リアリティショーの中でも、一大人気ジャンルである恋愛リアリティショー(「恋リア(れんりあ)」)。今回からは恋リアの歴史をたどっていくことで、なぜ人々がリアリティショーに魅了されてしまうのかということを解き明かしていく。恋リアを若者が観る下世話なものと馬鹿にする人もいるかもしれないが、実はしっかりと社会の映し鏡になっていることがわかってもらえると思う。
リアルではなくリアリティの許容 『恋するハニカミ!』
90年代のドキュメントバラエティは、ドキュメンタリーとして多くの人がリアルだと信じて見ていたため、やらせが問題になることがしばしばあった。しかし、2010年代以降のリアリティショーはその言葉の性質もあり、演出や虚構性が許容されるようになった――という話を前回した。
ドキュメントバラエティとリアリティショー、とりわけ「恋リア」の転換点となった番組が『恋するハニカミ!』(TBS・2003~2009年)である。
同じジャンルに属する『あいのり』の全盛期に始まった番組だが、食い合うことはなく6年間続いた。『あいのり』との大きな違いは、出演するのが一般人ではなく芸能人であるということだ。そして、番組側からの指示が明確に存在するということである。
『恋するハニカミ!』では、ある程度以上の知名度をもった男女の芸能人が、基本的には1VS1でデートを行う。デート中は手を繋いでいなければならないのが番組のルールで、さらには、ハニカミプランと呼ばれる番組側からの指示の紙が手渡される。デートはそのハニカミプランを実行することで盛り上がっていく――というのが番組の概要だ。
つまり、デートを行う出演者は、完全な素で100%自分の意志で動いているのではなく、大枠は番組の指示によって動かされている。それを視聴者はわかった上で見始めることができる。芸能人がテレビカメラの前で、しかも会ったその日にいきなり本気で恋愛をするわけがないと、さすがに視聴者も思っているので、リアルだという感覚が共有されているドキュメンタリー番組として見せても「ありえない」と感じて興ざめしてしまう。しかし、ハニカミプランという演出を前面に押し出し、ショーとして魅せることで、すんなりと見始めることができる。芸能人同士がいきなり1日デートをして親密になるという非日常を受け入れることができるのだ。
そして、もちろんそういった番組の設定はあるものの、デート中に行われる会話には綿密な台本があるわけではなく、出演者には選択権もある。普段、芸能人が出ているドラマ等と違って圧倒的に本人たちの素や意志が見えやすい。「これは本当に感情が動いているのだろうか?それとも演技なのだろうか?」というグラデーションを視聴者は楽しむこととなる。
様々な〝神回〟が存在するが、中でも印象的だったのは塩谷瞬の出演回である。塩谷瞬は相手の女性に対して、ハニカミプランに書いてある以上の積極的な接触行為を行い、スタジオのMCたちをも驚かせる。演出ではなく、塩谷瞬の感情が動いていることを感じられ、その設定が生んだリアルを視聴者は見ることができたのである。
放送から数年が経っても、塩谷瞬に現実で二股疑惑などの色恋沙汰があると「そういえばハニカミのときも積極的だったよな……」などとあのシーンを思い出し、番組のリアリティの中に、現実で起きたリアルと繋がる部分を見出したりすることができる。
その他の回でも「番組をきっかけに本当につきあったカップルがいるのでは?」と話題になるなど、視聴者の中のリアルとリアリティの境界線を薄くしていったのがこの番組である。
ちなみに、最盛期には、東京ドームシティで『恋するハニカミ! in 東京ドームシティ』というイベントも行われた。これは、後楽園遊園地内で、実際にハニカミプランを体験することができたり、観覧車の中で番組のテーマソングを流したりすることができるイベントだ。大げさに言えば、これもまたリアルとリアリティの境界線をなくす試みだったと言ってもいいかもしれない。
まだリアリティショーという言葉が日本で定着する前の番組だが、この番組で多くの恋リア視聴者層は「リアルそのものでなくてもいい」というメンタリティに変化していった。この番組をもって、多くの視聴者がリアルではなくリアリティを許容できるようになったのだ。
