一七七六年的ユートピア、その限界——前作『ズートピア』(2016)
小森真樹 アメリカ社会の現状を語る際、「分断」という言葉が用いられるようになって久しい。アメリカの建国は、英雄たちによる「輝かしい」ものなのか? それとも、アメリカの発展・繁栄は奴隷制によって支えられた、「血塗られた」ものなのか? 過去の評価や現在の価値観をめぐって激化する「歴史戦」や「文化戦争」、そして「暴力装置」たることを露骨に示し、歴史の改ざんすらも厭わない第二次トランプ政権……。
これらの現状を批評的に盛り込んでいるのが、現在世界中で大ヒットしている、ディズニー映画『ズートピア2』だ。アメリカ文化研究・ミュージアム研究者である著者が、このアニメ映画を起点として、アメリカ社会、ひいては現代世界の向かい合う問題について論じる。
1 「偶然の反トランプ寓話」として
時計の針を、第一作が公開された2016年に戻そう。
『ズートピア』が世に出たのはこの年の3月。ちょうどトランプが大統領選で共和党の予備選で他の候補を罵倒しながらその人気を勝ち取っていった最中であった。第一次政権に至るトランプ現象がアメリカ社会を二分し、「分断(division)」という言葉がリアリティを持って語られ始めた時期である。
肉食動物(捕食者)と草食動物(被食者)が高度な文明社会を築き、共生しているという設定。その均衡が、ある事件を契機に崩れ、「生物学的な本能」を根拠とする排斥運動が立ち上がる。恐怖は噂とメディアを介して伝染し、社会は分断へ傾いていく。当時この物語は、トランプが演説や集会で増幅される恐怖と憎悪の動員現象や、じわじわ増していくその支持が、排外主義や暴力と共に可視化されていったポピュリズム政治の寓話について、「偶然にも」描いていると評価された(*6)。ポリティカル・コレクトネスのムードをこれまた象徴するオバマ大統領が任期を終える中で本作は、「分断を煽るポピュリズム」への対抗言説、すなわちリベラルな異文化共生・多文化主義(multiculturalism)の擁護者として歓迎されたのである。
この意味において、主人公のウサギ、ジュディ・ホップスの姿はアメリカ社会におけるリベラリズムの理想を体現していた。「誰でも何にでもなれる」というスローガンを信じ、差別や偏見に立ち向かう彼女の物語は、多くの観客に勇気を与えた。作中で描かれた「偏見」は、悪意ある個人の心の問題というよりは、誰もが持ちうる「無意識のバイアス(unconscious bias)」として描かれ、それを自覚し乗り越えることが解決策として提示された。
しかし、2020年代後半の現在から振り返るとき、この「2016年の解決策」がいかに楽観的であり、ある種の限界を抱えていたかが見えてくる。それは、アメリカ社会が抱える病理を「個人の心の問題」へと回収し、社会構造そのものの不公正さから目を逸らせる効果を持っていたからだ。
たしかに第一作は、偏見が制度へと接続される瞬間、つまり「治安」や「安全」という言葉が、マイノリティの身体を危険物へと変換してしまう局面を描いていたし、「肉食動物」のメタファーは、アメリカ社会が抱える抑圧された黒人の暴発への潜在的恐怖心や、特定人種が生まれつき犯罪傾向を持つとする差別的な言説「DNA生物学的決定論」への批判を鋭く埋め込んでいた。
しかしその解決は、「偏見の心理」と「個人間の相互理解」へと収斂するものとなっていた。現代アメリカ社会の縮図として描かれたズートピアという都市そのものが、多様な動物種=人種が共生する「メルティング・ポット(人種のるつぼ)」のメタファーの寓話化であるが、他方で、環境ごとに区分けされた各エリア――ツンドラ・タウンやサハラ・スクエア――は、表向きの「共生」が、実質的には居住区の分断状態(de facto segregation)にあるという人種社会の現状を暗喩しており、その解決がなされるとも思えない。強くニューヨークを思わせる街の構造や理念型そのものが、「リベラルなユートピア=どこにも存在しない理想郷」というアメリカン・ドリームの絵姿である。前作でこの「アメリカ」をめぐる永続的な問題系は、まったく解決を見ていない。

