なぜ極右の躍進は止まらないのか フランスから考える 第5回

極右はレイシストなのか

森野咲

 昨今、日本では排外主義や自国第一主義を掲げる政党が選挙で議席を伸ばしている。ヨーロッパをはじめとする世界各地での極右政党躍進の流れが、いよいよ到来したとの見方もある。では、極右の「先進地」とも呼べるヨーロッパでは、極右はどのように勢力を拡大してきたのだろうか? フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする連載の第5回。
「差別は悪いもの」との前提が広がった結果、排外主義的主張をする政治家が「差別はしていない」「差別はよくない」と強調する場面も最近では見られる。”倒錯”したようにも思える、このような現状の背景にあるものとはーー。

極右は外国人嫌いの排外主義者なのか?

「極右」と聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは、レイシズムや排外主義といったイメージではないだろうか。極右の台頭はしばしばレイシズムや排外主義との関連で理解され、その支持者はしばしば移民や外国人への敵意を抱く人々として描かれてきた。

 事実、ヨーロッパおよび北米におけるほぼすべての選挙調査は、「移民」あるいは「外国人」と見なされる集団への拒否と、極右政党に投票する傾向とのあいだにきわめて強い相関があることを強調している。フランスで2022年に行われた調査では、国民連合の投票者の92%が、「移民の大多数は我が国の価値観を共有しておらず、それが共存に問題を生じさせている」と考えていると回答している。

 また2023年の国家人権諮問委員会のデータによれば、国民連合支持者の過半数(54%)が、「自分は『どちらかといえば』あるいは『少しは』レイシスト的である」と自己申告している。この割合は平均的有権者では21%、右派有権者では26%にとどまることから、この調査はレイシズムと極右投票とのあいだには安定的かつ強力な結びつきがあることを示している。

 こうした極右有権者の態度は、極右を特徴づける「三つの柱」の一つである「ネイティビズム」に由来するものであろう(第一回記事を参照)。 あらためて確認すれば、ネイティビズムとは、国家は単一の民族共同体、すなわち「ネイティブ集団」によってのみ構成されなければならないとする思想である。ネイティビズムが理想とするのは、「日本人ファースト」といったスローガンに象徴されるようなエスノクラシー、すなわち自国民を優先する統治のあり方である。結果として、多文化主義や「非ネイティブ」とみなされるマイノリティの権利保障は後景に退き、差別が公然と正当化される危険性も高まる。

 2025年夏の参議院選挙では、「日本人ファースト」を掲げた参政党の躍進を背景に、「外国人問題」が政治の主要な争点として浮上した。その過程で、社会保障や補助金において外国人が不当に「優遇」されているかのように語る言説が広まり、事実に基づかない情報も多く拡散された。

 こうした自国民優先主義や国家構成員の「純化」を志向する思想が極端化したとき、その帰結として現れるのが、人種・民族・宗教・セクシュアリティなどに対する偏見や差別に基づくヘイトスピーチである。近年の日本では、2010年代にヘイトデモを繰り返した在日特権を許さない市民の会(在特会)がその例として挙げられるだろう。同団体は韓国を敵視し、日本に暮らす在日コリアンに対して「在日特権」という根拠のない優遇神話を喧伝し、「朝鮮人は出ていけ」といった露骨な差別的スローガンを掲げた。こうした言動は、ネイティビズムが特定のマイノリティに対する攻撃へと結びつく過程を示している。

「私はレイシストではないが…」

 とはいえ、現代の極右におけるネイティビズムの帰結としての差別や排外主義は、必ずしも露骨なかたちで現れるわけではない。むしろ特徴的なのは、それがしばしばレイシズムの否認の言葉とともに現れる点ではないだろうか。

 日本でも、「日本人ファースト」を掲げる政治家が、一般的に抱かれがちな排外的イメージとは裏腹に、「外国人差別は良くない」と繰り返し強調する場面が観測されている。たとえば参政党代表の神谷宗弊は、テレビのインタビューなどでも「我々は外国人差別に反対です。肌の色が違うからといって差別するのは良くない」など述べてきた。また街頭演説中に抗議に来たカウンター参加者に対して「差別してねえっつってんだろ ! 」と絶叫したことも注目を集めた。少なくとも表向きには、レイシズムを否定する姿勢が示されているのである。

