「民主主義=選挙は誤解である」という刺激的なコピーが話題となった一冊が、政治学・政治思想研究者の藤井達夫さんの新刊『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』。
このたび、政治・社会問題にも積極的に発言するラッパー、ダースレイダーさんとの対談が昨年12月にYouTubeで実現しました。
国内外の民主主義の危機をめぐり理論面はじめとする政治学のさまざまな知見を、ダースレイダーさんが引き出すように問い続け、藤井さんがそれに答えていく形で対談は進んでいきました。
「選挙の持つ機能」が骨抜きにされた衆院選
ダースレイダー(以下ダース) 僕は以前から、「日本は民主主義国家ではない」ということを言い続けているんですが、藤井さんのこの本、『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』を読んで、聞きたいことがたくさん出てきました。今日はいろいろと教えていただきたいと思います。
まず、今年10月31日に行われた衆議院総選挙をどう見られましたか。
藤井 本来の選挙の機能を完全に骨抜きにした、されてしまった選挙だったといえると思います。
政治学においては、選挙には二つの機能があるとされます。一つは、社会に存在する利益集団の利害関心を集約し、多数派の意思を決めるという機能。その多数派の意思は社会全体の意思であるという想定のもとで、政治が進められていくわけですね。
ただ、実際の投票行動は必ずしもそうなっていないという批判が根強くあり、それに代わってより有力な説になっているのが、それまで政治を担ってきた政権や政党の業績を評価し、賞罰を与えるという機能です。
自民党は選挙の2カ月ほど前に、それまで政権を担ってきた菅さんを下ろして総裁選をやり、岸田さんが総理大臣になりました。国民からすれば、ほとんど何もやっていない岸田さんをどう評価したらいいんだということになる。つまり「有権者が政権の審判を行う」という機会を自民党総裁選が奪ってしまったわけです。
ダース 勝手な理屈で首相という「顔」のすげ替えを行って、そこで審判が済んだことにしちゃったわけですね。投票率55%という低さは、「賞罰はもう終わったからやることないよ」という有権者の意識の表れだったんじゃないでしょうか。
藤井 まったくそのとおりだと思います。「総裁選によって選挙の賞罰機能を奪う」というのは、自民党が昔から使ってきた手ですし、もちろん違法ではない。しかし、その結果として有権者は「冷めた」わけですね。メディアも総裁選を大々的に報じ、そこに有権者の関心が集中してしまった。民主主義にとって選挙とは何なのかという観点がまったくなかったと思います。
ダース そうして賞罰機能をキャンセルしてしまえば、選挙を骨抜きにできるということを知っているのが自民党の強さですよね。
もう一つの選挙の機能、「多数派の利益を選ぶ」という観点からはどう評価しますか。
藤井 今、「行き詰まった新自由主義からの脱却」という世界的な潮流が生まれています。たとえばアメリカでバイデン大統領が登場してきたときにも、そこには「新自由主義への決別」というメッセージがありました。岸田さんが当初掲げていた新自由主義からの転換を意図した政策自体は、こうした流れに意識的に参加しようとするもので、野党に好意的な有権者にもアピールし、より幅広い支持を得られる可能性がある政策だったと思います。
ダース ただ、衆院選の時点では、岸田さんはまだ「何もやっていなかった」わけで。やれていないことに対して投票させられたわけですよね。
藤井 確かにそれはありますね。政策を掲げてはいても、それを本当にやるのか、やれるのかどうかもわからないという状況では、有権者はその人の「イメージ」や「人柄」に対して投票するしかなくなります。とするなら、社会に予め存在する利害や意見を集約するという機能を今回の選挙が果たしていたとは言い難いように思われます。
ダース その意味では、総裁選によって選挙が持つ二つの機能が両方とも戦略的にキャンセルされたわけですね。
藤井 自民党の政治家たちは、政治家のイメージが選挙の中で形成されるということをよく知っています。今回の総裁選でも衆院選でも、どのような媒体のメディアにどう出るかまで戦略的に計算して行動を取っていたように思いますね。広告代理店が付いて、「どういうイメージを作っていくか」に政治的なエネルギーが費やされ、単なる人気投票になってしまう。そういう選挙の形が非常に如実に表れたのが今回の衆院選挙だったのではないでしょうか。
ダース 藤井さんが本で書かれている「代表制民主主義が失敗している」ということの実例となる選挙だったともいえそうです。
