負の遺産が開く未来 動き始めた日本の“加害”ダークツーリズム 第3回

国策を見極める力を養う~長野の「満蒙開拓平和記念館」

三上智恵

 私が小学生の頃、家庭内で小さな事件が起きた。ある夜、母は伯母からの長い電話を切ったあと少し青ざめてこう言った。

「青酸カリの効き目ってどのくらい持つのかしら。戦後30年経ってるけど……」

 伯母と祖母の嫁姑トラブルは今に始まったことではなく、長男嫁である伯母さんの愚痴を聞くのが次男嫁の母の役割だった。が、今回祖母はよっぽど腹に据えかねたのだろう。「自分の始末は自分でできる」と啖呵を切り、毒薬の存在をほのめかしたという。子供時代、家族で旧満州に暮らしていた父はそれを聞いて、まさかあの時の、と絶句した。私は大好きな祖母が毒薬を持っているということに仰天した。

 1945年8月、ロシア軍が南下して満州の日本人居住区は無法地帯になる。私の祖母は婦人会のリーダーだったため、女性たちを集めてバリカンで髪を切り顔に炭を塗って男装させ、いざという時のための青酸カリを各戸に配ったという。そんな武勇伝は本人の口から何度も聞いていた。嫁にとっては手ごわい姑かもしれないが、孫によく戦争の話をしてくれる、聡明でユーモアのある祖母だった。幸い、祖母の啖呵はただの脅しで終わったのだが、母たちは、いつか祖母のタンスから青酸カリを見つけ出して処分しなくてはと話し合っていた。これはなんとも笑えない、満州の置き土産が起こした三上家の騒動だった。

開拓団

 父からも、満州引き上げの時の悲惨な体験はよく聞いていた。つまり私は「満州引上者」二世なので、それなりに家族の歴史に興味を待ち、知識はあるつもりだった。祖父が満鉄に勤めていたこと。長春・奉天などの社宅に一家で住んでいたこと。祖父たちも現地召集され、女子供だけになった住民たちがどんなに怖い目に合ったか。雪の夜、ロシア兵に家を追い出されたこと。飢えとの戦いだった逃避行の中で、末っ子だった父の弟を手放しそうになったこと。中国残留孤児の帰還事業が連日テレビで取り上げられるようになると、祖母はよくハンカチを頬にあてながらそれを見ていた。4人の子供の一人も欠けずに戻れたのは奇跡だった、と語った。

 さらに自分が成長すると、賭け事や暴力で家族を困らせた祖父が、シベリアに抑留され辛酸をなめていたことについて、PTSDの観点から考えた。また引き上げ後、住む場所がない祖母たちは「満州乞食」と蔑まれたことも知り、戦争被害者差別の矛盾についても興味を持った。なによりも子供心に怖かったのは、父の家のお隣に住んでいた娘3人とお母さんが、ロシア兵に踏み込まれて青酸カリで自決したという話だった。それものちに、毒薬を配った側の祖母が背負った重荷を思うようになった。

 しかしそんな私でも、その「満州国」とはいったい何だったのか、どのくらいの規模の被害と加害を発生させていたのか、全体像を俯瞰できていないことに気付いた。たった13年しか存在していない幻の傀儡国家が、なぜ生まれ、その悲劇はなぜ起きたのか、またなぜ止められなかったのか。そして一番大事な問題は、当時満州に160万人という数の日本人が暮らし、全国に帰還者がいるにも関わらず、なぜここまで語られてこなかったのか。「満州」を振り返ることができていない理由について思い至っていなかったことを、満蒙開拓平和祈念館を訪ねて思い知らされた。

 12年前に長野県阿智村に開館した満蒙開拓平和祈念館の噂は、早くから聞こえていた。田舎にある、民間運営の小さな資料館でありながらとても見応えがあること。なにより、「満蒙開拓の被害と加害」両側面をきちんと取り上げるスタンスが素晴しいと早くから評判で、行ってみたいと思っていた。でもかなり交通は不便で、沖縄からだと名古屋経由でバスを使って最低7,8時間かかる。最後は停留所から徒歩17分とあって、大きな荷物を持ってバスで行くのを躊躇するうちに月日が経ってしまったが、去年ようやく、レンタカーで訪ねる機会を得た。

