なぜこの世界で子どもを持つのか 希望の行方 第3回

反出生主義と現代

中村佑子

反出生主義とは何か

 宗方さんの夫は、子どもの人生が生きるに値するかどうか悩み、子どもを持つことを躊躇していた。

 子どもにとってこの世界は生まれるに値するか。この問いは、子を持つことを願ったことのある人が、一度は抱くものかもしれない。

 気候変動は加速度的に進み、酷暑、洪水、山火事と、この地球はますます住みにくい場所と化している。世界各国で中間層が崩壊し貧富の差は広がる一方だし、中道的な政治組織が成立しなくなり極右や強権的な政治家の台頭により、戦争の気配は一層濃くなっている。生きていくにあたっての脅威を挙げていけば、数限りない。

 しかしこうも問えるはずだ。第一次大戦、第二次大戦の前後で子を持った親は、もっと過酷な選択を迫られていたのではないか? 相対的には、実際の殺戮が全世界で起きていた時代よりは、今の方が良いとは言えないだろうか。

 いま戦地となっている地域の両親らは、積極的に子どもを持とうとしている事実もある。彼らのことを無責任だと言えるのか? 子どものメリットを考え、すべてのリスクを消して準備万端整えてから子を迎えるなどということは、どんな時代も不可能だろう。

 子どもを持つことはどんな状況でも手放しで善なることなのか?この問いは、一つの考え方を彷彿とする。「反出生主義はんしゅっしょうしゅぎ」だ。

 誕生害悪論と言われる反出生主義の考え方は、人間全般、あるいは意識ある存在はすべて生まれるべきではないという強烈な思想だ。人間存在を否定する悲観主義や厭世主義の考え方については、哲学者では古くはショーペン・ハウアーがいるし、文学では強烈なペニニズムをかかげるルーマニアのエミール・シオランもおり、彼らの思想については後述するが、南アフリカの哲学者、デイヴィッド・ベネターが提唱した反出生主義は、意識ある存在はすべからく、この地球に生まれること自体が悪なので、子どもを持つことも当然間違ったことであると主張する。既に生まれてしまった生命に対して自殺しろとまでは言わないが、これから生まれる生命はすべていない方がいい、生まれてきたことの快より不快が勝つならば生まれてこないほうが良いし、高等動物である人間のふるまいがひどく利己的で、世界を壊しかけている今の世界においては、誰しも生まれない方がいいと考えるこの衝撃的な主張は、世界中で賛否両論をもって受け止められた。

 反出生主義という言葉は、英語のanti-natalismの訳語として日本では2011年頃登場した。natalismとは高い出生率を維持することで人間社会を豊かにするという考え方で、たとえばハンナ・アーレントは「出生主義」と呼ばれるこの言葉で、大戦を引き起こした人間に対し批評的視座に立ち、人間がこの世界に生まれることそのものを全面的に肯定した。anti-natalismとはつまり出生主義へのアンチ、出生は社会を豊かにしないと考える。マクロ経済学では、たとえば中国のひとりっ子政策など人口抑制策を反出生主義と呼ぶこともあったが、ベネターが主張しているのは人類が出産を抑制するだけでなく、より強い意味で絶滅すべきであると考える点で、激烈さが異なる。

 日本では生命哲学者の森岡正博がベネターの議論をいち早く紹介したが、森岡氏は反出生主義を推奨する立場ではなく、むしろ長年の生命論、出生主義の立場から批判的見地をもって取り上げる冷静な紹介者であった(森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?生命の哲学へ!』筑摩書房、2020年等)。その後『現代思想』の特集や、デイヴィッド・ベネターの訳本が出て、日本では急速に注目を集めていった。

 ベネターの著作(デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことも害悪』小島和男、田村宣義訳、すずさわ書店、2017 年)を追うと、生まれるに値する生と、生まれるに値しない生という議論が長く続く。生きていく上で一つでも「不快」があれば、たとえその他の多くの出来事が「快」であったとしても、人は良い記憶ばかり優勢にクローズアップする傾向があるので、その人の人生は不快なものなのである。だから生まれてこない方が良かった、と論理的に結論づける。人間の「快」と「不快」は非対称なものであり、決して平等に同じ重さを持つものではない、一つの「不快」が多くの「快」を駆逐するほどの意味をもつとベネターは考える。

