対談

災厄と想像力――3.11は私たちに何をもたらしたのか

哲学者と社会学者の対話 戸谷洋志×田村あずみ
戸谷洋志×田村あずみ

■「溶けた個」と全体主義

戸谷 田村先生の著書を拝読して特に印象的だったのが、災厄には、日常に異質なものが入り込んでくるという受動的な側面だけではなく、そこから新しい主体を再形成していけるという能動的な側面もある、という議論です。3・11以降の社会運動というのは、まさにそういう新しい抵抗の形だとおっしゃっているように読みました。

 私の本に出てくる哲学者の中にも、アンダースやデュピュイなど災厄を「絶対に避けるべきもの」と捉えている人がいる一方で、「災厄は起きる」ことを前提にしながら、しかもそれは悪いことばかりではないというところまで踏み込んでいる哲学者もいます。そうした考え方を理解する上でのヒントを、この本から与えてもらった気がしました。

 一つ、先ほどお話に出た「溶けた個」についてお聞きしたいのですが、これはどこか排他的な性格を持ってしまうことにはならないのでしょうか。つまり、何と言っても「溶けている」わけですから、そこではもはや「個」を維持できないのではないか、全体主義のようなものにはつながらないのかという疑問があるのですが。

田村 たしかに、運動やデモというものは、個人が全体の中に溶けて熱狂して、だからこそ力を持つという部分はあると思います。

 でも、私はその中でも「個」はあると思うんです。全体の中に溶けてはいても、そこには自分自身の身体があって、痛いとか悲しいとかを感じる自分がいるわけですよね。自分が何を善いと感じるか、心地よいと感じるかという基準も当然ある。全体主義みたいなものに流される前に、「溶けた個」としてどういう場にどう関与するかには、やはり選択があるような気がするんです。

 インタビューの中で聞いた「私の誇りのために(運動を)やってる」という言葉から考えても、完全に溶けてはいないのかな、と。完全に独立しているわけではないけれど、完全に失われてもいない、そういう個のあり方があるのではないかと思っています。

戸谷 たしかに、ご著書を読んでいても「溶けた個」として運動に参加している一人ひとりはそれぞれ違った信念を持っているし、田村先生もその多様性を非常に尊重されているように感じました。

 

■哲学者は「身体性」と情動をどう捉えたか

 田村 私は、自分が3・11後の抵抗運動の中で見てきたものと照らし合わせながら、戸谷先生の著書を拝読しました。その中で、ハイデガーやアーレントは身体性や情動をどう考えていたのか、ということが気にかかりました。

 ハイデガーの言う、現代社会においては、自然も人間も、すべてがエネルギー源としてだけ見られていて、システムの中で有用に働く存在になるように駆り立てられている、それ以外のあり方を想像できなくなっているというのは、本当にそのとおりだと思いました。そして、どうすれば他の可能性を想像できるのかというときに、戸谷先生が抵抗策として挙げているハイデガーの「放下」という概念を魅力的だと感じました。ご著書では「たった一つの考え方しかないと思い込むことの拒否」というような説明があります。
 ただ、戸谷先生はそれを「落ち着くこと」とも解釈しています。そこには熟考が必要なのだというように、ハイデガーはさらなる思考を要求するわけですよね。でも、私は今の時代の不安を抱えた個人が他の可能性を想像するには、理性的な思考から出発するのは難しいんじゃないかという思いがあって。だからデモの現場の身体的経験から生じる情動のほうに注目したわけです。ハイデガーは原子力時代の思考の可能性をどのように信じていたのか、身体性や情動についてどう考えていたんだろうかということをお聞きしたいです。

 アーレントも同様です。彼女が政治の場に求める「複数性」、つまり個性をもった多様な人間が存在するというあり方は、私がデモの中で見た光景とも共通すると感じます。その一方で、彼女のそうした議論からは身体性が切り離されている印象を受けたのですが、どうなのでしょう。

戸谷 まずハイデガーについて。前提として、ハイデガーの基本的な発想には、「存在」と「存在者」を分けるというものがあります。存在者というのは、私や田村先生がそうであるような、現に存在しているものですね。それとは別に、そうした存在をあらしめている「存在」の運動というものが根源にあるのだとハイデガーは言うわけです。「存在」の運動は人間が引き起こしているわけではなく、あくまでも人間にできるのは「存在」の呼び声に応えることだけである、というのが、特に後期のハイデガーの思想の特徴です。

 そこで「放下」に戻るのですが、「放下」と訳されるGelassenheitという言葉には、「なすがままにさせておく」というような意味合いがあるんです。つまり、目の前にある存在に対して、近代的な人間はすぐに「あれはカメラだ、写真が撮れる」「あの土地からは石油が採れる」というふうに、その役割や意味を表象しようとしてしまう。それをやめて、存在のほうからの語りかけを聞く落ち着きを持とうというのがGelassenheitなんですね。

田村 じゃあ、主体は「思考する」というよりもむしろ「待つ」ほうにある?

