柔道と経営
松原 八百長かどうかは措いておくとしても、嘉納先生は「興行」という形式そのものに忌避感があった可能性もあります。
藪 そう思います。嘉納はオリンピック関連の仕事の関係で、1919年に世界一周をしています。途中、嘉納がアメリカに寄ることを知って、伊藤徳五郎は嘉納宛に手紙を書き、直接彼に渡しています。その内容は、「自分がいわゆる興行試合に出場するのは、道場経営のために、どうしても必要なことだからやらざるを得ないんだ」というものです。要するに、弁明をしているわけですね。
同様に、前田光世も講道館に宛てた手紙の中で、「自分が興行形式の試合をやっているのは、そうしないと生計が立てられないからだ」と書いています。
つまり、嘉納にとっては、柔道は教育のための手段なんです。だからこそ、見世物興行で稼ぐような類の汚い金が教育の中に入ってきたら、武道自体が汚れてしまうというような発想が、嘉納にはあったと思います。
松原 「お金」とか「経営」といったものに対する忌避感は、現在の柔道界でも強いですね。だから、日本中にこれだけブラジリアン柔術の町道場があるのに、柔道の町道場はほぼ消滅してしまった。その結果、柔道を学ぶなら、学校の部活動しか選択肢がなくなっている。大人になってから柔道を学びたい社会人に向け、受け皿としての道場を経営するという発想は、柔道界の人たちにはほとんどないんですよね。柔道人口が減っているのに無策としか言い様がありません。
藪 嘉納からすると、柔道家の就職先って学校なんですよね。パターンが2つ、あるわけです。1番目は、体育の教員となって、学校に就職するパターン。2番目は、部活の外部指導者として、学校に就職するケース。
双方に共通するのが、経営についてまったく考えなくていいということですよね。部活動ですから、場所も、設備も学校持ち。だから、嘉納は学校柔道を町道場より上に見ているわけです。
松原 そうですね。ただ、現在も柔道で経営することを嫌う割には、過ちを犯した五輪2連覇の内柴正人を、柔道を通じて更正させることもなく切り捨てています。中学の頃から柔道漬けにして強化するという制度にも問題があるのに、修正を図るわけでもない。教育といっても本気で追究する気はなく、学校の部活の一競技に過ぎなくなっています。