「代表制度」と民主主義は別のものである
ダース 今「代表制民主主義が失敗している」と言いましたが、その前提となる「民主主義とはそもそも何なのか」ということが、実は日本ではまったく共有されていないんじゃないかと思います。要は多数決で決めればいいんだろうとか、選挙だけが民主主義だとか思っている人も多い。このあたりのお話を改めて伺えますか。
藤井 おっしゃるとおり、民主主義とは「選挙で選んだ代表者に政治をしてもらうこと」だというのは「よくある誤解」です。実は代表制度、あるいは選挙制度と民主主義は、近代になって結び付いただけであって、もともとは関係ない話なんですね。
たとえば、まさに民主主義を掲げて行われたフランス革命の直接的なきっかけとなったのは、平民、ブルジョア、僧侶という三つの身分の代表者たちが集まる「三部会」の開催でした。つまり、代表制度はむしろ、民主主義が打倒しようとした封建社会の制度だった。だから、フランス革命に影響を与えたと言われる思想家のジャン=ジャック・ルソーは著書『社会契約論』の中で、代表制度なんていうのはクソみたいな制度だ、と述べています。
ダース 民主制が打ち倒した封建制の中に、代表制度も含まれているわけですね。
藤井 そういうことです。では、代表制度と無関係に始まった民主主義とは、いったいどういうものだったのか。
一般に、民主主義の始まりとされるのは古代都市国家のアテナイですが、この民主主義は、権力を私物化した僭主の専制政治に対する抵抗と予防のために誕生したものでした。そしてそこでは、今でいう行政官や裁判官を選ぶための制度として、「くじ引き」が用いられていた。つまり、政治に携わる人をローテーションで代えていくことで、政治の私物化を不可能にしようとしたんです。
ダース くじ引きということは、「誰でも行政官や裁判官になれる」ということですよね。現代でも、供託金の問題などはあるものの、一応は立候補の自由は誰にでもあります。そうして「誰でもなれる」ということが民主主義の根幹だということですね。
藤井 そのとおりです。もちろん、当時「市民」と認められたのはあくまでもアテナイの成年男子のみであって、女性や外国人、奴隷には政治参加の権利はなかったという点は強調しておかなくてはならないと思いますが。
他にも、今でいう国会にあたる「民会」というものがあって、これにはくじ引きではなくアテナイ市民なら誰でも参加できたのです。民会で暴力沙汰があったという記録は確認できず、自由な発言が行われていたと推測されているようです。また、より多くの参加を促すために民会に参加すればお金が払われるような制度も組み入れられていました。
当時の哲学者、プラトンの著作などを読むと、当時の民主主義はひどいものだったと思わされがちですが、彼のようなエリートはそもそも、民主主義に反対の立場だったんですよね。実際には、市民たち自身が非常にしっかりと、権力の私物化に対抗するために制度を組み立て、アップデートしていったといえるんじゃないでしょうか。
ダース 今に名前が残っているわけでもない、無名の市民たちが政治を維持していたわけで、本来の民主制の原型といえそうですね。
憲法とは何か
藤井 さて、ではこのアテナイに始まった民主主義が、どのように代表制民主主義へとつながっていったのか。先ほど触れたルソーは、社会は構成員全員に共有された利害関心に基づいて統治されなくてはならない、そのためには全員が集まって物事を決定することが必要だとして、代表制度を否定しました。
ダース 彼がそのときに想定していた「社会」の規模感というのは、どのくらいなんですか。
藤井 なかなか難しい質問ですが、例えば、古代アテナイの民主主義の最盛期において成年男子市民の数はおよそ4~5万人だと言われています。
ダース そのくらいなら、「全員が集まって決定する」ことも一応は可能だと考えたのでしょうが、18〜19世紀ごろから、国民国家の誕生によって国家規模はもっと大きくなってくる。そこで初めて、ルソーが「唾棄すべきもの」としていた代表制度が民主主義と合流してくることになるんですね。
藤井 そのとおりです。たとえばフランス革命の指導者の一人だったエマニュエル=ジョゼフ・シィエスも、『第三身分とは何か』という著書の中で、「社会共通の利害関心は、代表者を通じて表明される」と論じています。ルソーはみんなが直接広場に集まって意見を表明しなきゃいけないと言ったけれど、そうではない、ルソーのいう「一般意思」──社会の全構成員が共有する意思――は代表者によっても実現されるんだと述べたわけです。
