トクヴィルが論じた中国のデモクラシー
中島 今日の鼎談を楽しみにしていました。鼎談のテーマとして、デモクラシー、テクノロジー、資本主義、新しい人間観という四点を考えております。
『全体主義の克服』という本で、私はドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんと対談し、デジタル全体主義の問題を論じました。デジタル全体主義には、いま挙げた四点がすべて関わってきます。情報テクノロジーとデモクラシーや資本主義の関係をどう考えればいいのか。そしてデモクラシーや資本主義が新しい局面を迎えるのであれば、人間観も再定義していくことが必要なのではないか。今日は、中国を軸に据えながら、これらに問題について議論したいと思っています。
最初に中国とデモクラシーの問題から入りましょう。これは梶谷先生が主張されていることでもありますが、中国を異質な他者として排除するような仕方で理解するのはやめたほうがいい。そうではなくて、私たちと同じような問題に取り組んで、それで苦しんでいる一員として中国をどうやって見ていくのか。そういう構えからデモクラシーの問題も捉えられるのではないかと思うのです。
政治学の渡辺浩先生がトクヴィルを引きながら、中国のデモクラシーの問題を論じられたことがあります。渡辺先生によれば、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(初版1835年)は、当時の中国の状況を念頭に置いていたといいます。当時の中国は、トクヴィルの目にはある意味でデモクラティックな社会に映っていた。でも、それはデモクラティックな専制だったと。トクヴィルは、アメリカが将来的にそういう中国の方向に行くかもしれないという危惧を持っていたというわけです。
こういうトクヴィルのデモクラシー観、特に中国のデモクラシーに対する見方を、宇野先生はどのように分析されているんでしょうか。
宇野 中島先生が指摘されたのは、渡辺浩先生の『明治革命・性・文明』(東京大学出版会)に収録されている「アレクシ・ド・トクヴィルと三つの革命」という論考ですね。これは、私のような西洋政治思想史でトクヴィルを研究してきた人間にとって、げんこつでガツンと一発食らったような気持ちにさせられる論考でした。
今までの多くの西洋政治思想史の理論家は、デモクラシーは基本的には西洋のものであって、それ以外の非西洋地域がそれをどう受け止め、どう実現してくるかという問題の立て方をしてきたわけです。
しかし、それに対して渡辺先生は異議申立てをしている。すなわち、アジアにおける明治維新や辛亥革命をあのフランス革命と並べてみて、フラットに比較しているんですね。
さらに渡辺先生は唐宋変革論にも重きを置いています。唐代の貴族制的な社会が、宋の時代に科挙によって合理化が進み、社会においてある種の平等化が進んだのではないかという議論です。もしデモクラシーを社会の基層的なレベルにおける貴族制の破壊と平等化の進展と見るならば、中国でこそ最も早くデモクラシーが実現したともいえる。
これは、巷に流布している民主主義の歴史をひっくり返すものです。
中島 フランスが一番進んでいて、アジアでは日本が比較的やや先に近代化を果たし、中国が一番遅れているという図式は間違っているというわけですよね。
宇野 そして渡辺先生はトクヴィルを俎上にあげます。そういう中国の民主主義の歴史をトクヴィルはどう捉えたのか。トクヴィルは、単に政治体制としてのデモクラシーだけじゃなくて、社会の状態としてのデモクラシーという側面も視野に入れています。
そこで出てくるのが「民主的専制」という言葉です。民主制になったら専制には戻らないのかというと、そんなことはない。社会の基層的な平等化を前提にした専制的な政治が生まれる可能性があることをトクヴィルは議論しているわけですが、渡辺先生によれば、トクヴィルの民主的専制の発想の起源は中国にあるといいます。中国の宋王朝は、社会の基層的なデモクラシーを前提に、なおかつ皇帝専制を実現した。
したがって政治的な集権化と社会の基層的な平等化は必ずしも矛盾しないというモデルを示したのは中国であり、トクヴィルは中国からこれを学んで民主的専制の概念をつくり出したんだと渡辺先生は論じているわけです。
中島 ええ。
宇野 この民主的専制をめぐる議論にも啓発されました。ただ私自身は、中国がデモクラシーを最初に実現したかどうかいう点は、少し留保をつけたいと思っています。
トクヴィルは、貴族制の破壊、さらにすべての人間を平等な存在とみなすという社会的想像力が生まれることをデモクラシーの要素として重視しました。ですが、中国の宋代に、それがどこまで実現していたかは簡単には結論づけられない。そういう意味での留保です。
しかし、少なくとも中国、日本、ヨーロッパというものを比較しながら論じ、いわゆる西洋的なデモクラシーだけが絶対的なデモクラシーではなく、世界には複数のデモクラシーがありうるという問題提起は大変示唆的です。
