負の遺産が開く未来 動き始めた日本の“加害”ダークツーリズム 第7回

呼吸するような、しなやかで強い資料館を目指して

~「沖縄平和祈念資料館」25年ぶりの展示更新
三上智恵

意見① 非人間的な残虐な写真パネル、フィルムなどを示し、人間の醜い面を強調し過ぎて幼児、児童が人間不信に陥ることがないように細心の注意を払うように

意見② ほとんどの日本兵は沖縄を守るために命をかけ、祖国日本の防波堤となって散華されたことを正確に伝えるべきであります。悲惨な写真や戦場における極限的な非人間的行動を殊さら強調することは平和教育ではありません

意見③ 首里城地下にあった第32軍司令部の作戦・命令という「原因」があって、地上の沖縄住民の被害や集落・文化財などの建造物の破壊・自然の破壊などの「結 果」があったことを示すべきである。加害者の展示がないと、「戦争」が住民を殺した、被害を与えたような、「戦争が悪かった」というような曖昧な展示になる。傍観者の視点でなく、当事者の視点で表現すべきです。

沖縄県平和祈念資料館及び八重山平和祈念館展示更新基本計画(素案)に対する県民意見募集の結果 沖縄県のHPより
https://www.pref.okinawa.jp/res/projects/default_project/_page/001/035/265/tenjikoushinpckekka.pdf

 沖縄戦最後の激戦地・糸満市摩文仁の丘に建つ沖縄県平和祈念資料館は、目下25年ぶりのリニューアルに向けて展示更新の検討が進められている。実は現在の資料館は、1999年まで向かいにあった旧平和祈念資料館を引き継ぐ形で大幅に面積を拡大し、2000年にオープンしたものなのだが、それから一度も展示を見直していない。情報は古くなり、最新の研究成果も反映されず、機器の不具合や一部展示品の劣化などの課題が指摘されながらも、長らく手付かずだった。それが、四半世紀を経てようやく専門家で構成する監修委員会が立ち上がり、今年(2025年)1月、基本構想がまとまった。夏にはパブリックコメントの募集があり、冒頭の意見は平和祈念資料館に寄せられたコメントの一部である。
 怖すぎてはいけない。自虐的で反日的では困る。はたまた逆に、日本の加害性を展示せよ。この三つを読んだだけでも、公立の「戦争資料館」が抱える展示手法や歴史認識を巡る問題の難しさと、展示の変更が容易な作業ではないことが窺える。

25年ぶりにリニューアルされる沖縄県平和祈念資料館

 沖縄の平和祈念資料館といえば、沖縄の子供たちが校外学習で必ず訪れる場所で、全国から修学旅行生がわんさかやってくる国内有数の平和学習の場である。なにを隠そうこの私も、12歳の時に旧平和祈念資料館で強い衝撃を受けたことが、こうして沖縄戦にこだわり、移住して30年余り報道を仕事にしている原点になっている。まさにこの資料館が私の人生を変えたといっても過言ではないくらいに大事な場所だ。当時私は子供ではあったが、逆に直球の正義感に溢れている時期だったからこそ、戦争の怖さと人々の悲しみを正面から受け止めたのだし、それを生涯の仕事にしようと思い込んで今に至るのだと思う。その経験からも、冒頭の意見のように「子供に残酷なものを見せると人間不信になる」などと決めつけたものではないと個人的には思っている。しかしながら、現在の資料館については、全国の人たちに胸を張って紹介できるかと言われると、残念ながら即答できない。その理由を説明するには、まず26年前に沖縄全県を揺るがす大事件となった「平和祈念資料館改ざん問題」について触れなければならない。