 さらに、極右政党の台頭を単純に「世論の排外主義の高まり」と結びつけることも、必ずしも正確ではない。欧州諸国においては極右政党の支持が拡大している一方で、世論調査は極端な排外主義者は依然として少数派であることを示唆している。有権者の排外的態度が一貫して増加しているという明確な傾向も確認されていない。日本についても同様に、近年、社会全体で排外的意識が顕著に高まっているわけではないことが指摘されている(*1)。

 つまり、現代の極右の躍進は、露骨な人種差別や排外主義の社会的拡大として現れているわけではないのである。しかし、彼らは本当にその言葉通り「差別に反対」しているのだろうか。

 参政党が公表した「新日本憲法(構想案)」における「国民の要件」の定義は、国家は「真の日本人」によって「日本人」のために運営されるべきであるという理念を顕著に示している。そこでは、外国人は経済的・社会的秩序に対する潜在的な脅威として位置づけられている。また、同党の国会質疑やYouTubeでの発信においては、中国政府が観光客や移民、資本を日本に送り込んでいるとする、いわゆる「サイレント・インベイジョン」論が繰り返し主張されている(*2)。さらに、同党の政策には、「日本国内への外国からの静かなる浸透(サイレント・インベイジョン)を止める」との目標のもと、「外国人の受入れ数に制限をかける」「帰化および永住権の要件を厳格化する」といった施策が掲げられている。

 彼らの主張はしばしば、「差別は認めない」との明言から始まる。だがその一方で、政治的共同体の境界を引き直し、「誰が真の国民か」を再定義しようとする。国民資格の条件を改めて設定することにより、制度や政策の水準での排除は正当なものとして位置づけられる。では、「差別ではない」と語りながら進められるこの排除の政治を、私たちはどのように捉えるべきなのだろうか。

*1 田辺俊介「排外主義の成り立つ地点――価値観と情報空間にみる底流」.『地平』(特集「排外主義、再び」)第16号,2025年
*2 マルカントゥオーニ・ロメオ「参政党の台頭はなぜ可能になったか――解かれた極右の封印」.『地平 』(特集「排外主義、再び」)第16号,2025年

「凍結されたレイシズム」――人種差別は過去のものか?

 人種差別と聞いて、まず多くの人が思い浮かべるのは、奴隷制や植民地主義、ナチズムとホロコースト、あるいはジム・クロウ体制やKKKに代表されるような、公然たる憎悪や露骨な差別行為ではないだろうか。日本の事例でいえば、1923年の関東大震災直後に起きた朝鮮人・中国人に対する虐殺が、その典型として挙げられるだろう。いずれも、暴力や排除がむき出しのかたちで現れた出来事である。このような理解のもとでは、人種差別は歴史上の特定の邪悪な体制や時代と強く結びつけられる。そしてそれは、「極端で歴史的なもの」、すでに過去に属するものとして位置づけられる。

 しかし文化社会学者のアラナ・レンティンが指摘するように、こうした理解は人種主義を「凍結されたレイシズム(frozen racism)」として把握する見方につながる。すなわち、人種差別を過去の異常な出来事として歴史の中に固定し、現在の社会から切り離すことで、国家政策や移民制度、福祉や治安の運用に組み込まれるかたちで現在も進行している構造的・制度的差別を不可視化してしまうのである。

 ここで重要なのは、差別が消えたのではなく、「見えなくなる」ことである。レイシズムが「極端」で「歴史的なもの」とされた結果、多くの人々は「自分たちはそこまでではない」と安心し、差別は一部の過激派や異常な個人に帰属する問題だと考えるようになる。こうして、人種差別は現在の社会構造に埋め込まれた問題ではなく、すでに克服されたはずの過去の遺物として処理される。