梶谷 渡辺先生の論稿を私も読ませていただきました。まず抱いた印象として、10年ほど前に話題になった與那覇潤さんの『中国化する日本』(文藝春秋社)に図式が似ているなと思いました。與那覇さんは、民主主義という言葉は直接使っていないと思いますが、明治以降の日本の近代化は実は中国化として理解できる、という議論を展開しています。つまり、旧弊としてある封建的な身分制が打破されていくのが近代化であるとするならば、それは宋代の中国に実現されていた、と。そういう與那覇さんの本のロジックは、渡辺先生やトクヴィルの視点とある意味で非常に似ています。
ただ、近代というものを「封建制への対抗」としてとらえるのであれば、そういう議論も成り立つと思うんですが、それだけだと近代化のもう一つの重要な要素である資本主義をどうとらえるか、という視点が抜けてしまっています。
つまり、資本主義、特に産業資本主義の勃興ということを考えると、中国的な社会、つまり中間団体がない社会では、これはなかなか起こりにくいわけです。
中島 中間団体がないと流動性が高くなり、人々が信用にもとづいて行動することが難しくなりますね。それでは安定した雇用や取引関係が成立しません。
梶谷 ひるがえって日本を見ると、近代以降もあたかもイエのように企業を運営していきますよね。つまり、江戸時代のイエ制度がベースになって日本の資本主義は発展してきました。このことが示すように、封建的な要素がある程度残っている社会のほうが、産業社会、産業資本主義の途上にとってはむしろプラスに働いた側面があるわけです。
それをどう捉えるかという点は、與那覇さんの議論では十分に展開されていなかったと思います。また、トクヴィルを援用して中国の専制的デモクラシーを考える際にも、資本主義の問題とどうつなげるかということは問題になってくるはずです。
「人民」と「市民」はどう違うのか?
中島 宇野先生がご指摘されたように、我々の一つ上、あるいは二つ上の世代の研究者たちは、西洋に民主主義の起源があって、それがアジアに広がっていったことは前提として、アジアの伝統の中に民主主義的なものはないのかということを探求してきました。つまり、いわゆる近代化論に乗っかったデモクラシーの探求をやってこられたわけですよね。
それはある一定の成果を上げていったと思います。たとえば哲学・思想の面でも、「公論」というものがすでに明代には非常に整備された仕方で展開していったことが発見されました。
ところが渡辺浩先生の見解は、それをある意味で乗り越えるものです。フラットな仕方で中国を世界史の文脈に併置してみると、デモクラシー自体が最初から違った形で見えるのではないのか。デモクラシー自体が最初から複数の仕方であったかもしれない。そこには、近代化論のパースペクティブではもうデモクラシーを捉えられないのではないかという問題意識が看取できます。
そうすると、我々がとりわけ19世紀以降持ってきた、西洋由来のデモクラシーがオーセンティックであるという理解が崩れるわけですね。当然、現代のデモクラシーをどう理解するかという点にも大きな影響が及ぶでしょう。
では、中国の近現代のデモクラシーを、どのように理解すればいいのか。この点について、梶谷先生の考えをお聞かせくださいますか。
梶谷 2021年12月に、中国は「中国的民主」に関する白書を発表しました(中華人民共和国国務院新聞弁公室『「中国的民主」白皮書』)。この白書にはとにかく「人民」という言葉が頻出します。たとえばこんな具合です(一、中国共産党は人民を導き、完全な人民民主主義を実現する)。
「中国のような大きな国では、14億を超える人々の意思を真に表現し実現させることは容易ではなく、強力で統一されたリーダーシップが必要だ。中国共産党は、常に人民を中心に置き、人民の主体としての地位を堅持し、真に人民のための、人民による政治を行ってきた。また、党が人民を導いて国家を効果的に統治し、人民民主主義の理念、指針、政策が国の政治・社会生活のあらゆる面で実行されるように、全体を統括し、各党を調整する指導的中核としての役割を十分に発揮してきた。」
こんなふうに、「人民」、そしてそれを導く党という存在をとにかく前面に持ってくる。それに対して西側の民主主義は、「人民」に対置されるものとして「市民」という概念が非常に重要な位置を占めています。古代ギリシャのポリスで、市民がアゴラに集まって議論するというのが典型的な「市民」のイメージですね。人民主権を強調するルソーの社会契約論にしても、もとは個々の「市民」が独立した考えを持っていることが前提になっているわけです。
一方で、中国の文脈で用いられる「人民」は必ずしもそうではありません。「人民」は初めから一つの群れ、かたまりとしてあるもので、このことはコロナ禍以降、特に強調されてきたように思います。かつての毛沢東時代もやはり「人民」という言葉が強調されました。しかも「人民」の中身は、常に政治的な要因で揺れ動いていきます。
たとえば抗日戦争のころは、対日協力者が「人民の敵」であると言い、その後国共内戦期になると、国民党に協力した者は「人民の敵」であると言った。そして1950年代の社会主義建設時代に入ってくると、社会主義路線に反対する者は全て「人民の敵」になります。要するに、知共産党指導部にとって都合の悪い者は全て「人民の敵」になるわけです。