 たとえば、ベネターはドナルド・コワートという実際の人物を例にあげて説明する。コワート氏は、25歳のとき車のガス漏れへの引火事故で全身に大火傷を負った。彼は両目、鼻、耳などを失ったが、皮膚移植など最先端の医学的努力により驚異的に回復し、その後弁護士となって家族をもち、寿命ともいえる71歳で、白血病と肝臓癌の合併症で死去した。しかしコワート氏は生前何度も「患者は治療の拒否権を持つべきだ」、つまりインフォームドコンセントを擁護する立場での講演を行ったという。医学に命を救われ、名誉ある職にも家族にも恵まれて高齢まで生きた彼だが、その救われた命を自分で拒否もできる権利をめぐって熱心に講演をしたというのだ(小島和男『反出生主義:「生まれてこないほうが良かった」とはどういうことか』青土社、2024年)。この例をもってしてベネターは、傷の回復後にどんなに成功し幸せをつかんでも、やはり不幸だったと結論づける。たった一つの不快は快楽に打ち勝ち、快楽と不快はそもそも不均衡で、平等の重さではやってこないことを暴いてみせるのだ。

 ベネターによれば不快を悪とし、快楽を善とするなら、生きることに不快や苦悩はつきものであるから、生まれてくることそのものが悪であり、生まれてこないことが善となる。生まれてこないよりも、生まれてくる悪が勝る。この論理的帰結が「生まれてこないほうが良かった」の中身である。決して感情的に、はたまた文学的な価値観として生まれてこない方が良かったと言っているのではない。論理的に生まれてこないほうがいいと結論づけるのだ。こうした考え方のベースには「分析哲学」という、思考を基礎付ける言語の論理性に哲学的明晰さの根拠を置く学問的姿勢があり、だからこそベネターの論理推論は哲学者たちにさまざまな形で反証されている。いったんここでは、分析哲学上の反証の内容には触れない。

 ベネターは上記の「生まれてこないほうが良かった」という誕生害悪論からもう一歩、将来世界に向けて子どもを産むことは悪であるという生殖否定へと議論を進める。親は将来的に子どもにふりかかる困難や苦しみをはじめから避けてあげねばならない、そのためには生み出さないことが一番だと考える。そこからベネターは早期中絶を推奨し、避妊の奨励へと話を展開する。妊娠した女性がもしお腹の子を産みたいのなら、正当な理由が必要だとまで言う。反出生主義は女性を産む性としか見ていない、ミソジニー的な問題点がある、という指摘がある所以だ。

 つまりベネターは自分およびすべての生は生まれてこないほうが良かったと考える「誕生害悪論」から、これからもずっと子を生むのを否定する「生殖否定」へと歩を進め、その上で人間および意識や痛みのあるすべての動物もまた、ゆるやかに絶滅していけばよいという「絶滅推奨主義」とも「生物世界崩壊論」ともいえる論を展開していく。

反出生主義が投げたボール

 ベネターの議論を追っていると、「快」「不快」や幸福という、その人にとって絶対的な価値をもつものを、他者が何かと比べて相対的に推しはかって良いのかという疑問を何度も抱くことになる。人の生命を論理的正統性で判断して良いのかと感じ、読んでいると正直つらくなっていく。

 生が必然的に引き受けざるを得ない生老病死という苦難を乗り超えようとしてきたすべての宗教、芸術、文化を一蹴するような冒涜を感じるし、論理的に勝ち誇ったような語り口にも閉口してしまう。また快い生しか受け入れないとでもいうべき優生思想がベースにあり、たとえ何らかの障壁をもって生まれてきたとしてもその人の生に価値があるどうかは誰も問えない、その人だけの生の意味があると、全力で抗いたくなる。

