監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男 第2回

「私を信頼して使ってくれますか?」 1998年〜2001年編

中溝康隆

【「ポスト長嶋」ではなかった?」】

「長嶋監督に対し、『忠誠心を尽くして戦います。一つだけお願いがあります』と言ったんです。『私をかわいがってください』と。どこか、現役が終わった時のしこりもあったんでしょうね」

(読売新聞2025年11月21日)

 原辰徳は、現役を引退して3年が経過しようとしていた1998年のある日、都内のホテルで巨人の長嶋茂雄監督と会った。翌シーズンからのコーチ就任の要請である。当時40歳の原は、NHKの『サンデースポーツ』でメインキャスターを務めるなど、野球解説者として多忙を極めていた。前年には巨人二軍打撃コーチのオファーを「戻って何ができるのか」と自問自答した結果、辞退している。1995年10月8日の引退試合で通算382号アーチを放ち、自ら「私の夢には続きがあります」と大観衆に向けて宣言した元生え抜きの四番バッターは、次期巨人監督の有力候補と思われたが、原本人はまた別の捉え方をしていた。

「平成11(1999)年に野手総合コーチとして巨人に呼び戻された時、“ポスト長嶋は約束された”とか、“ミスターから帝王学を受ける”と断定的な言われ方をしたが、実は僕の巨人復帰は長嶋さんのルートではなかったし、ポスト長嶋なんて大それた事はこれっぽっちも考えなかった」

(別冊宝島642号 伝統の一戦 激突!巨人×阪神〜プロ野球草創からの全ドラマ〜)

『サンデースポーツ』の生放送では、宮崎の巨人キャンプ地から、キャスターの原と並んで生出演をした長嶋監督が、笑みを浮かべながら番組冒頭の挨拶をするなど2人の関係は良好に見えた。長嶋が巨人に入団した1958年生まれの原にとって、四番サードで躍動する背番号3は少年時代からの憧れの存在だったのだ。だが、憧憬と同時に原にはある疑念があった。「長嶋監督は本当にコーチの自分を必要としてくれるのか?」という疑いである。

【アイドル・原の晩年

 選手・原の現役晩年、長嶋監督との関係は冷え切っていた。実は1992年秋、長嶋茂雄の12年ぶりの巨人監督復帰を誰よりも喜んだのは、原だった。その年の前半戦、打撃不振に陥った原は、関係者の仲介で長嶋邸を訪ねリビングルームでマンツーマンの打撃指導を受けている。いわばチームの部外者と現役選手という立場である以上、人目を避けての極秘の特訓だったが、今度は監督と選手として堂々と戦えるのだ。しかし、35歳の原はすでに満身創痍だった。1993年シーズンは持病のアキレス腱痛にも悩まされ、打率.229、11本塁打というプロ入り以来最低の成績で終えるのだ。

 巨人復帰1年目、12球団ワーストのチーム打率.238の貧打に悩まされた長嶋監督は、自らドラフト会議で引き当てた松井秀喜に将来の四番を見据えた英才教育を施し、93年オフには導入されたばかりのFA制度で、中日から当時40歳の落合博満を獲得している。落合を原に代わる「新たな四番打者」で獲得したのは誰の目にも明らかだった。ライバル落合に勝つため、例年以上のハイペース調整を自らに課した原は、1994年開幕直前に左アキレス腱を痛め、開幕二軍スタートとなる。さらに復帰を焦るあまり、フリー打撃中に左アキレス腱部分断裂と患部を悪化させてしまう。それでも原は、首位を走る一軍に早期合流しようとトレーニングに励んだ。しかし、長嶋監督の反応は「二軍の試合に出てからのほうがいいんじゃないか」とつれないものだった。

「長嶋監督の言葉を聞いた首脳陣が『監督がそう言ってるから』と告げてくる。コーチを通じて聞いた言葉で、真意は分からない。しかし『そんなに早く一軍に戻ってこなくてもいい』と言われているような気がした。命令なら従うつもりだった。しかし、命令ではない。いかにも私の体を気づかうようにして、一軍復帰の時期を遅らせようとしていた。もし、私の足の状態を本当に気づかっているのなら『外野守備の練習をしたほうがいい』という方針も告げなかっただろう」

(選手たちを動かした勇気の手紙/原辰徳/幻冬舎)

 二軍戦の出場を拒否して、再び背筋を痛め当初の予定より遅れるも、一軍復帰戦となる94年6月14日の阪神戦でホームランを放ったのが元四番打者のせめてもの意地だった。7月下旬には、全盛期にもなかったプロ初の三打席連続アーチも記録したが、落合を休ませるための守備固めや代走で途中起用されるだけでなく、9月7日の横浜戦では自身の代打に長嶋一茂を送られる屈辱もあった。もはや、コーチ陣は原と話す時ですら、目を合わせようとしなかったという。