こうして民主主義と代表制度が密接に結び付くようになったときに、立憲主義という考え方が出てきます。代表者が社会全体の意思に反して行動する「裏切り」を防ぐため、代表者が「やっていいこと」「やってはいけないこと」を、有権者が書いたものが憲法だということですね。
ダース 僕、日本が民主主義国家とはいえない理由の一つは、憲法とは何なのかがわかってない人が多いということだと思っています。今まとめていただいたように、代表者がちゃんと社会集団の利益を代表する人たちとして働くようにするために作られたのが憲法なんですよね。
そう考えると、憲法を変えることができるのは、社会の「一般意思」のみのはずです。憲法にはこう書いてあるけど、これは一般意思を反映できていないんじゃないか、だから改憲の必要がある、という議論の立て方になるはずで。今の日本のように、総理大臣とかが自分から「改憲」って言い出すのは、捕まってる人が「いや、この縄一回外しませんか」と言ってるみたいなものじゃないですか。
藤井 自民党改憲案は特にそうですね。日本では、現行憲法制定から70年あまり、チャンスは何度もあったにもかかわらず、ここまで改憲はなされてきませんでした。ということは、やはり我々は、国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義という憲法に書かれた三つの価値を社会の基本的な原理として受け入れ、歴史的に内在化してきたといえるでしょう。そこを変えてしまうような改憲というのは、なかなか難しいと思うのです。
ダース 改憲を議論する際には、そうした原則的な方向性に即した内容かどうかということがまず大事だということですね。
たとえば選択的夫婦別姓の話が出てきたときに、「じゃあ、それに関連する憲法の条文も時代に合わないから変えよう」という議論は全然ありだと思うんです。でも、これまで社会を支えてきた憲法の価値観そのものを書き換えるのは、改憲ではなく革命だというべきじゃないでしょうか。
代表制民主主義の「黄金期」とポピュリズム
ダース 藤井さんは本の中で、代表制民主主義がもっとも機能していた「黄金期」があった、とも書かれていますね。
藤井 第二次世界大戦後、1970年代までの欧米や日本がそうですね。そして、そこで重要な役割を果たしたのが「大衆政党」でした。
工業化社会の発展の中で、労働者とそれを雇う側の人たちという二つの勢力を代表する二大大衆政党が、多くの国で生まれてきます。つまり、労働組合をバックにした社会民主主義政党と、経営者団体にしっかりと根を下ろした保守政党。昭和の日本でいえば社会党と自民党ですね。この二大政党が互いに争いながら、富の配分を求めて政治を行っていたわけです。
ダース この時代は、社会的関心や要求もシンプルで、基本的には「どう富を分配するか」だったんですね。
藤井 そのとおりです。ところが70年代以降、オイルショックなどで工業化社会が行き詰まり、同時に価値観の多様化が進んでいきます。人々は環境とかアイデンティティとか、物質的ではないものに価値を求めるようになり、政治の争点も「富の分配」だけではなくなっていったのです。
さらに、日本ではとりわけ90年代以降、非正規雇用で働く人が増え、労働組合の組織率が大きく下がりました。当然ながらそれとともに、組合に支えられていた社会民主主義政党は弱体化していきます。自民党はいまだにいろんな業界団体などに根を張ってはいますが、それも昔と比べると弱くなっている。政党というもの自体が社会から乖離して、政治と社会との媒介機能を果たせなくなっているわけです。
ダース 代表制民主主義の前提となっていた社会構造が崩れたことで、その難しさが世界中で噴出してきているんですね。日本の政治状況においても、代表制民主主義はもはや機能しているとはいえないと思います。
それとともに、世界中で出てきているのがポピュリズムです。ただ、このポピュリズムというものは、民主制をとり続ける限り必ず出てくるものだと思うんですが。
藤井 たしかに、民主主義というのは根本的にポピュリズム的なところがあります。ただ、ポピュリズムという現象が出てくるのは、代表制民主主義において、代表する者(政党や政治家)と代表される者(有権者)がうまく一致していないときなんですね。
たとえば、アメリカのトランプ前大統領も、それまでの政府や既存の政党に「見捨てられた」という思いを抱えていた白人労働者階級を代表して出てきた人です。あらゆるポピュリストはそういう形で出てくるんだと思うのです。
ダース そうして「代表されていない人たち」を代表して出てくるという構図自体は、代表制民主主義が取りこぼしてしまっているものを補完しているわけで、悪いこととはいえないんですよね。
