人生は綱渡りだ。落ちない自信がある人でも、やっぱり下に網がはられていなければ足がすくむだろうし、落ちても平気と思えるほうが、大胆になれる。
その網に穴があいていたらうれしくない。その穴をふさいでほしいのに、かえって「穴をひろげますよ」と言われたら、それはいやだ。
高額療養費制度の自己負担上限額の引き上げは、まさに「穴をひろげますよ」と言われたようだった。高額療養費制度とは「入院や手術などで一カ月の治療費や薬代が高額になった場合、一定金額以上を支払わなくてもすむように定められた医療制度だ」。
綱の上にいる人は、自分には関係ないと思うかもしれない。しかし、私は病院の6人部屋で、病気になるはずではなかったのに病気になって、網の上で茫然としている人たちをたくさん見てきた。私自身も、突然難病になって13年間、入退院をくり返した。
普通のときなら、困難がふりかかっても、がんばってなんとか切り抜けることもできる。しかし、病気となると、病院のベッドの上で動くことができない場合もある。そういう、自分の力ではどうしようもなくなって、仕事もできなくなったときに、医療費の支払いによってどんどんお金が減っていく一方なのは、これはきついものだ。家族の顔も暗くなっていく。病気というだけでもつらいのに、さらにお金の心配が加わるのだ。高額療養費制度があってさえそうで、上限額の引き上げとなれば、当然、詰んでしまう人もさらに出てくる。
しかし、じゃあ、その大切な高額療養費制度についてよく知っているのかというと、じつはよく知らないのだ。こういう制度というのは、こみいっていてややこしく、使っている者でも全体は把握できない。
よくわからないのでは、間違った説明や偏った解釈をされても、反論もできない。
そこに登場してくれたのが、この本だ。「はじめに」にも書いてあるが、「高額療養費制度に関するおそらく初めての一般向け書籍」だ。これはありがたい。これまでそういう本がなかったというのは、まさにひとつの穴であり、それをふさいでくれた。
とはいえ、読んでも理解できるのだろうか? ややこしくてお手上げになるのでは? という不安もあった。そもそも本1冊分も説明が必要という時点で、難しそうと思ってしまう。
しかし、その懸念は、第1章を読んでいるあいだに、どんどん解消していった。とてもわかりやすいのだ。これには、ほっとした。これなら読めるし、理解できると。
そして、驚くようなことがたくさん書かれていた。そもそも、高額療養費制度の自己負担上限額の引き上げは、高齢者が増え高額な薬剤も増えたことで、患者負担を増やさないと制度が破綻するから、持続可能なものにするためだと思っていた。ところが、そうではなかった。「次元の異なる少子化対策」のための「こども未来戦略に必要な資金を捻出するため」で、「数ある項目の中から(高額医療費)が選ばれたのは、法改正を経ずに閣議決定で制度改正できることなどが要因」だったのだ。
保険料も「皆が負担を感じているから全体的に減らそう、という話になりがち」だが、じつは負担に大きな格差があるということを知らなかった。大企業の健康保険料の料率は低く、中小企業が加入をする「協会けんぽ」はそれより高い。自営業者などの国民健康保険ではもっと高い。
さらに、大企業や公務員では「付加給付」という制度がある。医療費の自己負担額が一定額を超えた場合には払い戻しを受けられるのだ。協会けんぽや国民健康保険にはこの制度がない。つまり、厚生労働省の職員や家族などは、付加給付があるので、そもそも自己負担が少なく、高額療養費制度の自己負担上限額の引き上げによって協会けんぽや国民健康保険の人たちの負担額が一気に増えても、他人事なのだ。「『ふーん、大変だなぁ』くらいの認識しかなかったのではないでしょうか」と本書の中で中島克仁は語っている。
中島克仁は、医師であり、かつて立憲民主党の議員であり、超党派議連「高額療養費制度と社会保障を考える議員連盟」の初代事務局長でもあった。この超党派議連は、高額療養費制度の改善のための要請案をとりまとめるなど、大切な活動をしていたが、2026年2月の衆議院選挙で中島克仁は落選し、他にも超党派議連に参加していた多くの議員が落選した。
このまま高額療養費制度の自己負担上限額の引き上げが行われたら、どうなってしまうのか? 健康格差研究に従事する伊藤ゆり教授は、「年収八〇〇万やそれ以上の高所得層でも破滅的医療支出に陥る場合が増加する」と指摘している。
「破滅的医療支出」という言葉も、私はこの本で初めて知った。WHOの定義によると「家計所得から住居費用や光熱費、食費などを引いた自由に使える収入のうち医療関係の支払いが四〇パーセントを超える場合は、貧困に陥る可能性が非常に高い」とのことだ。厚労省は、患者が治療をあきらめて自死を選ぶことによって、数千億円削減できると試算している。治療にかかるお金の自己負担を増やせば、払えずに亡くなる人がいることをわかっているのだ。
かつて時代劇で、病気になってもお金がなくて医者にもかかれず薬も買えず死んでいく貧乏な人たちの姿が描かれていて、今はもうそんな時代でなくてよかったと思ったものだが、またそういう時代がやってくるのかもしれない。
この本の著者は、自身が高額療養費制度の利用者でもある。だから、調査の熱度がちがう。しかし、決して偏った内容ではなく、きわめて公平に客観的に、たくさんの人たちにも取材しながら、じつに綿密に調査してある。その成果をわかりやすく読ませてもらえたのは、本当にありがたい。ここに書いたのは、この本の内容のほんの一部にすぎない。ぜひ多くの方に読んでもらいたい。
プロフィール

(かしらぎ ひろき)
文学紹介者。筑波大学卒業。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を編訳。著書に『絶望読書』(河出文庫)、『食べることと出すこと』(医学書院)、『口の立つやつが勝つってことでいいのか』(青土社)などがある。最新刊は『痛いところから見えるもの』(文藝春秋)。
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