1999年に閉館した旧平和祈念資料館

 その頃の沖縄は、大きなイベント前に全県的に沸き立っていた。2000年に、先進国の首脳が一同に集まる主要国首脳会議が初めて沖縄で開催されることになったからである。世界中から報道関係者が3000人もやってくるという沖縄サミット。沖縄を世界にアピールする場になると、前年から様々な仕掛けやイベントが目白押しだった。そんな浮足立った空気の中で、1999年8月、新平和祈念資料館の改ざん問題が明るみになる。翌年3月に開館を控えほぼ固まっていた展示内容に、監修委員会の知らないところで変更の指示が出ていたことが発覚したのだ。

展示内容の変更を指示した文書

 当初大きく取り沙汰されたのは、ガマ(自然洞窟)の中に逃げ込んでいる日本兵と住民を等身大の人形で表現するジオラマ。赤ん坊の泣き声で米軍に居場所を知られぬよう、泣く子を黙らせろと銃で脅している兵隊の姿が本来のものであったが、違う設計図が描かれていた。兵士の手から銃がなくなり、だらりと素手を下げて立っている図に変更されていたのだ。

 改ざんはそれだけではなかった。足手まといになった傷病兵を毒殺するジオラマが消えていたり、旧資料館で印象的だった「当時の水が入ったままの水筒」が外されていたり、文言も「虐殺」を「犠牲」と言い換えるなど変更指示は実に230カ所に及んでいた。

展示改ざんが発覚した二つの図(右が改ざんされたもの)

 いったい誰がそんな改ざんを業者に指示していたのか?ほどなく、沖縄県知事を始め県の3役の指図であったことがわかり、県民の怒りに火が付いた。沖縄県内の新聞もテレビも連日この報道一色になった。沖縄では1982年、教科書から日本軍の住民虐殺の記述が削除され、全県を揺るがす教科書問題へと発展した経緯もあり、沖縄戦の体験を捻じ曲げるという行為に対しての県民の怒りは生半可ではない。しかも今回は国家による圧力ではなく、身内である沖縄県庁トップの指示だったとあって、監修委員の怒りや沖縄戦体験者の憤りと悲しみを取材していてひしひしと感じ、私もなんとしても改ざん前の姿に戻したいと強く願った。8月からの3か月で県内紙の関連記事が400件も出たことからも、島ぐるみの怒りがどれほどであったかわかるだろう。

泣く子を黙らせろと言われて困惑している母親のジオラマ
青酸カリをミルクに混ぜて傷病兵の処置をしようとする兵隊

 当選してまだ半年ほどだった当時の稲嶺恵一知事は保守色が強く、前任の大田昌秀知事が熱心に取り組んでいた平和行政の継承には消極的だった。とはいえ、87億円もの予算をかけた新しい資料館は仕上げの段階に入っており、今さら横やりが入るなど誰も想像もしていなかった。ところが稲嶺知事は「サミットでいろんな人が来る」「反日的になってはいけない」などと発言し、監修委員を通さずに変更を指示していたことがわかった。監修委員の一人だった石原昌家沖縄国際大学名誉教授は当時を振り返る。

展示改ざん問題が起きた時の監修委員だった石原昌家沖縄国際大学名誉教授

「1999年の3月からパタッと監修委員会が開かれなくなったんです。おかしいなと。どうなっていますか?と県の担当者に電話しても、どうも様子がおかしくて。だいぶたって、ようやくガマの大きさを確認するためにジオラマの制作現場に行ったんですよ。人形は未完成だけど、乃村工芸の職人の方が兵隊の人型を段ボールで用意してそこに立てておいてくれたんですよ。気づいてほしかったんでしょうね、変わっていますよと。そこで初めて我々は気づいたんです。あれ、銃を持っていないよと」