 この年、長嶋巨人は中日との同率優勝決定戦“10.8決戦”を制し、日本シリーズでは負傷の落合に代わり四番に座る試合もあった。それでも、翌95年に向けて球団はライバル球団のヤクルトから広澤克実とジャック・ハウエルを獲得する。開幕前から、ほとんど構想外のような扱いだ。大型補強に邁進するチームにもう背番号8の居場所はなかった。

 その頃、プライドをズタズタにされた選手・原を支えていたのは、打席に立つと背番号8に送られる大声援だ。フジテレビ『スポーツWAVE』の中で、「今夜決定!! 『95’こいつが栄光の巨人軍4番打者だ!!』」という視聴者参加の電話アンケートが行われると、「2位落合博満4万3089票、3位松井秀喜3万2859票、4位広澤克実1万9692票」と錚々たるメンツを抑えて、ぶっちぎりの1位に輝いたのは8万1580票を集めた原だった。

 多くの若い巨人ファンは、長嶋監督の原に対する扱いに不満を溜め込んでいたのだ。団塊ジュニア世代にとってタツノリは、物心がついた頃の憧れのアイドルであり、華やかな1980年代の象徴でもある。ある意味、1970年代以降生まれの世代にとって、原はONよりも偉大だった。

 いわば原辰徳の現役引退は、彼らにとって輝ける少年時代の終わりを意味していたのである。1995年当時、高校生だった1979年生まれの私も、原の引退以降しばらくプロ野球を見る気力を失ってしまったほどだった。そういうタツノリファンが東京ドームに押し寄せ、背番号8のラストダンスに感謝と惜別を込めて、力の限り声援を送ったのだ。地上波のナイター中継やスポーツニュースでも、連日その様子が放送されたが、第二次長嶋政権下での原のキャリアは、決してハッピーエンドの物語とは言えなかったのも事実である。屈辱の中、現役最終年の1995年シーズンに放った6本のホームランが、去り行く若大将のせめてもの意地だった。

【型破りなコーチ

 前述の自著で「もはや自分と長嶋監督の間には、埋められない『溝』があった」と選手時代を振り返る原だからこそ、引退から3年後のコーチ就任要請にも、あえて「私を信頼して使ってくれますか?」と確認したのだろう。すると長嶋監督は、「辰ちゃん、当たり前じゃないか」と即答して肩を抱き、原は巨人復帰を決断する。1998年10月14日、球団事務所で行われたコーチ就任会見で、40歳の原ははっきりとこう口にした。

「優勝は必ずします! 来年は必ずします。私のなかではむしろ、二位以下をどれだけ引き離して勝つかだと、そう思っています」

(原辰徳の光と闇 ジャイアンツ愛/赤坂英一/講談社)

 コーチが異例とも言える優勝宣言だ。しかし、その“野手総合コーチ”という聞き慣れないポストにマスコミが食いつく。現役時代、「勝負弱い四番打者」と叩かれ続け、原には何を書いても構わないといった風潮は、指導者になっても変わらなかった。強気に優勝宣言した原に対して、「ノックもできない野手総合コーチが本当に巨人を優勝に導けるのか」(週刊現代1998年11月21日号)、「原辰徳よ“無能コーチ”報道にどう答えるんじゃ」(週刊ポスト1998年11月27日号)といった揶揄するような論調の報道が目立つ。

 さらに、メジャー志望から一転、巨人逆指名に進路変更した上原浩治(大阪体育大学)について、新米コーチが記者との雑談の中で「日本で2、3年やって栄冠を勝ち取ってから、(メジャーへ)行ってもいいじゃない」とコメントしたことが、恰好のネタとなる。「メジャー容認」とスポーツ紙に大々的に報じられたことで原は球団から注意され、その経緯すら面白おかしく書き立てられると、報道陣に対して「取材は書面にして広報を通してほしい」としばらく口を閉ざした。理想に燃える青年コーチ原辰徳は自分に正直であり、そのおおらかさは同時に危うさでもあった。元巨人の角盈男が『巨人軍はなぜ優勝できないのか!?』(PHP研究所)という本を出した時、球団OBの中でただひとり「読ませてほしい」と連絡をしてきたのが原だったという。

【我慢と辛抱の連続】

 1999年の春季キャンプでは、積極的に選手たちに打撃指導を行ったが、その越権行為を苦々しく思った武上四郎打撃コーチが報道陣に対して、「バッティングのことは原コーチに聞いてくれ」と言い放つこともあった。長嶋監督から明確な役割が与えられたわけではなく、原自身はチームのムード作りと監督や選手のサポート役が自分の仕事だと公言していた。当時の『週刊ベースボール』には、実態の分かりにくい役職に懐疑的で、「試合の指揮を執る監督でもない。選手に技術を教える指導者でもない。なんとも中途半端な立場である」と書かれている。やがて、試合前のティーバッティングの手伝いやメンバー表の交換が原野手総合コーチの仕事となっていく。

