セキュリティの危機の中で問い直される「自由」後編

宇野重規×杉田敦

ミル、ホッブズ、ルソー、フーコーなどの名著を取り上げながら、自由の価値を鋭く問いかける集英社新書『自由とセキュリティ』(5月17日刊行)。

著者の政治学者・杉田敦氏(法政大学教授)と政治思想史を専門とする宇野重規氏(東京大学教授)の対話からは、コロナ禍や戦争によってセキュリティ重視が進む世界的な流れの中で、今こそ本書で論じられている政治思想を学ぶべき理由が見えてくる。

前編に引き続き、後編では話題の映画『オッペンハイマー』や2024年5月に成立した「セキュリティ・クリアランス法」を例に、迫り来る「自由の危機」についての議論が交わされる。「自由の伝統」がない日本に生きる私たちが向き合うべきことは何か、ふたりが読者に送るメッセージとは。

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映画『オッペンハイマー』で議論すべき問題

『オッペンハイマー』 全国劇場で大ヒット上映中 ビターズ・エンド  ユニバーサル映画 © Universal Pictures. All Rights Reserved.

宇野 「自由とセキュリティ」の問題を考える材料のひとつとして、映画『オッペンハイマー』の話をしたいと思います。

色々な批判があることは聞いていますが、学問や科学の発展にとって多様な人々と交わす自由な対話がどれほど重要か、そして科学者はいかに国家の政治的目的の前に脆弱かということを、オッペンハイマーという人物にフォーカスすることによって、実に見事に描き出した映画でした。

『オッペンハイマー』はけっして回顧物ではなく、研究資金をDARPA(国防高等研究計画局)に頼らざるを得ない現代のアメリカの知的状況を重ね合わせているわけですよね。

『オッペンハイマー』の公開後、アメリカでは研究の自由についての議論が湧き起こったそうですが、日本では「オッペンハイマーは大変だった」「アメリカのマッカーシズムはひどかった」などと、まるで他人事のように捉えている人が多い気がします。しかし、日本の学者たちこそ、本当に自分たちは自由なのかどうかということを大論争していいと思うんです。そういう議論すらないまま、何となくみんなで自主規制しながらどんどん自由の制限が進んでいっている。お寒い状況と言わざるを得ません。

杉田 『オッペンハイマー』はまだ観ていませんが、日本でも戦前、仁科芳雄などの科学者たちが、オッペンハイマーと同じく国策の下で原爆開発をしようとしていたわけです。

戦後になって、仁科や丸山眞男、羽仁五郎など、当時の日本を代表する人文科学者・ 社会科学者・自然科学者が参加した平和問題談話会が「戦争と平和に関する科学者の声明」 をまとめ、そこに「特に、日本の場合、自然科学者は、極端な国家主義的戦争に利用されて来たことについて今日十分なる反省を要求されているはずである」という一文を入れています。実はこれを出す過程で、「反省」するのは戦争協力ではなく日本が負けたことに対してだ という意見が出るなど、議論が紛糾しているんです。

この談話会とほぼ同時期に発足し、仁科が初代副会長を務めた日本学術会議でも、「これまでわが国の科学者がとりきたつた態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う」とする「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」 が発表されました。

このときもやはり反論が出たのですが、セキュリティを高めるための研究の何が悪いのかということに加えて、理系の研究者、特に工学系からの「研究の自由が一番あったのは、国からの資金が潤沢だった戦時中だ」という声でした。これは現在まで続いている思考回路と言えるでしょう。

宇野 おっしゃるように、日本学術会議というものの歴史的な発足の経緯を考えると、原子力や核の問題、そして戦争と結びついた学者の責任は大きな意味を持っていたと思います。

それと同時に戦後も国策として科学技術が支援・育成されていくというときに、アカデミアと国がどういう関係を切り結ぶべきなのかという問題が、このときから既に出ていたということですね。

杉田 その後、日本学術会議は1950年の第6回総会で「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」、1967年に「軍事目的のための科学的研究を行わない声明」を出しています。にもかかわらず、軍事と科学が接近する可能性は残り続けました。

2017年の「軍事的安全保障研究に関する声明」 も、2015年に防衛省の「安全保障技術研究推進制度」が始まり、豊富な予算の下で軍事と学術の接近がなし崩し的に進んでいくことへの強い危機感からつくられたものです。

