石牟礼道子は、冒頭に「近代とは何か、ずーっと考えて来ました。今も思っています」と静かに言った。田中優子が石牟礼と初めて対談をしたときの冒頭だ。日本がダメになったのはいつごろだったのか、さかのぼれば前近代と近代の「境い目」にいきつくが、石牟礼はそのことを「もだえ神」のように考えつづけ、呟きつづけた。
田中は18歳のときに入学した法政大学の益田勝実の授業で『苦海浄土』を読んで衝撃をうけて以来、やっぱり近代とは何かをずーっと考えてきた。この「ずーっと」が巨きい。敗戦このかた、チッソこのかた、数々の基地闘争このかた、またオウムや小泉劇場や3・11このかた、日本はこの「ずーっと」を蔑ろにしてきた。
田中は石牟礼にもっと早くに出会っていてよかったけれど、2012年に本書の母体となった対談がやっと実現した。よくぞ邂逅してくれたと、私は遠くからこの出会いに合掌をおくったものだ。
本書はさすがによく出来ている。さすがにというのは、とても田中っぽい、この見方や考え方が田中優子の真骨頂だという意味だ。石牟礼道子の数々の作品やエッセイを「近代化が追いやった面影」として複式夢幻能の「移り舞」のように動員させながら、随所に田中の思いを縫いとっている。
いくつかの石牟礼の言葉がキーワードとして突き刺さってくる。一つは「されく」だ。魂が抜けて、その魂につられてふらふらと帰り道を忘れてしまうことを言う。「漂浪く」と綴る。二つめは「順番は苦手」だ。石牟礼は「数が近づいてくると逃げたくなってきた」。今日の世はGDP、ばらまき、いいねボタンそのほか、数しか君臨していない。不幸や失業も自殺も愛郷度も数えてランキングにしないと何もできなくなっている。三つ目は「もだえ神」だ。喪ったものに成り代わって悶えること、「悶えてなりとも加勢せんば」になること、これが石牟礼の境涯だった。
これらに応えて田中が用意したのは「別世」である。ファンタジーやアニメの別世界のことではない。この世にいて別様を求めつづけること、田中が石牟礼道子の生き方と思想の全幅から感じたことは、そういう別世の覚悟だった。これは哲学的にはコンティンジェントに考えるということである。私もずーっとコンティンジェントな別世を紡いできたように思っている。
プロフィール
1944年、京都生まれ。工作舎、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授などを経て、現在、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。公式ウェブサイトhttps://seigowchannel-neo.com/