 石原さんは、私が幼いころに見た旧平和祈念資料館の、住民の視点を大切にした展示を作り上げた「沖縄戦を考える会」(1975年結成)の最年少メンバーでもあった。この会には、危機感を持った熱心な歴史家らが終結していた。というのも、沖縄海洋博開催に合わせて急ごしらえでオープンした初代の資料館が、展示するものに事欠いて日の丸や武器などを並べた陸軍記念館の様相を呈していたことが大きな問題になっていたからである。これでは沖縄戦の実相は伝えられないと奮起した彼らは、軍隊の視点ではなしに、沖縄の人々の体験こそが展示のど真ん中に来なければならないという発想の転換の下で、沖縄戦の聞き取り調査を重視し、戦争をリアルに語れる遺物を探した。
 海洋博覧会の沖縄館のプロデューサーでもあった中山良彦さんの家に毎週6人程が集まって証言の読み合わせを重ねるなど、ものすごい熱をもって旧平和資料館が作られていったことを、ドキュメンタリー番組「語る死者の水筒」(琉球朝日放送制作、2000年)を制作しながらじっくりと取材させてもらった。幼い私の心を捉えて離さなかった遺品、証言の譜面台、結びの言葉など伝説の展示の数々がどのように生まれていったのかを関係者から直接聞くことができ、あの資料館は住民の視点から沖縄戦を追求し直した方々の情熱の結晶だったのだとわかった。
 その現場を経験されてきた石原さんだけに、資料館の伝統を踏みにじり、積み上げてきた住民の証言から描き起こしたジオラマが捻じ曲げられたことへの憤りは大きかった。

沖縄戦の証言を読むコーナー

「しかしこれはですね、単に稲嶺政権が思い付きでやったということではどうやらなかったんです。1996年の橋本龍太郎総理大臣の時代に、全国の戦争博物館に関する調査報告がまとめられて、あちこちに問題がある展示があるといって、自民党の議員たちが調査を指示してるんですよ。日本の誇りを傷つけるような展示はまかりならんと。沖縄の資料館もそのターゲットになったということで、もっと根が深い問題だったんです」

 この報告書は「戦争に関する資料の展示等のあり方について」というタイトルで、参議院の国政調査権に基づいて自民党の有力者だった村上正邦議員を中心にまとめられたものだ。全国各地の資料館が特定の歴史観(東京裁判史観など)に偏り過ぎていないかを検証し、自虐史観ではなく日本の名誉と誇りを回復するような展示を提言。公の施設に対しては中立的な歴史観を損なうものについて真偽の調査を指示し、裏付けの取れない資料や記述については削除を求めるなど、その後、活発になる各地の戦争平和博物館・資料館への攻撃につながっていった。その報告書の中に、沖縄の平和祈念資料館も「偏ったイデオロギーによる展示内容」と指摘されていたという。同じころ、日本の伝統的価値観を取り戻すために憲法改正や教育改革を目指す保守団体「日本会議」も発足(1997年)、1999年に国旗国歌法が制定されるなど、特に政界や教育現場で90年代に進んだ右傾化と戦争を展示する施設への攻撃は連動している。

 石原さんは、国家にとって最も不都合だったのは、沖縄戦最大の教訓である「軍隊は住民を守らなかった」という証言だったと指摘する。軍隊は住民を守れないばかりか、集団死を強制したりスパイ容疑で虐殺したり、直接・間接的に住民を死に追いやってしまった事例が戦後次々に明らかになり、その証言は国を悩ませた。なんとか対策を講じたい政府の意図が端的にわかるのが「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(以下、援護法)のあり方だと石原さんはいう。
 日本軍の罪を告発する動きが沖縄から湧き上がってくるのを封じるかのように、国は戦後の早い時期から沖縄戦の被害の実態を徹底調査し、「援護法」(1952年成立)の救済対象として沖縄県民に特別に「準軍属」という身分を与えた。そして援護金を付与すると同時に靖国神社に祀った。言葉は悪いが、この法律は悲劇を「金と名誉」に転換し、封じ込めていく役割を果たしていくことになる。援護金の性格は、戦後補償というよりむしろ恩給に近く、つまり日本軍に積極的に協力し貢献したことが証明できれば、対価と名誉を与えるというものだった。申請書には、例えば軍に食料を運んだ、ガマを提供したために戦死した、など戦争への協力を細かく書く必要があった。その一方で矛盾しているのは、住民虐殺や集団死も当初から「援護法が適用される類型」に入れられたことだ。つまり、この援護法で積みあがった申請書を見れば、沖縄県民は喜んで軍隊に協力して死んでいったことになる。「戦争協力」という枠には到底入らないはずの虐殺や集団死までを援護金の対象にし、同じ戦争の犠牲者でも対象にならない遺族も多くいる中で、戦争を語れない状況が作られた。この援護法のからくりこそが、沖縄戦の実相を見えにくくし、歴史を歪めてきたと石原さんは強調する。