 ヨーロッパにおいても、ナチズムやファシズムは歴史の汚点として繰り返し言及されるが、それは同時に「それを克服した」という自己物語の一部でもある。第二次世界大戦後の自由民主主義の確立は、あたかも人種差別を過去に葬り去ったかのように語られてきた。しかし、この「克服の物語」こそが、現在進行形の日常的で制度的な形態の差別を問題視しづらくさせているのである。

 戦後秩序は、伝統的人種差別を歴史のゴミ箱に追いやったかのように語られる一方で、新たなかたちの不平等を組み込んでいった。グローバルな協力や市場の自由化が掲げられ、協調、平等、多様性、多文化主義が資本主義の枠内で推進された。しかしその過程で、人種差別はもはや露骨なイデオロギーとしてではなく、国際分業や移民労働、資源配分の構造のなかに埋め込まれていった。植民地主義が生み出した世界的不平等は消滅したのではない。むしろそれは、ネオコロニアルな貿易慣行や経済活動、労働と資源の搾取を通じて再編成されている。レイシズムは本当に「過去のもの」なのだろうか。

リベラルなレイシズム

 アラナ・レンティンは、レイシズムには二重の運動があると指摘している。第一に、それはナチズムや奴隷制といった過去の出来事へと参照されることで、歴史の中に「凍結」される。他方で、レイシズムとは可動的であり、現代の多様な文脈へと拡散し、適用されてもいる。こうした問題意識を引き継ぎ、フランスの極右政治を専門とする政治学者オーレリアン・モンドンは、社会学者アーロン・ウィンターとの共著『反動的民主主義』において、レイシズムを以下の二つの類型に区別する枠組みを提示している。

  • 非リベラル・レイシズム

非リベラル・レイシズムとは、生物学的人種主義や明確な優劣の主張、露骨で公然とした排除を特徴とする形態である。ナチズム、ファシズム、ジェノサイド、アパルトヘイト、人種差別的暴力などがその典型に挙げられる。これはしばしば、自由主義によって克服されたと語られる「過去」の思想や実践と結びつけられ、寛容で平等主義的とされる現代社会に対する外在的な脅威として描かれる。そこでは白人が他の人種よりも優越した存在として位置づけられ、人種化された集団は本質主義的かつ均質なものとして、生得的に劣った存在とみなされる。マイノリティの同化や忠誠の証明による受容の可能性は基本的に否定され、差別的言説や陰謀論、脅迫、さらにはヘイトクライムやテロといった暴力にまで至りうる。

  • リベラル・レイシズム

リベラル・レイシズムとは、「自分は差別主義者ではない」「すでに社会は平等だ」という前提のもとで存続する、自由主義社会に内在するレイシズムの形態である。これは自由・平等・人権といった語彙を用いながら、文化差異や個人責任を強調することで、構造的差別の存在を否認する。すなわち、現代社会はすでに権利と機会において平等であるという前提に立ち、「もう法律上は平等なのだから、差があるのは努力の問題だ」「市場は公平であり、成功できないのは文化的な問題だ」と言った説明がなされる。つまり、不平等は市場原理や文化的傾向、あるいは自然な帰結として理解され、構造的差別は否認されるのである。

 重要なのは、露骨な非リベラル・レイシズムが「本当のレイシズム」として強調されることで、より洗練された排除が「非レイシズム」であるかのように装われる点である。レイシズムは、すでにリベラリズムによって克服されたもの、あるいは非リベラルで病理的な個人の逸脱として語られる。その結果、極端な事例のみが問題化され、日常に埋め込まれた制度的・拡散的なレイシズムは不可視化される。リベラル・レイシズムは、「私はレイシストではないが…」という建前を使いつつ、非リベラルなレイシズムを「他者」として切り離すことで、自らを無害なものとして位置づけるのである。

フランスにおけるレイシズムの「文化的転回」

 モンドンとウィンターによれば、このリベラル・レイシズムの形成における重要な転換点を理解する際に重要な参照点となるのが、1980年代のフランスにおける新右翼運動である。