 しかしこのセンセーショナルな主張は賛否両論、衝撃を持って受け止められ、私の周りでも共感する人が増えてきており、最近「私は反出生主義だ」と宣言する人を何人か見かけた。彼らが言う「反出生主義」がベネターの唱えるものと重なるかどうかはわからない。しかし、この世界に新たな生命を生み出すことに大なり小なりの躊躇を感じる人が多いというのは、これまでの取材でも日々感じていた。彼女、彼らの取材を通して思うのは、反出生主義への共感の底には、家庭環境の束縛や、社会状況のつらさ、孤独感など、自分の<生>への揺らぎや否定のようなものがあるのではないか、ということだ。このブームとでもいうべき流れは無視できないし、何らかの時代の抑圧を代弁しているのかもしれない。だからこそもう少し考え続けたいと思う。 

 まず一つに、子をもつ方が良いと考える「出生主義」の価値観は、生殖を無条件に肯定することを前提にしており、クイアをはじめ、生殖に関する多様な価値観を排除しているだろう。子を持った方が良いという社会的抑圧のなかで、子を持つか持たないかの選択に苦しむ人にとって、反出生主義は救いの言葉に思えただろう。

 また、新しい生命の誕生は善であると考える「出生主義」は、二つの世界大戦という大量殺戮を経験した人類が無意識的にそう願った時代状況と歩みを一にしている。国家や権力者によって世界をずたずたにされた人類が、最もか弱き赤ちゃんから発せられる倫理を求める。これは、ハンナ・アーレントの全体主義批判の中心的な思想でもあった。反戦と出生主義は深いところで通底している。子を持つことの希望にも時代性が反映しているのだ。

 かつての社会では夫婦が結婚して子をもつときに「なぜ?」とは問われなかった。しかし今は、キャリアをどうするのか、子育ては誰が担うのか等、なぜ子を持つのかと理由を問われざるを得ない。そこに「なぜ?」への答えとして、反出生主義が一つの選択肢として入り込んでいったのだろう。

 反出生主義の投げたボールはこのように、さまざまな形で現代を生きる私たちの琴線に暴力的に触れたのだろうことは深く理解できる。

子どもは他者

 実は宗方さんには、こんな質問もしていた。「なぜ自分を生んだのか」と子どもに言われたらどう答えますか、と。

 後日、宗方さんからこう返答があった。「夫の意見は『それを君に考えさせるためだよ』というものでした。正解がない問いだからこそ自分で考えて欲しい。それに親に答えを出されたくないとも。『僕が子どもに望むのは生きる意義を自分で見つけて欲しいということ。それを見いだせる力をつけさせることは親としてやりたいが、あとは勝手に見いだしてくれと思う』」

 宗方さんは、夫の意見を「あっぱれと思った」と言うが、宗方さん自身は、そう言わないように育てたいし、「私があなたに会いたかったから」と答えてしまうだろうとのこと。

「エゴだなと思いますが、あなたに会いたかったという愛情を伝えたいです。またその問いの裏側に何か悩みを感じていたとしたら、そこに寄り添う親でありたいと思いました」と返答してくれた。

「なぜ自分が生まれたのか」という問いに、親が答えを用意することではない、生まれた意味は自分で考えて、というぶっきらぼうな断絶は、子は他者であると親がしっかり意識できているという意味で、子にとっては希望となるだろう。子どもが与えられた人生を良いものと思うか悪いものと思うか、価値のあるものと思うかないと思うかは、本来親であってさえも踏み込めないはずだ。子は親にとっても存在論的、倫理的に他者である。その感受性、思考には踏み込めないし、踏み込んではいけない。  

 だとしたら「生まれてこない方がいい」という反出生主義における親の判断は、子にとっては親と子を同一視しすぎで、「生まれてよかったかどうかは子が決めること」という可能性を排除してしまうのではないか。

生の根源的受動性

 そう、反出生主義は普遍的な問いを私たちに思い出させた。子どもを持つことの本質的非対称性だ。

 子どもは生まれてくることを選べないけれど、親は子を持つことを選んでいる。子にとっては暴力にもなり得るし、子は本質的に受動態として生命を与えられている。この親と子の圧倒的な非対称性をどう考えるか。