中国的な民主を語る場合、「人民主権」ということが強調されます。しかし主権は「人民」にあるけれども、「人民」の範囲を確定する権利は、共産党の指導部が独占的に握っている。そういう形で専制政治と「人民主権」が共存しているわけです。これは現在の中国的な民主の精神の中にも受け継がれているのではないかと思っています。
ふたつのデモクラシー――ルソー型とトクヴィル型
中島 なるほど。ここで宇野先生に伺ってみたいんですけれども、デモクラシーといった場合に、トクヴィル型の考え方とルソー型の考え方は相当異なるように思います。いま梶谷先生がおっしゃった中国の「人民主権」は、ルソー的なものだと私は理解しているんです。
たとえば今の中国には、党と国はイコールだとする「党国体制」という考え方があります。それは党が人民を完全に代表しているからです。私はここにルソー的な一般意志の現代的な実現を見ているんですけれども、宇野先生はどのようにお考えになるでしょうか。
宇野 先ほど梶谷先生が指摘されたように、西洋的なデモクラシーと中国的なデモクラシーを比較する場合、中間団体の有無というのが大きな鍵になると思います。そのことが、いま中島先生がおっしゃったトクヴィル型とルソー型の民主主義モデルと深く関わっているんじゃないでしょうか。
ルソー型の民主主義のイメージは、いったん社会をバラバラの個人に解体し、個人の社会契約に基づいて人民主権で主権を構成するというもので、そこに一般意志を想定するわけですね。
それに対してトクヴィル型は、個人と国家の間に様々な中間団体があってこそ民主主義は機能する。その意味で、たしかに中国的な民主主義は、ルソーの一般意志モデルの変形として考えることができます。
西洋や日本の場合、封建制の社会から中間団体が出てきて、この中間団体を近代的に読み替えていく中で社会的に機能させていくという方向を取りました。たとえば中間団体があってこそ代議制も機能するようになるし、中央集権的な国家を何らかの形で抑制する権力分立論にもつながっていきます。
したがって中国モデルの場合、中間団体が弱いために、代議制がなかなか機能しないのではないのか、あるいは、党権力を抑制するような権力分立論や法の支配という論理が弱いのではないのかという議論が生まれてくると思います。
ただ、これを単に中国の民主主義が不完全だとか遅れているという論法にすると、一世代前、二世代前の議論になってしまう。むしろ、中間集団の有無による民主主義のあり方の違いとして、日本、中国、西洋の社会を比較して論じていけるとより前向きな議論ができるんじゃないでしょうか。
中間団体なきプラットフォーム資本主義
梶谷 私自身も中間団体の存在は非常に重要だと思っています。一方で、GAFAや中国のアリババ、テンセントは、中間団体が存在しなくてもプラットフォームでつなげば何とかなるという資本主義のモデルを示しているように感じます。
これまで制度派経済学などでは、長期的な取引関係をベースにした信頼関係が近代的な経済発展に非常に重要であったという議論がされてきました。それに対して中国社会では、企業間の長期的な関係性がなかなか形成されないわけですね。そもそも持続的に生産しているような企業が非常に少ない。財界のような業界団体も希薄です。だから中国では近代的な資本主義が発展しないのだ、という議論を、戦前の日本における中国専門家は盛んにしていたわけです。
中国で中間団体の代わりに機能していたのが「包工制」と呼ばれるインフォーマルな労働慣行です。これは企業が「包工頭」と呼ばれる仲介業者に労働者の募集や管理を丸投げするものです。また、企業同士の取引でも、「この相手だったら取引しても大丈夫ですよ」という情報を仲介してくれる存在が重要になります。その場合、仲介してもらう取引先はしょっちゅう変わるので、必ずしも長期的な関係になるわけではありません。
これは零細な業者が何とか商売をやっていくためには便利なシステムですが、産業資本主義を担う規模の大きな企業や、日本の系列取引のような安定した企業間関係はなかなか形成されないと議論されてきました。恐らく、それを多分ひっくり返したところに発展したのが、現在のプラットフォームを中心とした経済のあり方だろうと思います。
アリババなどのIT企業によって提供される取引仲介のプラットフォームは、仲介業者が非常に肥大化したような側面を持っています。従来であれば口コミの情報を利用することで成立した取引が、ビッグデータを利用して、より安心できる商売の相手を知らせてくれるわけですね。一方で、現代の資本主義では最先端の技術を取り込んで、その場に合った商品やサービスを素早く出していくということのほうが重要視されるようになっています。そうすると、企業が長期的な関係を築くより、プラットフォームにつながることによって短期的に最適な取引相手を見つけるやり方のほうが現代の資本主義にはマッチしているわけです。この面で中国は日本よりずっと先を行っています。
中島 與那覇さんの言葉を借りれば、資本主義自体が中国化していく現実に、いま我々は直面しているわけですよね。プラットフォーマー型の資本主義になっていくと、中間団体が形成されないことは逆に強みになる。アリババやテンセントが広がっていく背景には、中国社会の中にある他人に対する不信の問題があります。不信が非常に根深いので、逆にプラットフォーマーのような請負をする企業に不信の代償を払わせる。それによってプラットフォーマーが成長していく。こういう構造があるわけです。