 当時のフランスでは、極右は時代遅れで周縁的な存在であった。第二次世界大戦後、ファシズムの敗北によって極右は政治的正統性を失い、生物学的人種主義やファシスト的ノスタルジー、ホロコースト否認やペタン支持(*3)といった言説は公的空間での正当性をなくしていた。さらに1960年代の公民権運動、反植民地主義運動、第二波フェミニズム、反人種差別運動の広がりは、ますます極右を周縁に追いやった。

 戦後フランス極右の中心人物であるジャン=マリー・ルペンは、1950年代にプジャディスト運動を通じて国会に進出し、当時最年少議員の一人となった。しかし、彼が率いる国民戦線の台頭は1980年代初頭を待たねばならない。この期間、極右支持は最低水準に落ち込み、主流保守政党さえ一定の進歩的改革を受け入れざるをえなくなっていた。その中で、極右のイデオローグたちは、その思想を放棄することなく政治的影響力を回復する道を模索していたのである。

 極右は言説の再構築に取り組んだ。そこで採用されたのが、露骨なレイシズムから距離を取るかのように振る舞い、より洗練された形で主流政治へと接近する戦略である。この「文化的転回」背景には1960年代以来の極右知識人サークル、とりわけアラン・ド・ブノワを中心とする新右翼運動(Nouvelle Droite)の影響があった。彼らは アントニオ・グラムシ(*4)の文化的ヘゲモニー論を参照し、政治権力に先立って文化的影響力を確立する戦略を構想した。

 アラン・ド・ブノワは生物学的人種主義を退け、「民族多元主義」を提唱した。それは平等主義や普遍主義に対抗し、文化の不可還元性と分離を強調する立場である。露骨な人種差別の語彙は、「差異」「文化」「人民」といった表現へと置き換えられた。さらに彼は、生物学的人種主義と反人種主義を意図的に同列化し、その双方から距離を取る自身の立場を「知的反人種主義」と称した。ここでは、文化的差異そのものが規範とされ、「よき反レイシスト」であるためには個人間および集団間のあらゆる差異を尊重し保護すべきだとされるのである。

 1980年代に入ると、この新右翼の思想的影響を受けた国民戦線は、生物学的人種主義的言説から「民族」を中心概念とする方向へ転換した。国民戦線は、過去との断絶や過激思想との距離を強調することで、徐々に政治的正統性を獲得した。しかし、表向きの「断絶」とは裏腹に、従来の過激派潮流との関係が完全に消失したわけではなかった点には留意する必要がある。

*3  フィリップ・ペタンは1940年のフランス敗戦後、ヴィシー体制の主席を務めた。ヴィシー体制は対独協力政策をとり、反共和主義的・権威主義的体制を形成した。戦後ペタンは国家反逆罪で有罪となったが、フランス極右の中には彼やヴィシー体制を肯定的に捉える潮流が歴史的に存在する。
*4 アントニオ・グラムシ(1891-1937)はイタリアのマルクス主義思想家。『獄中ノート』において、支配は国家の強制だけではなく、教育・文化・メディア・知識人などを通じて社会の「常識」への同意を形成することで維持されるという「文化的ヘゲモニー」の概念を提起した。フランスの新右翼はこの思想を参照し、文化領域で政治的影響力を確立する「メタ政治」戦略を「右のグラムシ主義」として論じた。

人種なき人種主義

 この「文化的転回」後の新たなレイシズムの形態を、哲学者のピエール=アンドレ・タギエフは「差異主義的人種主義」、エティエンヌ・バリバールは「人種なき人種主義」と呼んだ。そこでは生物学的な「人種」は正面から語られず、代わりに文化差異の不可還元性が強調される。つまり、血統や遺伝に代わって「生活様式の両立不可能性」や「境界維持の必要性」が語られ、文化があたかも自然的かつ本質的なカテゴリーであるかのように扱われるのである。

 重要なのは、この言説が戦後反レイシズムの前提――人種は生物学的実体ではなく、文化は多様で平等であるという理解――をいったん受け入れたうえで、それを転倒させる点にある。すなわち、「差異の尊重」という語彙が、排除と分離の正当化へと転用されるのである。