満蒙開拓平和祈念館

 記念館は、南信州の緑豊かな村の一角に佇んでいた。大きな民家のような、堂々とした瓦葺きの屋根。内部は無垢の木を組み上げたような、ぬくもりのある建造物だった。「集団自決」など辛い話を含む展示を見るのに少しばかり覚悟をしていたのだが、明るい館内にどこかほっとする。その日は平和学習の中学生の団体で賑わっていた。あちこちから聞こえるガイドの方々の説明もすっと引き込まれる内容で、子供たちも身を乗り出していた。血の通った資料館だな、という第一印象だった。

 「拓け満蒙!行け満州へ!」

 入場して最初に通過する長い廊下は、現在から満州国の時代にタイムスリップするトンネルのようになっている。肥沃の大地・満州に新天地を求める開拓団募集のポスターの文字が躍る。「民族の代表だ!」「あとから100万人行くぞ!」。これを見れば、行くなら早く手を上げて条件の良い土地を確保した方がいいぞと思える。閉塞感を抜け出して夢の天地に賭けてみようという気持ちになる誘い文句が満載だ。実際、開拓団に志願したのは農家の次男・三男など農地を相続できない者たちで、行けば20町歩(東京ドーム4個相当)の地主になれるという条件はとても魅力的だっただろう。この記念館が長野にある理由は、送り出した開拓民の数がダントツで多い県だからだ。山がちな長野は耕地面積が狭く、農家の現金収入は養蚕に依拠していたが、世界大恐慌のあおりで絹糸の貿易が衰退、補助金がもらえる「分村移民」に地域のリーダーたちが傾倒していった背景が展示で説明されていた。

タイムトンネルのような「序章」の廊下
移満蒙開拓平和記念館展示資料(大原千和喜氏所蔵)
当時の開拓団の生活を展示

 満州への農業移民はもちろん国策である。政府は100万戸の移住計画をぶち上げ、すべての都道府県に集団移民の組織化を求めた。その目的は前述のように、疲弊した農村の口減らしでもあり、国土を広げた分の農地から収穫し、国力増強を図る一石二鳥であったが、関東軍にとってはもっと大事な目的があった。ソ連軍の進出を抑止する「人間の防波堤」であり、兵士に「食料を供給する母体」でもあり、また満州国の日本人の割合を増やすことで「反日抵抗分子を抑える」という意図もあった。

 その関東軍の懸念通りの悲劇が戦争末期、彼らを待っていた。ソ連軍の侵攻で、農村に取り残された彼らは矢面に立たされ、また侵略を憎む中国の人々に襲撃され命を落とし、もはやこれまでとお互いが殺しあう「自決」の悲劇が続出した。満州にいた日本人の数は、1944年のデータでは166万人。そのうち死亡者は、民間人・軍人を含め総数20万人に達したと戦後厚生省は算出している。凄まじい数である。軍部は、これだけの民間人が犠牲になることは十分に予測しながら住民を見捨てたのだ。

 一方で、知事や村長、先生や役場の担当者など、それぞれの地域で開拓移民政策を推進する立場にいた人たちは、その危険性をどこまで予測できていたのか。私はかねてからこの点に関心があった。満州国を巡る悲劇の責任はどこにあるのか。国が悪い、国策が悪い、と大きな主語で片づけてはならない。各地域で戦争協力を推進したのは誰かという問題は、これからまた戦争に向かう今の日本の状況に抗っていくためにも、今一番大事な視点だと思っている。結果的に甘いうたい文句で国民を騙す片棒を担ぐことになった人たちは、戦後自分の役割についてどう思ったのか。罪の意識は芽生えたのか。また地域から責められなかったのか。このあたりはなかなか掘り下げにくい分野だが、この満蒙開拓平和祈念館が地域の中の加害者についてどう向き合っているのか、それが一番知りたいところだった。その答えは、特に最後のほうの「証言の部屋」の中で語られている。が、まずはその前に、順序に沿って進んでみよう。

