いざ、ATへ
2005年はある意味、日本のトレイル界にとって大きな転換期だったような気がする。
この年、ATをスルーハイクするハイカーが3人生まれた。パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)をスルーハイクを経験した北海道の天気予報士の清水秀一さん、ロングトレイルの第一人者・加藤則芳さん、そして僕。それまで、スルーハイクで海外のトレイルを歩いた日本人ハイカーが4人しかいない時代に、一年で3人の日本人スルーハイカーが生まれるという奇跡的な年になったのだった。

出典:National Trails System Map and Guide(アメリカ国立トレイルシステム)
アパラチアン・トレイル(AT)とは、アメリカ合衆国東部にあるトレイルで、ジョージア州のスプリンガー山からメイン州のカタディン山まで約2,200マイル(3,540km)に及ぶ道のりを指す。このトレイルは日本でも馴染みのあるアパラチア山脈沿いに作られており、14の州を通過する。入植が東海岸から進み、アパラチア山脈を超え開拓されたことから、自然だけではなくアメリカの歴史や文化にも触れられる道である。毎年300万人以上がその一部をハイキングしていると言われており(2020年アパラチアン・トレイル保護協会)、全区間を踏破した者は「2,000マイラー」の称号を与えられる。また、2度、3度と全区間踏破するハイカーも少なくない、アメリカのハイカーに愛される全米で最も人気のあるトレイルなのだ。
2005年4月、僕は、ATの南の起点にほど近いアトランタへ向かった。
ホテルでトレイルまでの詳しい行き方を確認しようと苦手な英語をフロントで試したのだったが、聞き取れない、通じないという衝撃的な洗礼を受けた。食欲もなく、もはや戦意喪失。結局この日は時差もあり、不安なまま一睡もせずに朝を迎えた。その後、偶然にもバス乗り場で、ハイカーらしき人に声をかけられ、一緒にトレイルの南の起点まで行くことになった。彼とは、数日一緒に過ごすことになる。彼は出会うハイカーに僕を紹介してくれ、トレイルでの基本的な過ごし方を教えてくれた。彼がいなかったら僕はスムーズにトレイルに入り込むことは出来なかっただろう。
彼と別れてからも、知り合ったハイカー達に助けられ僕は少しずつハイカーとして成長していった。特にセクションハイカー(一定の区間だけ歩き、数年かけてトレイル全行程を踏破するハイカー)と仲良くなることが多く、彼らには野生動物の対処方法や食べられる植物などアメリカ東部の自然について色々と教えてもらった。スルーハイカーは踏破することに重きを置くので道を行き急ぐが、セクションハイカーは、踏破することだけを目的とせず、自然を楽しむ。彼らの歩き方が羨ましかった。共感すると共に、何年もATを歩いている先輩ハイカーとして彼らをリスペクトしていた。
ATでは、ハイカーから情報が入ったり、一定間隔で設置されているシェルター(避難小屋)に備え付けてあるレジスター(記録ノート)で、情報を得たりする事が多い。3人の日本人ハイカーで一番最後に出発した僕は、加藤さん、清水さんの書いたレジスターを見て、彼らが何日先を歩いているかなんとなく知ったり、他のハイカーから二人の情報を得ることもあった。特に加藤さんは、少しでも荷物を軽くするハイカーが多い中で、一時期重いノートパソコンを背負っていたこともあり、話題に出ることが多かった。トレイルの歩みを進めると、加藤さんに次第に近づいていることは感じていた。
ある日、突然僕の背負っていたバックパックが壊れた。タイミングよくアウトドアショップのある大きな町がすぐ先にあったので、町の近くの森でテントを張った。
翌日早朝にアウトドアショップに行き、売っているバックパックの中で一番大きいものに荷物を入れてみた。壊れたバックパックは80リットル、店にあった一番大きいバックパックは65リットルだったが、店員の助言もあって、持ち物はなんとか65リットルのバックパックに収まった。
アウトドアショップを出ようとした時、瞬間的に日本人とすれ違った気がした。振り返るとほぼ同時に、「斉藤さん?」と言う声が聞こえた。僕もとっさに「加藤さんですか?」と日本語が思わず出た。加藤さんは、もともとここに来る予定はなかったのだが、前日の休憩時に地図を落としたので、仕方なく買いに来たと言った。