 差異主義的人種主義は、「差異の消失こそが衝突を生む」という論理を提示し、自らを人種主義の予防理論として位置づける傾向をもつ。文化の混淆が対立を招くのだから、分離は平和維持のための合理的選択であるとされる。その結果、差別撤廃政策や平等政策は「逆差別」として批判され、「反レイシズムこそがレイシズムを生む」という反転した主張が成立する。

 この構図は、現代極右に見られる「反白人差別」論の基盤をなしている。そこでは白人植民地主義と移民の存在が擬似的な等価性のもとに並置され、「ホワイト・パワー」と「ブラック・パワー」が対称的主張であるかのように語られる。差別は「差異の尊重」や「すべての文化を守るべきだ」という語彙によって再包装され、「白人も守られるべきだ」「白人に対する逆差別がある」といった言説が正当化されるのだ。

「移民」は「人種」に代わる分割原理

 では、この文化差異主義的言説へと転換した現代のレイシズムは、いかにして具体的な政治争点として浮上するのだろうか。

 バリバールが指摘するように、現代フランスにおいては「移民」というカテゴリーが、生物学的「人種」に代わる分割原理として機能している。移民は治安や失業、社会問題、文化的緊張と結びつけられ、単一の政治空間内部における分断軸となる。脱植民地化と人口移動という歴史的条件のもとで、かつて植民地支配の対象とされた人々が、いまや旧宗主国の内部で「問題」として再配置されるのである。

 極右勢力はしばしば「反移民」を掲げる。しかし、この「移民」という語の曖昧さには注意が必要である。これは必ずしも厳密な意味での移民——「外国で外国人として生まれ、現在フランスに居住している者」——を指すとは限らない。実際には特定の「人種化された」集団を指すラベルとして用いられることがある。したがって「移民」は、生物学的人種主義に依拠せずとも、人々を分割する軸として機能しているのだ。

 さらに注意したいのは、移民の増加それ自体が自動的に極右の台頭をもたらすわけではないという点である。1960〜70年代以降、西欧諸国で移民人口は増加してきたが、それが直ちに爆発的な政治争点となったわけではない。移民は人口統計上の現象として存在していても、それが「移民問題」として構成され、争点化されてはじめて政治的効果を持つ。言い換えれば、「移民(人口現象)」と「移民問題(政治争点)」は区別されるべきである。移民は火種にはなりえても、火をつける仕組みがなければ燃え広がらない。

経済か、文化か?

 極右支持をめぐる議論では、しばしば経済的説明と文化的説明が対置されてきた。前者は極右有権者をグローバリゼーションの敗者とみなし、失業や相対的剥奪への抗議として投票すると説明する。後者は、極右の台頭を、移民や多文化社会への反動、文化的アイデンティティの防衛として説明する。しかし実際のところ、両者は対立的というより補完的である。経済的説明は階級問題へ、文化的説明はアイデンティティの問題へと焦点を当てるが、これは階級それ自体にアイデンティティ・文化的次元が内在していることを見落としている。

 アニバル・キハーノ(*5)が指摘するように、そもそも「人種」という概念自体、近代における植民地主義的権力のもとで構築され、資本主義的労働の編成と結びつきながら制度化されてきたカテゴリーである。「人種」は単なる偏見ではなく、労働力の分割と序列化を可能にする統治原理であった。この意味で、「人種」の構築は近代資本主義における階級編成と切り離せない。したがって、階級とアイデンティティは外在的に並置されるものではなく、歴史的に相互に構成し合ってきたのである。

 事実、極右はしばしば社会経済的な懸念を社会文化的に翻訳している。「移民が仕事を奪う」「福祉が圧迫される」といった語りは、物質的利害を人種的・文化的境界へと結びつける。その結果、多くの極右有権者は移民が自分自身、あるいは地域や国家にとって経済的な問題を引き起こしていると考える。移民受け入れは失業や低賃金を招く、移民への社会扶助を削減すれば「国民」により多く配分できる――こうした因果図式のもとで、移民の受け入れ数制限や同化は経済問題への解決策として提示されているのである。