しかも、プラットフォーマー型資本主義は中国だけのものじゃないわけですよね。GAFAに代表される、アメリカを中心とした資本主義もまさにプラットフォーマー型のものになってきている。そういうなかでデモクラシーをどうするかが問われているのだと思います。
GAFAのようなプラットフォーマー型の資本主義がデモクラシーに対してもたらす破壊力、そして、それに抵抗する民主主義の力を、宇野先生はどのようにお考えになっていますか。
宇野 ヨーロッパではグローバルなプラットフォーム企業を国際的に規制しようという方向に行っていますが、世界的に見ればグローバルなプラットフォーム企業のほうが強くなり、伝統的な中間集団はどんどんどんどん弱体化し、解体している状況はますます進んでいくでしょう。
ここで、あくまで中間集団を立て直さないと民主主義はちゃんと機能しないと考えるのであれば、個人とプラットフォーム企業だけがITを通じて直結するだけではなく、政党のように人と人とを結びつけていく民主主義の回路を立て直していかなきゃいけないという議論になります。
しかし個人と中央、個人とプラットフォーム企業だけが直結して、中間集団などなくてもやっていけるんだという議論でいくと、ますます中間集団を解体し、中抜きにしていくことによって進化していこうという方向が強まるでしょう。
ですから、民主主義を立て直すというときに、中間集団はあったほうがいいというモデルにこだわるか、それとも、それを抜きにした個人・中心直結モデルで加速化して改革していくべきか、そのどちらに行くのかということが、クリティカルな問題として問われているわけです。
プラットフォーム企業に縛りをかけることはできるか
中島 宇野先生に今まとめていただいたように、中間集団にあくまでもこだわってデモクラシーと資本主義を立て直すのか、それとも、個人と中央が直結する方向で考えるのかは非常に大きな分かれ目だと思います。
後者の、個人と中央が直結する方向で考えると、監視の問題が出てきます。ヨーロッパ的な人権という概念とは異なるような仕方で私たちはIT企業に自分たちの情報を譲り渡して、それが政府のほうにも流れていく。こういったことを利益や利便性のために許しているところがあると思うんですね。
中間団体を排除していくというモデルはどうしてもそういう監視国家に行きがちですが、はたして監視国家に行かない仕方で個人と中央が直結するようなモデルは考えられるのか。それが無理だとすると、やっぱりもう一度新しい仕方で中間団体を再考する方向に我々は考えるべきなのか。梶谷先生いかがでしょう。
梶谷 まず、国家とプラットフォーム企業が結びつくというモデルに関して言うと、中国ではこれが非常にうまくいっているように見えていたものの、最近は両社の矛盾や対立が露呈してきています。
特に2020年の11月頃から、アリババなどのIT企業全般に逆風が吹くようになります。アリペイやセサミクレジットを開発したアント・フィナンシャルが新規IPOを行おうとして拒否されたところから始まり、その後、アリババ集団は独占禁止法の適用により多額の罰金を課されました。
また、2021年の夏ぐらいから中国政府は、格差の拡大を抑えようと「共同富裕」ということを盛んに言うようになりました。その方法として、第一次分配、第二次分配、第三次分配ということを提唱しています。第一次分配は土地や資本などの生産手段の分配、第二次分配は財政を通じた分配、第三次分配が民間からの寄付による分配です。中国政府は共同富裕のためには第三次分配をしなければいけないと突然言い出し、貧困対策に用いるための多額の寄付を、半ば強制的にアリババやテンセントに約束させました。
今年に入り緩和する動きも出てきてはいますが、なぜ急に中国政府による締め付けが厳しくなったのか。おそらくプラットフォーム企業を野放しにしておくと、その富と権力が巨大なものになりすぎて危険だ、また、拡大する格差に対する人民の不満を抑えることができない、ということに指導層が気が付き始めたのだと思います。
ですから、実は中国でもヨーロッパとは違う形で、プラットフォーム企業に対する風当たりは強くなっている。ただ、ヨーロッパのGDPRやアメリカの反トラスト法のように法をつくって縛りをかけるのではなくて、指導者の匙加減で富を吐き出させる、というのが中国らしいやり方です。先ほど話したことにつながると思いますが、共産党はいわば「われわれに従わなければ人民の敵に認定しますよ」と脅しをかけているわけです。だから、非常に法外な額の寄付であっても、企業は受け入れざるを得ないのが現状だと思います。
それをふまえると、現状はプラットフィーム企業に対する規制に関しても、西洋モデルと中国モデルの二つが出てきているというのが私の認識です。
宇野 中国の党国家権力とプラットフォーム企業がそう常にハッピーな組合わせであるとは限らないというのは、大変面白いですね。