戸谷 そういうことです。たとえばある山を、現代の人間は「ウラン鉱石が採れる山」として考えがちだけれど、実は同じ山を絵画の主題になる美しい風景として見たり、人を畏怖させる雄大な自然として見ることも可能です。ただ、それを感じられるかどうかは人間には決められない。山のほうから呼び声が聞こえてきて、それに応えられる者だけが別の可能性を開けるということなんです。

 アーレントについては、たしかに情動や身体性というものは排除されている部分があります。少なくとも、情動は排除されていると思います。というのは、アーレントは「公的領域」と「私的領域」をはっきりと分けていて、情動というのは私的領域に属すると考えられるからです。それに対して、人々が複数性や個性を発揮するのは公的領域においてなんですね。それも、自分の私的な理解を全部乗り越えて、公共性のある事柄だけを語るというのが、アーレントの言う公的領域における複数性なので、やはりそこからは情動が排除されているのではないかと思います。

 

■会場からの質疑

 反原発に否定的な人、原発は不安だけどデモに行きたくない人との対話、理解にはどのような方法が可能だと考えますか。

田村 私は、原発やデモについての考え方は違っていても、根源的に「その人が何を望んでいるか」ということまで突き詰めると、そこには「不安を解消したい」「自分の尊厳を守りたい」といった、共通する情動があるんじゃないかと考えています。だから、理解はし合えなくても対話はできるし、何か互いに心を動かされるところはあるんじゃないでしょうか。

 実は私自身も、最初はデモに対して懐疑的だったんですよ。こんなことしても仕方ないんじゃないかという、冷笑的な部分があって。けれどいったん中に入って参加者と話すうちに、「原発は危ないし止めたほうがいい」という素直な思いを表現すべきだと感じたのです。デモ参加者にも、もともと冷笑派だったと語る人はけっこういます。だから、デモに参加しない人と、している人の距離というのは、実はすごく近いし、対話は十分に可能だと思っています。

 

Q 戸谷さんのご著書では、災厄は避けるべきということが前提になっていると思いますが、終末思想との関係をどう考えますか。

戸谷 終末思想との関係について、私の本では主題的に論じているわけではありません。ただ、ハイデガーやデリダの思想に見られるような、災厄をある種の運命による新たなものの到来として捉え、新しい可能性が開かれることに賭けるという考え方は、ある意味で終末思想に近いものかもしれません。

 一方で、アンダースやヨナスは、今のこの世界を可能な限り延長することが重要なんだという立場で、かなり自覚的に終末思想を批判しています。「終末」を、核戦争などによる世界の終わりと捉えるのか、災厄を介して新しいものが生まれてくると捉えるかで見方が変わってくるのかもしれません。

田村 レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』なども、災厄の可能性のほうを強く語っていますよね。私自身の本も、災厄から生まれる可能性を書いてはいますが、この国で自然災害も含めた災厄を何度も見てきた経験から、災厄そのものに希望を見出したくないという思いがあります。

 災厄は絶対に起きるものだとは思います。ただ、それでもそのダメージを小さくしていくことは必要だし、前回の災厄から学び、私たちが変わることで、次の災厄のダメージを小さくすることができる。ここにも、災厄は必ず来るという「受動」と、でもそれに対してやれることはあるという「能動」の両方があるのかなと思います。

 

 原子力発電について議論するとき、工学的には他の発電方法や電力需給について考える必要があると思いますが、哲学者はこれについてどのように議論しているのでしょうか。

戸谷 原子力発電というのは、エネルギーを介して私たちの生活の至るところに浸透してきています。人間の想像力を超えた威力をもつ巨大な力が、たとえば朝起きてトースターのスイッチを入れるような日常の行為とすらつながってしまっているわけです。