言い方を変えれば、この番組を通じてショーとして恋リアを楽しむことに慣れていったと言ってもいいだろう。それは2010年代のリアリティショー時代に突入するための素地を作っていたのである。
ちなみにこのような設定+芸能人の出演という形式は『ラストキス~最後にキスするデート』(TBS・芸能人の男女が1日限定でカップルとなり最後にキスをする)『私たち結婚しました』(ABEMA・タレント同士が結婚したという設定で共同生活をする)など、その後も恋リア内の人気カテゴリーのひとつとして残っている。
恋愛成就を目的としない『テラスハウス』
2009年3月、『あいのり』と『恋するハニカミ!』は奇しくも同じタイミングで番組に終止符を打つ。後半は両番組とも往時の勢いを失っており、これが、この恋愛リアリティショージャンルにおけるドキュメントバラエティ時代の完全な終焉と言っていいだろう。
しかし、そんな恋リア冬の時代のあとに、ブームを起こしたと言っていい番組が登場する。それが『テラスハウス』だ。2012年から2014年にフジテレビで放送された後に、2015年には映画版が作られ、そしてNetflixでの配信が始まり、2020年まで続くことになる。恋リアが、テレビが中心だった時代から配信中心となった時代の橋渡しにもなっている番組である。放送開始前は、わかりやすくするためか「シェアハウス版『あいのり』」のような喧伝の仕方をされたが、結果としてこの番組はそのような域には収まらないものとなった。
まずは『テラスハウス』の概要を、番組冒頭にスタジオメンバーのYOUがする説明をそのまま引用して紹介したい。
「テラスハウスは見ず知らずの男女6人が共同生活する様子をただただ記録したものです。用意したのは、素敵なおうちと素敵な車だけです。台本は一切ございません」
シンプルに感じるかもしれないが、本当にこれだけなのである。複数の男女がひとつ屋根の下で共同生活をするだけで、番組からのハニカミプランのような演出はない。自分の意志で退去することもでき、基本的には誰かがいなくなると、新メンバーが入居してくるという仕組みである。出演者は、20代の若者が中心で、会社員や大学生などの一般人もいるが、売れていないモデルやグラビアアイドル・俳優などセミプロっぽい美男美女が多い。
これだけ聞くといかにもシンプルで共感を呼べなさそうなフォーマットのように思える(少なくとも筆者は共感しない)。それでも筆者自身が、テラスハウスの全エピソードの中で最も涙したシーンがある。そしてその場面こそが、この番組の本質をあらわしているのである。
世田谷区代田にある、もともとは酒屋だったコンビニ。レジには酒屋時代から店を営んでいる老婆が立っている。そこでイタリア人の青年・ペッペが漫画雑誌スピリッツを立ち読みしている。ペッペはあるページを開いたタイミングで、静かに喜びを噛みしめるような表情をする。ペッペは店に5冊あるスピリッツを老婆に「全部買っても大丈夫ですか?」と聞く。老婆は快諾しつつ「おんなじことがみんな書いてあってもいいの?」と答える。ペッペは「大丈夫」と言いつつも「残しとくか……」とつぶやきながら2冊を残し、3冊を購入。レジでペッペは老婆に「これ、私が書きました。私の漫画です」と告げる。そう、このスピリッツは、ペッペがここまで苦労を重ね、初めて勝ち取った連載が載った号だったのである。老婆が驚いたあとに、笑顔で「あとで私ゆっくり見るわ。ファンになるから」と笑うと、ペッペは溢れる涙を拭う。「マンガは好きですか?」と老婆が聞くと「大好きです。これを書くために日本に来ました」とペッペは答え、店を去っていく――。
海外からやってきた青年がひとつの夢を叶えた瞬間を、華やかなパーティーなどではなく、街のありふれた場所の中で静かに映し出すこのシーン。夢が叶った実感と喜びを与えてくれるのは、案外、いや、特に異国の地からやっていた青年にとっては、一期一会の見知らぬ誰かの一言だったりするのかもしれない――そんなことを感じさせる名シーンである。
さて、これのどこが恋愛リアリティショーなのだ、と思う人も多いだろう。そう、実は『テラスハウス』は、恋愛成就を目的としていない。『あいのり』は恋愛成就をすることが目的の旅であり、基本的には旅の終わりは恋の終わり(フラレる)か、恋の成就(カップル成立)のどちらかだった。一方、『テラスハウス』は、恋愛をすることを義務として課せられているわけではない。あくまで共同生活を送ることのみがルールだ。
