高額療養費制度〈見直し〉案を機に社会保障のありかたの議論を
国家が何かの予算を削ったり国民の負担を引き上げて歳入を増やそうとしたりするものは、総じて財務省の意図がその背後にある、とまことしやかに語られることが多い。ただ、今回の高額療養費制度〈見直し〉案に関しては、おそらく財務省から発生したものではなかったのだろう、と安藤教授は推測している。
「確証はありませんが、今回の案は厚労省起点だったのではないかと私は思います。こういう話でよくあるのは、財務省の財政制度等審議会(財政審)が支出抑制の必要性を指摘し、それに対して各省庁が反論したり批判を受け入れたり、という形で制度変更が進むことです。たとえば厚労省でも、財政審が医療保険や介護保険の支出抑制や自己負担引き上げを要求し、それに対して厚労省側が対抗したり応答したり、ということを毎年やっています。その一方で、厚労省は、自身が医療・介護・年金の保険財政を管理している立場でもあるので、財政的な制約のもとでうまくマネージメントしていかなければならない「財政当局」でもあります。
だから厚労省には二面性があり、財務省からの批判を防御して患者や要介護者などの社会保障の利用者の利益や権利を守るというある種の「リベラル」な発想と、制度を維持可能な財政規律のもとで運営していこうとする財務省と同じ「財政当局」的発想の両面を持っていると思います。今回の〈見直し〉案は、少なくとも公表されている情報に基づく範囲では、財務省や財政審による明示的な指摘に対して厚労省が対応した、という経緯を辿っていません。
ここまでの負担増を患者本人に求める案が出てくるとほとんどの人が予想していなかったのは、私も含めて、皆の見通しが甘かったからだとも思います。ただ、それにしても厚労省の中に高額療養費に引き上げの余地が十分にあると考える人たちがいて、短期的な予算確保が目的であれ、長期的な高額医療増への対応が目的であれ、そこに手を入れなければならないとする彼らの考えに、省内や審議会で強くノーと言える人がいなかったことには、大きな衝撃を受けました。
高額療養費制度は現行制度でも矛盾や限界を抱えた厳しい状況になっている、という理解がなかったのだろうと思います。それこそ、今回の〈見直し〉案を凍結させた全がん連(全日本がん患者団体連合会)やJPA(日本難病・疾病団体協議会)といった制度を利用する当事者の人たち、医療現場の医師・看護師・医療ソーシャルワーカーなどの関係者以外は、患者の状況をしっかりと認識していなかったことが、今回のような案が出てきてもすぐに止めることができなかった根本的な原因だと思います」
現在の高額療養費制度の自己負担上限額がじつはかなりの「高額」であることは、図2で示されているドイツの例(所得の2%)と比較すれば明らかだろう。また、この制度がセーフティネットとして充分に機能していない側面がある実態は、安藤教授が指摘するように、関係者間でもあまり理解が共有されていないのが現状だ。専門家の間ですらそうなのだから、社会全体ではなおのこと、問題の可視化はほとんど進んでいない。そのような事実を直視すると、日本の国民皆保険制度を語るときにいつも枕詞のように使われる「世界に冠たる」という形容は、じつは正しくないのかもしれない、という疑念も湧いてくる。
「日本の医療は、体調に不安があれば誰でもすぐに病院にかかることができるアクセスの良さや、治療実績(がん罹患後の生存率など)という面では優れていると思います。その一方で、全がん連が実施したアンケートで明らかになったように、自己負担が高額なために治療の断念を検討せざるをえない人たちも存在しています。そのような実態がすでにあるのだから、世界に冠たる国民皆保険制度、という自画自賛の認識は改めたほうがいいと思います」
安藤教授によると、自己負担上限が年間所得の2%というドイツ以外にも、たとえばフランスの制度では抗がん剤など代替性がない高額医薬品には患者の自己負担がなく、スウェーデンでは外来・医薬品の自己負担上限額は年間数万円程度だという。