「日本軍の罪、国家の責任を追及せねばという機運は沖縄に確かにあったんですが、この援護法の適用を受ける・受けないという話にすり替わり、条件闘争に変わっていってしまった。国の戦争責任を問おうという空気はついえ去った。そして事実を語りにくくなってしまった。それこそ国の思うつぼで、軍隊の本質を覆い隠す効果を発揮したわけです。軍隊が悪だなんて思われたら、国防のために命を懸けてくれる人はいなくなりますからね」

 沖縄戦の住民証言から漏れ出てくる軍隊の残酷さを、できればコントロールしたいという国の意図は戦後間もなくからこうして機能してきた事は、資料館問題を考える上で大変重要である。例えば一つの展示室の中に、防衛省の戦史記録よりも住民証言の比率が高くなればなるほど、軍隊の本質が露呈してしまうという力学になる。政府としてはなんとしても、1999年に閉館した旧資料館のように住民証言をど真ん中に持って来る展示は避けたかっただろう。そういう中で知事や県のトップに働きかけがあったのだと推察できる。
 その後も1999年の「日米ガイドライン」に従って周辺事態法が整備され、再び戦争をする国に変貌していく国家にとって、沖縄戦の住民の証言はさらに「目の上のこぶ」になっていくことから、今後も第二、第三の改ざん問題が起きるのではと警戒するのは、杞憂に過ぎるだろうか。今監修委員を務めている方々にそのあたりを尋ねてみたところ、26年前の改ざん問題のようなことは二度とあってはならないという危機感はしっかりと共有されているという。取材に応じてくれた「戦前・戦中部会」の瀬戸隆博監修委員は言う。

瀬戸隆博さん

「前回のような、反日的にならないようになどという介入は、絶対にないと思っています。監修委員会の独立性は守られ、専門性を生かした展示になると理解しています。ただ、歴史認識の違いというのは避けられないものとしてあると思います。しかし私たちは、これこそが沖縄戦の実相を伝えるものなんだ、と示せる資料や証言を精査し分析して展示し、さまざまな意見を当てられても応えられる、耐えられる内容にしていくしかないと思っています」

 瀬戸さんは、恩納村史の戦争編の編纂に長く関わってきた体験から、年々新たな資料や証言が発掘されている各地の市町村史の現場ともっと連携をとって、展示内容を柔軟にアップデートしていく仕組みを作ることも大事ではないかと、今後提案するつもりだという。確かに、今回のリニューアル後もまた20年展示を変えないなどと硬直化させることなく、適宜展示の入れ替えや新たな資料の掘り起こしを反映させられる、それこそ生きて呼吸をするように、来館者の要望に応えて揺れながらでも成長する資料館であれば、あらゆる試練をしなやかに乗り越えていけるのではないか。素晴らしい提案だと思った。

 杞憂と言えば、石原昌家さんは今回は監修委員として関わってはいないものの、また何らかの有形無形の圧力がかけられるのではと人一倍危機感をもってリニューアルを見つめている。万が一にも何かがあっても、決して展示内容が後退しないよう目を光らせるために、現在展示されている中でもターゲットにされかねない重要な資料7つを上げた。もしもそのうちの一つでも消えるようなことがあれば、何らかの力が加わったと疑って見るべきだと警鐘を鳴らしている。その7つの文書を列記する。