 満蒙開拓にいざなわれるトンネルを抜けると、目の前には憧れの大陸の映像が大写しされる。見学者は移民たちの視点で、入植した新天地を見ることになる。開拓団が住んだ、粗末な草ぶき屋根の土壁の住居の一部が再現されていた。窓の下に置かれた薪の束がリアルに極寒の地であることをうかがわせる。しかし驚くことに、そんな家も耕作地も、実は中国の人たちのものを強制的に安く買い上げるなどし、日本からの移民にあてがったものだった。本当の意味の「開拓」ではなく、彼らを立ち退かせた場所に代わりに居座ったに過ぎなかったところも多かったそうだ。中国の農民にしてみれば、血と汗の結晶である耕地と家を取り上げられたのだから、泣くに泣けない。中には行き場がなく、自分の土地だった耕作地で苦力(クーリー)として働かざるを得なかった人も多かったという。同じ農民として、彼らの土地を取り上げたことをいまだに苦しく思うという証言もあった。当時は、日本の進んだ農業を中国に技術移転するのだと聞かされそんなつもりでいたが、今思えばまぎれもない侵略者だったと気づいたときに、「満蒙開拓団」の歴史に胸を張る気持ちにはなれないだろう。語る人が少ない一つの理由は、終わってみれば加害者でもあったという側面に触れたくないということもありそうだ。

岡谷郷開拓団

 「敗戦と逃避行」の部屋に進むと、骨と皮になった人々が闇の中に浮かび上がるような「難民収容所」がテーマの大きな絵が目に飛び込んできた。ここからは厳しい話になると覚悟を決めて進む。

 終戦直前の8月9日,ソ連軍が南下を開始してからは、開拓地に残された女性と子供、老人たちは大混乱に陥る。頼りにしていた関東軍は、満州国の4分の3を放棄してとっくに南に後退していた。ソ連軍の侵攻を予想した軍部は、5月にはすでに南に後退して持久戦に転ずる方針を固めていたそうだが、日本人居住者には一切知らされていなかったことに驚く。祖母や父の家族も、日本が負けていることも分からなかったという。まさに、何も知らされない住民が軍隊の盾になって時間稼ぎに利用されていったという点で、沖縄戦と同じ構図である。かくして、鉄道は止まり、交通手段はなく、住民らは着の身着のままで歩いて逃げるしかないという絶望的な逃避行が始まった。住民たちはソ連軍の機銃掃射や暴徒化した中国人によって殺されたり、また集団自決や、飢えと病で次々に命を落としていくわけだが、この生き地獄のような状況を作ったのは誰か? それは、ソ連という敵国でも、中国でもない。軍隊より先に住民を帰国させようという判断を全くしなかった日本の政府であるということを、あらためて思い知る展示だった。

敗戦と逃避行の展示

 そして政府は8月14日「居留民は出来得る限り定着の方針を執る」とする訓令を現地機関に出している。満州移民を速やかに帰国させる力などもう残っていない、敗戦国の惨めさ。とはいえ、居住地を追われて逃げているのに、本国から「勝手に現地で生きていって下さい」と梯子を外されたのだからたまらない。住民の犠牲のほとんどは8月以降に起きている。国策による満州移民は結局のところ「棄民」でしかなかった。いったい誰を恨めばよいのか。煮えくりかえる思いで「証言の部屋」に行く。

証言のコーナー

 一つ一つの証言の展示方法が面白い。証言者の写真が自分と同じ目線にあって、それぞれがランプに照らされている。その下に譜面台があってその人の言葉を読めるので、まるでひとりひとりに会いに行くような感覚だ。

 長野県下高井郡の出身者で構成された万金山高社郷開拓団は、ソ連軍の襲撃が迫る中で行き場を失い、500人を超える大規模な集団自決が起きたことで知られる悲劇の開拓団だ。その中を生き延びた高山すみ子さんの証言は、凄まじい。

 

団長さんが「もうみんなの命を預かることはできねえから、ここで覚悟してもらいてえ」って、銃殺。おれもここでもうこれはダメだって覚悟して。左に小さい子ども、右に三才前の子どもをおいて言った。「内地(日本本土)のおじいちゃんとこ行けば白いごはん食べられるから、かあちゃとみんなで行くか? ののさん(仏さん)になるか?」って。「なる」って。それで「白いごはん、食べてえ」って言って…。 (―その後銃殺される)小さい子なんかうさぎみたいなもんでぴょんととび上がって死んじゃった。三才になる子は頭打たれたらバーンと花火の時みたいになって、それでドーッと血が出てきた。それで死んだ。あーあ、なんのために満州に来たんだろうって。愚痴のようだけども、何度考えても・・・。こんどおれの番だと思って待ってても弾こねえから振り向いてみたら、おれを殺す人が死んでんの。