「政府や厚労省が、社会保障費の支出抑制を高額療養費の上限額引き上げという手段で実現しようとした背景には、日本の医療制度が『世界に冠たる』ものだという認識を前提に、まだ自己負担を引き上げても大丈夫との暗黙の想定があったのだろうと思います。これまでも議論になってきた、OTC類似薬(湿布や風邪薬など、ドラッグストア等で購入できる医薬品と薬の性質が同じあるいは似ている処方箋医薬品)の保険適用除外やかかりつけ医制度の導入・強化などで、医療アクセスを抑制していこうという方向なら、「世界に冠たる」制度を少し抑制していくという発想で、まだ理解できます。しかし、日本の自己負担額はすでに『世界に冠たる』ものではなく厳しい状況であるにもかかわらず、その現状を認識できていなかったことが、今回の〈見直し〉案で明らかになったと考えています」
今後、社会の高齢化が進んでゆけば、当然ながら国民医療費はさらに上昇する。その伸びに、社会はどう対応してゆくのか。医療利用者(患者)の窓口支払い額と保険者(健康保険)の負担、そして公費(税金)で分担している医療の財源は、どのようなバランスになるのが望ましいのか。今回の高額療養費制度〈見直し〉案が世間の注目を集めたことを契機に、日本の医療と社会保障のありかたについて社会全体で合意できるコンセンサスを形づくっていくことがおそらく重要なのだろう。
「そこが難しいところですね。コンセンサス、と言うほど社会全体が強く認識することはなかなか難しいのかもしれませんが、それでもせめて医療政策関係者や医療者などの間で『ここが危機に瀕しているんだ』という領域をちゃんと押さえて、そのうえでできることできないことを切り分けていく必要があります。そのためにも、『世界に冠たる日本の国民皆保険制度』という認識は、少なくとも自己負担額についてはけっしてそうではない、と改めることが重要です。つまり、高額療養費制度に手をつけてはいけなかったという認識が高まれば、では他の分野をどうするのかという話になって議論のステージも少し変わってゆくので、そこがまず大事なところだと私は思います。
たとえば、高齢者の窓口支払いを3割負担にすることは研究者、とくに経済学者の間で一定の支持を得ているようです。現役世代が3割負担なのだから高齢者もそれに揃えるという考え方は、けっしておかしな議論ではないと思います。ただ、高齢者には金銭的に余裕がある人もいる反面、低所得で厳しい生活を強いられている人々も少なくありません。当然ながら高齢者は現役世代よりも医療費がかかるので、すべて3割負担にすると、現在の1割や2割負担で助かっている人たちから破滅的医療支出に近づく人が増えてしまう可能性がある。破滅的医療支出を防ぐために私たちは政府・厚労省の高額療養費〈見直し〉案に反対していたのに、その制度を維持するために高齢者で破滅的医療支出になる人が出てきてしまう可能性を増やす方向に進むのは、私としてはやはり懐疑的にならざるを得ない。経済学者の間で私のような考え方は少数派でしょうが、高齢者の一律3割負担はあまり筋がいい議論だとは思いませんし、仮にそれが避けられないならば、高額療養費の上限額引き下げなどをセットで議論しないといけないと思います。
OTC類似薬の保険適用除外や医療アクセスの制限など、さまざまな方法があると思いますが、それぞれ社会的・政治的な制約やテクニカルな議論もあり、私はあまり積極的に踏み込めない領域です。医療の専門家や医療政策研究者、そして当事者団体などが政策決定プロセスに加わることで、当事者の意見を反映する良い方向へ議論を進めてほしいと思います。誰が悪いと決めつけることは現実理解の目を曇らせてしまいますが、放っておくとどうしても財政圧力に押されてしまいがちな時代なので、政治的・官僚的な意志決定に常にプレッシャーをかけ続けることが重要と考えています」
では、厚労省などの官僚機構は、なぜ民意に反して実情にそぐわない意志決定をしてしまいがちなのか。次回はそこを考察してみたい。
プロフィール

西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。