 さらに、移民は極右にとって単なる一政策課題ではない。それは、文化的・宗教的・安全保障的・経済的といった複数の不安を結節させる中心的な装置である。移民は国民文化の均質性を脅かす存在として語られ、とりわけ近年ではイスラームが自由民主主義的価値観への脅威として強調される。同時に、犯罪やテロと結びつけられることで安全保障上の不安が喚起され、雇用や福祉を圧迫する存在として経済的負担も語られる。さらにそれは、腐敗したエリートの政策の帰結として位置づけられることで、政治的不信とも接続される。移民問題は、文化的・経済的・安全保障的・政治的な不満を統合する装置なのだ。

*5 アニバル・キハーノ(1930-2018 )はペルーの社会学者。ヨーロッパ植民地主義・資本主義の形成とともに成立した近代世界が、「人種」という分類を創出し、それを世界人口の階層化を正当化する原理として用いてきたことを「権力の植民性」の概念によって論じた。

レイシズムとは社会的関係である

 このように、移民とは多領域にわたって政治争点化されているのであり、レイシズムや排外主義を独立した極右支持の唯一の根本原因とみなすのは適切ではない。たとえばエリック・ゼムール率いる「新征服」は、国民連合よりも露骨な排外主義を打ち出しながらも、国民連合の支持基盤を大きく侵食するには至らず、獲得層は伝統右派のブルジョワ層にとどまった。このことは、極右政党が排外主義を先鋭化させても大衆からの支持の拡大に直結するわけではないことを示唆している。

 また、極右の台頭には「偏見をもつ人々が極右に投票する」という説明もなされてきた。しかしこれは、レイシズムを個々人の内面にある悪しき思考の総和へと還元してしまうことで、問題を個人の精神状態へと閉じ込める危険をはらむ。フランツ・ファノン(*6)がかつて警告したように、レイシズムを心理的欠陥として理解することは、それを支える社会構造や制度的配置を不可視化してしまう。

 同様に、排外主義を「社会的孤立の産物」とみなす通俗的説明も十分ではない。レイシズムは社会関係の欠如から生じるというより、「われわれ」という境界を明確化することで特定の共同体意識を形成する実践である。排除は同時に結束を生む。したがって、極右投票は社会の崩壊ではなく、ある種の社会的連帯の表現と理解すべきである。

 さらに、レイシズムは特定の階級に限定される現象でもない。極右支持はしばしば「困窮する下層階級」の問題と説明されるが、実際には支持層は社会階層を横断して存在する。上層階級やエリート層にも極右の支持者は存在する(第二回記事を参照)。もしレイシズムが単なる生活苦の補償であるならば、この事実を説明できない。

 よって、重要なのは「どの階級がよりレイシスト的か」という量的比較ではなく、各社会的位置においてそれがどのような形で現れるかを問うことである。階級やジェンダーに応じて、レイシズムは失業不安と結びつくこともあれば、税負担や学校制度、住宅政策と結びつくこともある。これらの違いは「レイシズムの強さ」などではなく、社会的位置に根ざした構造にある。

 私たちは、レイシズムを単なる「憎悪」ではなく、社会の中で共有され、階級やジェンダーといった諸抑圧と交差しながら再生産される、広範な支配構造として捉えるべきであろう。こうした視点に立てば、国民連合への投票は単なる個人の怒りや不満、偏見の表れではなく、すでに存在する人種化された社会秩序の内部での、自身の位置取りを意味すると考えられる。

*6 フランツ・ファノン(1925-1961 )はマルティニーク出身の精神科医・思想家。アルジェリア独立戦争に関わりながら植民地主義と人種主義の心理的・社会構造を分析した。

「反レイシズム運動」を超えて

「ポスト人種」と呼ばれる時代における極右を理解するためには、レイシズムを過去の異常や一部の「悪しき個人」の性格へと還元してしまう見方を退けなければならない。レイシズムは例外的逸脱ではなく、現在の社会関係のなかで作動し、多数派としての位置や特権を維持するために境界を引き直す技術として機能している。

