対談

貨幣経済のまき散らす「毒」が人間の営みを根こそぎ壊す- 3・11と水俣①

『百年の挽歌 原発、戦争、美しい村』刊行対談
田中優子×青木 理

作家の故・石牟礼道子は、福島原発事故の複合汚染に接して、日本を「毒死列島」と呼んだ。自身の生涯を費やした水俣の過酷な闘争と重ね、この国はまだ懲りずに同じ過ちを繰り返すのかと。「昔チッソ、今東京電力」といわれ、国策を後ろ盾とする巨大企業がまき散らした毒は、多くの人々の郷土と健康を奪った。そして今もその毒は消えず、命を脅かし続けている。石牟礼と親交のあった田中優子氏(元法政大学総長・近世文学研究)もまた同じ視線に立つ。
福島県飯舘村で起きた、102歳の老農夫の自死を追った、ジャーナリスト・青木理氏のルポルタージュ『百年の挽歌 原発、戦争、美しい村』(集英社刊)では、10年にわたる取材の中で、一人の老農夫の死がやがて多くの犠牲者を生んだ国策の闇につながることを明らかにしていく。お二人の対談は、3・11と水俣を巡って、貨幣による豊かさを得る代償として、私たち日本人は何を犠牲にしてきたのかを問い直す。

構成:宮内千和子 撮影:三好祐司

企業城下町で起きた人災は、水俣の再来

青木 著者を前に話しにくいと思いますが、お読みいただいていかがでしたか。

田中 青木さんが本のタイトルに「百年」という数字を置かれた理由は、この自死なさった方が102歳でいらっしゃったことと同時に、百年の日本を考え直そうというメッセージでもあったと感じました。このことは戦争も含めて非常に重要な提起であるし、この本の本質でもある。私はこの本を読んで「水俣と同じだ」という印象を強く持ちました。ここで起きているのは、共同体が崩壊していくことと、そこに企業が関わっていること。いずれも共同体の崩壊は自然に起こったのではなく、そこに企業が関わったことで起こったんですね。3・11も水俣も非常によく似ていて、両方とも一つの企業が共同体の暮らしを崩壊させたわけです。

青木 水俣の場合はチッソが、福島では東京電力が。

田中 ええ。新潟水俣病(工場排水によるメチル水銀の被害。1965年に新潟県・阿賀野川流域で発生が確認。発生要因が同じで第二の水俣病といわれる)の場合は複数の企業が関わっていましたが、水俣も福島も一つの企業で、いわゆる企業城下町でもありました。そして企業城下町には宿命的に持っている弱さがある。その企業に勤めている人たちに遠慮して何も言えなかったり、人間関係が複雑になったりと、そういう背景もとてもよく似ていると思います。

 私は大学に入ったときに水俣のことを、石牟礼道子さんの『苦海浄土』*で知って非常に衝撃を受けたんです。そこで、最初の胎児性水俣病の方たちが私と同じ年に生まれたことも知って、「私は彼らだったかもしれない」という思いを痛切に感じたんですね。あのチッソという会社は戦前からあって、朝鮮半島から日本に戻って、量産態勢に入ったためにああいうことになった。企業が何かを量産して資本主義体制下で富を蓄積し、貨幣経済の中で巨大化していく。工場を誘致された土地の共同体の人たちは、最初はそれをありがたいことだと思うわけです。福島も60年代に原発を造るためにアメリカの企業が入ってきますね。

青木 ゼネラル・エレクトリック(GE)社ですね。東電初の原発だった福島第一原発の1号機は、その建設をGEが完全に仕切ったと伝えられ、2号機と6号機の建設もGEが手がけています。

田中 そう、GEが入ってきて、土地の人たちは、これで出稼ぎに行かなくて済むとみんなで歓迎したといいますね。そういう企業城下町の人々の喜びがある一方で、それが時にどういう結果を生み出すかという現実も私たちは見てしまいました。貨幣経済というものは、気候に左右される農業に比べて盤石なように一時的には思えても、実はそうではなく非常にもろいものだった。そのことに水俣で気づき、今度もまた気がついてしまった。繰り返しなんですよ。