1、牛島軍司令官の訓示
 (地方官民に喜んで戦争協力させよ、スパイに注意しろ)
2、秘密戦に関する書類
 (民間に密告機関を設置、「本島ノ如ク民度低」い住民には
 「積極防諜ニ転換スルヲ要ス」→スパイリストによる住民虐殺)
3、近衛上奏文
 (敗戦は必至と戦争終結を促す近衛文麿に「もう一度戦果を
  挙げてから」と昭和天皇が応じた一連の資料)
4、球軍会報
 (球部隊の命令綴り。沖縄語を使うものは間諜とみなし処分)
5、国土決戦教令
 (もし敵が捕虜の住民を盾に使っても、彼らも皇国の勝利を望む
  はずだから攻撃を緩めるなと指示)
6、久米島部隊 警防団長への通達
 (敵に協力する住民はスパイとみなし銃殺)
7、天皇メッセージ
 (天皇が沖縄の占領継続を求めているとマッカーサーに伝えた)

 沖縄の住民に戦争協力を強要する一方で、民度が低く信頼できないとスパイ視し、敵に協力したり捕虜になったりした者は、躊躇なく殺傷すべしというのが日本軍の方針であったことを示す資料と、そして昭和天皇の決断の遅れが沖縄戦突入を招き、沖縄の占領継続を許したことが、米軍の戦争拠点にされ続ける今の沖縄の苦悩に直結していることがわかる資料である。確かに、住民の証言だけでは信憑性に疑義をつける余地が生じやすいが、第32軍の方針や昭和天皇の言葉など、数少ない文字資料が住民の証言を裏付けている。これら沖縄戦研究者たちが発掘してきた貴重な資料はどれ一つ落とせないものだ。

 合わせて、偏らないバランスの取れた展示という意味では、沖縄の被害だけを強調するのではなく、他国を犠牲にした日本の加害性と、良かれと思って戦争に協力する中で加害者の役割を演じてしまった沖縄内部の弱さにも目を向けて、二度と同じように戦争に加担しない教訓を分かりやすく展示して欲しいと願っている。この連載のテーマでもあるので繰り返さないが、自分たちが失敗した歴史を見つめることこそが、今再び戦争に向かう流れを止める即効性のある特効薬になるというこの一点においても、ここが正面から加害性に向きあう勇気ある戦争資料館の鑑となるよう、大きな期待を持たずにはいられない。

 最後に、なぜ今の資料館は胸を張って人に勧められないと書いたのか、それは1999年に発覚した230点もの改ざん項目の影響で、完全に元に戻せていない展示がいくつも残ったままだからである。例えば、ガマで銃を持って立つ日本兵は、現在銃を上に向け、当初の図のように住民に突き付けていないうえ、外をにらむ格好になっている。説明版はなぜか遠い場所にありしかも言葉足らずなので、ジオラマだけを見ればまるで兵士は住民を守っているようにすらみえてしまう。

ガマのジオラマ 日本兵の銃は復活したが、住民に向けられてはいない

 また、旧資料館を訪れた人ならだれでも覚えている「振ってみてください、当時の水が入っています」と書かれている兵士の水筒。これは直接触れる展示だったので、子供の時私は手の中で鳴る水の音を聞いて「この持ち主は亡くなったのだな」と直感し、震えた。その忘れられない水筒は、現在の資料館にはない。持ち主が改ざん問題に翻弄されて怒り、傷つき、個人で収集した展示物をすべて、旧資料館に22年も展示していた150点余りに遺品を引き上げてしまったからである。