藤井 はい、そこは大事ですね。さらにポピュリズムには、現在の政党制度を改革し、新しい制度をつくりだす大きな原動力になるという、非常にポジティブな面もあります。スペインで支持を広げている左派ポピュリスト政党の「ポデモス」なんかはその点で注目されてきました。
もちろん一方で、専制や権力の私物化につながるという危険性もはらんでいるわけですが……。トランプも、アメリカ社会の分断を深め、それを顕在化させたし、結果としてアメリカの代表制民主主義を非常に傷つけたと思います。
「中国モデル」という誘惑
ダース 最初のほうで「新自由主義の行き詰まり」という話が出ましたが、新自由主義路線を突き進んだ結果、各国で「勝ち組」「負け組」の分断が生じ、それぞれに不満をため込んでいるというのが、今の国際社会が迎えている状況だと思います。
その中で、権威主義的な「中国モデル」が急速に台頭し、民主主義のオルタナティブとしての強い誘惑を放っている。それに民主主義は果たして対抗できるのかというのが、藤井さんの本における大きな問題提起ですよね。
藤井 はい。ロシアや東欧諸国など、近年は権威主義的国家が増えていますが、その中でも中国の統治モデルは、他と大きく異なっている。それがメリトクラシー(能力主義)です。
通常の権威主義国家は、ロシアのプーチン大統領のように、リーダーのカリスマ性に依拠しています。ところが中国の場合は、徹底して業績重視。政治エリートに加わるためには、いくつもの能力試験をパスし、行政上の実務経験を数十年と積む必要があります。その中でさらに熾烈な競争を勝ち抜いた人が、トップに上り詰めることができるわけです。
ダース 勝った人がどんどん上に行くシステムなんですね。
藤井 選挙で選ばれるのではなく、能力・業績本位の競争に勝った人が政治のリーダーになる。これが中国の統治モデルと私が呼んだものです。こうしたモデルはおそらく、新自由主義化した私たちの社会に非常に適合するであろうと思います。ビジネスの世界で勝ち抜いた「勝ち組」の人々は、政治についても「能力・業績本位の競争に勝ったやつにやらせればいいんだ」と考える。一方「負け組」にとっても、実は中国モデルは魅力的に映る可能性があります。
一般的には、治安の維持と経済的な繁栄、そして自由の保障という三つが統治の課題とされます。そのうち、自由が非常に制約されているのが中国モデルの特徴なのですが、日本においてもすでに、自由は「勝ち組」の特権になりつつある。非正規雇用で生活するだけでも大変だという人には、車を買うとか旅行をするなんていう選択肢はそもそもありません。「安全と豊かさを守ってくれるんだったら、自由は二の次だ」と考えるようになっても不思議はないんです。
ダース 自由が保障されているという前提が、実感としてすでにないわけですね。だから、「安全や豊かさが保障されるんだったら自由がなくても別にいいよ」となってしまう。
ただ、中国のメリトクラシーというのは、科挙制度に始まる積み重ねがあってできているものであって、日本で同じような政治体制を作ろうといっても無理じゃないかと思うんですが。
藤井 もちろんそれはあります。日本は中国のように一党支配でもないし、中国モデルをそのまま導入できるかといったら難しいでしょう。
ただ重要なのは、政治家を「選挙では選ばない」という有力なモデルがそこで示されているということです。90年代以降、民主主義には有力なオルタナティブがなかった。それが、代表制民主主義が唯一の道ではない、他にも選択肢があるんだとなれば、「どうして投票で選ぶ必要があるのか」「民主主義にこだわる理由はあるのか」といった問いが出てくることになると思います。
代表制民主主義の改革に向けて
ダース では、代表制民主主義が行き詰まる中、権威主義を取らないのであればどんな選択肢があるのかということも、本の中ではいくつか紹介されていますね。
藤井 日本だけではなく、多くの国々が日本と同じような問題に直面していて、代表制民主主義のイノベーションというべき試みが生まれてきているんです。そこで重要なのは、代表を選ぶために選挙だけではなく「くじ引き」を使うということ。というといい加減に聞こえそうですが、権力の私物化を防ぐという民主主義の観点からすれば、くじ引きというのは非常に考え抜かれた、合理的な制度なんですね。
本の中では、三つのやり方を取り上げたのですが、その一つが、世論調査をより精緻化した「熟議世論調査」です。一般的な世論調査とは違って、参加者にしっかり情報を与えて、議論をさせた上で質問に答えてもらったらどうなるのか。そうした実験が、80年代ごろからアメリカを中心に行われてきました。
参加者は、人口における男女比なども反映させながらくじで選びます。そして、たとえば「死刑制度に賛成か反対か」といった議題について、専門家の意見も聞きながら議論してもらう。その熟議のプロセスを経る前と経た後で人々の意見はどう変わるのかという調査なんです。