もちろん、若い男女が同じ家にいたら恋愛関係は発生していくわけだが、無理に恋愛をしなくてもいいし、恋愛に参加しないまま、退去することもできる。恋愛関係が物語の中心になりやすい傾向はあるものの、それ以外の要素がドラマを生むことがかなり多いのが『テラスハウス』の特徴なのである。
ちなみに、女性出演者の中には、大して好きでもなさそうなのに自分をデートに誘う男性に対して「テレビに映りたいのかな」と勘ぐる者までいたほどである。また、カメラはテラスハウス内だけではなく、登場人物の職場なども映し出すので、人間ドキュメントとしての見方もできる。
恋愛ではなく憧れを見る
その構造ゆえ、『テラスハウス』は恋愛番組としてだけではなく、当初はオシャレな美男美女の生活を一種の憧れをもって見る番組としても成立していた。VTRにはナレーションも入らず、映し方も含めてオシャレに構成されている。東京の他にも鎌倉にハワイや軽井沢など画になる場所が舞台になっていて、そこにテイラー・スイフトの『We Are Never Ever Getting Back Together』(邦題『私たちは絶対に絶対にヨリを戻したりしない』)などのオシャレな洋楽がかかる、オシャレコンボの番組なのだ。
また、ペッペの漫画家もそのひとつだが、簡単にはなることのできない職業、もしくはなっても成功しづらい職業の出演者が多いがゆえ、夢を追いながらもうまくいかない彼らの葛藤なども映し出した。「好きなことで、生きていく」というフレーズがYoutuberを形容する言葉として公式にCMに使われたのが2014年だが、その時代性もあいまって、夢を持って生きる出演者に憧れや共感を持って視聴するような若者も多かった。初期の出演者の中からはタレントの筧美和子やシンガーソングライターのChay(永谷真絵)など、その後ブレイクし、芸能の世界で成功する者も現れている。視聴者と身近な位置にいて憧れやすい、完全な成功者になる手前の、オシャレに夢見る若者たちのカタログのような機能もテラスハウスは持っていたのである。
逆に言えば、『テラスハウス』の世界観の中に入ってしまえば、葛藤しているその姿自体が魅力的に映り、共感の対象になる。そのため、芸能の世界で大成しなくても、この番組に出演することである程度の人気を獲得し、出演後にSNSのフォロワー数を多く抱えることができる。そのフォロワーを武器に、インフルエンサーのような活動をする出演者も多く輩出した。
そう、成功することが人気を獲得するための必須条件ではなくなったのである。番組を見ていない人からすれば「あの人は何を成した人なんだろう?」と感じつつも、なぜか影響力を持っているような人材を生み出したのだ。これは2010年代の〝一般人以上タレント未満〟の人材が増えていった時代の象徴であり、『テラスハウス』出身の彼らがその一端を担っていたと言ってもいいだろう。
自己実現できるかどうかも含めて『テラスハウス』は主に若者の出演者たちの生き様を映し出した人間ドラマとなった。2009年には草食男子という言葉が流行語大賞トップ10に選ばれるなど、2010年代は90年代に比べて若者の間にも「恋愛だけがすべてではない」価値観が広がっていく中で〝恋愛だけではない恋リア〟である『テラスハウス』はうまくフィットしていったのである。
スタジオトークという発明
しかし、この番組がより人気の裾野を広げたのは、そのような憧れる見方だけによるものではない。番組の放送期間と共に、長くなっていったのがスタジオでのトークである。最初は冒頭のみスタジオトークがあり、その後テラスハウス内での様子のVTRが流れる構成だったのが、VTRの間にもトークが挟まれるようになり、最終的には副音声というかたちで、VTR中ずっとスタジオでのトークを聞けるようになった。
スタジオトークは、YOUや南海キャンディーズの山里亮太、チュートリアルの徳井義実など絶妙な人間観察眼とトーク技術をもったタレントたちによるものである。
例えば、金曜日の夜に「ヘトヘトだよ」と言いながらパソコン作業をしている男性会社員がいると「いるよなー、忙しいとか寝てないアピールする奴」(山里)「ヘトヘトって言う奴いるよね」(YOU)と、個人のおかしさを抽出し「あなたの身近にもいますよね」という形でわかりやすく一般化してくれる。
