフ(図4)については、上昇を比べる場合にある年度を100としてそこからの伸びを見せる方法が間違っているわけではないので、データの作り方として「間違っている」わけではありません。逆の見方をすれば、私の表(図5)では、国民医療費の規模が大きいので、このように並べると、どうしても国民医療費に対して高額療養費の伸びが潰れて見え、これだけを見せるのは伸びを過小評価している、と主張できなくもないです。

 統計学的にどちらが正しくてどちらが間違っているというわけではなく、グラフというものは見せ方と目盛りのとり方でいくらでも印象が変わってくるものです。だけれども、財政の議論としては、伸び率の比較だけを見せて、(図5のような)医療費の水準や対GDP比の比較や推移を見せないのはフェアではない。これではチェリーピッキング(自分に都合の良い情報やデータだけを見せる行為)と言われても仕方ないと私は思います」

 さらに安藤教授が首を傾げるのは、「この10年間の物価や所得の上昇に対する対応として支払い上限額を値上げする」と主張していた政府・厚労省のロジックだ。当初の〈見直し〉案が多数回該当を現状維持とすることで譲歩し、2026年と2027年の引き上げも見送った後に、物価上昇分の対応として2025年8月の上限額引き上げだけは実施させてほしい、と石破首相が衆参予算委員会で何度も言っていた姿をご記憶の方も多いだろう。

「日本の高額療養費制度が、所得にかかわわらず全員が一定の自己負担上限額まで支払うスウェーデンのような方式であれば、たとえば10年前の100万円の価値がインフレの結果として現在では120万円になっている場合に、物価上昇に対応してその20万円分を引き上げる、という理屈が成立します(図6左)。しかし、日本の場合は所得が上がれば支払い上限額もより高い区分に上がるので、インフレ調整の必要がなく、厚労省の理屈は成立しません(図6右)」

図6:自己負担が全員一定の場合(左)だとインフレに伴って貨幣の価値が変わるため支払い額の引き上げ調整が必要になる。所得に応じて支払い上限額が変化する場合、インフレで貨幣価値が変化して所得が上昇しても、自己負担額もそれに応じて変化するので「物価上昇に伴う調整」は意味をなさない。(安藤教授作成)

「厚労省がなぜあのようなおかしな理屈で上限額引き上げを正当化しようとしたのか、私もいろいろと推測をしたのですが、今でもよくわかりません。おそらくあまり深く考えていなかったのではないか、というのが現状での私の結論です。日本はこの30年ずっとデフレだったので、物価上昇の対応やインフレ調整がどういうことなのか、厚労省の担当者はよくわかっていなかったのではないか。あまりそうは考えたくないですけれども(苦笑)、その可能性が高いのかなと思います。

 厚労省も社会保障審議会の委員も『物価上昇は定着しているので、その対応で引き上げることは認められるだろうし抵抗感も薄いと思っていた』とインタビューなどで話しているので、そこからも、彼らはおそらく本当にそう考えていたのであろうことが伺えます。

 SNSでも『石破首相は厚労省の説明をそのまま話しているだけではないのか』という批判がありましたが、だとすると、今回の厚労省レクのロジックは不明瞭な点が多く、実際にそのおかしさを野党から何度も指摘されていました。分かっていてそうせざるを得なかったのか、内部での議論の詰めが甘かったのか、その理由まではわかりませんが……」

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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