先ほどの第三次分配は、ヨーロッパやアメリカでも自発的な形ではあるわけですね。大企業や高所得者がチャリティーのためにお金を寄付する。アメリカの場合は、社会保障は多くなくても、ビル・ゲイツみたいな人が財団をつくり、社会的な目的でお金を使うことによって、社会的な支出を実質的に増やすという文化があります。それが中国版になると、鶴の一声で強制的に寄付させる形になると。
一方で日本はむしろ逆に、ITやプラットフォーム企業を通じて個人が中間集団抜きにしていろいろつながったりを、新しいことを始めたりできる仕組みをつくっていくことが求められている気がします。つまり、日本的な中間集団が社会の変革の抵抗勢力になってしまっている部分があるわけです。
ただ、どちらか一方に突き進むのではなくて、旧来型の中間集団モデルとIT系の中抜きモデルを適切にハイブリッドさせることが重要なのではないでしょうか。その中で、変革へのダイナミズムと、法の支配や権力の分立といった権力チェックのメカニズムを両立させていかねばいけない。そういうハイブリッドの仕方がそれぞれの地域で違ってくるんじゃないでしょうか。
ソーシャル・リベラリズムの重要性
中島 現在、1%のスーパーリッチな人たちが世界の富の半分以上を所有しているという状況が起きています。しかも、その人たちは優秀なファンドマネジャーを抱えているので、富がどんどん増えていくわけですね。こういう資本主義をどうやって飼いならしていくのか。格差拡大に任せてしまっては、社会が崩壊してしまうということになりますから、どういう仕方で格差を是正していくのかということが問われているわけです。
では、今後の資本主義のあり方、そしてその中での人間のあり方をどう考えていけばいいか。お二人の考えをお聞かせください。
梶谷 大変難しい問いですが、ひとつ参考になるのは、私が解説を書かせていただいている、ブランコ・ミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』(みすず書房)です。
英語の原題は「キャピタリズム、アローン」です。この原題の意味するところは「資本主義だけ残った」ということだけでなく、近代的な物質文明を可能にする生産様式は、「資本主義しかないのだ」という含意があります。
たとえばソ連や以前の中国といった社会主義を掲げていた国々のシステムも、じつはその後の資本主義へのプロセスだった、というのがミラノヴィッチの主張です。言い換えれば、「資本主義しかない」ということは、逆にいうと、じつに様々な形の資本主義が存在するのだということだと思うんですね。
この本では、アメリカ型のリベラル能力資本主義と、中国に代表される政治的資本主義という二つのタイプから資本主義の問題を考察していますが、ミラノヴィッチによれば、両者はじつは補完関係をなしています。現在のアメリカと中国も、一見対立をしているようには見えるけれども、むしろお互いがお互いを必要とし、切り離せないからこそ対立も深まっていく、という非常に矛盾した関係にあるわけです。
ただ、資本主義的な利害が一致しているから決定的な対立は起きないだろうと考えるのも楽観的であり、二つの資本主義の共存は非常に危うい均衡の上に成り立っています。しかもアメリカと中国はどちらも格差が非常に拡大している。これをどうにかして変えないといけないとミラノヴィッチは警告していますし、私も同感です。
格差を是正するためには、やはり再分配のあり方をどう変えていくのかという問題に行き着きます。ここまでは多くの論者が一致していると思うのですが、再分配の方法はさまざまなものがあります。どういう形の再分配であれば人々が納得でき、民主主義を破壊しない持続的な形で行えるのか。このように資本主義のオルタナティブなあり方を考えることは、結局のところデモクラシーを考えることに直結すると思うので、ぜひ宇野先生のお考えをお伺いしたいのですが。
宇野 ミラノヴィッチの本は私も面白いと思いました。リベラル能力資本主義では、能力の名の下に実は家庭的なバックグラウンドによる格差がどんどん大きくなって、もはや個人の努力ではどうにもならない形で固定化していく。政治的資本主義では、国家がグローバルプラットフォーム企業を従え、圧倒的な権力を持って資本主義を引っ張っていく。
しかし、いくら資本主義だけが残ったといっても、この二つしかモデルがないとすると、どちらも正直言ってあまり魅力がありません。しかも、どちらもあまり民主主義にとっては好都合ではない。格差を固定化し拡大していくと、民主主義を支える平等性が損なわれてしまうからです。国家がグローバルプラットフォーム企業と癒着して圧倒的な力を持ってしまえば、権力に対する抑制や権力分立が利かなくなってくる。
ですから、もし資本主義のモデルがこの二つしかないとすると、どちらも民主主義にとって未来はあまり明るくはないという結論になろうかと思います。
そうなると、我々にとっての課題ははっきりしていて、一つはプラットフォーム企業をどうにかしなきゃいけないというのは間違いない。富を稼ぎ過ぎて格差をつくっていることもさることながら、あの組織の最大の問題は、組織の内部が非常に寡頭制的なんですよね。
中島 フラットな企業イメージと実質は真逆ですよね。