 子を持つことは親のエゴではないのか。いやエゴなのだろう。だとしたら 何が問題なのか。この倫理的問いかけに、古くは芥川龍之介が応えている。

『河童』(岩波文庫)は、河童界の出産が戯画的に描かれる。お腹の胎児に向かって、生まれて来たいか聞くことができるのだ。

「(前略)父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです」

 そうすると、腹の中の子どもは生まれたくないと答える。

「(前略)僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」とまで河童の子は言う。かくなる、ほぼ大人並の治世と判断力をもつお腹のなかの河童の子は、生まれると望んだ場合でも、すぐに歩き出す。ほぼ成人の状態で母親の胎内にいるのだ。

 これは人間以外の動物では至極当たり前のことだ。人間は二足歩行を得た代わりに、女性の子宮口が狭くなり子どもの頭が産道を通らないので、超未熟児で出産せざるを得なくなった生き物だ。知性を得た代わりに人間は、生まれて数年は自分では何もできない、つまり保育者の数年の生活を犠牲にして生まれるよう宿命づけられている。だからこそ難問が多く生まれる。

 アマゾンの部族ヤノマミは特殊な産児制限を持つ。子どもを産んだあとに、その子を生かすか殺すか、産んだ母親が決めるという儀式がある。母親がこの子は死ぬべき運命にあると思えば、生まれた子をバナナの葉にくるんで森に捨てに行く。それを決断できるのは、たった一人産んだ者だけだ。これは母親が自己と対話して決めているのではなく、本来は河童のように胎児自身が決めることを、母が代弁しているようにも感じられる。

善百合子の呪縛

 思えば最初に「反出生主義」という言葉を聞いたのは、川上未映子の小説『夏物語』(文藝春秋社)が刊行された際、哲学者の永井均とトークショーが行われたときのことだった。イベントタイトルは「反出生主義は可能か? シオラン、ベネター、善百合子」というものだった。

 この小説には強烈な存在感を放つ善百合子という人が登場する。善百合子は、子を持つことは親の「身勝手な賭け」だと言う。

 彼女は精子提供で生まれた子で、実の父親だと思っていた男から性的虐待を受けて育った、生を呪うような女性だ。一方主人公は今で言うアセクシュアル、どうしても性行為ができないが精子提供で子どもを生もうとしている。その主人公に善百合子はこう問う。

「あなたはどうして、子どもを生もうと思うの」

 うまく答えられない主人公に善百合子はこう言う。

「人が生まれてくるっていうことは、素晴らしいことだって信じているからだよね」「(前略)いったい自分が本当のところは何をしようとしているのか、それについては考えもしない」「もしあなたが子どもを生んでね、その子どもが、生まれてきたことを心の底から後悔したとしたら、あなたはいったいどうするつもりなの」

 過酷な生育環境の善百合子は、生の内で起こったことよりも、生まれさせられたことそのものが、もっとも悪であると考える。

「(前略)わたしの身に起こったことなんて、生まれてきたことにくらべたら、本当になんでもないことだから」

 まさに強烈な反出生主義者だ。そしてすべての親に問う。

「(前略)どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないんだよ」

 子を生むと決めた親は、子に逃げもかくれもできない「生」を与えるという、根源的暴力を行使する。一方、子どもは根源的受動性を背負って、この世に誕生する。しかし、考えてみれば親もまた根源的受動性をもって生を引き受けている。受動的に生を引き受けた人間が、今度は能動的に生を作ること。この生の往復運動を連鎖させてきたのが、人間の歴史だということになる。

 親とはまるで神のような存在ではないか。子の「存在」、つまり無から有を作り出しているのだから。それを暴力的と捉える善百合子を、責めることはできない。神の暴力に抗っているようなものだ。

 親がもつこのエゴの論理を善百合子はこう看破する。

「みんな賭けをしているようにみえる」「自分が登場させた子どもも自分とおなじかそれ以上には恵まれて、幸せを感じて、そして生まれてきてよかったって思える人間になるだろうってことに、賭けているようにみえる」

 自分と同じように子どもも幸せを感じるだろう、自分が信じるように子どもも世界を信じるだろう。子どもを自分と同じようなものとして想像することは、一種の「賭け」だ。さらに親は、この賭けに負ける気なんてない。つまり自分とまったく別の世界の捉え方、生を呪うような人生を子が生きる可能性を、あらかじめ退けている。だから生むことができる。