もし僕のバックパックが壊れなかったら、もし加藤さんが地図を無くさなかったら、僕はきっと加藤さんに会うことなく、彼を追い越していただろう。その後、急遽加藤さんと一緒に食事をし、トレイルで初めて、念願の日本語での会話を堪能した。お互いに日本語の通じる同志を見つけたからなのか、共通する出来事が多かったからなのか、加藤さんとは再び先の町で会う約束をして別れた。約束通り先の町で再会し、別れてからは、町に降りた時にメールで情報交換をした。当時のウィンドウズには日本語のフォントがなかったので、僕はローマ字でメールを送り、加藤さんは英語でメールをくれたのだが、英語が話せない僕には翻訳が大変だったことを今でも覚えている。それでも、加藤さんからのメールは僕にとって励みになった。そんなやり取りは、僕がトレイルを歩き終えてからも、加藤さんがトレイルを歩き終えてからも続いた。
僕がゴールする日、天気が良くなかったこともあり、僕以外のスルーハイカーは町に降りたり、一気にペースを落として天気の良い日に合わせて踏破日を調整していた。踏破前日、マウントカタディンの麓にあるシェルター(避難小屋)に泊まったのだが、当然一人だった。
この日、僕宛てにサラという女性の記者が訪ねてきた。取材をしたいのだと言う。名刺にはニューヨーク・タイムズと書いてあった。出発時間を聞かれ、レンジャーセンターの前で待ち合わせることにした。翌朝、サラとカメラマンの男性がやってきた。ここで初めて本当に取材なのだと確信できたのだった。
マウントカタディンは天気が悪く霧に包まれていた。カメラマンもサラもハイカーではないので、歩くペースが随分遅かった。ある程度撮影が終わり、「MASA、先に言ってもいいよ」と言われるや否や、僕はこれまで歩き続けてきた歩幅とスピードで自然に歩き始めていた。ぐんぐん登っていくと霧に包まれたマウントカタディン山頂にあるプレートが目の前に現れた。プレートに手を付き、プレートの足についているホワイトブレイズ(ATのルートを示す白い長方形のマーク)を見つめた。この先にホワイトブレイズはもう無いんだよな。ここで本当に終わりなのだろうか。僕は空を見上げた。誰も居ない静かで穏やかな終わりだった。後から数名のデイハイカーがやってきた。追いついてきたサラが、デイハイカー達に僕が日本からやってきたこと、今2,000マイルの終わりを迎えたことを少し興奮気味に話すと、全く眺望のない山頂はにわかに祝福に包まれたのだった。
後に、加藤さんと話したことがある。トレイルを歩くことは人生を一つ終わらせることに似ている。スルーハイカーとして右も左もわからないまま歩き始める。色々なハイカーやトレイルエンジェル(トレイルでハイカーを手助けしてくれる人の総称)に出会い、スルーハイカーとして成長していく。スルーハイカーとして呼ばれることを自覚し、ハイカーとして成熟した後にゴールを迎える。そうしてスルーハイカーとしての生活が終わる。まるで人生のようだと。その話を聞いて僕もそう思った。
この時の僕は、まだこの先にハイカー人生があることを知らずにいた。もうトレイルを二度と歩くことはないのだろうと思っていた。もしかしたら、いつか、遠いいつか。歩くとすれば、定年退職してからもう一度ATを歩きたい。当時の僕は、ぼんやりと先の見えない未来を描くだけだった。
(続く)

トレイルはアメリカ発祥の概念で、山野に付けられた道を歩く、いわゆる「山歩き」。 北米ではポピュラーなアクティビティであり、文化として根付いている。 山に登るのではなく、山を歩くとはどういうことか。なぜ人々は山を歩くのだろうか。 20年にわたり国内外のトレイルを歩き、日本におけるトレイルカルチャーの普及に努めてきたプロハイカーが、その豊富な実体験を通して「山歩きの哲学」を伝える。
プロフィール

(さいとう まさふみ)
プロハイカー
1973生まれ。山形県新庄市出身。アパレルブランドやディベロッパー企業などに勤務後、
2012年より日本で唯一のプロハイカーとして活動。トレイルカルチャー普及のため、海外のトレイルを歩き、アウトドア媒体を中心に寄稿、講演やイベントを行う傍ら、地元山形にトレイルのコースを作る活動「YLTクラブ(山形ロングトレイル)」に携わる。スルーハイク(単年で一気にルートを歩く方法)にこだわり、踏破した国内外のトレイルだけで25,000km(地球半周以上)を超える。
公式HP https://hikermasa.wixsite.com/
Instagram @hikermasa
Facebook https://www.facebook.com/saito.masafumi.3


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