宇野 ええ。プラットフォーム企業は、いろんな技術や情報を人々に分け与えるという意味では確かに平等化に貢献している。しかし、それを支えているプラットフォーム組織自身は、極めて少数の人が決定している。しかも、その決定プロセスが外からよく見えないという極めて寡頭制的な構造を持っています。そういう組織が世界で大きな力を動かすのは本来望ましくないでしょう。
ですから、プラットフォーム企業をたたき潰せとは言いませんが、少なくともあのオリガーキー的な、寡頭制的なメカニズムは是正していかなければいけません。
中島 よくわかります。
宇野 二つ目に、所有権の問題があります。所有権を絶対化していくと、それはそれで人類がもうもたないということも明らかになりつつある。ですから、ある種のコモンズという発想はとても重要です。財政による再分配のように、所有権を分割するだけでなく、誰もが利用できる、誰もが無料で使えるコモンズを充実させることも、社会の平等化を促すわけですから、所有権絶対からコモンズの時代へという流れも、今後の未来の必然的な方向性だと思います。
こうした二点を踏まえると、熟さない言葉ですけれども、「ソーシャル・リベラリズム」ということが重要になってくるんじゃないでしょうか。自由主義ではあるけれど、新自由主義的なリベラルに対抗するようなソーシャルな次元を取り戻す。巨大プラットフォーム企業のオリガーキーを打破することと、所有権からコモンズへという動きを併せてソーシャル・リベラリズム的な方向を強めていかないと、民主主義は持たないかもしれません。
ソーシャルなものの回復
中島 非常に示唆的な発言をいただいたと思います。経済学者の方としゃべっていると、つい忘れてしまうのですが、実は社会にはマーケットができないこと、市場化できない面がたくさんあって、それが宇野先生の言葉で言うとソーシャルな部分ですよね。社会的な価値が我々の社会にはあると私も思っています。
ですから、マーケット自体にもソーシャルなものを組み込んでいく必要があると思います。最近ではESG投資やインパクト投資、あるいは経営資産といった議論が出てきていて、マーケットの中にソーシャルなものを組み込んでいこうという方向性も出てきているのかなという気がします。たまたま先日、マルクス・ガブリエルさんと話をして、ソーシャルな市場経済、ソーシャル・マーケット・エコノミーということが、ドイツでいま議論されているんだと教えてくれました。
そうすると、市場の内と外の両面でソーシャルなものの価値を強めていくことが必要でしょう。もちろんこういうふうに言っても、それが全体主義的な方向に用いられることだって当然あるわけですよね。それに対しては警戒をしなければいけない。そこでデモクラシー自身もアップデートしていかなければいけないと私は思っています。
梶谷先生は、ソーシャルな面を強めていくことに関してどうお考えですか。
梶谷 そうあるべきという点では完全に同意するんですが、研究対象である中国や生活の基盤を置いている日本を見ると、資本主義をソーシャルなものによって縛りをかけていくという動きとは逆のことがむしろ起きているような気がします。
中国に関しては、習近平政権がポストコロナの成長戦略として、生産要素の市場化や効率化を強く打ち出しています。ここでいう生産要素とは、従来の資本、労働、土地に加えて技術とデータが入った「五大生産要素」なんですね。これらについてプラットフォーマーによる独占や地方政府の非効率的な分配を打破して、全国的に効率的な市場メカニズムを作るという方針が示されています。
ただ、これは先程触れた「第一次分配」については格差の拡大をどんどん進めます、と言っているようなものです。中島先生の指摘と重ねるなら、もともと社会に埋め込まれていた生産要素を、これからは市場ベースに乗せて効率的に配分していくと共産党が宣言をしているわけですから、格差や社会矛盾が拡大するのは必然だろうと思っています。こうした動きを見ると、中国の方向性という点では、資本主義の野放図な発展を抑えるという見通しには非常に悲観的にならざるを得ないですね。
日本に関していうと、宇野先生が指摘されたように、行政のデジタル化の遅れであるとか非効率的なコロナ対応に対する批判の声が強まっているので、こちらも当面はDX(デジタル・トランスフォメーション)に代表される経済の供給面での効率化を促進する方向に進む気がします。ですから、日本の状況も非常に悲観的にならざるを得ないと思っています。
宇野 難しい問題ですね。現状を見ると、中国も日本も社会的なものをスキップして、むしろ新自由主義的な資本主義が加速しつつあるという診断はそのとおりだと思います。
ただ先程言ったように、ヨーロッパと日本は中間集団の機能を組み込みながら近代化を遂げ、資本主義と民主主義を発展させてきたという歴史的経緯があります。このモデルから考えると、日本が現代の中国のように徹底的な中抜き資本主義になるのは無理でしょうし、かといってアメリカ型の新自由主義的な社会モデルに転換するのも難しいでしょう。
だとすると日本とヨーロッパは、自らの近代の経験を活かしながら、中国ともアメリカとも違う可能性を追求していくしかありません。そうすることで、中国やアメリカの資本主義や民主主義のあり方にも関わっていく。その際はヨーロッパと巧みに手を組んでいく。こういうモデルで考えていくしかないんじゃないかと思っております。