当時、私もこの声明の取りまとめに関わりましたが、その際に交わされた議論の多くは、1948年から1950年頃に全部出ていたと言えます。資金がなければ研究ができないので、国から出る資金が研究の自由を保障するという言い方がされるわけですけれども、それによって政府からの研究の束縛が強まり、研究成果の公開は制約されて、長期的には自由が失われていく。でも、こういう論理は特に理系の研究者にはなかなか理解されにくいですね。金は出しても縛らないと国も言っているから大丈夫だ、などと反論されます。

宇野 日本学術会議については、私も含めた6名の会員候補が当時の菅義偉総理から任命されなかった件 、それから日本学術会議を国の機関として法人化し、政府との一体化が進められようとしている ことなども、深刻かつ重要な問題ですが、それらの根本は、戦争中の科学者と戦争の関係から始まって、戦後どのようにこの関係が再編され議論されてきたか、ということにあるのだと思います。

「セキュリティ・クリアランス法」が突きつける矛盾

政治学者・杉田敦氏

杉田 自由とセキュリティをめぐる最近の話題としては、今年5月に成立した「セキュリティ・クリアランス制度」を創設する法律 (セキュリティ・クリアランス法)もそうですね。

経済安全保障という言葉は、単に他国への情報漏洩等を防ぐという話から始まって、いつの間にか、安全保障と密接な経済活動の推進、つまり経済の軍事化という意味に転換されつつあります。そのために、経済界も学界も動員される。世論のあり方も、最近の世界情勢を受けて、セキュリティの危機なので自由を制限するのが当然だという話になっており、それに対してブレーキをかけるのはなかなか難しいことだと思います。

ここで改めて、自由の内在的な価値に目を向けないと、セキュリティさえ実現すればいいと、自由の制限が無制限に進められていってしまう恐れがあります。実際、今回の法律のベースになっている一連の国家安全保障政策は、国会での議論がないまま閣議決定で定められているわけです。

宇野 オッペンハイマーが経験したような状況は、既にいたるところに存在していて、セキュリティ・クリアランスなど経済安全保障の話もその流れから出るべくして出てきた問題だと感じます。

ひとりの研究者としても、ひたひたと自分たちの活動が制限されつつあると実感しています。「セキュリティ・クリアランス法」の話が出てくる以前から、情報や技術の海外流出を防ぐために書類を書いたり、申告したりすることを求められるということが増えていますし、外国の政府の影響下にある人と会うことに対しても、一定の制限がかかっています。

でも、誰が「外国の政府の影響下にある」のかという判断は非常に難しくて、海外の研究者と会って議論したり、留学生を引き受けたりするときに「ひょっとしたら引っかかるのではないか?」と悩みます。国際会議に出席するときも、運営に外国の政府や関連団体がからんでいるかどうか、チェックされますしね。

杉田 本当にそんなことばかりです。

宇野 「研究をグローバル化せよ」「自由な研究活動を妨げるものではない」と言いながらも、そうやって規制を強めていくのは矛盾しています。海外と関わりを持った結果、情報が漏洩したのではないかと疑われ、それによって大きな社会的制裁を受けるかもしれないと考えたら、海外とは一切関係を持たない方がいい、となってしまうでしょう。

考えてみれば、そもそも大学はどうあるべきかということは大学自身で議論するべきなのに 、大学が国策としての科学技術政策の下部構造として設定されてしまっているというのもおかしな話です。現在、国の大きな学術政策をつくるのは、総合科学技術イノベーション会議(CSTI :Council for Science, Technology and Innovation)という内閣府の組織ですが、この仕組みの発想からして、国策としての科学技術という大きな目的のための大学政策ということになっているわけですね。この体制が今、かなり極端なかたちにまで強化されている問題については、少なくとも1995年の行政改革で文部科学省が誕生した時点まで歴史を遡って考えるべきでしょう。

杉田 文部科学省はすっかり旧科学技術庁系にイニシアチブを握られていますからね。

また、CSTIのメンバー は首相以下の政治家と経済学者、企業関係者が中心で、そこでは学術会議会長はオブザーバーにすぎません。そのため、そこでの議論は、役に立たないアカデミックな研究などしている場合ではない、すぐ金になったり武器開発に役立ったりするようなことを研究せよ、ということになりがちです。

宇野 そういう視野狭窄的な風潮 は実は自分で自分の首を絞めているという、いわば自殺行為だと思います。

『オッペンハイマー』のところでも触れましたが、異なる発想は豊かさであり、その豊かさを形にするためには自由が不可欠です。

今当たり前とされていることがもしかしたら違うかもしれないという想像力がどこから生まれてくるかというと、多様な相手と自由に議論することによって真理というものに近づいていくわけですよね。