青木 おっしゃる通りだと思いますし、水俣や福島以外でも同じようなことは起きていますね。僕も今作のなかで描きましたが、原発事故で避難を強いられた102歳の大久保文雄さんが自死した後、遺族の美江子さんらは東電の責任を問うて損害賠償請求訴訟を起こしました。その際に代理人を引き受けたのが食品公害や薬害問題の被害支援に取り組んできた弁護士でした。

 たとえばカネミ油症事件です。ご存知の通り、1960年代に北九州のカネミ倉庫社が製造販売した米糠油を原因とする食品公害事件で、今なお未認定患者が声を発しています。あるいは薬害エイズ事件。HIVウイルスが混入した非加熱血液製剤の投与で血友病患者にエイズ感染が広がり、1980年代の末から90年代にかけて大きな政治・社会問題と化して刑事事件にまで発展しました。

 実はその弁護士さんも自身が血友病患者で、だから食品公害や薬害問題に取り組み、福島第一原発の事故も同じ構図じゃないかと考え、文雄さんの遺族の弁護も引き受けた。いずれも一つの企業が引き起こした惨禍だけれど、背後には国策や政・官・産の癒着などが横たわっていて、だから被害が発生し、拡大し、今なお被害救済がなかなか進まない。特に水俣と福島では、それぞれの地元で人びとが築き守ってきた共同体まで無惨に破壊してしまいました。

*石牟礼道子『苦海浄土』は、水俣病をめぐる代表的作品として、1970年に講談社より単行本として刊行されて以降、編集や形態を変えながら読み継がれてきた。のちに講談社文庫としても刊行され、現在も一冊で通読できる講談社文庫(新装版)が広く流通している。一方、その後、藤原書店からは、第一部「苦海浄土」、第二部「神々の村」、第三部「天の魚」という三部構成を明確にした版(分冊および合本)が刊行され、水俣という場所と思想をより立体的に捉え直す構成が示された。本稿で言及する『苦海浄土』は、これらの刊行系譜を含む作品世界全体を指している。

土地を追われる耐え難さ

田中 そう思います。それを別の視点で見ると、水俣の場合にはそこにいろんな文化が育った。文学では石牟礼道子さんや渡辺京二さん、写真で水俣を世界に伝えたユージン・スミスさんのような人も出てきて、そのほかにもたくさんのカメラマンや写真家たちが入って、ドキュメンタリーや映画も作られてきました。では、福島はどうだろうかと思っていましたが、なかなかそれが出てこない。その大きな理由は、皆さんがその土地を離れざるを得なかったから。それが今回のお話だと思う。102歳のその方は、最後までそこにいたい、そこで死にたいとお思いになったのでしょうね。

青木 それが最大の理由ではあったでしょう。優子さんが書評で指摘してくださったように、「最後まで村とともに生きるため」に自ら命を絶つ決断を選んでしまったのかもしれません。

 一方の僕は、取材者として102歳の古老が自死した事実を知って驚愕しました。白寿も百寿も超えた村一番の長寿者が、足腰もそれなりに壮健で大きな持病もなく、平凡だけれど長閑な里山で家族に囲まれて悠々自適の暮らしを送っていた102歳の老人が、いったいなぜ自ら命を絶たねばならなかったのか。絶つ決断に追い込まれてしまったのか。その真相と文雄さんの百年の人生を追う取材を重ねるうち、先の大戦などを含む、この国の百年近い歴史を追うことになってしまったのが正直なところです。

田中優子氏と青木理氏

田中 この事件に大事なものがあるという予感があったのでしょうね。

青木 僕が予感していたというより、むしろ文雄さんと遺族に導かれた、というべきなのかもしれません。そうやって浮かび上がってきたのがまず、村と村人たちが長年に渡って築き上げてきた共同体の生活ぶりです。自死した文雄さん自身、生まれ育った村からほとんど出たことがなく、百年以上の生涯を一貫して村で過ごし、ひたすら田畑を開墾して土を耕し、作物を育てて収穫し、村の土と向き合って暮らしてきました。

