「南條はおれに大学院で酒の飲み方だけ教わったと言ってるんだ」
後年、わたしが社会人になってから、甘木先生に人を紹介すると、先生は決まり事のようにそうおっしゃった。
わたしはそのたびに恐縮するのだったが、先生が亡くなって十数年経った今も、思い出すと、穴があったら入りたくなる。
まったく恩知らずな学生だ――本当にそのようなことを(一度くらい)言ったのだから。
浮わついた考えで酒ばかり飲んでいたわたしは、ついに学問を成就できなかったけれど、古典を真面目に読む能力が少しでもあるとすれば、それは大方甘木先生のおかげである。先生の指導は厳しかったからだ。そして、その厳しい指導を受けつづけたのは、授業のあとに先生と飲むお酒の美味しさのためだった。
先生は長年東大駒場で教えておられたが、退官される前の四年間、本郷の英文科大学院で演習を受け持たれた。
古い英国の文章を読む授業で、わたしが習った最初の年はキャヴェンディッシュの『ウルジー枢機卿伝』を、そのあとの二年間はチョーサーの『トロイルスとクリセイデ』という詩を読んだ。
授業は月曜の第五時限に行われ、終わるともう夕暮れで、先生は毎週どこかへ飲みに連れて行ってくださる。
春から夏にかけては、学士会分館のビヤホールへ行った。そのあと、たいてい本郷三丁目の駅に近い「葡萄亭」という酒場に梯子をした。
学生は十人か、それ以上もついてゆくが、先生はわたしたちにほんの少しだけお金を払わせ、あとは御馳走してくださった。だから、英文科の院生で酒の好きな者は、専門分野に関わりなく、先生の授業に出席していた。わたしもその一人だった。
しかし、甘木先生の授業は、ただ教室にいて椅子を温めるだけでは済まされない。みっちり予習をして行かねばならない。
先生がわたしたちに課した義務は、『OED』すなわち『オックスフォード英語辞典』を丹念に引いて来ることだった。
これは御存知の通り、大英帝国の文化の粋(すい)ともいうべき大部の辞書で、もちろん電子版なぞというものは、当時はない。研究室に行くと、この辞書を引くための机があり、アルファベットのAからZまで十数巻が、摩尼車(まにぐるま)のようにクルクル回転る特製の本入れに収めてある。予習をする学生たちがまわりに集まって、重い辞書とにらめっこをしながらノートを取っている。
しかし、いくら念入りに予習しても、発表の時は先生にコテンコテンにやられる。わたしたちは身がすくむ思いだった。
チョーサーはそうでもないが、キャヴェンディッシュの原文は綴りがまったく一定していなくて、読みづらかった。著者は単語の発音に対して、勝手気儘に文字をあてる。たとえば、「bote」と「bot」と「boote」という言葉は、それだけ見たのでは、果たして「boat」なのか「boot」なのかわからぬ。文脈から判断するしかない。
剽軽でわたしたちを可愛がってくれたH先輩は、ある箇所をこう訳した。
「その時、テームズ川一面が靴におおわれました」
「船だ――」
先生はボソリと言って、やれやれといった風に天井を向かれる。
教室は一瞬シインとなり、次の瞬間、大爆笑が起こる。H先輩は呆然としている。
Aさんという女性は良く出来る人だったが、ある時、チョーサーの本文についてこんな意見を述べた。
「ここの字はOとなっていますが、Aと読むべきだと思います」
すると先生は怖い顔をし、怒りと軽蔑をこめた口調で、
「そんなことは論文を十本も読んでから言うもんだ」
悪友のNは先生を畏怖し、ことに授業中は卑屈なくらい平身低頭していた。
「この単語の意味は?」
と先生に問われると、
「はい、ワタクシ、『OED』のこの単語のページを端から端までなめるように見てまいりましたが、適当な意味が見あたりませんでした」
「cの1の3番」
「あああっ! ワタクシの眼はフシアナでございました!」
まずこんな調子の授業だった。
ある日、授業が終わったあと、ほかの学生はみんなさっさと帰ってしまい、わたしとワタナベという男だけが研究室に残っていた。
先生はわたしたちの顔を見て、
「兵六へ行くか」
とおっしゃった。