 99年の長嶋巨人は開幕ダッシュに失敗して一時最下位に低迷したが、シーズン序盤に野村克也新監督が指揮を執る阪神が首位に立つと、すかさず両チームの参謀比較で「野村教宣教師・松井優典vs.バカ大将・原辰徳」(週刊宝石1999年6月10日)なんて辛辣な見出しが躍る。選手時代は何を書かれても、打席でホームランを打てば黙らせることができた。仮に監督ならば、チームを勝たせれば外野の声も封じ込める。だが、コーチはそうもいかなかった。アマチュア時代からスーパースターの道を歩んできた若大将・原にとって、コーチ業は辛抱と我慢の連続だった。

「選手というのは一喜一憂していいと思うんですよ。それも一つの活力になるしね。でもコーチは違う。秋のキャンプも含めた状態で、この春のキャンプに来て、コーチって何だろうと考えたら、忍耐しかなかったんですよ(笑)。一喜はいいでしょう。でも一憂はしてられないですね」

(週刊ベースボール1999年2月22日号)

 原は指導者2年目の2000年から、一軍ヘッドコーチへ昇格。長嶋監督からオープン戦数試合で采配を任せられることもあった。そして、オフにFAで工藤公康や江藤智らを獲得したチームは、20世紀最後のシーズンで4年ぶりのリーグ優勝を飾り、日本シリーズでは王貞治監督率いるダイエーホークスとの“ONシリーズ”を制して日本一に輝く。ミレニアムのON決戦に勝利した長嶋監督は、コーチや選手の前で「みんな、ありがとう!」と歓喜の涙を流したという。8年目に突入していた第二次長嶋政権だったが、すでに集大成のような雰囲気すらあった。そして、迎えた2001年。ペナントレース序盤は首位を走るも、投手陣が踏ん張りきれず連覇が遠のいた夏場以降、長嶋監督は原ヘッドに「監督になったつもりで全部やってみろ」と公式戦の采配を任せる。すでに65歳になっていた長嶋茂雄は、43歳のヘッドコーチに巨人監督の座を譲渡することを決めていた。

【監督就任日の曖昧な記憶

 2001年9月27日、その夜の広島戦で惨敗して逆転優勝が絶望的となった試合後、原ヘッドコーチは東京ドームの監督室へ呼ばれる。のちに原はこの時の状況を、「いつも通りに試合の反省と翌日の予定の確認のために監督室のドアをノックした」(Number751)、「慌てて風呂から上がり、頭からバスタオルをかぶる。私服に着替えて監督室に顔を出す」(原辰徳の光と闇 ジャイアンツ愛)、「シャワーを浴びようかと思った時でした。だから、慌ててユニフォームを着直して……」(スポーツ・ヤァ!No.032)とその時々によって異なる証言をしている。前後の記憶が曖昧なのも無理もない。それほど、そのあと告げられた言葉は重かった。「3年前に来てくれたときから、最初から思ってたんだ」と後継者育成を心に秘めていた長嶋監督は、原にこう声をかけるのだ。

「ドアをノックすると、開けたすぐのところにミスターが直立されていて『おめでとう! 来年から原監督だ』といきなりね。差し出してくれた右手を両手で握り返したんだけど、その時の手のぬくもりは忘れることはない。同時に足はガクガク震えてきて、これが責任の重さかと思った」

(スポーツ報知2025年6月5日)

 ついに、その時が来た。巨人軍第15代監督にして、43歳の青年監督の誕生だ。こうして、原辰徳の「夢の続き」が始まるのである。それが、通算17年間にも渡る長い旅になろうとは、まだ誰も予想だにしなかった———。

(第3回へつづく)

 第1回
監督・原辰徳 平成巨人の悲哀を背負った男

2002年、現役時代から比較されてきた長嶋茂雄の後を継ぎ、読売巨人軍の15代監督に就任した原辰徳。その後、3期16年に渡って監督を務め9度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた彼は、巨人の伝統を背負いながら大型補強と大胆なベンチワークを独特のマネジメントでまとめ、新しい野球の形を示した。しかし、現役時代から昭和の象徴である長嶋茂雄の後を背負いながら、平成・令和を経て野球という娯楽の在り方の変化に翻弄された。そして、3度目の監督就任時にはファンから多くのバッシングを受けながら監督を退任するに至る。若き改革者は、なぜファンからも嫌われる「ヒール」になったのか?17年の軌跡を追う。

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プロフィール

中溝康隆

なかみぞやすたか 1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。
2010年より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』が人気を博し、プロ野球ファンのみならず、現役の選手間でも話題になる。『週刊ベースボールONLINE』『Number Web』などのコラム連載の執筆を手掛ける。
主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)、『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋)、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(PHP新書)などがある。

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