 とはいえ東北の準高地にある比較的寒冷な村ですから、環境的には厳しく過酷な面もありましたし、そうやって必死に作った収穫物を出荷して懸命に生活を成り立たせてきたわけですが、一方で田畑には多種多様な野菜類が実り、村の山林や里山には季節ごとに山菜やキノコ類が豊かに芽吹く。そうした収穫物は、村人同士がお裾分けをしたりされたり、互いに助け合いながら暮らしを紡いでいた。僕の田舎の信州などもそうですが、近代的な貨幣経済とは一定の距離を置いた自給自足的な暮らしが残っていました。

 しかし、それが原発事故によって奪われてしまった。まさに国策を担った一企業に突如破壊されてしまったわけです。そして政府の指示による「全村避難」が強いられ、村人たちは村から一時完全に姿を消し、村一番の長寿者は自ら命を絶ってしまった。僕は今作のなかで水俣のことは明示的に記していませんが、国策なるものの引き起こした重大な過ちという点で両者は当然通底するものがあると思っています。

近代社会のありようが表れる裁判闘争

田中 さきほど訴訟を担当された弁護士さんのお話があったけれど、青木さんが取材に入られたのは、裁判が終わってからですか。

青木 その何年か前ですね。文雄さんの義理の娘さんにあたる大久保美江子さんが当時は南相馬市で避難生活を送っていましたから、まずは彼女に詳しく話をうかがいに行きました。

田中 あの裁判の判決はすばらしいです。よく書いてくださったと思って。

青木 ええ、かなりきちんとした判決だったと思います。文雄さんの自死は原発事故が原因だったと断じたにとどまらず、文雄さんが村で紡いだ102年の人生とその無念さにもかなり頁を割いて言及していました。「文雄にとって、村での生活は、百年余りにわたって積み重ねてきた人生そのものであり、村以外では決して賄うことができないものであった」といった調子で。

田中 それを本当によく理解した判決でした。ちょっと驚きますね。

青木 その意味でいえば、義父の無念を晴らしたいという美江子さんの想いは、ひとつの区切りがついたのかもしれません。ただ、全体状況でいえば福島における原発事故の後始末も被害救済もまだ終わっていません。

田中 そうですね。石牟礼さんの『苦海浄土』も、水俣の人々の裁判闘争です。そのすさまじい内容が、二部、三部と書き継がれていくわけですね。裁判闘争という形態は、江戸時代とは違って、近代の社会のありようや物の考え方が非常によく表れる大事なものだなと改めて思いました。

自給自足が根付く共同体は盤石

田中 もう一つ驚いたのは、この102歳の文雄さんのように、外に出ず、この土地に根差して農業をずっとなさっている方が、あの辺りではそんなに珍しくはなかったということ。たぶん、そういう方がもっと他にもいらっしゃるはず。そこに共同体があるわけですからね。これが江戸時代だったら当たり前なんですよ。人口の80%がそうやって暮らしていたわけです。でも今の時代にこういう方がまだいらしたことに驚いた。しかも、江戸時代と違うのは、農業だけではなくて、本当にいろんなことを試していますよね。

青木 はい。農業とひとくちに言っても、コメや野菜以外に葉タバコを育てたり、桑を育てて養蚕を手掛けた時期もあって、畜産や炭焼きを手掛けたこともあったようです。冷害に苦しんできた高原の村なので、これをやっておけば安泰というものがなく、生きるために必死で模索を続けてきたのでしょう。

田中 その生活が自給自足に非常に近いものだったんですね。

青木 すべてを自給自足で賄うのはもちろん不可能ですが、昔ながらの生活がかなり残っていました。村には大型のスーパーすらなくて、取材で知り合った村人に「不便でしょう」と尋ねても、さほど不便さは感じてなかったと言うんですね。肉や調味料類はともかく、コメや野菜はいくらでも獲れるから買う必要もなかったんだと。そうした点も水俣に通じるものがあります。水俣病に苦しめられた人びとも不知火湾で獲った魚を毎日食べて過ごしていた。不知火湾がそれほど豊かな海だったことの証左でもあり、地元住民にしてみればごく当たり前の、昔から変わらない生活でもあったのでしょう。

 これは少し前、全国で「水俣展」を開催しているNPO法人「水俣フォーラム」の実川悠太理事長に教えてもらったのですが、都市部から水俣に赴任していたチッソの幹部らに水俣病患者はほとんど発生しなかったそうですね。そういった幹部らは、現在の僕たちのように主食にご飯などを食べ、おかずに魚類を食べたとしても、それ以外に副菜など摂るような食生活を送っていたからだと。