*6 “Critics’ Notebook: Why ‘Zootopia’ Is the Perfect Movie for This Moment.” The Hollywood Reporter, March 4, 2016.
2 ネオリベラルな「多様性」とメリトクラシーの罠
前作が提示したユートピア像の限界について、論点を「ネオリベラリズム」に絞って理論的な視座から検討してみよう。
批評家のハスラー=フォレストは、第一作のディズニー的な多様性表象が、市場の論理と結びついた「ネオリベラルなアイデンティティ政治」の域を出ていないと指摘している。彼によれば、『ズートピア』における多様性とは、資本主義の構造批判を回避しながら、差異を「消費可能な商品」として配列したショーケースに過ぎない。そこでは、ウサギもキツネもライオンも、等しく消費者=市民(consumer-citizen)として市場に参加することが求められる(*7)。
また、コミュニケーション論者のフリッツは、本作を「メリトクラシー(能力主義)」の神話を強力に補強するものと積極的に批判している。ジュディが警察官になれたのは、彼女がウサギという被差別的な属性を持っていたからではなく、誰よりも努力し、主席でアカデミーを卒業したからである。「努力すれば報われる」という物語は美しいが、それは裏を返せば「成功できないのは努力が足りないからだ」という自己責任論へと直結する(*8)。これは「アメリカン・ドリーム」という神話が抱える矛盾そのものである。
思えば捕食者と被食者という本作の設定そのものが資本主義・競争社会のモデルであった。英文学者の河野真太郎が指摘するように、ここにはポスト・フェミニズム的な「落とし穴」がある。ジュディの成功は、彼女個人の卓越した能力と意識の高さによって達成されたものであり、ゆえに、構造的な貧困や階級の問題は捨象される。ウサギの警官が誕生しても、ウサギたちが住む地域の貧困や、キツネたちが直面する雇用差別といった「構造」が変わったわけではないのだ。
つまり、第一作の世界観は、「一七七六年」的史観にみられるアメリカの伝統的な「建国神話」であり「アメリカン・ドリーム」のアップデート版であったと評価できる。かつての奴隷制や人種差別といった「悪い歴史」はすでに過去のものとして博物館に収められ、現在は「機会の平等」が保証された公正な社会であるという前提。もし差別が残っているとすれば、それは制度の問題ではなく、個人の心に残った「古い偏見」のせいである――。
フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で描いたのは、自由民主主義と市場経済が「最終段階」として勝利した後の世界である(*9)。対立は終わり、残る制度と市場そのものは正しく機能し、課題は個人の調整にある——第一作『ズートピア』の命題と回答は、こうした枠組みの範疇にある。しかし心身ともに力ある個人が努力と正しさで突破する物語の爽快さは、同時に、突破できない者の条件——資本、階級、土地、警察権力——を背景に押しやる。この「歴史の終わり」を前提とした世界観こそが、ズートピアという都市をユートピアたらしめていた「美しい楽園の嘘」であった。
*7 Hassler-Forest, Dan. “‘Life Isn’t Some Cartoon Musical’: Neoliberal Identity Politics in Zootopia and Orange Is the New Black.” Journal of Popular Culture.
*8 Fritz, Alice Marianne. 2020. “‘Buy Everything’: The Model Consumer-Citizen of Disney’s Zootopia.” Journal of Children and Media 14 (4): 475–91. doi:10.1080/17482798.2020.1725901.
*9 Francis Fukuyama, The End of History and the Last Man (New York: Free Press, 1992). [フランシス・フクヤマ『新版・歴史の終わり』(三笠書房、2020年)]
3 「良き警察」による統合の限界
前作におけるもう一つの盲点であり、2020年の白人警官による黒人男性殺害事件とブラック・ライブズ・マター(BLM)運動以降、看過できなくなったのが「警察」の描写である。
『ズートピア』において、社会の分断を修復し、秩序を回復するのは、最終的には「警察」という公権力であった。ジュディとニックはズートピア警察署(ZPD)のバッジを胸に、悪党を逮捕し、都市に平和をもたらす。ここには、「警察は正義の執行者であり、中立的な存在である」という、あっけらかんと疑いのない信頼がある。
しかし、現実のアメリカにおいて、警察こそが人種的マイノリティに対する構造的暴力の最前線であることは、ジョージ・フロイド殺害事件を待つまでもなく明らかであった。まさに今アメリカで起こっているのも、反政権デモに参加する無抵抗の米国市民が、武装・法執行の権利を付与されたICE(移民関税取締局)に殺される事態だ。ホワイトハウスと政権支持者は、被害者を「国内テロリスト」と(*10)、無秩序な法執行に抗議する人びとを「金で雇われた邪悪な左翼運動」と名指す(*11)。行政による暴力機構の暴走と歴史の改ざんは、一層激化しながら現在進行中である(*12)。