町道場と接骨業
藪 町道場の経営というのは当時本当に苦しかったようで、道場主のほとんどは接骨術で食べているわけです。それも、接骨業として国の認可を得るためには士道会に加盟し、実質的に講道館の傘下に入るしかなかった。嘉納にとって、町道場の経営など、関心の埒外だったのです。
松原 その点、フルコンタクト空手系の道場は、現在に至るまで経営が上手いですよね。広告費とか、大会運営費とか、名目はいろいろですけど、本部道場が支部から「上納金」と陰口を叩かれるお金を徴収している。だから空手の場合、支部が増えれば増えるほど本部が潤うようになっている。
ただ、こういった道場経営の話はある種のタブーだから、ブラジリアン柔術の道場やMMAのジムの経営状態や、加盟する大会主催者に定期的に歳費を支払うシステムがあるのかとか、分析した研究を私は知らないのですが。
藪 確かに、そういった道場の経営についての話は、武道・格闘技の歴史の研究者の間でも、まだまだ未解明の部分です。特に戦前において、講道館の経営がどのように成り立っていたのか、ほとんど精査されていない。柔道の町道場に関しても、それは同様です。やはり、日本人には、お金の話を大っぴらにするのはタブー、という感覚があるように思います。
松原 本来、武術は一子相伝ですよね。ですから、指導は基本的に1対1でやっていた。それが近代化して、1対多で指導するようになっていく。空手もマンツーマンから、1人が前に立って、皆に教えるみたいなシステムに変わっていく。さらに今は動画が簡単に売買できるから、ブラジリアン柔術の生徒は、それを買ってどんどん上達していく。
このように、時代によって、どうやって道場生から謝金をもらい受け、道場経営を成り立たせていくかは変わっていきます。嘉納先生には、もう少し、町道場の師範たちが経営努力する自由を与えてほしかったなぁ、と思います。
藪 嘉納の人生を振り返ると、1893年から通算で23年間ものあいだ、東京高等師範学校の校長を務めているわけですよね。それほど嘉納は優れた教育者だったのでしょうが、師範学校の要職に長く留まったことで、周囲の人間関係が固定されたり、世事に疎くなったりする弊害もあったのかもしれません。
要は、「町道場の連中には、接骨業の営業許可を得られるようにしたのだから、それで十分だろう」というのが嘉納の認識だったと思います。
松原 確かに、接骨業の認可が与えられたのは、町道場にとって大きかったでしょう。今でも柔道整復師の国家資格を持っていれば、治療に保険が適用されます。カイロプラクティックや整体では健康保険は適用されないので、時代遅れの差別だという批判もあります。
藪 嘉納が町道場に無理解だった話に戻りますが、当時の講道館の月謝って、町道場より安いんですよ。つまり、町道場は自分の道場を維持するためには、月謝はこれぐらい取らないとやっていけないという金額がありますよね。それなのに、講道館のほうがはるかに安い料金で教えているわけです。この弊害は酷くて、かなりの町道場が苦境に追いやられたようです。
そして、それがまた困ったことに、嘉納としては、善かれと思ってやっているんですよ。「安い月謝で柔道を教授すれば、貧しい者も学べて嬉しかろう」という発想でやっている。嘉納はエリート教育者であるがゆえに、町道場の苦境を頭では理解できても、実感には乏しかったのだと思います。
講道館中心史観を超えて
松原 嘉納存命時から問題があったのに、いまだに修正されていないのですね。柔道人口減少が問題になっているのは競技としての柔道なのだから、講道館の教えとは別に経営すべきと思えてしまいます。
やはり、講道館中心史観のせいで見えてこないものがたくさんありますね。ヨーロッパに競技柔道を広めたのにしても、講道館ではなく、まずは古流柔術、次いで武徳会のメンバーですよね。「フランス柔道の父」と言われる川石酒造之助は講道館ではなく、武徳会の人。現在世界で最も柔道が盛んなのは、日本ではなく、フランスだと言われている。
1964年の東京オリンピック柔道無差別級で金メダルを獲得した、アントン・ヘーシンクを育てた道上伯も、武徳会の人。講道館ではない。ざっくり言って、講道館の系譜にいない人たちが、現在では世界の競技柔道をリードしています。
講道館の歴史観では、安部一郎という方がヨーロッパで柔道を広めたということのようですが、実態としてはヨーロッパに柔道を広めたのは武徳会じゃないのか。実際、現在のオリンピックで施行されている柔道ルールはヨーロッパで決められたもので、講道館の技は多くが禁止されています。
藪 私も松原先生の見解に、まったく同感です。私は以前、論文の中で、講道館の歴史観というのは「勝負史観」であると指摘しています。「勝負史観」とは、要するに「講道館の柔道家たちが、海外で現地の格闘家たちを打ち倒したため、世界中に柔道が広まった」という歴史観です。しかし、これは講道館側の描きたい歴史、願望の反映であり、必ずしも史実に忠実ではありません。
松原先生が先ほど指摘されたように、ヨーロッパに柔道を広めたのは、そもそも講道館ではなく、武徳会の川石酒造之助や道上伯です。さらに言えば、川石酒造之助より以前の20世紀初頭の時期に、日本人の柔術家に学んだフランス人柔術家が出現しているわけです。ですから、講道館側の主張する正史は、まったく正確ではない。
松原 講道館の正史だと、石黒敬七がフランスで柔道を広めたことになるのかな。
藪 そうです。でも、フランス側の柔道史に臨むと、石黒敬七の扱いは脇役も同然です。フランス人の側から見れば、フランスに柔道をもたらしたのは、日本人柔術家に学んだ、フランス人の柔術家たち。そして、その後にフランス中に柔道を広めたのが、川石酒造之助なのです。

プロフィール

藪耕太郎(やぶ こうたろう)
1979年兵庫県生まれ。立命館大学産業社会学部准教授。立命館大学文学部文学科(英米文学専攻)卒業。立命館大学大学院社会学研究科(応用社会学専攻)博士後期課程修了。博士(社会学)。仙台大学体育学部准教授を経て、現職。専門は体育・スポーツ史。初めての著書『柔術狂時代 20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺』(朝日選書)が第44回サントリー学芸賞(社会・風俗)を受賞。
松原隆一郎(まつばら りゅういちろう)
1956年生まれ。社会経済学者、放送大学教授。1956年、神戸市生まれ。東京大学工学部都市工学科卒、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。東京大学大学院総合文化研究科教授を経て現職。著書は『経済思想入門』(ちくま学芸文庫)、『ケインズとハイエク』(講談社新書)、『日本経済論』(NHK新書)等多数。武道・格闘技に関しては『思考する格闘技』(廣済堂出版)、『武道を生きる』(NTT出版)、『武道は教育でありうるか』(イースト・プレス)等がある。


藪耕太郎×松原隆一郎






松岡茂樹×塚原龍雲


大塚英志
三宅香帆