 善百合子は小児病棟のことに言及する。痛みをもって生まれ、痛みだけを感じて死んでいくような子がNICUにはいる。医師も親たちも、自分たちの「身勝手な賭け」に負けないためにだけ、病気の子を機械につなげ必死に死なせないようにしているように見える。亡くなったら、大人たちはその悲しみを乗り越えようとし、「(前略)生まれてきてくれてうれしかった、ありがとう」とまで言う。誰も本当には子どものことは考えていないのだと。

 猛烈で、壮絶な、反出生主義だ。しかしそうなると、親が子をもつことは善悪でははかれないことになる。なぜなら、善悪という道徳的判断は、無から有が生み出されたあとの世界での、世界内での価値判断だからだ。親が生を生み出す行為はその手前、存在の手前の、無から有が生み出される可能態としての「場」での決断なのだから。

親は神様をやっている

 先述のトークショーでの川上と、哲学者・永井均との会話も追ってみたい。

 川上「人間が他の人間を生み出すことにも世界創造のビッグバンと同じ一面がある。とすれば、人間の誕生によってそこから開かれる世界そのものが生じる。そしてその死とともにその世界は消失する。他の世界と比較不可能な、唯一一回的で包括的な出来事、つまり空前絶後の出来事なので、複数の並列的共存を前提として作り出された善悪という基準で評価することができない、と永井先生は書かれています」

 永井均「(前略)子どもを産むということは、自分が関与できない新しい世界を創り出してしまうことであるけど、それはつまり、世界を創り出すどころか、世界を意志的・計画的に創り出していくような神を無計画に創り出してしまうということだ、ともいえる。親自身だって自分の親にそういうふうに創り出されてしまったわけですから、我々はみなそういう〈神的=悪魔的〉な存在であるわけです」

 さらに永井はこう言う。「(前略)産むということにある特殊な悪が隠されてあるというのは本当のことだろう」

(『文藝別冊 川上未映子』河出書房新社)

 人間は神にも似た子産みという行為を喜びと捉え、行い続けてきたのだが、そこには悪魔的な何かが隠蔽されていると永井は考えている。

 永井は哲学者として独我論をずっと考え続けてきた。唯一の「この私」は何とも取りかえることができないかけがえのないものだ。だからこそ、その生が受動的に与えられているということは、根源的に悪魔的なもの、と感じられるのだろう。

 ここまで反出生主義というものを考えてきて、でもだからこそ、人は子を生むのだろうとも感じられる。

 根源的受動性をもって生まれてきた子であった「私」が、今度は親となって根源的受動性である存在を、この世に生まれさせる。子は親になり、また子を生む。人間を支配関係で見る人であれば、これは暴力の連鎖だと捉えるところかもしれない。

 親と子には本質的な非対称性があると考える人は、親もまたかつて子であったのであり、生んだ子もまた親になるかもしれないという、事態の二重性を見落としているのではないか。

 これは「母の束縛」などの議論でもそうだが、「私」は母でもあり娘でもあるという、二重性の話があまり出てこない。娘は母の被害者として、「私を生んだ母が悪い」と思うかもしれないが、その娘も母になる可能性があるし、現に母になっている人もいる。被害を受けたと責めるだけでは問題は終わらず、被害と加害は明確にはっきりとは分けられず、たえず往復運動を行っている。それが生を引き受け、その行為を連綿と続けてきた生命の歴史なのではないか。

 根源的な受動性を引き受けた私が、また子を生んだ。この二重性で考えたとき、そこには、だからこそ希望がある。それは可能性を生むという問題だ。

 もしその子の生が快か不快か分かっていたら、生むだろうか。子はすべてどんな生を送るのか可能態そのものとして出生させられる。親は子を生もうと意志的に、能動的に生んでいるのではなく、自らが引き受けた可能性としての生を、また次の可能性に向かって放たざるを得ないから生むのではないか。