 こうした状況下では、日常的な世界の問題としても原子力を考えていかなくてはならない。それがハイデガーをはじめとする哲学者たちの問題意識ではないかと思います。もちろん政策決定をするような場面では原子力発電に関する専門知は重要なのですが、それだけではなく、生活者の視点で当事者として原子力の問題を考えていく必要があるということだと思います。

 

 科学者と一般の人たちとの間にあるギャップを埋めて対話を生むために、哲学の視点から試みられることはあるでしょうか。

戸谷 以前、原子力発電環境整備機構(NUMO)の研究費を受けて、住民との意思疎通を促す方法について研究していたことがあるのですが、全国各地で開かれた対話型説明会の記録を読むと、住民からははっきりと不信感が寄せられる場面をみかけます。中には「科学的な議論だけをされても信用できない」というものもありました。こうしたコミュニケーションの断絶を乗り越えるのはすごく難しいと思います。

田村 科学的な議論だけでは信用できないというのは、提示されるデータが恣意的に取捨選択されているかもしれないから、という他に、科学者という専門家の倫理性が見えないから、という理由もあるような気がします。専門家の「安全だ」という言葉と、自分たちが実際の生活者として抱く不安はあまりにもかけ離れている。そこに非倫理性を感じて、専門家に対しても「いや、あなたやあなたの子どもが福島に住んでいたらどうなんですか」と問いたい、単なるデータの提示ではなくて、それに対して生活者としてのあなたがどう思うのかを知りたいという人も多いのではないでしょうか。

戸谷 対話型説明会といっても、最初から住民を説得するために開かれているわけで、そこに怒りを感じる人もいるでしょうね。政治的な利害関係を超えて原子力の問題について語り合う、人々が安心して自分の考えを話せる場をつくることが大事なのかなという気がします。

 

 想像力を超えた問題が日常と接続しているという意味では、環境問題や経済問題も似た性質があるのでしょうか。

戸谷 おっしゃるとおりで、『原子力の哲学』にも、これは原子力だけの問題じゃないよね、ということがたびたび出てきます。たとえばハイデガーなら、人間が労働力として搾取されていること、近代的なテクノロジーを使った農業などで大地が荒らされていることなども、「原子力時代の問題」として語られます。

 原子力の問題というのは、現代社会の問題の一つの特殊例であって、それを見ていると他の様々な問題の構造も見えてくるというところがあるのではないでしょうか。デュピュイも、経済恐慌や気候変動なども原子力による災厄と同じ構造で理解できると考えていたようです。

 

Q 核戦争と原発事故は同じ(核による)災厄とはいえ、分けて論じたほうがよいように感じますが、いかがでしょうか。

戸谷 この本の中でも、原子力の脅威がどこにあるのかについて、核戦争にあるという立場と、原発事故にあるという立場とで、かなりはっきり分かれています。

 たとえば、核戦争を原子力の真の脅威と考えるヤスパースは、原発事故などは人類の理性の力でコントロールできるし、放射性廃棄物の問題も簡単に解決できる、と言っています。

 一方ハイデガーは、もはや水素爆弾が爆発しなくなったとき、世界の至るところに原発ができて、人々がそれを危険だと思わなくなったときにこそ原子力の本当の脅威が現れると言っています。単に原発事故が脅威だというのではなく、原発に支えられているにもかかわらず、それが当たり前になり、それに対して誰も疑いを抱かなくなってしまった社会のあり方を批判しているのだと思います。

 おっしゃるとおり、二つは分けて論じられるべきですし、どちらをより脅威だと見なすかによって、その人の思想が問われるところはあると思います。

執筆/仲藤里美

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関連書籍

原子力の哲学

プロフィール

戸谷洋志×田村あずみ

戸谷洋志(とや ひろし)

1988年東京都生まれ。哲学研究者、大阪大学特任助教。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現代ドイツ思想を軸に据え、テクノロジーと社会の関係を研究。著書に『Jポップで考える哲学――自分を問い直すための15曲』『ハンス・ヨナスを読む』『原子力の哲学』、共著に『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』、『漂泊のアーレント 戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』がある。

 

田村あずみ(たむら あずみ)

1980年生まれ。立命館大学国際関係学部卒業後、新聞社勤務を経て、英国ブラッドフォード大学大学院博士課程修了。現在、滋賀大学国際交流機構特任講師、立命館大学国際地域研究所客員協力研究員。著書に『Post-Fukushima Activism: Politics and Knowledge in the Age of Precarity』(Routledge, 2018)、『不安の時代の抵抗論:災厄後の社会を生きる想像力』(花伝社,2020)がある。

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