近代的人間観をアップデートできるか
中島 民主主義、資本主義の歴史と現状、そして将来についていろいろ議論をしてきたわけですが、最後にお二人に伺ってみたいのは、その中で人間の立ち位置は一体どうなっていくんだろうということです。それこそ19世紀的なヒューマニズム、つまり、人間中心主義的な人間観がそのままの形ではもたないことは明らかになってきています。やはりこれだけ人間以外の生物や環境に対して負荷を与え続けていたら、その構造が人間の社会にも折り返されると私は思っているんですね。そうすると、人間の中の分断を生み出しているのも、近代的な人間観ではないのかという気がしています。
資本主義にしても民主主義にしても、近代的な人間観の上で展開していったわけですけれども、私たちが資本主義や民主主義をアップデートしていくとしたら、人間観自身もアップデートしないといけないのではないでしょうか。
では、どのような人間観というのを我々は考えていけばいいのか。例えばユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で分析したように、神のようになっていく人間と無用者としての人間に分かれていくような人間観を我々の想像力の中で許していくのか。許さないとすれば、どのような人間像を描いていけばいいのか。それを最後に伺いたいと思います。梶谷先生はいかがでしょうか。
梶谷 非常に難しい問いですけれども、私は未来の人間像を考えるとどうしても悲観的にならざるを得ないところがあります。特にビッグデータやアルゴリズムの支配という問題を考えると、なかなかポジティブな人間像を描けません。同様な舞台設定をしているSF小説なども基本的に悲観的なトーンで書かれていますよね。むしろ未来に対する希望を見いだす必要があるとすれば、過去を徹底的に振り返る必要があるのではないかと思っています。
というのは、人間がテクノロジーによって非常に大きく変わりつつある一方で、なかなか変わらないところもあるからです。例えば現在のように中国がその価値観で西側諸国のと対立が深まってきた理由を考えると、どうしても過去の王朝時代の社会の成り立ちがどうだったか、という話に立ち戻らざるを得ません。国家と社会との関係もそうですし、民主主義のオルタナティブなあり方であるとか、経済のオルタナティブなあり方、あるいは中間団体が形成されにくいといった現在の中国社会の特徴は、結局は過去のあり方から歴史的に受け継がれているものです。
一方、西側諸国のほうでも、現在の民主主義や市民的公共性につながる思想の起源を考えるならば、ギリシャとローマに遡らざるを得ない。それが唯一の起源ではないかもしれませんが、やはりそこに立ち戻って、変わらないものがあることに注目する必要があります。
現在、ポストヒューマンや人新世といった議論が盛んになされてはいるのは承知していますが、むしろテクノロジーが発展しても変わらないものが受け継がれていくのが人間のあり方だと考えたほうがいいのではないでしょうか。
たとえば中国がゲノム編集やデザイナーベイビーといった生殖技術、あるいは監視テクノロジーや信用スコアといったものをあまりに無防備に受け入れているのを見ると、過去の伝統を全く無視して新しい人間像がつくり出されているような印象を受けてしまいますが、本当にそうか。そもそもそういったテクノロジーに抵抗を感じるような価値観が西側社会に特有のものであって、中国社会の伝統には根差していないから、抵抗を感じないのではないか。逆に、中国は中国で、テクノロージーの暴走とは別の歯止めになるような原理が働く可能性もあるわけです。
中島先生が訳されたフランスワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』(講談社学術文庫)の中で、『孟子』に出てくるエピソードが紹介されています。いけにえに捧げられる牛が殺されるために連れられていくところを見た王様が、かわいそうだからやめておけ、代わりに羊をいけにえに捧げなさい、と命令する。これは動物の命はすべて大事にしなければならないという普遍的な倫理ではありませんが、実際に目にしたものに対する惻隠の情を感じるという、悲惨な現状に対してより現実的に作動する、倫理的な歯止めとして捉えることもできるわけです。
ですから現代の中国社会においても、ある面では技術による人間観の改ざんに対して全く歯止めがかからないように見えるけれども、ある面では別の歯止めが働いているかもしれない。ただ、それが何なのかは、過去を振り返ることでしか理解できないものだと思います。ですから、お互いに過去を振り返りながら、これからの時代の人間像をアップデートする上で何が変わっていくべきなのか、何を変えるべきでないのか、あるいは共通する点は何なのかということを徹底的に議論して認識を深めるべきではないかと思っています。
