「正しい柔道」とは何か
松原 歴史認識以外でも、日本柔道では「正しい姿勢と組み方」を強調しますよね。でも全員が襟と袖を持つ「正しい組み方」を競技で実践したら、パワーのあるほうが勝つに決まっている(笑)。初心者への指導法としては分かりますが。
藪 「正しい姿勢と組み方」をしたら、日本人は外国人に勝てないですよ。前田光世が164cm、75kgくらい。それで、外国人と異種格闘技戦をするときに、ウェイトはある程度合わせられますよね。でも、身長もリーチも全然違うと、前田は言っているんです。
それでもどう戦うのか? という問いに対し、前田は無暗にタックルにはいかないほうがいいと言っています。外国人は、レスリングの知識があるので、タックルにいっても、切られたり、潰されたりする。だから、タックルなんてしないで、蟹挟を使えと、前田は言っているわけです。
それで、前田は相手との組み方についても、コメントしているんです。レスラーと戦うときは、柔道のオーソドックスな襟と袖を持つ組み方をしてはいけないと。その組み方だと、力の差がもろに出てしまうと、前田は考えているわけですね。前田が実際に異種格闘技戦で使っていた組み方は、「下から両袖を取る」というものだったようです。それで、急に引っ張って、相手を崩せと言っているんです。
松原 それは、高専柔道やブラジリアン柔術の引き込みですね。
藪 そうなんです。異種格闘技戦で絶大な実績を持つ、前田光世の発言だけに重みがあります。実際に海外でボクサーやレスラーと戦って、勝ってきた人ですから。こうした発言は、講道館の「正しい柔道」に対する、オルタナティブになっていると思います。
松原 今、柔道では、片襟で攻撃をしないで6秒たつと、反則じゃないですか。でも、空道をやっていると、片襟グリップって凄く重要なんですよ。というのも、相手の頭突きを防げますから。
あと、柔道出身者の警察官が、犯人に刺されやすいという問題もあります。無意識に襟と袖で組もうとすると、相手の手は腹に近づいてしまいます。「正しい柔道」は腹を一番刺されやすい組み方なのですね。嘉納先生ならば、何とおっしゃったのかな。ストリートファイトを考えている方ですから。だから結局、講道館柔道は「柔道のための柔道」になっていったし、国際ルールもオリンピックで注目を集めるためのルールになっている。スポーツ競技としての柔道が打撃を禁止したのは、投げ技の洗練には役だったとは思いますが、同時にストリートファイトを考える嘉納師範の構えが護身には必要でしょう。