他にも、インターン希望先の企業で社員に向かって「この会社で自分が成長できそうって思ったらエントリーしています」と言う就活生に「駄目だよ、そんな上からの言い方したら」(山里)などと、プロの就活アドバイザーでも気づかないようなコメントをする。
そう、彼らは〝人間が見える瞬間〟を見逃さないのだ。彼らのコメントは特定の出演者へのコメントでありながら〝人間の解説〟になっている。彼らの卓越した技術は、『テラスハウス』を若者の恋愛を見るだけの番組ではなく、人間を観察し、人間の取扱説明書を提示するような番組として成立させていたのである。もちろん、この番組に限らず、多くのリアリティショーは〝人間の本質〟が見えるような瞬間を見逃さず、編集して提示してくれるのだが、あくまで解釈は自由。一方で副音声も加味すると、他番組に比べて膨大な量のスタジオトークがある『テラスハウス』は、そこに具体的な見方や解説を加えてくれていたのである。
特に山里は、番組内で美男美女を妬むような発言をする立ち位置を築いており、イケている男女がすんなりうまくいくと、面白くないと言ったり、大声で取り乱したりすることもあった。
山里に限らず多くのスタジオのタレントたちが出演者につっこんでいくわけだが、基本的には美男美女である出演者を仰ぎ見る目線だけではなく、おかしな部分を発見してつっこんでいくような視線は、イケてる男女を必ずしも肯定的には見られない層をも取り込んでいった。仰ぎ見るだけではなく、つっこんでいくという見方も視聴者は得るようになっていったのである。
しかし、人に対してその歪さを言葉にして形容していくというのは、あくまでプロフェッショナルだからこそできる高度なワザである。さらにスタジオトークは、例えば山里が出演者に対して怒ると、徳井が出演者を別視点の優しい言葉で包んでフォローしたり、YOUが取り乱す山里自身をバカにしたりするといったような団体芸としてのバランスも成立していた。素人が真似しやすいようでいて、それは簡単に真似できるものではないのだ。
だが、その感覚はなかなか共有されづらい。それが、SNSを媒介にして素人である視聴者が直接出演者につっこんでいく、そして中にはつっこみとも呼べない直接的な非難の言葉をぶつけるという行為に繋がっていったとも言えるだろう。2020年、誹謗中傷を苦にしたとされる出演者の自殺という形で、この番組は打ち切りとなる。
下品から「愛の話」へ バチェラー・ジャパン
『テラスハウス』がNetflixでの配信を始めた2年後の2017年、『テラスハウス』と双璧をなして2010年代後半からの恋愛リアリティショーブームを牽引したと言っていい番組が開始する。『バチェラー・ジャパン』(Amazonプライムビデオ)である。
最初に成り立ちの特色を説明しておきたい。ここまで触れてきた『あいのり』『恋するハニカミ!』『テラスハウス』といった番組との大きな違いは、これらが日本オリジナルの企画であるのに対し、『バチェラー・ジャパン』はその名の通り、米国で人気を博した番組フォーマットの輸入であるという点だ。本家の『The Bachelor』は、2002年に始まって、米国でのリアリティショーブームを牽引した人気企画で、30カ国以上の国でローカル版が制作され、全世界225カ国以上で放送されており、その日本版という位置づけである。日本版の開始時点で、125シリーズと2500話以上が世界で放送されていた大人気シリーズだったのだ。
とはいえ、日本版の成功が約束されていたかというと、そういうわけでもない。リアリティショーの輸入という観点で言うと、世界的に人気の『SURVIVOR(サバイバー)』という番組の日本版が2002年にTBSで放送されている。しかし、期待値の割にそう人気は爆発せず、1年で終了となった。リアリティショー以外では『クイズ・ミリオネア』など、海外の番組フォーマットを輸入して成功する例もあったが、リアリティショーでの成功例はなかった。海外から日本にフォーマットごと輸入したリアリティショーの中で、初めて成功したのがこの『バチェラー・ジャパン』なのである。