「よかった、まだわたしたちは他人だ…」とは漫画家やまだないとの名作『西荻夫婦』のなかのセリフだが、夫婦は当然のことながら親子もまた他人だ。子には親が触れることのできない、不可触の領域があることにこそ、圧倒的な尊さがある。その魂には、親でさえ触れることはできない。ましてやその子が子を産むかどうかという神の領域の決断に触れることはできない。だからこそ、そのオープンな可能性そのものを、かつて子だった親は、生み出すのではないだろうか。

宗教なき時代に

 反出生主義の思考を追っていて思うのは、生老病苦とは必然的な人間の苦しみであり、そこからの救いを宗教はずっと説いてきたはずで、宗教への親和性がなくなった社会が、反出生主義という過激かつ人を論破する物言いに驚いて、新鮮味を感じているのではないかということだ。

 本来人間の生の苦しみは、生まれた方がいいか悪いのか、生きるか死ぬか、という二者択一ではなく、もっと複雑で繊細な、答えが出ないことこそが答えであるような、命がけの言葉が必要なのではないか。

 反出生主義を早くから日本に紹介しつつ、常にそれを乗り越える生命の哲学を構築しようとする生命哲学者の森岡正博の重要な指摘は、アジアでもっとも反出生主義的考え方をしているのは誰かといえばそれはブッダそのもの、ブッダの言葉が残る原始仏教であるという指摘だった。人の生は「一切皆苦」、苦しみが尽きないが、普通の人の生は死んでもまた別の世界で生まれ変わり、苦が尽きない生の連関を永遠に廻っていかなければいけない。原始仏教は、この生命輪廻を厳密なものと捉える。修行をして徳を積んで、涅槃に至ればはじめて輪廻が断ち切られ、宇宙から消えて救済へと移行する。生の連関からの脱出と自己消滅こそが、救済なのである。生命が死んでもなお輪廻していくという「逃げられなさ」は、反出生主義が言う根源的暴力に当たるだろうし、「もう子を生まない」という現代の女性たちの選択は、輪廻の円環からの脱出の、姿を変えた形なのではないかとさえ思える。

 生老病苦という人間の生の苦しみからの解放を言葉の力で解決し、人々に力を与えるものが宗教だとしたら、宗教が相対化され、その意味を失った私たちがすがり、癒しを求めるものが反出生主義とも言えるであろう。

 また根源的暴力という言葉は他の生物を食べることでしか成り立たない、動物が本来的に持っている暴力性を想起させる。生命は他の生命を殺して食べる罪を引き受けることでしか前に進めない。根源的暴力である食べるという行為が成り立たせている生は、つねに他の生命の犠牲の上に成り立ち、古代の人間はその罪を自覚しながら、生命を祝福する儀式を行い、そうして自分たちのこともまた殺されゆく生命と対称的で同列なものとして扱い、加害/被害の形式を反転させる意味を込めていた。アイヌのイヨマンテ(熊送り)などの儀式や、諏訪大社の鹿や猪の頭を捧げる御頭祭などもそうであろう。生命が有している根源的暴力を引きうけ、矛盾に満ちた生を理解する認識を絶えず更新し、そうして殺されゆく者とも、一見生に価値のない者とも、同じ地平で戯れることに、私たちの文化は腐心してきたはずなのだ。

 生きる意味を考えるのに、論理的帰結の答えだけを得て安心しているのは、言葉もそこに付随する感情も認識も、貧しすぎやしないだろうか。世界は矛盾に満ちているし、言語的に捉えられる部分もまた限られている。

「生きろ」が成立するか

 また森岡正博は、ハンス・ヨナス研究者で哲学者の戸谷洋志との対談(『現代思想 特集=反出生主義を考える』青土社、2019)でこう言う。

「『生きよ、生き続けよ』ができなくなった人類に対してそれを言わない哲学というものをもわれわれは構想すべきだと思っています」

 手放しで出生は善なのだ、人類全体にとって、種にとって、世界にとって、社会にとって善なのだとは言えない時代に私たちは生きている。この地球の先行きが変わらないのであれば、人類はいつか絶滅するだろう、他の生物と同じように。そんな世界線に入った私たちは、手放しで「生きろ」という以外の言葉をもたければならない。だとしたどんな言葉を言えるだろうか。