中島 ありがとうございます。ジュリアンの本に言及していただきましたが、私も中国思想の中には、梶谷先生がおっしゃるような別の歯止めはあると思っています。人間が生きるというあり方をめぐる洞察は、中国の哲学の中に脈々とあります。それ自体をもう一度認識し直すことがあらためて必要な気がします。それは19世紀的なヒューマニズムとも違うし、あるいは普遍的な動物倫理とも違う。生きるものに対する別の見方があるわけですね。そこに組み込まれている倫理観をもう一度考えることによって、別の歯止めになるチャンスはある気がいたしますね。宇野先生、いかがでしょうか。
宇野 私も梶谷先生と一緒で、短期的にはあまり明るい未来を想像できません。正直言って悲観的です。どう見てもこのままいくと格差が拡大する一方ですし、ネット的な情報環境に囲まれている中で、一人一人の言説の分断化が進んでいって、お互い話の通じない社会へとどんどん向かっている気がします。ハラリの言うようなディストピアもまんざらあり得ないわけではない。
ただ長期的に考えると、中島先生の問題意識は非常によくわかります。人間像というときに、近代の西洋思想はあまりにも人間中心主義でした。個人というものも自己完結的です。自分の意志や欲望があり、自分で判断できる。そのような自己完結的な個人からなる社会も自己完結性があります。神や環境、いろんな他者を排除していって、非常に自己完結的な個人と社会のモデルを洗練してきたのが近代のヨーロッパの思想です。ポストヒューマンや人新世は、それに対して相対化をかけようという意味でいうと、それなりに理解できるところがあります。人間も、環境を含めてさまざまな存在の一部であって、決して自己完結的な存在ではない。世界のなかで他と関わり合いながら生かされる存在としての人間像を、どういう形で21世紀的にアップデートできるかということは非常に重要になってくると思います。
同時に、これは梶谷先生の話と重なりますけれども、人間はみんな同じにはならないだろうと。それぞれの社会の所与の流れ、歴史の伝統の流れは非常に大きく、日本と中国と西洋とアメリカが将来、同じような社会モデルに収れんするという想定は無理があります。それぞれの社会において、社会のつくり方の論理があります。今までは西洋を基準にして、先進と後進に割り振ってきましたが、西洋を絶対視する必要はありません。それぞれの持っている社会の思考法、考え方、価値観、生き方といったものを尊重しつつ、いろんなものを組み換えしていく。そのハイブリッドを適切にできるかというところで競争していくのが一番生産的な気がします。
人間は自己完結的ではないというのは、空間的にもそうですけれども、時間的にも、過去からの流れの中で今の人間なり社会なりがあります。それぞれの社会で蓄積されてきた思考や考え方を大切にしながら、それを読み替えて新しくしていくことも、人間像の転換に求められていると思います。
中島 フランソワ・ジュリアンは『道徳を基礎づける』のなかで、人間を横断的な存在として捉えています。これは孟子から着想を得た考えです。人間の生のあり方は個人に完結するのではなく、横断的なものが必ずある。そういうことを言うわけですよね。
その孟子をさらに引き受けて、荀子は人間の生のあり方自体を変化させることができるという議論を展開しました。宇野先生の指摘のように、それぞれに固有のものはあるけれども、それを絶対視するのではなく、変容する可能性も含めてハイブリッドな方向性というのを我々がどう発明していくのか。これが大事だと本当に思います。
私自身は、「human being」という「存在」に結びつけられた人間観より、「human becoming」という人間的になっていくような人間観、さらにそれを他者と一緒に実現する「human co-becoming」という人間観を提出しています。こうした新しい人間観に寄与するようなことがないと、資本主義の将来はないのではないのか。そして民主主義にとっても、人間をどうするのかということが喫緊の問題として問われています。
デモクラシー、テクノロジー、資本主義、そして人間観をめぐって、お二人から非常に貴重な意見や示唆をいただきました。心から感謝したいと思います。本日はどうもありがとうございました。
プロフィール
中島 隆博(なかじま たかひろ)
1964年生まれ。東京大学東アジア藝文書院院長。主な著作に『共生のプラクシス 国家と宗教』(東京大学出版会,第25回和辻哲郎文化賞),『中国哲学史 諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(筑摩選書)、マルクス・ガブリエルとの共著『全体主義の克服』(集英社新書)など。
宇野 重規(うの しげき)
1967年生まれ。東京大学社会科学研究所教授。専攻は政治思想史、政治哲学。主な著書に『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞受賞)、『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)など。
梶谷 懐(かじたに かい)
1970年まれ。神戸大学大学院経済学研究科教授。主な著書に『現代中国の財政金融システム』(名古屋大学出版会、2011年、大平正芳記念賞)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑』(太田出版、2015年)、『日本と中国経済』(ちくま新書、2016年)など。