この番組の成功をきっかけに、日本でもリアリティショーという言葉が定着。『あいのり』のように、自らは謳っていない番組もリアリティショーと呼ばれるようになっていった。『バチェラー・ジャパン』開始から約10年が経ち、現在の日本で恋愛リアリティショーと呼ばれるものは、日本オリジナルのものと、このような海外からの輸入ものが混在して成立している。
『バチェラー・ジャパン』とは一言で言えば、スペックの高い独身男性・バチェラーを女性たちが奪い合う番組である。公式の正式な説明は「成功を収めた1人の独身男性の運命のパートナーの座を巡り、性格もバックグラウンドも異なる複数の異性たちが競い合う恋愛リアリティ番組」だ。番組開始以以降このコンセプトは変わらない。しかし、年1のペースで新作が作られ、約10年続く中で、時代性を反映し、中身も変化していった。初期と直近のシーズンを比べることで、まずはその大まかな変遷をお伝えしたい。
(ここからは基本的に日本版の話をするので、『バチェラー』と略称で表記する場合は『バチェラー・ジャパン』を指す)
初期の『バチェラー』は、一言で言えば「下品」だった。そして、それをウリにしていた。
例えば、2018年に配信されたシーズン2では、公式に『日本一ゴージャスで過酷な婚活サバイバル番組』と宣伝され、予告編の中でも「色仕掛け」「嫉妬」「裏切り」といった言葉が踊っていた。つまり、女性同士の戦いでありサバイバルゲームであることが強調されていたのである。
これは裏を返せば「ルックスが良く金もあるバチェラー男性のことは、参加女性は全員が欲するはずだから奪い合いになる」という前提がないと成立しない。このような男尊女卑的とも言える価値観や、下品さが透けることで、視聴には至らなかった人も多いかもしれない。
だが、近年はそういった言葉は鳴りを潜め、代わりに「真実の愛を探す旅」「運命のプリンセス」といった言葉が強調されるように。中身も変化していて、2025年に配信されたシーズン6では、スタジオの今田耕司が「やっぱ原点に帰ってバチバチで行かんと!取り合わないと!」と煽るほど、女性たちがバチバチしていない。つまりサバイバルゲームと言うには無理がある状況なのだ。他にも、最後に残った女性3人に対して、バチェラー自身が「ほんとにみんなも仲良さそう」と声をかけ、3人が「ほんとだよね」と笑って頷くシーンがあるほどだった。
『バチェラー』は最終的にひとりを選ぶという番組の構造上、バチェラー自身が参加者を比較検討しなければならない宿命を負っている。比較されることで参加者たちはプレッシャーを感じ、「誰かを蹴落とさなければならない」という発想になるのも自然なことだろうし、その必死な思いが生み出す見せ場もあった。だが、初期にあったその〝奪い合う〟空気感は徐々に薄れていったのだ。
婚活から恋愛へ
番組の女性の描き方にも変化がある。参加者の数は、シーズン1では25名いたところから20名、16名と徐々に減っていき、シーズン6では14名と過去最小の人数に。その分、参加女性たちが番組を盛り上げるための〝駒〟ではなく、ひとりひとりがきちんと〝人間〟として描かれるようになった。
例えば、初期のシーズンでは、初回で落ちる参加者は、ほとんど人となりもわからず去っていくのが定番だった。だがシーズン6では初回で落ちることになる女性とのやり取りにも、かなり時間が割かれていた。シーズン6は女性参加者が14人いたとしても、1VS14の大きなひとつの話があるのではなく、1VS.1の話が14個あるように変化した――と言っていいだろう。各エピソードごとにヒロインが変わるような物語なのである。主役と脇役がいて、あからさまに順位をつけられるのではなく、最終的に選ばれなかった人も含めて全員がヒロインになりうる構成も、とても現代的なものである。
他にも、女性同士の部屋割りまで番組内で明示するなど、バチェラー男性と女性出演者の恋物語だけではなく、女性同士の関係性の物語も消費させようとしている意図が透けてみえる。『婚活サバイバル』として見たらそんなものは余計な情報だったかもしれない。だが、参加者同士の連帯の物語としてみると必要な情報であり、視聴者が参加者同士の関係性まで思いを馳せられるような演出が施されているとも言えるのである。