旧資料館にあった「当時の水が入った水筒」

 その人物の名前は久手堅憲俊さん。旧資料館だけでなく臨時の学芸員として新資料館の準備にもかかわったが、不信感から、自ら執念のように集めてきた戦争を語る遺品を安心して預けられないと、貸し出しも協力も辞めてしまった。そのために、旧資料館から引き継がれる予定だったこの水筒を始め、「火だるまになって死んだ老婆の着物」「砲弾のあとが残る5歳児の着物」「パラシュートで作ったウェディングドレス」など代表的な展示物は姿を消してしまった。今、資料館には水が入った水筒が置かれているが、全く別のもので、しかも触ることができないように不自然に封印されている。私はそれを見るたびに、本来は県民が沖縄戦を学習するためにここに並ぶべきだった遺品の不在と、必死に報道しながらも、改ざん前の状態に完全に戻しきれなかった悔しさでいっぱいになる。

久手堅憲俊さん
沖縄戦当時の住民の着物
砲弾の跡がある5歳の男の子の着物
捕虜収容所の中で結婚式をするためにつくられたパラシュート生地で作ったウェディングドレス

 久手堅さんは、幼い弟を失った悲しみから沖縄戦を徹底的に学ぶと決め、野山を歩き回り、地に額を擦り付けるようにして遺品を集め、本を書き、映画製作にもかかわり、沖縄戦に真正面から挑んだ人だった。私は家が近かったこともあり、時間を見つけてはお宅を訪ね、南部の調査に同行させていただいた。何でも知っている久手堅さんを訪ねて、元日本兵も毎年大勢やってきた。彼らに求められるままに共に戦地を歩き、戦友の遺骨探しにも付き合っていた。私は久手堅さんから言葉にできないほど多くのことを学んだ。だから、まさに地を這うように沖縄戦と向き合ってきた私の恩人ともいうべき人の資料を大事にしなかった今の資料館に足が向かなかった。しかし資料館を擬人化して恨んでも何の意味もない。私がやるべきことは、沖縄戦の実相を何とか後世に伝えたいと願う先人たちの蓄積をきちんと世に出すような、胸を張ってここは平和を学び、作り出すことのできる日本一の資料館ですと言えるものにすること、県民に支えられ、さまざまな圧力にも耐えうる資料館にしていくための手伝いをすることなのだと思う。

 これは私の勝手な妄想に過ぎないのだが、とうに鬼籍に入られた久手堅憲俊さんが後生(グソー、あの世)から眺めていて「今回の展示は良いものになりそうだ。これならあの引き上げた遺品たちを並べて欲しい」と思える資料館になったあかつきには、あの遺品たちが戻れる場所を作れないものかと思う。久手堅さんの集めた遺品の一部は、現在閉館中の那覇市の歴史博物館が収蔵しているが、今後も展示されるかどうかは未定だという。私の人生を変えるほどの力を持った沖縄戦の遺品たちが、いつの日か、本来あるべき場所に展示され、沖縄から真の平和を発信し実現していこうという人たちの目に触れ、永遠に力を与え続けてくれたらと願っているのだが、それは叶わぬ夢であろうか。

旧資料館から引き継がれているむすびのことば

 第6回

関連書籍

戦雲 要塞化する沖縄、島々の記録
証言 沖縄スパイ戦史

プロフィール

三上智恵

(みかみ ちえ)
ジャーナリスト、映画監督。毎日放送、琉球朝日放送でキャスターを務める傍らドキュメンタリーを制作。初監督映画「標的の村」(2013)でキネマ旬報文化映画部門1位他19の賞を受賞。フリーに転身後、映画「戦場ぬ止み」(2015)、「標的の島 風かたか」(2017)を発表。続く映画「沖縄スパイ戦史」(大矢英代との共同監督作品、2018)は、文化庁映画賞他8つの賞を受賞。著書に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書、第7回城山三郎賞他3賞受賞)、『戦雲 要塞化する沖縄、島々の記憶』(集英社新書ノンフィクション)、『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』『風かたか「標的の島」撮影記』(ともに大月書店)などがある。

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呼吸するような、しなやかで強い資料館を目指して

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