「兵六」は神田神保町でも有名な飲み屋だから、この界隈に縁のある左党のみなさんは御存知だろう。
「すずらん通り」から冨山房ビルのわきを入って行くと、横丁の角に大きな提灯がぶら下がっている。店の名前*といい、酒盗やキビナゴ、つけあげといったつまみといい、鹿児島ムード満点の縄暖簾だが、戦前上海にいた主人が考案したという炒麺、餃子、炒菜、炒豆腐といった中華風の献立もある。
建物はもう建て替わったが、その頃はいかにも古色蒼然としていて、黒ずんだ桟や柱が白熱灯の明かりに照らされていた。客が十人ほど坐れるコの字のカウンターの中に、頭の見事に禿げ上がった、怖そうなおやじさんが端座していた。
客が何か注文すると、これぞいぶし銀のようなと言うにふさわしい、鍛えられた、よく通る声で奥へ通す。
「あれは、おやじさんのあの声をいってるんだ」
甘木先生は壁にかかった大きな額を指さして、そう言った。
その額は開業何周年だかに贈られたもので、「金聲玉振」と書いてある。これは『孟子』から来た言葉で、「金聲」は鐘の音だ。「玉振」は磬という玉でつくった楽器の震える音だ。古代の奏楽は、この鐘の音に始まり磬の音で終わった。孟子は終始全うした孔子の学問をこれに譬えたのだ。そういえば、中国の曲阜の町で孔子廟を御参りに行ったら、入口に「金聲玉振坊」という門があったのを思い出す。
この言葉は美音美声の形容詞としても使うから、店のお客が旦那のあの素晴らしい声を称め讃えたのだとすると、じつに気の利いたやり方である。
店にはほかにも漢詩の額や魯迅の写真などが飾ってある。林芙美子の色紙もある。しかし、何より目につくのは、年季が入って茶色くなった酒の品書だ。清酒とビール、そして三種類の焼酎。わたしたちはそれを見て、めいめい違う焼酎を注文した――先生は球磨焼酎「峰の露」を、ワタナベは麦焼酎を、わたしは芋焼酎の「さつま無双」を。
球磨焼酎はうんと冷やしてコップに入れてあった。
麦焼酎は冷やだった。
芋焼酎は――なぜか中々出て来ない。そのかわり、お湯の入った徳利が出て来た。
「このお湯、何でしょう」とわたしは先生にたずねた。
「それで焼酎を割るんだろう」と甘木先生。
「芋焼酎が来ないなあ」
「そのうち来る。まあ、これを飲んでいろ」
先生は球磨焼酎を半分湯呑みに分けてくださり、わたしたちは二人とも、それをお湯で割った。ワタナベは麦焼酎をお湯割りにして、飲んだ。
ところが、お湯と思っていたものは、じつは「さつま無双」だったのである。あらかじめ程良くお湯割りにしてあったから、間違えた。三人は焼酎を焼酎で割りながらクイクイあおり、それにしばらく気がつかなかった。
さあ、大変だ。
わたしの意識が曖昧になったのは、小用に立ったあたりからである。当時は店に便所がなく、隣のビルの便所を借りたように思う。
そのあと、御茶の水まで駿河台の坂道をよろよろ登って行った記憶はあるが、ワタナベと一緒だったか先生とだったか判然としない。電車に乗って何とか家に帰り着いたが、そのまま倒れて、翌日はひどい二日酔いだった。
ワタナベはその後、先生の授業に出て来なくなった。
どうしたんだときいてみると、ワタナベの言うことには――
「出れネエよ。あん時、オレ、酔っ払ってサ。『このハゲチャビイイン』ていって、先生の頭をペンペン叩いちゃったんだヨウ」
わたしには、彼がそんな不埒な真似をした記憶はない。酔っ払いの妄想ではないかと思う。
甘木先生にうかがってみたが、先生も憶えていない。
「そんなこと、しなかったぞ。何か勘違いしてるんだろう。気にせず授業に出て来いとワタナベに言え」
しかし、ワタナベは妄想をかたく事実と思い込み、わたしが何と言っても、二度と授業に出ることはなかった。彼が次に甘木先生と顔を合わせたのは、たぶん修論審査の時だったはずだ。
どんなに恐ろしかったことであろう。
* 薩摩藩士・毛利正直が書いた『大石兵六夢物語』の主人公の名。
(第2回 了)
今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。