また、番組自体も8年も経てば、出演者の世代も変わってくる。初代バチェラーの久保裕丈は1981年生まれ、6代眼の久次米一輝は1994年生まれと、13歳の差が開いており、世代が交代したといってもいい。世代が変われば、参加者たちの価値観も変わってくるのも当然のことだろう。その変化は出演者の行動にも表れてくる。
初期のシーズンでは序盤からキスやハグが繰り出されるが、シーズン6では、全8話中の5話目で初のキス。そしてその次の回には「大丈夫だった?」と同意だったことの確認が入るなど、時代に合わせてアップデート。視聴者にとっては一方的に見えかねないキスが、不同意ではないことを確認するシーンまで入るのである。さらに、最後のひとりを選び終わるまでバチェラー自身は決してどの女性に対しても「好き」とは言わない。
ちなみに最後まで「好き」と明言しないのは、恋愛ドラマの王道でもある。言わないからこそ、通じ合ったときに感情が爆発する。中盤でキスシーンこそあるものの、最後まで好きという感情を言葉にしないのは、大ヒットドラマ『ロング・バケーション』と奇しくも同じ構成だ。
『バチェラー』は婚活バトルだった頃から一転、10年の時間をかけて、リアリティのある恋愛ドラマにシフトしていっているのだ。同じショーでも、刺激のある見せ場を連発するタイプのサーカスのようなショーから、人間ドラマをじっくり見せるストレートプレイのようなショーに変化したといったところだろうか。
そもそも「婚活」という言葉は、2008年から2009年にかけて、新語・流行語大賞に2年連続でノミネートされるなど、大きく広まった。2016年の番組開始当時は「婚活」のために「サバイバルバトル」をするという構造だけである程度の興味を惹きつけられたかもしれない。だが、視聴者の価値観は徐々に変化していく。人が蹴落としあう様をわざわざ見たくないという人も増えているかもしれないし、また、バトルするくらいならそもそも婚活などしなくてもいいと考える人もいるだろう。女性参加者も「結婚を機に自分の人生を変化させよう」という雰囲気をどことなく漂わせる人が初期は目立っていた印象だ。時代に婚活を強制する力がなくなっていけば、そもそもの「ルックスが良く金もあるバチェラー男性のことは、参加女性は全員が欲するはずだから奪い合いになる」という前提も通用しなくなる。
こうして、婚活という言葉は鳴りを潜め、初期にあった下品さはどこかに消えていった。もちろん、人間の本質を露わにするリアリティショーという意味では、下品な戦いは、それもそれで面白くはあったのだが、物語自体も変化していったのだ。サバイバルゲームのような性質は薄れ、恋愛ドラマに変化していった『バチェラー』。そしてその変化には、明確な転換点がある。『バチェロレッテ』である。
(次回へつづく)

いま世界中でさまざまなヒットコンテンツが生まれている「リアリティーショー」。恋愛、オーディション、金融、職業体験など、そのジャンルは多岐にわたり、出演者や視聴者層の年齢も20代のみならず50代・60代以上にも開かれつつある。なぜいまリアリティショーが人々に求められているのか。芸能コンテンツの批評やウェブメディアの運営を行ってきた著者が代表的な番組を取り上げながら、21世紀のメディアの変遷を読み解く。
プロフィール

しもだ あきひろ
エンタメライター、編集者。1985年生まれ、東京都出身。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニオタ男子」。大学在学中に執筆活動をはじめ、3冊の就活・キャリア関連の著書を出版した後、タレントの仕事哲学とジャニー喜多川の人材育成術をまとめた4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書・2019)を発売。3万部突破のロングセラーとなり、今も版を重ねている。カルチャーWEBマガジン「チェリー」の編集長を務めるなど、エンターテインメント全般に造詣が深く、テレビ・ラジオをはじめ多くのメディアに出演・寄稿している。また、音声配信サービス・Voicyでの自身の番組『シモダフルデイズ』は累計再生回数250万回・再生時間 20 万時間を突破し、人気パーソナリティとしても活躍中。近刊に『夢物語は終わらない ~影と光の”ジャニーズ”論~』(文藝春秋)。