 映画『もののけ姫』に「生きろ」とだけキャッチコピーをつけられた時代は寂しいけれど、過ぎ去ってしまった。

 宮崎駿は若いカップルが結婚するとき「とにかく子どもを持て、何人でも持て、理由もなく」という祝言を贈るという(宮崎駿『出発点 1979-1996』岩波書店)。一方の極にすべての誕生が害悪であるという反出生主義があり、もう一方に、宮崎駿がいるとすれば。宮崎駿の観念は、まるで「産めよ殖やせよ」とでもいうべき強い出生主義だ。

 そういえば映画『君たちはどう生きるか』は増殖の映画だった。カエルは増え、魚は増え、漏れ出し溢れかえっていた。あの増殖の戯れは、生命が希薄化した時代への宮崎流の抗いだったのかもしれない。「理由もなく産め」と祝言を送る宮崎の、無意識レベルの欲求。生命は増殖する。親は子を生む。

 では「生きろ」という言葉以外に、私たちは子にどんな言葉を与えられるのか。

 一つは、誕生害悪と誕生肯定のあいだの多くのグラデーションに、言葉を与えていくことではないか。その人にとって世界がどう見えているのか、それを抜きにして、一様な誕生害悪論も、誕生全肯定論もないだろう。それは善悪の二元論を超えるということでもある。

 誕生の瞬間は奇跡的な経験だ。狭い産道を通って苦しみのうちに生まれた子どもを手に抱いたときの言葉にならない感動。自分の子ではなくとも、子どもが泣いているとき、なんとかしてあげたい、どうにか助けてあげたいと思う気持ちの湧出はどこから来るのか。かつて自分もまた、その泣いている子どもだった。弱くいたいけな子を抱く時、私たちはかつての自分を抱いてもいる。その気持ち全体で人間は子どもをもつのではないか。

 一方で世界には悪があり、醜い罪が多くある。その罪に巻き込まれ、生まれてこない方が良かったとしか思えない人がいる。反出生主義が注目されるのも、自分の生を呪い、生まれてこない方がよかったと思う状況を抱えた人が増えている証だ。

 両極のあいだの、あるいは両極の対立を超える言葉が私たちには今必要である。生まれない方が良かったという言葉は、本来一人で言えることなのだろうか。私たちは関係性のなかにいる。子はまた親になる可能性をもつ子を生む。子を抱くとき親は子に抱きとめられ、そうして自分の子ども時代を抱き、自分の親を抱きとめ、またはるか彼方の、子が親になったときの可能性をも抱きとめ、それは血が繋がった子々孫々だけでなく、目の前の子に対しても私たちはそうしているのかもしれないのだ。そうやって生はつながってきた。一人として、誰ともつながっていない生はない。だからこそそれは、呪縛にも恐れにもなるのだろう。人間は自らを神的な立場に置きながら、その空恐ろしさを脇に置き、深淵を覗かないようにして、生まれた「生」の内部において祝言を唱えてきた。

「生きろ」にかわる言葉は何か、答えはない。ただ、論理的に考えて生まれない方が良かった、あるいは生まれた方が良かったとは、とても言えないということだけだ。生を肯定するでも否定するでもない、二項対立を超える言葉を一人一人が探せるだろうか。

 第2回
なぜこの世界で子どもを持つのか 希望の行方

世界各地で起きる自然災害、忍び寄る戦争の気配やテロの恐怖、どんどん拡がる経済格差、あちこちに散らばる差別と偏見……。明るい未来を描きにくいこの世界では、子どもを持つ選択をしなかった方も、子どもを持つ選択をした方も、それぞれに逡巡や躊躇、ためらいがあるだろう。様々な選択をした方々のインタビューを交え、世界の動向や考え方を紹介する。

プロフィール

中村佑子

1977年東京都生まれ。映像作家。立教大学現代心理学部映像身体学科兼任講師。哲学書房にて編集者を経たのち、2005年よりテレビマンユニオンに参加。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』が、著書に『マザリング 性別を超えて<他者>をケアする』『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』がある。

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反出生主義と現代

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