 既存の反レイシズム運動は、しばしば、歴史的事件や露骨な差別発言といった「凍結された」レイシズムに対する道徳的非難にとどまりがちであった。その結果、レイシズムが制度や政策、国家的実践のなかでどのように再生産されているのかという構造的な側面は十分には問われてこなかったのではないか。国家は公式には人種主義を否定しつつも、難民政策や国境管理などを通じて人種化された排除を継続しているが、そうした状況は可視化されない。

 さらに、リベラリズムのもとで称揚される「寛容」や「調和」、「多様性の祝福」といった理念は、この構造的現実を脱政治化する働きをもつ。寛容は差異を無条件に承認するのではない。むしろ寛容とは、差異を潜在的な問題や逸脱の源として位置づけたうえで、それを管理可能な形で社会の内部に取り込みつつも、その異質性は維持する実践である。そして、その過程において、歴史的・構造的な権力関係は温存される。

 この文脈において、レイシズムの再燃を、極右のみの責任に帰す議論は不十分である。極右を「例外」として強調することは、リベラル国家の内部に組み込まれた日常的な人種化の実践から目を逸らさせる効果をもつ。極右はしばしばスケープゴートとして機能するが、人種主義の持続は極右だけに依存しているわけではない。リベラル国家自身こそが、統治の名のもとに人種化された排除や暴力を行使しているのである。

 たしかに、反レイシズム運動は露骨な形で現れる非リベラルな人種主義を断固として批判しなければならない。草の根の実践は不可欠である。しかし同時に、それを可能にし増幅させてきた、より深い構造的権力関係や不平等にも向き合う必要がある。必要なのは、極右から現状を「防衛」することではない。そうした政治を可能にしてきた現行秩序そのものを問いに付すことである。

参考文献

Étienne Balibar & Immanuel Wallerstein, Race, nation, classe. Les identités ambiguë, La Découverte,1990. エティエンヌ・バリバール/イマニュエル・ウォーラーステイン『人種・国民・階級――揺らぐアイデンティティ』若森章孝ほか訳、唯学書房、2014年。
Wendy Brown, Regulating Aversion. Tolerance in the Age of Identity and Empire, Princeton University Press, 2006. ウェンディ・ブラウン『寛容の帝国――現代リベラリズム批判』向山恭一訳、法政大学出版局、2010年。
Cas Mudde, The Relationship Between Immigration and Nativism in Europe and North America, Migration Policy Institute, 2012.
Alana Lentin. “Post-racialisme, déni du racisme et crise de la blanchité.” SociologieS, 2019.
Aurélien Mondon & Aaron Winter, Reactionary Democracy. How Racism and the Populist Far Right Became Mainstream, Verso, 2020.
Félicien Faury. “Racisme et vote d’extrême droite. Retour sur une question et pistes analytiques.” Sociétés contemporaines, (134, 135), 2024.
田辺俊介『日本人は右傾化したのか――データ分析で実像を読み解く』勁草書房、2019年。

 第4回
なぜ極右の躍進は止まらないのか フランスから考える

昨今、日本では排外主義や自国第一主義を掲げる政党が選挙で議席を伸ばしている。ヨーロッパをはじめとする世界各地での極右政党躍進の流れが、いよいよ到来したとの見方もある。では、極右の「先進地」とも呼べるヨーロッパでは、極右はどのように勢力を拡大してきたのだろうか? フランスの大学院で哲学を学ぶ森野咲が、現地での最新の研究や報道の成果をもとに、極右の成長、定着の背景やメカニズムを明らかにする。

プロフィール

森野咲

(もりの さき)

1996年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、大杉栄や石川三四郎に憧れて渡仏。パリ郊外サン=ドニにあるパリ第8大学哲学科の修士課程2年に在籍中。専門はフランス現代哲学。現在、『ふぇみん』に「極右とフェミニズムの不幸な結婚」を連載中のほか、自身のnoteで「極右の傾向と対策」と題したマガジンを発表している。

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極右はレイシストなのか

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