ダース それによって、熟議というものの効果が分かるんですね。
藤井 現状では、熟議を経ることで、人々の意見は専門家の意見に近づき、理に適ったものになるという結果も出ているようです。あくまで「世論調査」なので、直接的に政治に反映されるわけではありませんが、その結果を参照しながら政治家たちが決定を行うというのも一つのあり方でしょう。その他、くじ引きで選ばれた人たちによる市民集会を開く、自治体の予算策定に市民が参加できる仕組みをつくるといった試みも、各地で行われています。
つまり、代表制度をもう一度活性化して民主主義の理念に近づけることは十分可能だといえるし、そのための一つのヒントがくじを使うことなんですね。
ダース くじ引きというのは、「全員が当事者である」ということですからね。
藤井 さらに、そこには人々に政治的有効性感覚を付与するようなエンパワーメントの効果もあります。また、分断が進んだ現代社会において、さまざまな人たちをつなぐ一つのプラットフォームとしても機能する可能性もあるのではないかと思います。
ダース 日本で同じようなことをやろうとしたのが裁判員制度なのかもしれませんが、うまく機能しているとはいえないですね。
藤井 そうなんです。うまく機能していない最大の理由は「裁判員制度にどういう意味があるのか」を誰もわかっていないことでしょう。わからなければ「仕事も休まなきゃいけないし、面倒だよね」となってしまうのは当然だと思います。
私は、日本の民主主義の行き詰まりは、そんなふうに政治があまりにも普通の人たちから「遠すぎる」ことが大きな原因だと思っています。
ダース 本当の民主主義であれば、政治というのは自分たちそのものであって、「遠い」はずはないんですよね。「自分には政治なんて分からないし」という人がいる時点で、民主主義がきちんと履行されていないということが露呈している気がします。
今、日本ではある種の「強い」人、すべてを決めてくれるような独裁君主的なリーダーを求めてる人が増えていて、自分たちが持っている主権を喜んで差し出すような状況が生まれつつあるように思います。でも、一度差し出してしまったら、返してはもらえないんだから、差し出す前に一度考えませんか、と言いたいです。
藤井 そう、一度手放したら取り返すのは本当に大変だと思います。
ダース その意味でも、藤井さんの『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』、民主主義って何なのか改めて考えてみようという人には本当にお勧めの本だと思います。
あっという間の二時間半でしたが、お付き合いいただいてありがとうございました。
構成/仲藤里美
YouTube「ダースレイダー x 藤井達夫 代表制民主主義の失敗とその後」はこちらから。
プロフィール
藤井達夫(ふじい・たつお)
1973年岐阜県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科政治学専攻博士後期課程退学(単位取得)。早稲田大学院非常勤講師などを経て2022年から東京医科歯科大学教授。近年研究の関心は、現代民主主義理論。単著に『〈平成〉の正体――なぜこの社会は機能不全に陥ったのか』(イースト新書)、共著に『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版)、『日本が壊れる前に--「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』(亜紀書房)など。最新刊は『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』。
ダースレイダー
ラッパー、トラックメイカー。1977年にパリで⽣まれ、幼少期をロンドンで過ごす。東京⼤学に⼊学するも、浪⼈の時期に⽬覚めたラップ活動に傾倒し中退。2000年にMICADELICのメンバーとして本格デビューを果たし、注⽬を集める。⾃⾝のMCバトルの⼤会主催や講演の他に、⽇本のヒップホップでは初となる制作まで全てアーティスト主導のインディーズ・レーベルDa.Me.Recordsの設⽴など、若⼿ラッパーの育成にも尽⼒する。2010年6⽉、イベントのMCの間に脳梗塞で倒れ、さらに合併症で左⽬を失明するも、その後は眼帯をトレードマークに復帰。現在はThe Bassonsのボーカルの他、司会業や執筆業と様々な分野で活躍。著書に『MCバトル史から読み解く 日本語ラップ入門』『ダースレイダー自伝NO拘束』など。最新刊は『武器としてのヒップホップ』。