第一作では、警察内部の腐敗や偏見は描かれるものの、それはあくまでたとえば腐敗した副市長といった「悪い個人」の問題とされ、警察組織そのものの解体や改革には至らない。むしろ、アウトローであったニックが警官になる、「取り込まれる」ことが「救済」と描かれる点に、この作品が構造批評を見過ごしていたとみることができ、同作の保守性が露呈している。
マックス・ウェーバーを引くまでもなく、国家とは、一定領域における「正当な物理的暴力の独占」を認められた共同体である(*13)。前作のズートピアには、この暴力装置の正当性への本質的な疑いは込められていない。都市の統合は、最終的には「良き警官」の倫理によって保証されると信じられていたのだ。「一七七六年的」な美しい「アメリカン・ドリーム」は、もはや維持できない。「ユートピア」の繁栄を支えているのは、個人の努力や良き心だけではない。そこには、もっと冷徹で、物理的な排除の構造が埋め込まれているはずだ。
第一作が偏見や恐怖といった「心理の壁」を主題化した映画だとすれば、十年の時を経て公開された『ズートピア2』は、都市の物理的基盤――インフラストラクチャー、階級構造、歴史の記述――といった「構造」に埋め込まれた嘘を暴き出す物語へと変貌を遂げた。二つのトランプ政権を通過した「2016年」から「2025年」のあいだに、物語としての「アメリカ」は「修正」を迫られた。同時に、物語としての「アメリカ」を描くための語りの作法それ自体もまた、個人の意識や道徳の次元から、制度や構造の次元へと大きく舵を切ったように見える。本シリーズは、その転回を象徴する作品群である。
次章では、続編がいかにしてこの欺瞞を解体し、「歴史修正主義」という現代アメリカの病理を活写したのかを論じていく。
*10 “Minneapolis Protests.” Democracy Now!, January 12, 2026; “Minneapolis ICE Shooting: Renée Nicole Good.” Democracy Now!, January 8, 2026.
*11 “Trump Repeats Baseless Claim That Renée Good Was Part of ‘Leftwing Network’ of Paid Agitators.” The Guardian, January 9, 2026; “Karoline Leavitt Takes Shocking Swipe at ICE Shooting Victim Renée Nicole Good.” The Daily Beast. Accessed January 19, 2026; “Family of Renée Good Shares Statement: ‘We All Already Miss Her More Than Words Could Ever Express’.” CBS News Minnesota. Accessed January 19, 2026.
*12 以下の拙論では、第二次トランプ政権による名称変更を用いた歴史の意味の書き換えについて論じている。小森真樹「「暮らし」が語るアメリカ社会 第7回 米国で頻発する「歴史の書き換え」 ケネディ・センターはトランプのもの? (ホワイトハウス発、歴史修正主義 前編)」『日経ビジネス電子版』、日本経済新聞社、2026年2月2日;小森真樹「「暮らし」が語るアメリカ社会 第8回 「国防総省は「戦争省」、トランプ氏は「王」 法と正義の書き換え進む米国(ホワイトハウス発、歴史修正主義 後編)」『日経ビジネス電子版』、日本経済新聞社、2026年2月6日
*13 マックス・ウェーバー『職業としての政治』(岩波文庫、1980年)

アメリカ社会の現状を語る際、「分断」という言葉が用いられるようになって久しい。アメリカの建国は、英雄たちによる「輝かしい」ものなのか? それとも、アメリカの発展・繁栄は奴隷制によって支えられた、「血塗られた」ものなのか? 過去の評価や現在の価値観をめぐって激化する「歴史戦」や「文化戦争」、そして「暴力装置」たることを露骨に示し、歴史の改ざんすらも厭わない第二次トランプ政権……。 これらの現状を批評的に盛り込んでいるのが、現在世界中で大ヒットしている、ディズニー映画『ズートピア2』だ。アメリカ文化研究・ミュージアム研究者である著者が、このアニメ映画を起点として、アメリカ社会、ひいては現代世界の向かい合う問題について論じる短期集中連載(全6回)。
プロフィール

(こもり まさき)
1982年、岡山県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士号(学術)取得。武蔵大学人文学部教授、立教大学アメリカ研究所所員。専門はアメリカ文化研究・ミュージアム研究。批評の執筆や雑誌の編集、展覧会・オルタナティヴスペースの企画にも携わる。著書に『美大じゃない大学で美術展をつくる vol.1 藤井光〈日本の戦争美術1946〉展を再演する』(編著、アートダイバー)、『楽しい政治—「つくられた歴史」と「つくる現場」から現代を知る』(講談社選書メチエ)、『歴史修正ミュージアム』(太田出版)がある。







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