 しかし、地元に暮らす住民たちは違った。僕のように海なし県で育った者からは羨ましくも思えてしまいますが、目の前に広がる豊穣な海で獲れた魚を主食のように日々たくさん食べ、だから大量の水銀を体内に取り込んでしまって患者が大量に生み出されてしまった。

田中 そう。『苦海浄土』を読むと、船で出ていって、途中で釣った魚をおろして、焼酎を飲みながら食べるシーンが出てきます。そういう生活が当たり前だったところに、海に毒が流し込まれたらひとたまりもないですよね。それは日々の糧を得る自分たちの土地に毒をまかれた福島も同様です。

 そして今回の青木さんの本からは、飯舘村などにはまだそうした生活があったのだと気づかされます。石牟礼道子さんの『椿の海の記』(河出文庫所収)などを読むと、水俣でも自給自足はあるんです。お芋を作ったり、お米を作ったり、かんきつ類もすごく豊富だし、自分のうちで食べるものは買うことがないという生活をしていらして。石牟礼さんも、今生きていらっしゃれば百歳近くなるので、この自死をなさった方と同じような時代を生きてきたわけですね。大きな農業をやっているわけじゃなくても、自給自足ができる生活は日本中にとても一般的にあったのだと思います。

青木 自分たちが暮らす地で獲れる物、手に入る物を食べるという、考えてみれば当たり前の生活ではありますよね。優子さんの専門分野ですが、江戸期などには「四方四里」という言い方があったとか。要は人間が自力で移動できる程度の範囲内で手に入る物を食べればいいんだと。

田中 そう、かつてはそんな暮らしがごく普通だったはずなんです。それは別に食べ物だけではありません。これも青木さんの本ですごく興味深かったのは、震災後に停電になっても、文雄さんのお宅はさほど困らなかったというお話。すごくいいなと思いました。

青木 震災があったのは2011年ですから、飯舘村でもオール電化にした住宅などもたくさんあったと思うのですが、そういった住宅は電気が途絶えると手も足もでず、困り果ててしまう。でも文雄さんの一家は違いました。風呂は薪で沸かしていて、文雄さんは「その方が体が芯から温まるんだ」と言ってこだわっていたそうです。もともと炭焼きを手がけていましたし、周囲は山林に囲まれていて、エネルギー源としての薪は無尽蔵にありますからね。だから停電になっても風呂でゆっくりと体を温め、夜はぐっすりと眠ることができる。高原の村の3月はまだまだ寒いですから、暖房器具として欠かせないこたつの熱源も炭を使っていたそうです。

田中 はいはい、掘り炬燵に炭を入れてね。これも停電になったって何の問題もないし、お米だって2、3年分は持っていたそうですね

青木 そうなんです。こちらは深刻な話でもあって、古くは江戸期から冷害などにたびたび苦しめられてきた高原の村ですから、秋にコメを無事収穫できたら、一家が1年過ごせるコメを必ず3年分は保管しておく代々の習わしを文雄さんは守っていたそうです。深刻な飢饉を何度も経験してきたがゆえの生命維持策、生活防衛策というべきものですが、エネルギー源にしても食料にしても、いざという時は昔ながらの生活の方がずっと強靭だし安心なんだなと、そう痛感させられたと美江子さんもおっしゃっていました。

政府による強制移動で共同体が消えた

田中 だから青木さんの本を読んで、企業が支える脆弱な社会と、共同体で生きてきた盤石な社会とがすごく対照的に見えたんですよね。それでも水俣の人々はどこにも移住することなかったけれど、足尾鉱毒事件(19世紀後半から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本初の公害事件。足尾銅山の精錬所から出た排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境を著しく汚染)の起きた栃木の谷中村では、最終的に全部追い出されるんですよ。ご存じのように当時政治家だった田中正造が中心となって、国と闘うんですが、なかなか進展しない。そして明治政府は谷中にため池を造って、その鉱毒を埋めてしまうという政策に出る。それで村人に出ていけって話になるわけです。