異種格闘技戦は「頭の体操」
松原 藪先生の本の結論は、講道館が内向きに閉じていく分水嶺がサンテル事件だったということですよね。現在の日本柔道界は、学生時代に柔道をやって、オリンピックに出られれば教員等柔道に関わる仕事で一生食っていける、出られなければ柔道は職業にはならない、という感じですよね。
私は空道という「生涯スポーツ(武道)」をやっています。「生涯スポーツ(武道)」というのは、格闘空手時代から東孝先生が言っていたこと。これは空道に限らず、ブラジリアン柔術でも成立しているのに、柔道ではそうなっていない。BJJ道場は30代、40代が溢れています。今の講道館、日本柔道界は、「オリンピックでいくつ金メダルを獲るか」ということだけを考え、社会人のための道場運営などは、眼中に無い。その結果、競技人口の減少に歯止めがかからないでいます。
そのうえ「他の格闘技と戦ったら」という発想も、完全にない。「正しい柔道」の組み手では、犯人に簡単に刺されてしまうのに。私はよく「頭の体操」をするんです。ブラジリアン柔術をやっているとき、「柔術ならこのポジションはあり得るけど、打撃があればパウンドをもらっちゃうな」とか、「相手の仲間が加勢してきたら、頭にサッカーボールキックを食らうな」とか。
そういう頭の体操って、大事だと思うんですよ。講道館も外部に対して閉ざされた組織でいるばかりじゃなく、嘉納師範が模索した打撃との関係とか、研究してほしいですね。護身術として。
藪 この対談もそろそろお時間ということで。最後にちょっと言い残してしまったこととして、今って、「異種格闘技戦」が消えつつある時期だと思うんです。異種格闘技戦の帰結として、MMAというものが生まれた。そして、MMAが一つの競技として確立していく中で、異種格闘技戦の存在意義が薄れていった。でも、私は異種格闘技戦というものを想定する意味が無くなった、とは全然思わないのです。先ほど松原先生がおっしゃった言葉を借りれば、異種格闘技戦とはまさに「頭の体操」なんですね。
たとえば、異種格闘技戦ではルールを作るのが本当に難しい。完全に公平なルールを作るのは、基本的に不可能でしょう。そこで、互いの陣営が歩み寄り、共通了解としてのルールを作っていく。もちろん、どちらの陣営も自分の流派の強みを出したいわけですから、落としどころを探るんですね。これも一つの「頭の体操」でしょう。
もう一つは、格闘技の興行としての側面ではなく、武道としての側面から考える、という意味もあります。先ほどの松原先生のお話にもあったように、柔道家が警察官になると、刃物に刺されやすいという。でも、本来武道の目的というのは、「護身」ですよね。いつ、いかなる相手と戦っても、自分の身を守れなければ、格闘技とは言えても、武道とは言えない。
路上で自分を襲ってくる相手には、ボクサーもいれば、レスラーもいる。ときには、刃物を持ったヤクザもいるかもしれない。そうなったときに、「私はボクサーとは戦えません」とは言えませんよね。ですから、異種格闘技戦について考えるということは、単に相手に勝つということではなく、ありとあらゆるシチュエーションの中で、自分が持っている技術をどうやって活かすのかを、考える契機になると思うのです。
そういうものがなくなると、今、松原先生が指摘したように、柔道で言えば、完全にチャンピオンスポーツになってしまっている。競技柔道一辺倒になることは、一部のアスリートにとっては、価値があることでしょう。しかしそれは、社会体育として考えた場合、大多数の国民にとっては、どうでもいいことです。
ですが、異種格闘技戦というものを想定することによって、柔道に限らず、空手でもボクシングでも、「そもそも自分の流派はなぜ存在するのだろう?」ということを深く考えれば、もっとオルタナティブな武道や格闘技の価値が生まれてくるはずです。そうすれば今よりもっと、社会の中に武道や格闘技というものが浸透していくようになると、私は信じています。
松原 私は、そもそも柔道がオリンピック競技であることでしかアイデンティティを保てないことにも批判的なんです。またぞろオリンピック招致なんて言っている人がいますが、オリンピックに出場する選手は国民の税金で行っているわけですからね。何かをしっかりと国民に還元してほしい。オリンピックに出るためにアスリートが身体を鍛えたとして、その知見を共有し、国民全体が健康になるとかだったら分かりますけど。嘉納師範は「精力善用国民体育の形」を考案していました。
勝つことが国民への還元になったのは、日本が戦争で国際社会から締め出され敗戦を経てようやく開催された1964年の東京オリンピックの話ですよ。それは既に過去のこと。オリンピックでメダルの数を競うことが目標になるのは、発展途上国の段階です。「勝った、負けた」で大騒ぎしているようでは新たな目標を見いだせない。それで日本は21世紀に衰退の一途をたどっているんじゃないか。
藪先生の『アメリカのプロレスラーはなぜ講道館柔道に戦いを挑んだのか』には、そうしたオリンピック至上主義的な価値観に対するアンチテーゼになっているところがあります。他の格闘技から何が学べるか? こうした発想こそ競技以外の武道のあり方だと思うし、勝利至上主義を乗り越える道なのではないか。そんなことを、今日、藪先生との対話の中で感じました。
藪 今日は長いお時間、ありがとうございました。

撮影/甲斐啓二郎
構成/星飛雄馬
プロフィール

藪耕太郎(やぶ こうたろう)
1979年兵庫県生まれ。立命館大学産業社会学部准教授。立命館大学文学部文学科(英米文学専攻)卒業。立命館大学大学院社会学研究科(応用社会学専攻)博士後期課程修了。博士(社会学)。仙台大学体育学部准教授を経て、現職。専門は体育・スポーツ史。初めての著書『柔術狂時代 20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺』(朝日選書)が第44回サントリー学芸賞(社会・風俗)を受賞。
松原隆一郎(まつばら りゅういちろう)
1956年生まれ。社会経済学者、放送大学教授。1956年、神戸市生まれ。東京大学工学部都市工学科卒、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。東京大学大学院総合文化研究科教授を経て現職。著書は『経済思想入門』(ちくま学芸文庫)、『ケインズとハイエク』(講談社新書)、『日本経済論』(NHK新書)等多数。武道・格闘技に関しては『思考する格闘技』(廣済堂出版)、『武道を生きる』(NTT出版)、『武道は教育でありうるか』(イースト・プレス)等がある。


藪耕太郎×松原隆一郎






松岡茂樹×塚原龍雲


大塚英志
三宅香帆