(「証言 それぞれの記憶」満蒙開拓平和祈念館より)

 

 青年のリーダーで、移民推進役だった植松辰重さん。当時上からは褒められたけど、親たちからは恨まれてしまった。それに向きあって、戦後も同じ土地で生きる苦労はどれほどだっただろうかと考えさせられた。

 

 青年会の会長をやっておって、送出するためにね、若い者は義勇隊、そうでない人はね、一家総出で開拓団で行くということで。一生懸命啓蒙をやったわけだ。俺はとにかく立場上で「あんたたちの孫や子どもをぜひ」ということで。中にはおばあさんがね「俺たちの孫をあんまりすすめないでくれ」って。そうした反動があってね。田舎だもんだから『野郎、勝手なまねをして点数上げてる」なんて言われてね。総領(跡取り)だから自分は満州へ行く気はないんだろうと見られたわけだ。 
 はじめは行く気はなかったけど立場上ね、他人様の子どもや孫を勧誘するのに、自分は行かないとは言えねえじゃねえかね。義勇隊を多く送り出して誉められたが、親たちには誉められなかった。勧誘した義勇隊、半分以上死んじまったからな。

 

 元教師で教え子を義勇軍として満州に送った宮川清治さんも、戦後苦しんだ。

 

 校長も義勇軍に出す役員だったらしくて、義勇軍の割当が来るわけだ、四人。一番先生たちが困ってるのは、去年もおととしも割当が満たなんでね、村長・校長は小さくなってなきゃいけんと。(割当が達成できて)喜んだに。割当が今まで全然できないもんだで小さくなってたが、今年っからは威張れるって一番喜んだのが村長・校長。日本の国策でしょう?  国策が満足にできねえとやっぱり小さくなっちゃってるだ。だからおれに「いやあ先生、おかげで今年っからは威張れるでありがとう」って言うけーど、何しろおれはうれしかなかったよ。十五才の者をそんな、満州に送り込むなんて…。無茶じゃねえか。今の中学二年生だよ。二年生の子どもを満州へ送って、満州で農業開拓やったり、ロシアが攻めて来たとき陸軍の応援するなんてばかな話だって言ってね。(略)
  1人殺したの。先生の「行っていい」という一口で、その一言で、一人殺したの。国策でしょう? 国で義勇軍出して、そして満蒙の開拓やソ連との戦争のときの覚悟や、そういうことをしっかり国のためにしろっていう国策だったからね。国の命令だからね…。(略)そういう時代だったから、まあしょうねえ(しかたない)つってあきらめろって言ったってね、殺した側になると、あきらめきれねえだ…。

 

 「割り当て」、つまり国に課されたノルマが達成できないと肩身が狭かった。そんな動機、自分の立場を守るという小さな事情が満州の悲劇の土台を作っていった。戦後、彼らは充分苦しんだのだから、被害者でもあると思う。しかしながら、個人の罪を今さら問うつもりはないが、善意の村人が戦争協力の役割を果たしたことで加害者の一角にいた事実も冷静に見る必要がある。

 開拓団を送る前に、各地方のリーダーたちは繰り返し「満州視察旅行」に招待されたそうだ。そしていい部分だけを見せられて「現地を見てきた。安心していきなさい」と村人を推薦する役割を担っていった。原発の立地前に、土地の重鎮たちが電力会社の視察旅行に招待されて、懐柔されていったことと重なる。大きな悪は関東軍であり、電力会社かも知れない。でも自分の故郷に悲劇を誘導する役目を果たした地域のリーダーたちは、小さな悪であってもれっきとした悪、である。そんなつもりじゃなかった、と言っても、人は知らない間に加害者になってしまうものだと、肝に銘じなければならない。どんな戦争協力も、小さなことでも片棒を担いではいけない。それに加担すれば、歴史の中で必ず検証されるのだと知る必要がある。だからこそ、みんなが被害者だった、仕方がなかったんだという生ぬるい視点の展示では、戦争を膨らませていく力の源泉が見えてこないし、次の戦争を止める力にならないのだ。どうやって戦争に加担していくのか、一人ひとりの加害性を見つめて、同じ罠が今あちこちに仕掛けられていることを私たちは見抜けるようにならなくてはいけないのだから。