まさに自由があって初めて科学技術や学問は発達し、それがゆくゆくは 国力を決めていくのですから、もし国益という発想に立つのであれば、今とは逆にもっと自由を強化し、新しい科学技術や学問的知見を伸ばすべきでしょう。セキュリティばかりに重きをおいて自由を狭めようとする人々は、なぜそういうふうに考えられないのかと思いますね。

自由とは結局、なんなのか

政治学者・宇野重規氏

宇野 今の話に関連して『自由とセキュリティ』の内容に戻ると、30ページの「自由の極北」の冒頭に「すなわち、自由とは、確立した秩序ではない別の選択肢、『これではない何か』への志向を本質的な部分として含んでいると考えられます」という文章があります。

私は本書の中で、ここが一番好きなんです。今あるこの秩序ではない何かというものがある、あるいはそれを求めていきたいということにこそ自由の一番大切な部分がある。そのように私は受け取りました。

私が昨年刊行した『実験の民主主義-トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(中公新書)で「実験」という言葉を使ったのも、必ずしも答えはわからないという中で一人一人が色々試してみるしかないし、少なくともそうやって実験をする可能性を常に残しているということが、民主主義にとっても自由にとっても一番大切だと考えるからです。

今の社会は、「正解」がわからないにもかかわらず、「正解」でないものに対する寛容度がどんどん下がっていますが、今ある秩序とは違う何かを積極的に求め、探していくことに意味があるというのは、今回の本の中で最も大切なメッセージではないでしょうか。

杉田 大変ありがたいコメントです。今、引用して下さったところでは、自由というものは安全な生活環境があれば何となく出てくる、あるいは単に政府が積極的な弾圧をしなければ発生してくるといった、自然現象のようなものではない、私たちの自覚的な作為によって作り出し、維持していかなければならないものだということを、やはり言っておきたかったんです。

特に日本という国では、ミルが言うところの「社会的な専制」が個人の中に内面化され、自分が自由かどうかという問題意識すら持てない人があまりにも多い。そういう社会は確かにセキュリティが高いと言えますが、自由については心もとない。

今回の対談で述べたように、自由とはすなわち多様性ですから、自由が乏しい社会はつまり多様性がない社会なんですね。だから日本では、新規なことを始めるよりは既存の秩序に従って前例踏襲的になっていくのでしょうし、マイノリティの立場にある人たちは自分たちの悩みを表に出しにくい苦しさを抱え続けることになるのだと思います。

今回の議論の中で、自由の伝統があまりない社会でどう自由を実現していくかという話も出ましたが、自転車を漕ぐのをやめたらすぐ倒れてしまうように、自由の伝統は日々実践されなければならず、たとえ一定の自由の伝統があったとしても、自由を奪うような前例を認めてしまうと、そこから一気に自由は失われていくでしょう。

宇野 ここまで自由とセキュリティというテーマをめぐって色々と話してきましたが、自由があればセキュリティは一切いらないということでもないし、逆にセキュリティの論理の下に自由を全部否定するのも困るわけで、この二つがぶつかり合いながらどこに着地点を見いだすか、ということなのだと思います。

『自由とセキュリティ』は、自由についてあまり考えようとしない日本でこそ読まれるべき本だと思います。多くの人に手にとってほしいですね。

取材・構成:加藤裕子 撮影:五十嵐和博

『オッペンハイマー』作品情報

監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン

製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン

出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー

原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン 「オッペンハイマー」(2006年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ文庫)/アメリカ

2023年/アメリカ 配給:ビターズ・エンド  ユニバーサル映画 R15  

© Universal Pictures. All Rights Reserved.

公式サイト:oppenheimermovie.jp

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関連書籍

実験の民主主義 トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ
自由とセキュリティ

プロフィール

宇野重規

1967年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、同大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。千葉大学助教授などを経て、東京大学社会科学研究所教授。専門は、政治思想史、政治哲学。著書に『政治哲学へ』『トクヴィル』『民主主義とは何か』『実験の民主主義―トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』。編著に『フランス知と戦後日本:対比思想史の試み』など。

杉田敦

1959年生まれ。政治学者。東京大学法学部卒業後、東京大学助手、新潟大学助教授などを経て、法政大学法学部教授。専門は政治理論。著書に『権力の系譜学』『権力』『デモクラシーの論じ方』『政治への想像力』『境界線の政治学 増補版』『政治的思考』『両義性のポリティーク』。編著に『丸山眞男セレクション』など。

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