青木 そのあたりは「全村避難」が一時強いられた飯舘村など福島原発周辺の町村と似たところがありますね。

田中 そうですよね。こんなふうに政府によって強制的に移動させられたというのは福島も同じです。谷中の場合は周辺にどんどん移転させられて、最終的には北海道にまで行かされる。でもね、田中正造はわざわざ谷中に移住するんです。自分だけは出ていくまいと、亡くなるまでずっとそこに居座って抵抗を続けるんです。

青木 足尾銅山といえば江戸期は幕府直轄で、明治期になると古河鉱業が経営を担い、古河財閥の礎になったわけですよね。一方で当時は、一般には企業公害などがほとんど認知されていない時代でもあったのではないですか。

田中 そう、足尾鉱毒事件もやはり国を後ろ盾にした、古河鉱業という一社が起こした事件です。おっしゃるように当時は公害なんてみんな知らないから、きっと気がつかないところで他にもああいう事件が起きていたんじゃないでしょうか。この事件の場合は、鮎が大量死したり、木や稲が枯れたりという顕著なサインがあって気がつく。谷中周辺も相当な被害があって、議員だった田中正造が国会に訴えたことではっきりするんです。

たとえ共同体が消えても書いて残す

青木 つい1年ほど前、僕も足尾銅山の跡地は見学しました。記念館などがあって、観光客に坑道の一部が開放されて見学もできましたが、周辺はすっかり寂れて人の気配がほとんどありませんでした。

田中 そうでしょうね。もうどうにもならないですよね。共同体が崩壊しちゃうから。やっぱり人が移動させられるのはそういうことなんです。水俣の場合は漁はできなくなったけれど、水俣という場所は残ったし、障害がある胎児性(水俣病)の方たちもそこにできた施設に住み続けることはできている。だから、語り部として活動もできる。70年代に運動するつもりで水俣に入った人たちがそのまま残って住み続けるということも起きているんです。やはりその土地にいるから新しい共同体が生まれ、文化が育まれていくんですよ。でも追い出されたとたん、それこそその土壌を奪われてしまうんですね。

青木 水俣と福島と谷中には通底するところもたくさんあるけれど、当然ながら違うところもある。住民たちがその土地に残れれば新たな共同体や文化が生まれ、地元から情報発信も続けられるけれど、谷中はそれが難しかったし、そういう面では福島もまた今後の大きな課題ですね。一時は「全村避難」を強いられた飯舘村も、避難指示が解除されても住民はなかなか戻らず、帰還者も多くが高齢者によって占められているようですから。

田中 でもね、谷中の場合には、人がいなくなって共同体も崩壊したけど、田中正造がたくさん書いて残しているんですよ。「谷中学」という言い方をして、自分は谷中からさまざまなものを学んだと書いている。だから、石牟礼さんも田中正造のことを随分読んでいて、谷中学であり、水俣学なんだとおっしゃっている。継承していくために書き残す。それは極めて大事なことです。青木さんの今回の本は、その役割を果たしていると思いますよ。お書きになって本当によかった。(つづく)

関連書籍

百年の挽歌 原発、戦争、美しい村
苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神

プロフィール

田中優子

(たなか・ゆうこ)

1952年、神奈川県横浜市生まれ。法政大学社会学部教授、同大学総長などを経て、同大学名誉教授、同大学江戸東京研究センター特任教授。専門は日本近世文学、江戸文化、アジア比較文化。主な著作に『不確かな時代の「編集稽古」入門』(朝日新書)、『遊廓と日本人』(講談社現代新書)、『苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神 』(集英社新書)、『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫)等、共著に『江戸から見直す民主主義』(現代書館)等多数。

青木 理

(あおき おさむ)

1966年生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクションライター。慶應義塾大学文学部卒業後、共同通信社に入社し、社会部で警視庁などを担当、その後は外信部に移ってソウル特派員などを歴任。2006年に退社後はフリーランスとして独立し、各種の事件や事故、災害、刑事司法、朝鮮半島、メディアなど多岐にわたるテーマの取材・執筆を続けている。主な著書に『百年の挽歌 原発、戦争、美しい村』(集英社)、『安倍三代』(朝日新聞出版)、『日本会議の正体』(平凡社新書)、『絞首刑』(講談社)、『日本の公安警察』(講談社現代新書)等、共著に『スノーデン 日本への警告』(集英社新書)等多数。

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