 過去の事例を見ても、公費で作られる戦争資料館は被害の展示は出来てもなかなか加害性にまで踏み込めていない。だれかが悪者になるような、誰かを傷つけるような展示を避けるのは、公立ならばある程度仕方がないかもしれない。かといって、民間で運営するこの満蒙開拓平和記念館であっても、加害も被害も、子供にも分かるように展示するというのは相当な覚悟が必要だったと思うし、今後も必要になるのだと想像する。この記念館の設立にあたり、当初はもちろん国や県に働きかけるが、うまくいかなかったという。結局、民間の寄付金3000万円を集めるところからスタートし、足掛け8年の生みの苦しみがあったことが、逆に民間施設にしかできない筋の通った展示を可能にしたのだと思う。

 記念館のパンフレットの中で、開拓団二世でもある寺沢秀文館長が書いている。

 「負の遺産」から「正の遺産」へ
 満蒙開拓とは何であったのか、日本人はその満蒙開拓体験から、そして旧満州体験から何を学んだのかがアジアや世界から問われている。侵略の加担でもあった満蒙開拓は「負の遺産」であるが、このことから平和の教訓を学び国際理解などへと発展させていくための「正の遺産」へと置き換えていく英知が私達には問われている。(略)
 国、行政などの責任追及に終始するのではなく、国を構成する国民一人一人の責任をも満蒙開拓の史実は教えている。「国策だから仕方なかった」ではなく、 その国策自体を見極めていく国民でなくてはならない。

 

 最後の1行には、2重3重に線を引きたい。特にこの数年ですっかり日米両軍のミサイル拠点にされてしまった南西諸島にいて、再び戦場にさせられる恐怖と闘っている私達からすれば、「台湾有事」「抑止力」「敵基地攻撃力」など怪しげなワードをスルーしながら、国がちゃんと考えてくれるだろう、と思考停止してしまった国民がどういう世の中を招いてしまっているか、そこに気付いてほしいと思っているからだ。

 権力者の思惑や軍部のプロパガンダを見抜けず、積極的に国策の片棒を多くの国民が担いだこと。戦争の悲劇は、結果的には多数の国民が国策を支持した故に大規模になっていった事を認め、学びなおして初めて、賢い国民になる道筋が見えてくると私は思っている。父たち家族が舐めた辛酸を糧に賢くならなくてどうする、戦争の被害者の子であり加害者の子である私たちが、真の平和を作る力を獲得しないでどうする、と私は歯ぎしりして生きている。そんな私にとって、はるか信州の地に訪ねていった満蒙開拓平和祈念館は、期待した以上に、最も戦争の悲劇から学ぶべきものを勇気をもって展示している日本で唯一の資料館だと、拍手を送りたい気持ちになった。

 資金不足で、オープンまで何度も暗礁に乗り上げていたときに、元開拓団のおじいさん、おばあさんたちが「私たちのことを伝えてね」と5千円、1万円札を託してくれたそうだ。その思いにこたえる展示。それを受け止めた感想の部屋。運営スタッフたちの志。どれも私を勇気づけてくれた。今の社会構造は、満蒙開拓団を送り出してしまった当時と何ら変わっていない。まずはそのこと気づくことだ。そのためにも、この資料館の果たす役割はとてつもなく大きい。

*今回使用した資料館の写真やポスター画像は満蒙開拓平和記念館のご協力によりお借りしているものです。無断での複写・転載は固くお断りいたします。

 第2回

関連書籍

戦雲 要塞化する沖縄、島々の記録
証言 沖縄スパイ戦史

プロフィール

三上智恵

(みかみ ちえ)
ジャーナリスト、映画監督。毎日放送、琉球朝日放送でキャスターを務める傍らドキュメンタリーを制作。初監督映画「標的の村」(2013)でキネマ旬報文化映画部門1位他19の賞を受賞。フリーに転身後、映画「戦場ぬ止み」(2015)、「標的の島 風かたか」(2017)を発表。続く映画「沖縄スパイ戦史」(大矢英代との共同監督作品、2018)は、文化庁映画賞他8つの賞を受賞。著書に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書、第7回城山三郎賞他3賞受賞)、『戦雲 要塞化する沖縄、島々の記憶』(集英社新書ノンフィクション)、『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』『風かたか「標的の島」撮影記』(ともに大月書店)などがある。

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国策を見極める力を養う~長野の「満蒙開拓平和記念館」

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